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日本史には結構謎が多いですね。
 歴史というものは勝者、支配者が残すものが基本ですから事実との齟齬は当然あります。
 そこで隠された事実や伏せられた事件などを間接的事象から、いろいろ推測してみたいと思います。

 後世の人間にとって歴史の謎は大いなるロマンですし、それを考察するのは大人の趣味ですから。
 まあ、どうせ謎なら、独自の視点と勝手な解釈で切ってみましょうか。

2014/2/6 22:54  [76-2768]   

(邪馬台国の謎) 
 日本の古代史というのは謎だらけですが、一番の謎といえるのは邪馬臺(壹)国のことでしょうね。
 資料と呼べるものは魏志倭人伝に少し記載があるだけで、日本側の資料が全くないというのも異常です。
 まず一般的にヤマタイ国と呼ばれているのが普通になっていますが、当時の中国の読みではヤマイ国と称するほうが正解のようです。
 この辺には大和(ヤマト)政権との整合性を持たせるための意図的に読み換えがあったのかも知れませんね。

 距離で九州説、方角で大和説というのが一般なようですが、突き詰めるとどちらも矛盾が出るので結論が出るためには決定的な証拠が必要でしょうね。三角縁神獣鏡などは中国由来ではなさそうですし。
(邪馬台国九州説)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%AA%E
9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E4%B9%9D%E5%B7
%9E%E8%AA%AC

(邪馬台国畿内説)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%AA%E
9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E7%95%BF%E5%86
%85%E8%AA%AC


 纏向遺跡や箸墓古墳の発掘が進み、一躍畿内説が有力になったようにも見えますが、それだけでは決め手に欠ける気も。
(卑弥呼の墓と邪馬台国論争)
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/himiko.ht
ml


(魏志倭人伝 原文)
http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi
.html

 魏志倭人伝の記載読むと面白いことに気づきます。不彌国までは旅程が里で表記されているのに、その後が水行、陸行何日とアバウトになっていること。
 この辺には何かありそうです。もしかしたら天候などの事情で邪馬壹国までは到達できていないのかもと、私自身は思っていますが。
 何故かといえば、当時の中国の天文、数学などの知識はかなり発達していて、報告書などでは天測などで測り方角や里程をちゃんと記載していたはずだからです。
 もし実際に行かなかった偽報告書で1600年後にまで影響及ぼしているとしたら、ちょっと滑稽な気もしますが。
(邪馬台国までの里程)
http://www.k3.dion.ne.jp/~kodaira/sono80
1.htm


 当時の天文、数学といえば周髀算経、九章算術などの書物に代表されるように、かなり近代的知見がすでにあったのですよ。
(周髀算経)
http://www16.plala.or.jp/dousaku/syuuhi.
html

(周髀算経Wiki)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E
9%AB%80%E7%AE%97%E7%B5%8C

(九章算術)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E
7%AB%A0%E7%AE%97%E8%A1%93
 


 結構ネット上で邪馬台国について書かれている方も多いですね。
(邪馬台国の位置と日本国家の起源)
http://homepage3.nifty.com/washizaki/

(邪馬台国と大和朝廷)
http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/yamataik
oku.html

2014/2/6 22:57  [76-2769]   

撮る造さん、こんばんわ。

邪馬台国東遷説
http://www7.ocn.ne.jp/~sui-yama/tosenset
u.htm


奈良・纒向遺跡に4棟目建物跡 「卑弥呼の宮殿」一角か
http://news.infoseek.co.jp/article/06kyo
do2014020601001437


九州説にもいくつかありまして、九州でも北部や南部とか、いくつかあります。
そのほかにも、四国・徳島や韓国など、色々ありますですね。

とりあえずは、ここまで。

2014/2/7 00:38  [76-2770]   

言うにゃ及ぶさん こんばんは
 まあ実際に魏の使者が行ったのは途中までで、邪馬台国の話などはそこでの伝聞の類だったのでは。
 誰か女王に会ったことがあるなら、卑弥呼の描写などが無いのは不思議ですが。

 魏志倭人伝に書かれている中で注目すべきは「黥面文身」ですか。刺青をしていたと言うことですが、これは中国南部の風習に似ています。姫姓の呉の民ですね。
(黥面文身)
http://www.geocities.jp/taru638/page036.
html

 また「魏略」という書物には「自謂太伯之後」と言う倭人の記載があります。呉の末裔と自称しているという意味ですね。

 これら九州の豪族達は中国南部由来の支配者だったと考えるのが自然のようです。
 恐らく奴国が後漢から金印を賜ったのも中国由来の国が故だったような気もします。

 倭国大乱は奴国の分裂で、その中で邪馬台国が力を持ったのでしょうか。いずれにしろ九州は異民族による支配だったのでしょうね。
(倭国誕生から邪馬台国まで 古代天皇家の鍵を握る呉越北上ルート)
http://shinwa2010.exblog.jp/15959115/

 
 それにしても記紀に邪馬台国や卑弥呼の記載が無いのは変なので、ここに何らかの作為や意図があるはず。
 まあ朝鮮半島説採れば里程、方向とも矛盾はなくなりますが。
http://www.smjsearch.com/yamatai/shinsou
.html


 当時の船で日本海をまともに航海できたのかも考えると、ここも悩むところですね。
 倭=日本で無いことは後世の倭寇でも証明されていますし、この辺は(卑弥呼の貰った)金印でも出てこないと、論争に決着が付かないのでしょうか。


2014/2/7 02:37  [76-2771]   

(RM1-b)
 縄文時代から弥生時代への変化と言うのは大きいですね。
 独特な文化と狩猟を中心とした社会体系から農耕中心の社会へとの変化も大きいですが、それ以上に人種的違いも指摘されています。
(弥生人の身体的特徴)
http://www.yoshinogari.jp/ym/episode03/b
ody_feat.html


 要は在来系の縄文人を、渡来して来た弥生人が駆逐や支配し、文化的にも融合していったのでしょう。アイヌが縄文人の子孫なのかは意見が分かれるところですが、北方に追いやられていったのは確かなのでしょうね。

 どこから弥生人がやってきたかと言う面で注目されているのがジャポニカ種(稲)のDNA分析です。
 温帯ジャポニカは長江下流が元だと言われていますが、この稲の多くにはRM1-bと言う遺伝子が含まれています。そして日本の九州から本州南部の稲の多くもこの遺伝子を持っています。
 そして重要なのは韓半島の稲にはこの遺伝子が見つかっていないということです。

(稲のたどってきた道)
http://www.athome-academy.jp/archive/bio
logy/0000000116_all.html

(農林水産省 イネはどこから来たの)
http://www.maff.go.jp/j/agri_school/a_ta
nken/ine/01.html


 九州から渡来してきた弥生人の先祖が呉国では無いかといわれているのもこのためでしょうね。
 春秋時代に越に敗れた呉の王族が海路日本を目指したとしたら、時期的にも合いますから。
(弥生文化と渡来人の登場)
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3
/003_04chugokutairiku_karano_torai.html
 

(倭族仮説)
http://www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuun
o_to/008_1wajinn_no_syutuji_nituite.html



 出雲などは(位置的に)半島からの渡来人が多かったはずですし、日本人のルーツたどればとても単一民族などとは言えませんよね。

2014/2/7 14:24  [76-2772]   

東アジアから見た邪馬台国 倭人伝だけでは決められない。 持衰 邪馬台国はどこに?

撮る造さん、こんにちわ。

邪馬台国
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%AA%E
9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD

>「魏志倭人伝」では「邪馬壹国」と表記されているが、『後漢書』には「邪馬臺国」とある。「邪馬台国」の通称は、「邪馬臺国」の"臺"の字を、"台"をもって代用したものである。
>女王が治めていたことから魏志倭人伝では女王国とも記されている。
>この「やまたいこく」という読みであるが、これは二種の異なった体系の漢音と呉音を混用している。例えば呉音ではヤマダイ又はヤメダイ、漢音ではヤバタイとなることから、「魏志倭人伝」の書かれた当時の中国における音が「やまたい」であったとは考えにくい。
>距離の計算
>・「連続説」(連続読み)
>・「放射説」(放射読み)

これは、とあるブログです。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-
2032.html


>当時の船で日本海をまともに航海できたのかも考えると、ここも悩むところですね。

古代の船と航海ルート(野生号と「なみはや」)
http://inoues.net/science/war.html

「東アジアから見た邪馬台国」という本を持っているので、撮影してみました。
これは台湾の歴史学者が邪馬台国について考察したものです。

2014/2/7 17:39  [76-2773]   

追記です。

古墳
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E
5%A2%B3

>学術調査
>天皇、皇后、皇太后が埋葬されている御陵と皇族の埋葬されている御墓を合わせた陵墓は宮内庁により管理されており全国には896の陵墓が存在する。宮内庁ではこれらの陵墓の学術調査を制限しており、発掘許可がなかなか下りない事が考古学研究が遅れる要因の一つとなっている。
>宮内庁は式年祭等の祭祀を現在も行なっており「陵墓の静安と尊厳の保持」等の理由で補修時の限定的な見学を除いて陵墓の学術調査を規制していたが、2005年に日本考古学協会などの15の学会が調査を認めるよう要請したことを受け、2007年1月より陵墓管理の内規を改め墳丘部への立ち入りや写真撮影を認めるようになった。
>研究者は陵墓の文化財としての側面を認めるものとして歓迎しており、発掘を含めさらに調査を拡大するように求めている。

陸稲
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E
7%A8%B2

>考古学的には、日本では縄文時代から陸稲が栽培されていた形跡があり、水田稲作より起源が古い可能性がある。

古代の謎と関係あるのかどうかわからないけど、焼畑農業についても付記しておきます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%BC%E
7%95%91%E8%BE%B2%E6%A5%AD

2014/2/7 18:47  [76-2774]   

さらに追記です。

卑弥呼
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%91%E
5%BC%A5%E5%91%BC

>現代日本語では一般に「ひみこ」と呼称されているが、当時の正確な発音は不明。
テレビで見た台湾の歴史学者の発音では、私には「ペ・メ・ハ」と聞こえました。

漢委奴国王印
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E
5%A7%94%E5%A5%B4%E5%9B%BD%E7%8E%8B%E5%8D
%B0

>「委奴」を「いと」と読み、「漢の委奴(いと)の国王」とする説
>中国史では、王朝と民族は密接に結び付いた概念である。とは言えイデオロギー論争はそうであっても、中国の古代の印章のなかに「民族名+国名」の構造をもつ印章実例をひとつも見いだしえないことは、通説「委」の「奴国」説の克服すべき難点であるとされている。

万葉仮名
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E
8%91%89%E4%BB%AE%E5%90%8D

>『古事記』には呉音が、『日本書紀』α群には漢音が反映されている。

神代文字
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E
4%BB%A3%E6%96%87%E5%AD%97

2014/2/8 12:56  [76-2775]   

歴代天皇陵墓といわれているもの

言うにゃ及ぶさん こんばんは
 陵墓調査がちゃんと出来ないので、大仙陵が「伝仁徳天皇陵」というようにどこも不確かな存在になっているのは残念です。ちゃんと調べれば日本古代史の研究も進み日本民族や天皇のことも良く判るようになると思いますが、そうなると困ることも多分あるのでしょう。

 初期の天皇は実在しなかったと言うのは学会の定説になっているようです。
 実際には部族長のような存在はいたのかもしれませんが、崇神・応神天皇あたりを嚆矢とするのが一般的の考え方のよう。
(欠史八代)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%A0%E
5%8F%B2%E5%85%AB%E4%BB%A3


 現在の血筋的には継体天皇からなのでしょうが、この血筋や地域の離れた天皇への継承は何かありそうですね
(継体天皇)
http://info.pref.fukui.jp/keitaidaio/his
tory/

(継体天皇出自考)
http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-5.
html


 私の独断かつ偏見的見方では、全く別の勢力による支配に変わったのだと思っています。
 対馬海流に乗ると朝鮮半島から北陸地方への移動は容易です。恐らく継体天皇は朝鮮系部族だったのでは。
 朝鮮系部族が力で中国系王朝を倒して入れ替わったのだとする説も海外研究者にあるようです(日本では発表し辛いのでしょうが)。
 新羅に対するたび重なる出兵などが原因で磐井の乱が起きたのもこの頃といわれているので、百済出身の天皇とするならば、これも納得がいきます。
(磐井の乱)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%90%E
4%BA%95%E3%81%AE%E4%B9%B1



(初期天皇諡号の秘密)
http://www.eonet.ne.jp/~temb/11/sigou.ht
m
  

2014/2/9 00:12  [76-2776]   

撮る造さん、こんにちわ。

倭の五王
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E
3%81%AE%E4%BA%94%E7%8E%8B


歴代天皇一覧表
http://homepage1.nifty.com/kitabatake/te
nnouichiran.html

名前に「神」の字が付いてるのは1神武・10崇神・15応神ぐらいですか。
天皇ではないが、番外として神功皇后もあげられますか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E
5%8A%9F%E7%9A%87%E5%90%8E


してみると、応神天皇の時にターニングポイントとなる何かがあったのでしょう。
応神天皇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E
7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87

父が仲哀天皇で、母が神功皇后。
仲哀天皇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%B2%E
5%93%80%E5%A4%A9%E7%9A%87

実在性が否定されておりますが、何とも情けないような諡号です。およそ天皇らしからぬといいますか。
神功皇后も実在性が怪しまれていますが、北九州には神功皇后にまつわる逸話が多いです。

武内宿禰
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E
5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0


竹内文書
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E
5%86%85%E6%96%87%E6%9B%B8

2014/2/9 12:28  [76-2777]   

>神功皇后も実在性が怪しまれていますが、

神功皇后は息長氏の一族で、卑弥呼は神功皇后であるという説も一部にはあるようで、謎の人物でもあります。
息長氏は琵琶湖を根城とする豪族で、継体天皇実現には息長氏の強力なバックアップがあったものと思われます。

継体天皇とは何とも意味深な諡号です。
本当はそうじゃねえだろっと勘繰りたくなるような諡号です。
応神朝の武内宿禰に近いのが大伴金村。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E
4%BC%B4%E9%87%91%E6%9D%91


神功皇后の名前が「たらしひめ」。
男は「ひこ」、女は「ひめ」という言葉を最後に付けるのが当時の習慣だったみたいです。

「タラシ」は大王たちの称号か、暗号か
http://www.ten-f.com/tarashi-wa-angou.ht
m


隋書・倭国王
阿毎 多利思北孤
これを「タリシホコ」と読むか、「北」は「比」の書き間違いだとして「タリシヒコ」と読むのと、2通りの説があるようです。
http://plaza.rakuten.co.jp/bluesusanoo/d
iary/200708060000/


「タラシ」と「タリシ」
http://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara/39
038306.html?type=folderlist

まあ、こういう説もあるということで・・・。

まさか撮る造さんの縁側でこんなことを書き込むことになろうとは・・・。
いや、悪いことじゃないですよ。
予想外ということを強調したかっただけですから。

こちらは古代史にそんなに詳しいわけじゃないです。
聞きかじりの部分は多いですが、断片的な知識が有機的につながっているわけじゃないです。

漂流の内閣府職員、変死前に謎の韓国行
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=201402
08-00000267-yom-soci

魏志倭人伝にある陸行水行をテストしてみたのでは?
とはいえ、この寒い時期にこんなテストをするのは無謀なので、可能性としてはかなり低いかと。

2014/2/9 13:37  [76-2778]   

言うにゃ及ぶさん こんばんは
>してみると、応神天皇の時にターニングポイントとなる何かがあったのでしょう。
 神皇正統記にある焚書の件でしょうか?
http://www.geocities.jp/taru638/page024.
html


 まあ天皇の出自が目的のスレでは無いので、あまりこの分野に突っ込むのはここまでにしておきます。
 それにしても内閣府職員の話は謎だらけですね。こういうのは意外に単純なことだったりするもんですが。

2014/2/9 23:50  [76-2780]   

(古事記と日本書紀)
 「歴史というものは勝者によって作られるもの」とはよく言われますね。言外に(都合よく)という意味が入っているようですが。
 特に正史と呼ばれるものは、統治者や政権の正当性の補強に使うものですからその傾向が強いです。

 それにしても古事記と日本書紀というのはどういう関係なのでしょうね。作られた時期も近いようですし、重複する記述も多いです。
 古事記のほうも経緯から見て準正史といっても良さそうですし、先に作られた古事記の書き方に不満があったのかその目的が違ってきたのかと言ったところですか。
(古事記と日本書紀はどう違うか)
http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/other/kik
i.htm


 古事記は三十三代推古天皇までなのにたいし、日本書紀では九十一代持統天皇までと記述範囲を大幅に伸ばしていることや製作期間も圧倒的にこちらのほうが長いなど考えると、古事記は史書としての一種の素案的なものだったのかあるいはこれをヒントに中国風史書を作ることに至ったのかどちらかでしょう。

 古事記は神話世界を詳しく述べることで、その子孫たる天皇の正当性を記すのが目的だったので、政治など世俗的事件の描写はあっさりとあるいは比ゆ的にしています。

 日本書紀は神代のことは記載があっさりな反面、国家の成立や政治的な事件などは詳しく書いているのは正史ならではなのでしょう。まあ天武天皇は戦いの中で政権奪取したので、批判勢力も多かったはず。政権の安定化と国内融和のためにも正当性をアピールする必要もあったのかも(この頃、伊勢神宮の斎宮制や薬師寺建設などもやってますし)

 また白村江の戦いの少しあと(唐に攻められるかもという時期)の編纂事業ということから、日本書紀の目的は中国皇帝への献上で日本王権の歴史的正当性を訴えるものだったのかもという学者も。
(白村江の戦い)
http://www.asuka-tobira.com/hakusonkou/h
akusonkou.htm


 アマテラスとスサノオ、因幡の白兎、ヤマタノオロチなど類似の話が東南アジアや中国の神話にあるのは、実際そこが原典なのでしょうがこれらの比喩にあたる事件が実際にあったのでしょうか。(具体的に書くと差し障りがあるので一見無駄なような話が載っているのだと思いますが)。国譲りが平和の内に為るとも考えにくいですが神代の話は生臭く書かないという原則なのかも。

 なぜ両方に記載されているのか不思議なのは木梨軽皇子の話です。いわゆる近親相姦の話ですが、天皇の長子が遠島になったとはいえ詳しく正史書にまで書くことなのか?この事件をわざわざ書いた裏には事の経緯に何かがあったのでしょうね。
http://home.e-catv.ne.jp/naka/mukasi-han
asi/densetu/karutaisi-hiyoku-tuka/karuta
isi-hiyoku-zuka.htm

2014/2/9 23:53  [76-2781]   

その後こちらでチェックしてみたものをとりあえずあげてみます。

青銅器文化をもたらしたのは誰か
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3
/003_04_05seidoukibunnka_no_tourai.html


文化史
http://www26.atwiki.jp/crescent_castle/p
ages/231.html


出雲王朝関連

神話の世界 「出雲王朝VS大和王権」裏付ける物証
http://blog.kajika.net/?eid=1003477

出雲王朝の謎
http://www.geocities.jp/mb1527/N3-18-2iz
umoouchou.html

2014/2/10 10:24  [76-2782]   

もひとつおまけです。

聖徳太子
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E
5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90

>虚構説

山背大兄王
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E
8%83%8C%E5%A4%A7%E5%85%84%E7%8E%8B

>『上宮聖徳法王帝説』では厩戸皇子(聖徳太子)の子であるとされるが、『日本書紀』にはそのような記述はない。

2014/2/10 14:06  [76-2783]   

さらに追加です。

稗田阿礼
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%97%E
7%94%B0%E9%98%BF%E7%A4%BC

古事記と日本書紀の真実。稗田阿礼=太安麻呂。元正天皇のアセンション^^。
http://ameblo.jp/gaialight888/entry-1054
8123300.html


太安万侶
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E
5%AE%89%E4%B8%87%E4%BE%B6

古事記の編者、太安万侶ですが、彼だけが多氏の中で、「太」を使っています。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/
question_detail/q1298439082

2014/2/10 14:19  [76-2784]   

魏志倭人伝で、邪馬台国に魏の使いが到着した時の様子。

女王国の都だけあって、人口も多く、高級官吏も多かったとあります。
してみると、邪馬台国は国名ではなく、都市名であったのかもしれません。

ヤマト王権
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E
3%83%9E%E3%83%88%E7%8E%8B%E6%A8%A9


文献史学からいくと邪馬台国九州説が有力になってきますが、考古学の見地からすると畿内説が有力になってきます。
九州にも古代の史跡はありますが、畿内の古墳群と比べると規模が小さいです。
邪馬台国は魏に使いを出しただけあって、それなりに大きな勢力だったかと。となると、畿内説が有力ですかね。

まあここらへんはよくわからんです。
邪馬台国の勢力範囲とかも含めて。

神話の世界 考古学界騒然「出雲王朝VS大和王権」裏付ける物証℃氈X
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/
news/130429/wlf13042912000007-n1.htm

これは去年の記事です。

2014/2/11 13:27  [76-2786]   

言うにゃ及ぶさん
>邪馬台国は魏に使いを出しただけあって、それなりに大きな勢力だったかと。となると、畿内説が有力ですかね。
 気になるのは魏志倭人伝の旅程ですね。近代には及ばないまでも天測はしていたはずなので、方角間違えることは無いと思うので、方角の違う近畿説にはこの辺が鍵ですかね。
 九州説に矛盾となる距離の問題解決には放射説というのもありますが、原文を読む限り文脈的にはどうなのでしょうか。

 それにしても中華思想というのはイヤですね。日本関係には「卑」、「狗」、「奴」、「倭」など貶める文字を当てているのは気になります。
 倭人伝の「倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。」というのを読む限り卑弥呼というのは必ずしも女王名ではないとも読めますね。(卑しい蛮族の女王の意?)

 出雲と大和、吉備の関係や聖徳太子は実在しなかったと言う説などはこれから展開しようと思っていたのですが、古代史ばかりやってると先に進まないし(天皇の出自など微妙な問題も書いたので何か意図してると思われるのも何ですから)、もう少し後の時代の話に行きたいと思っています。

2014/2/11 14:26  [76-2787]   

(弓削道鏡)
 女帝に近づき皇位簒奪企らんだ怪僧と言われている人物ですが、イケメンだったというのは本当らしいですね。
(道鏡)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/do
ukyou.html

(弓削道鏡Wiki)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E
9%8F%A1


 孝謙天皇(後に重祚して称徳天皇)は初めての女性皇太子となったことでも有名ですが、父聖武天皇(その母は藤原不比等の娘)、母光明皇后(藤原不比等の娘)という藤原氏の血統を濃く継ぐ女性でもありました。
(孝謙天皇Wiki)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E
8%AC%99%E5%A4%A9%E7%9A%87
 

 退位した後孝謙上皇は病に伏せ、そのときに治癒に当たった弓削道鏡と知り合ったと言われています。
 なお加持祈祷というのは本来仏教には無かったのですが、平癒を願ったのなら道鏡はこの面の先駆けだったのかも。
 その後最澄や空海により密教が日本に伝わり、それが日本古来の宗教に道教、陰陽道が加わって日本独特の護摩、調伏などの分野が発展したのでは。 

 淳仁天皇を廃し称徳天皇となった後、彼女は道鏡を重用してゆきますが、その過程で起きたのが宇佐八幡宮神託事件です。
(宇佐八幡宮神託事件)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E
4%BD%90%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE%E7%A5
%9E%E8%A8%97%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 宇佐八幡宮から次の天皇に道鏡指名の神託が出たと言うもので、和気清麻呂を使わしたところ「天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」という真逆の神託を持ち帰ったとところ怒った天皇は清麻呂を左遷したと言うのがこの事件の顛末です。
 
 良く判らないのは、神託を出したのが伊勢神宮のような大神社ではなくなぜ地方の八幡宮だったのかという事です。
 そして非皇族に天皇の座を渡すことが実際に出来る環境があったのか、と言う点も気になります。(当時にそういう前例の伝承が在ったのなら、考えられますが)
 最大の謎は、称徳天皇崩御後に道鏡は実質的に罪に問われていないという点、さらに奏上した弟弓削浄人も配流だけ。皇位簒奪という重罪にしては誰も死罪になっていないと言う点は納得いきがたいですね。

 結論として
1.弓削道鏡自身は皇位を望んでいなかった(もしあったとしても称徳天皇の発意では?)
2.この神託は別のものだったが、後に神託自体が皇位継承に改竄されている
 といったところが真相だったのでは。
 独身貫いた天皇が美形の僧侶に恋心抱いたというのはいかにもドラマチックですがあったのかも、ただ皇位云々は多分政治的理由で後の政権が流布したのでしょう。

 いずれにしろ、大海人皇子(天武天皇)系が終わり、この後中大兄皇子(天智天皇)系の光仁天皇に移ってゆきます。壬申の乱を思い起こすとこの交代は運命の不思議さも感じますが、この事件の処理は前代の天皇への貶めの意味もあったのでは、と私的には思っていますが。
(光仁天皇)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E
4%BB%81%E5%A4%A9%E7%9A%87

 光仁天皇の代になり和気清麻呂は従五位下に復位し、桓武天皇の代には高官として重用されるのも意味深ですね。
 明治以降では勤皇忠臣の代表格として楠正成と並んで評され銅像なども立てられていますが。

 逆に皇国史観の元で道鏡は、平将門、足利尊氏と並び三悪人とされていました。近年将門や尊氏は評価が見直されていますが、道鏡については語られることはありませんね。
 なお巨○で有名というのは後世の脚色らしいですが。



 

2014/2/11 16:11  [76-2788]   

撮る造さん、こんにちわ。

>>邪馬台国は魏に使いを出しただけあって、それなりに大きな勢力だったかと。となると、畿内説が有力ですかね。
> 気になるのは魏志倭人伝の旅程ですね。近代には及ばないまでも天測はしていたはずなので、方角間違えることは無いと思うので、方角の違う近畿説にはこの辺が鍵ですかね。

これはその通りかと思います。
距離的には畿内説でもいいのだけど。

疑問が尽きぬ邪馬台国の真相
http://www.historyjp.com/article.asp?kij
i=176

最後のほうに、邪馬台国の東側には海や島があるとしています。
これだと、畿内説は完全にアウト。
九州説の一部もこれでアウトになります。

古代史以外では、
信長暗殺事件とか。犯人はわかっているけど、黒幕がいるのかどうかという話です。
同じく坂本竜馬暗殺事件も、黒幕は誰なのかというところでしょうか。

2014/2/11 16:31  [76-2789]   

追加です。

天武天皇と天智天皇は
同腹の兄弟ではなかった。
http://beaverland.web.fc2.com/oldhist/te
mmu.html

2014/2/11 17:10  [76-2790]   

宇佐神宮
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E
4%BD%90%E7%A5%9E%E5%AE%AE


八幡神
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E
5%B9%A1%E7%A5%9E


八幡神(応神天皇)
http://www.rekishijin.jp/rekishijinblog/
tobe/1011kamisama01/


宇佐八幡神は新羅の神だった
http://web1.kcn.jp/tkia/mjf/mjf-51.html
まあ、こういう考えの人もいるってことで・・・。

2014/2/11 22:59  [76-2791]   

言うにゃ及ぶさん
>古代史以外では、
信長暗殺事件とか。犯人はわかっているけど、黒幕がいるのかどうかという話です。
同じく坂本竜馬暗殺事件も、黒幕は誰なのかというところでしょうか。
 正直、こういう表通りの話には興味が無いし、語りつくされているのでここで改めて書くつもりは無いですね。(竜馬暗殺については中原さんの縁側でも触れてますし)
 それに古代史と違い、中世以降は時代の主役については関係者の話しは書き記されているので、知られていることばかりですから。
 歴史の謎と言うのは(なぜ現れた、どうやって成功した、どうして没落したかといった)時代との関わりのほうが主役ですし、私的には偉人達の足跡より興味があるので。
 脇役であっても、実際に歴史を動かした存在、隠された集団、謎の人物や脇役として重要な位置にあった人物などを主に取り上げたいと思っていますが。
 
 毎度、リンクのご紹介いただき感謝しています。これは読んでいる方にとっても理解の助けになると思いますので。
 出来れば、言うにゃ及ぶさんのご意見も書き添えていただくとありがたいのですが。

2014/2/12 00:57  [76-2794]   

(祟りと祀り)
 日本独特の考えに、祟るというものがあります。
 これは海外でいうところの神の怒りとは違って、陥れられたりして非業の死を遂げた人物が怨霊となって仕掛けた相手に災いを齎すという考えで、古来支配層に信じられていたことは文献にも明らかです。
 隼人の反乱後に作られた隼人塚というのがあるのを見ても、祟りを鎮めるという考え方は古くからあったもののようです。
(隼人の反乱)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%BC%E
4%BA%BA%E3%81%AE%E5%8F%8D%E4%B9%B1

(隼人塚Wiki)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%BC%E
4%BA%BA%E5%A1%9A


 有名なのは菅原道真ですか、この時代藤原家以外で右大臣クラスにまで出世した例は少なく(道鏡と吉備真備くらい)当然の如く藤原氏による反撃により失脚し大宰府で失意のまま死去します。
 死後、藤原時平の死、醍醐天皇の子や孫の死、清涼殿への落雷天皇の病気が続き、道真の祟りではとなり、後年北野天満宮に祀られることになります。
 その後の平将門も同様に逆賊から一転、祀られることに為るのは、皆さんご存知の通りですが。

 道真の時代といえば、当時は病気になれば治らないことのほうが大きかったでしょうし、洪水になれば龍の仕業、雷が落ちれば雷神の怒りというような時代だったので、陰陽師の占い(大安などの十干もこの名残)、方忌みや方違えなども行っていたのでしょうね。
 それでも死者など出るような大きな祟りには、恨みを祓うためその故人の名誉回復を行うとともに、それを祀りあげて収拾を図ったのでしょうか。
 しかしながら、こういう話には裏があるもの。この後道真が祀られるようになると藤原時平一門は没落し、弟の藤原忠平一門が藤原主流となっていったことを見れば、背景に忠平からの流布など何か陰謀じみたことがあったのではと勘ぐることも出来るようです。
(菅原道真Wiki)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E
5%8E%9F%E9%81%93%E7%9C%9F


 怨霊伝説としては、崇徳天皇も有名ですね。ただ神の子孫を称する天皇が死後祟るとは曰く言いがたしと言ったところですが。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E
5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87


 平将門については現代にまで祟り話があるようですが
http://www.xiangs.com/Masakado/legend/in
dex1.shtml

2014/2/12 01:00  [76-2795]   

撮る造さん、こんにちわ。

日本三大怨霊ですか。
それ以外に、こんなのも。

長岡京
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-2/2008
_09_10.htm

>長岡京を短命に終わらせた早良親王さわらしんのう怨霊説の可否
>800年(延暦19)7月には、桓武天皇は早良親王に「崇道天皇」という諡号を与え、その墓を陵と称するようにした。

「日本史ミステリーゾーン」に早良親王の項目がありまして、この本を買ってなければ、早良親王の名前は覚えてなかったかも。

>毎度、リンクのご紹介いただき感謝しています。これは読んでいる方にとっても理解の助けになると思いますので。
>出来れば、言うにゃ及ぶさんのご意見も書き添えていただくとありがたいのですが。

検索するにあたっては、何を検索ワードにするか色々試してます。
ヒットしたものは一応吟味しています。
ポイントは「読みやすさ」や「わかりやすさ」ですかね。内容が噴飯ものなら論外ですが。
テキスト文字だけでもいいのだけど、図や写真が入っていると、なおいいわけです。

古代史は難しいところもありましてね、思い入れの激しい人が多いのですよ。
そんな関係で、古代史では自己主張は控えるクセがついちゃってます。

2014/2/12 12:21  [76-2796]   

諡号に「祟」という字が入った天皇というと、ほかには崇神天皇ですかね。

怨霊の登場
http://www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/onry
o/onryo02.htm


第10代崇神(すじん)天皇
http://inoues.net/tenno/sujin_tenno.html

2014/2/12 13:29  [76-2797]   

(承久の乱)
 歴史上の事件はフィルターが掛かっていると、目を眩まされて正しい理解がし辛いですね。
 これは、無意識下なので取り除くのが難しいですが、当時の状況や人々の考え方知ることで修正も可能です。

 前レスで道鏡の話題を書きました、明治以降の皇国史観と言うものの影響が現代にも影響があるので、「まさか、そんなことを考える人物が?」など考えがちですが、中世日本ではそれほど天皇の権威は高くなかったようです。
 官位や位階なども天皇の名によって与えられるので名目的には最高権威ですが、中世においては政治的には絶対的な存在とはいえなかったようです。

 将軍継嗣問題に端を発し、鎌倉幕府と後鳥羽上皇の戦いとなった承久の乱というのが在りました。
(承久の乱)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E
4%B9%85%E3%81%AE%E4%B9%B1
 

 これは武家と朝廷とのはじめての戦いですが、本当に朝廷の権威があったのなら義時追討の院宣が出た時点で勝敗は決していたはず。
 天皇自ら軍を率いてきた場合の対応に、北条泰時は幕府軍へ「天皇には弓は引けぬ、ただちに鎧を脱いで、弓の弦を切って降伏せよ。都から兵だけを送ってくるのであれば力の限り戦え」と命じたと言いますが、直接の出馬はあり得ないということが分かっていたのでしょう。
 この時の北条政子の演説が有名ですが、そのの効果は別にしてに武士達の利害のほうが帰趨を決める要因だったような気もしますね。
(北条政子)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E
6%9D%A1%E6%94%BF%E5%AD%90


 結果として幕府軍が勝利し、後鳥羽上皇は隠岐に流されます。これは天皇に任命された征夷大将軍の家来が、先の天皇を島流しにするといった、下克上の極みのような結果に終ってます。
 この後、江戸時代にかけて朝廷の実質的な権威がさらに落ちて行きますが、それは別項で書いてゆきます。(後醍醐天皇や足利義満などは準備中です)

 結局、朝廷自前での強い武装勢力持たずに、平家、源氏といった傭兵集団取り入れた時から、やがてこうなることは決まっていたのかも。武力あっての全国支配という時代ですから。
 その後、配流先で亡くなった後鳥羽法皇(配流前に出家)は怨霊と化したという説もあるようです。
(後鳥羽上皇Wiki)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E
9%B3%A5%E7%BE%BD%E5%A4%A9%E7%9A%87

2014/2/12 13:50  [76-2798]   

Googleで、「新羅系天皇」で検索すると、色々と面白いものがヒットします。
ここではあえて触れませんが。
天武天皇と天智天皇にも関係してきますかね。

2014/2/12 14:15  [76-2799]   

>Googleで、「新羅系天皇」で検索すると、色々と面白いものがヒットします。
 荒唐無稽としか言えませんね。
 日本海を渡ること考えれば当時の軍勢の海上移送力は高が知れてますし、補給や馬などの調達まで考えれば日本中枢の支配などおのずと無理とわかります。

 国内勢力が新羅を頼るという構図なら可能性もありますが、大きな政変があれば(中央に無くとも)地方の伝承や何らかの文献などに記録が残るはず。まして朝鮮側にも唐側にもなんらの記述も無いのは不自然ですし、遺構や遺跡含め歴史は何処かに足跡残すはずですから。

 誰かが意図を持って流布している怪説といったところでしょうか。

2014/2/12 15:45  [76-2800]   

撮る造さん、こんばんわ。

>>Googleで、「新羅系天皇」で検索すると、色々と面白いものがヒットします。
>荒唐無稽としか言えませんね。
>日本海を渡ること考えれば当時の軍勢の海上移送力は高が知れてますし、補給や馬などの調達まで考えれば日本中枢の支配などおのずと無理とわかります。

話の内容はともかく、朝鮮半島と日本の間に人の往来はかなりあったのではと思われます。

新羅
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E
7%BE%85


新羅の入寇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E
7%BE%85%E3%81%AE%E5%85%A5%E5%AF%87


木綿
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E
7%B6%BF

>日本へは799年(延暦18年)三河国(愛知県西尾市天竹町(てんじく=天竺)と言われるが、『日本後紀』には三河国としか書いてない)に漂着した崑崙人(現在のインド。真偽・詳細は不詳。天竹神社の項目参照。)によってもたらされ栽培が開始されたが、1年で途切れたという。この崑崙人は各地を廻り、栽培法を伝えたとされている。 主にこの後、綿は明や朝鮮からの輸入に頼ることになり、故に長い間高級品であった。その後、連続して栽培され一般的になるのは、16世紀以降とされる。

2014/2/12 18:33  [76-2801]   

(歴代天皇の数え方)
 表題についてですが、誰を天皇とするかなど数え方によって違っているようでかなり複雑です。
 一般的には神武天皇から数えて125代と言うのが一般的ですが、重祚されている方が2人いるので人数的には123人となります。
(歴代天皇一覧)
http://homepage1.nifty.com/kitabatake/te
nnouichiran.html


 さらに、この中には北朝の5代の天皇が含まれていませんし、総数としては128人と見るのもありかと。(南朝の義良親王、熙成親王も明治になってから天皇として認定される)

 そして、この中には幼帝だった安徳天皇のように実質執務しなかった方、淡路廃帝( 淳仁天皇)、九條廃帝(仲恭天皇)のように天皇を追われ、明治以降になって天皇と認定された方もいらっしゃいます。

 初期の天皇の存在は学問的には疑問視されていますし、実際何人の天皇がいたのかは正確にいえる人はいないといってよいでしょう。
 要は誰を天皇とするかは、後の世の認定者しだいという事となりますし、それによって数も変わると言う不思議なことになっています。

 近年、天皇の諡号は元号と一緒になってましたが、44代までの天皇の多くは奈良時代の文人淡海三船による一括撰進によるものです。
 明治になって天皇に認定されて追贈されたもの、生前の尊称、譲位後の在所などによって後代に追贈されたものが大半の諡号で、自らの意思による遺諡はそれほど多くないようです。
(諡)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%A1

(淡海三船)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%A1%E
6%B5%B7%E4%B8%89%E8%88%B9


(遺諡)
http://www.toride.com/~sansui/posthumous
-name/sigo01-4.html

2014/2/12 23:14  [76-2802]   

今日は夜更かしをしております。

「姓」と「氏」
http://e-zatugaku.com/history/name.html

氏姓制度の衰退と4大氏(ウジ)源平藤橘の時代  表札屋の苗字(名字)字典
http://www.myouji.info/genpei.html

源平藤橘の家紋
http://www.harimaya.com/o_kamon1/hanasi/
kamon_d.html

2014/2/13 01:19  [76-2803]   

応天門の変
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E
5%A4%A9%E9%96%80%E3%81%AE%E5%A4%89


続日本後紀
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%9A%E
6%97%A5%E6%9C%AC%E5%BE%8C%E7%B4%80

応天門の変の頃に編纂されたものです。

葛津立国と高来(たかく)
http://gownagownaguinkujira.cocolog-nift
y.com/blog/2010/11/post-289a.html

>山春永が新羅国人の珎賓長と共に新羅に渡り、現地の者に「兵弩器械」、つまり軍事用の石弓の製造法を教え、その彼等と伴って対馬国に押渡、この国を討取ろうとしているというのである。しかも、この謀議には藤津郡葛津貞津、彼杵郡の人永岡藤津、それに高来郡の擬大領である大刀主(たちのぬし)らも加わっているというのである。

日本史人物列伝
http://www5b.biglobe.ne.jp/~yoropara/ret
uden/retu00239.htm

かなり長いのだけど、真中から下のほう。

>ところが、11月13日、朝堂に衝撃が走る。
>対新羅防衛の最前線であるはずの大宰府に勤務する
>大宰少弐の藤原元利麻侶が新羅側に内通していると言う事実が判明したのである。

>元利麻侶が日本側の防衛機密を新羅に渡し、対馬、壱岐を始め、北部九州、
>さらには、日本海側に配置されている日本の防衛拠点の陣容も、
>新羅側に全て筒抜けとなっている可能性が高まったのである。

>新羅が、大宰府内部にまで、カネと女、恫喝等を用いたと思われる謀略を仕掛け、
>スパイを配していたことが発覚した衝撃は大きく、良房は、17日になって、
>元利麻侶配下の新羅スパイ網を摘発拘束するように命じ、
>事態を掌握するために遣大宰府推問密告使を派遣する。

刀伊の入寇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%80%E
4%BC%8A%E3%81%AE%E5%85%A5%E5%AF%87

新羅の入寇より、もうちょっと時代が下がります。
日本が初めて外国からの侵略を許したところです。
元寇に比べると、規模は小さいですが。

2014/2/13 12:37  [76-2804]   

日本三代実録

言うにゃ及ぶさん こんにちは

>元利麻侶が日本側の防衛機密を新羅に渡し、対馬、壱岐を始め、北部九州、
>さらには、日本海側に配置されている日本の防衛拠点の陣容も、
>新羅側に全て筒抜けとなっている可能性が高まったのである。

>新羅が、大宰府内部にまで、カネと女、恫喝等を用いたと思われる謀略を仕掛け、
>スパイを配していたことが発覚した衝撃は大きく、良房は、17日になって、
>元利麻侶配下の新羅スパイ網を摘発拘束するように命じ、
>事態を掌握するために遣大宰府推問密告使を派遣する。

 上記は日本三代実録が元資料のはずですが、このように詳しくは書いてありません。
 状況から見て日本内部の勢力争いに巻き込まれたのだろうとも考えられます。また密告などは日常的だったので、どうなのでしょうか。(新羅通牒)の所持が密告時の証拠ということですが、それだけではなんとも言いがたいですが。
 ただ新羅とは民間では交易があっていろんな情報は入ったでしょうし、相互に情報戦はあったのかもしれませんね。

 当時新羅も清海鎮との王位抗争の頃でゴタゴタ中ですし、その影響が日本側にもいろいろ波及している時期です。
 情報収集があったとしても、日本からの攻撃に備えた情報収集、と言うほうが考えやすいのかも。

【参 考】
(三代実録)
http://www013.upp.so-net.ne.jp/wata/rikk
okusi/sandai/sandai.html


(承和期前後の国際交易―張宝高・文室宮田麻呂・円仁とその周辺)
http://www.junreikoki.jp/pdf/tanaka.pdf#
search='%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%83%E5%8
8%A9%E9%BA%BB%E4%BE%B6'



(張保皐)
http://ezkorea.biz/inf8.cgi?mode=main&am
p;no=13

2014/2/13 13:58  [76-2805]   

後醍醐天皇 足利尊氏

(後醍醐天皇と足利尊氏)
 後醍醐天皇というのは大変エキセントリックの方のようで、しかも柔軟性がなく信念を絶対曲げないので、政権トップには向かない人物の代表のような気がしますね。
 対する足利尊氏といえば、言動から見てナイーブな性格だと思われますが。この辺が建武の新政が失敗し、南北朝時代が長く続いた原因だったと思われます。
(建武の新政Wiki)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E
6%AD%A6%E3%81%AE%E6%96%B0%E6%94%BF


 承久の乱以降天皇の権威が低下してきて、後醍醐天皇に至っては単なる中継ぎとして担ぎあげられた形になってしまいます。
 そこで倒幕に至ったわけですが新田義貞、足利尊氏らの活躍でこれは成功します。
 ここまでは良かったのですが、中国の皇帝風支配目指す天皇と周りとの齟齬があり、朝令暮改、既得権益との衝突、恩賞の不公平などで建武の新政は空中分解してしまいます。
 足利尊氏の離反で本格的な衝突に至るわけですが、そこには弟足利直義の意見が強かったという説が有力です。

 南北朝時代が長引いたのは
1.足利家内部の衝突
  当初、直義と高師直との対立から(尊氏の優柔不断の事後処理で問題が大きくなって)直義と尊氏との対決に。さらに直義の養子(尊氏の実子)が加わり、南朝方との共闘関係なども生じてややこしいことになってゆきます。
(観応の擾乱Wiki)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E
5%BF%9C%E3%81%AE%E6%93%BE%E4%B9%B1

2.正平一統(南朝と尊氏の講和)と破談
 直義との対決を控え尊氏は南朝有利の条件で講和しますが、後醍醐天皇はこれを破り尊氏の征夷大将軍を解任し再び戦いに。この中で北朝方光厳・光明・崇光の3人の上皇と直仁親王を拉致、尊氏は神器なしで(ここが何代と公認されない理由)北朝天皇を擁立。ここから泥沼状態に。

 尊氏は後醍醐天皇との衝突を悔いていたといわれています。また殺害できる状況があってもこれを許可していませんし(殺害すれば終わってたのにとも思いますが、やっぱり末代までの汚名と為るのでしょうか)、後醍醐天皇が妥協や共存を図っていたら上手くやっていたのかも。
 ただそれは理想とは程遠い天皇像だったので、妥協は出来なかったようですね。
 いやはや頭の固い人には困ったものです。一気に根本的大改革などは出来ないのに(某大阪市長のように)判ってない人はいつの時代にもいるものですね。

(後醍醐天皇Wiki)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E
9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87


(足利尊氏)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E
5%88%A9%E5%B0%8A%E6%B0%8F




2014/2/13 14:58  [76-2806]   

撮る造さん、こんばんわ。
今度は南北朝ですか。

足利義詮
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E
5%88%A9%E7%BE%A9%E8%A9%AE


護良親王
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%B7%E
8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B

昔は「もりながしんのう」と教えられていたけど、途中から「もりよししんのう」に呼び方を変えちゃったみたいね。

鎌倉怨霊散歩〜「護良親王墓所」
http://blogs.yahoo.co.jp/to7002/34461799
.html


日本史で質問があります なぜ室町の南北朝時代頃、血縁的結合から地縁的結合に変わ...
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/
question_detail/q14118875164


貨幣博物館
http://www.imes.boj.or.jp/cm/history/12C
/


私は南北朝にさほど興味があるわけではないから、詳しくはないです。
年に数回オフ会をやるのですが、これが歴史関係のグループなのですよ。
とはいっても、歴史好きってプロ野球の好きなかたが多くて、話題もプロ野球や政治的なことのほうが多いです。
ここの管理者は南北朝が好きで詳しいのだけど、オフ会にはほとんど参加してないです。

2014/2/13 18:36  [76-2808]   

>今度は南北朝ですか。

すみません、勘違いしてました。
足利尊氏も入っているから、室町も含むのですね。

室町幕府
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A4%E
7%94%BA%E5%B9%95%E5%BA%9C

>その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。

3代目からなので、足利尊氏からいきなり室町幕府という発想はありませんでした。

日本酒の歴史
http://www.sakehonpo.com/benkyo/sake/osa
ke2.html

>古代のお酒は、すべて濁酒(にごりざけ)で、現在のように透明になったのは、いつ頃からかはっきりしていません。一説によると、16世紀末に、摂津鴻池の山中勝庵が、濁酒に灰を入れることにより、清酒を得たのが始まりとも言われます。
http://www.weblio.jp/wkpja/content/%E6%9
7%A5%E6%9C%AC%E9%85%92%E3%81%AE%E6%AD%B4
%E5%8F%B2_%E4%B8%AD%E5%8F%A4


京都に代々伝わるが謎の多い名門の流派 吉岡流の吉岡憲法直綱
http://ameblo.jp/asahibunza/entry-114575
92939.html

2014/2/14 00:29  [76-2809]   

>足利尊氏も入っているから、室町も含むのですね。

室町よりも南北朝中心ということで書き込んでみます。

楠木正成
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A0%E
6%9C%A8%E6%AD%A3%E6%88%90


婆娑羅大名
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/bas
ara.html


国司
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E
5%8F%B8

>古代から中世の日本で、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏
>平安時代中期以降は・・・国司に任命されることは富の蓄積へ直結したため、中級貴族は競って国司への任命を望み、重任を望んだ。
>鎌倉時代にも国司は存続したが、鎌倉幕府によって各地に配置された地頭が積極的に荘園、そして国司が管理していた国衙領へ侵出していった。当然、国司はこれに抵抗したが、地頭は国衙領へ侵出することで、徐々に国司の支配権を奪っていった。
>室町時代になると、守護に大幅な権限、例えば半済給付権、使節遵行権などが付与された。これらの権限は、国司が管理する国衙領においても強力な効力を発揮し、その結果、国司の権限が大幅に守護へ移ることとなった。

こういった関係もあるでしょうが、朝廷や公家の経済力は徐々に落ちていき、室町あたりでは天皇家や公家などは窮乏を極めていたという。
その後、力をつけてきた守護大名から戦国大名へと変遷します。

倭寇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E
5%AF%87

2014/2/14 15:05  [76-2813]   

(南北朝正閏論)
  幕末の維新志士にとって楠木正成は武士の鑑という存在だったようで、その結果明治になって彼らが政権を握ると、(それまでと違い)南朝が正統という公式の『纂輯御系図』が出来ます。

『纂輯御系図』(リンクが続かないのでコピーして貼り付けて)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9
91582


 一応根拠として、三種の神器の有無を問題にしていますが、これ自体誰も実際に見たことの無い代物ですし、盗難や水没、偽物などいろいろ言われている事から考えれば所持者が正統と言える状況でもなさそう。

 これにより北朝の天皇は正統とは認知されなくなっていますが、現在に繋がる血統としては北朝系というなんとも不思議なことになっています。
 明治10年だと、明治天皇も20代だったので押し切られたのでしょうか。

(明治天皇については、一部にトンデモ説もあるようですが)
http://homepage3.nifty.com/time-trek/els
e-net/topics-07-11-3.html


 
 南朝、北朝のどちらが正統なのかという南北朝正閏論は古くからありましたが、有名なのは徳川光圀の「大日本史」で南朝が正統という考えを表明したことでしょうか。
 当然ながら、殆どが北朝系の公家は反駁しますが「大日本史」は将軍吉宗の裁可で刊行されます。まそういえば徳川家は新田氏の子孫を称していましたので、この辺の事情もあったのかも。
 なお朝廷に献上された「大日本史」はその辺が削除された物だったそうです。
 それにしても、水戸黄門の影響が志士に影響を与え、明治まで及ぶとは歴史は不思議です。

 儒学者頼山陽によると後小松天皇は後亀山天皇からの禅譲を受けた天皇なので南北継承には問題は出ないといってますが。

(南北朝正閏論)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E
5%8C%97%E6%9C%9D%E6%AD%A3%E9%96%8F%E8%AB
%96

2014/2/15 00:08  [76-2818]   


(三種の神器の真偽)
 天皇の践祚に際し、三種の神器の所持が正当性の証とされています。
(三種の神器)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E
7%A8%AE%E3%81%AE%E7%A5%9E%E5%99%A8

 ただ、一部の天皇はこれなくして即位した例もありますので必ずしも必要なのかは不明。
 現在、八咫鏡は伊勢、草薙剣は熱田、八尺瓊勾玉は皇居にあるようですが、このうち草薙剣は盗難、水没などの話が伝わっていますし、他の2つも南北朝時代に偽物が作られ北朝に渡されたという話もあり、現在あるものが真の三種の神器なのかは定かではないようです。
 まあ、神話の世界から抜け出したようなもので、天皇権のある種象徴みたいなものですから真偽問うのは意味ないのかもしれませんが。
(天叢雲剣-草薙剣)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E
5%8F%A2%E9%9B%B2%E5%89%A3


 壇ノ浦の戦いで草薙剣が水没したのは有名ですが、そのほかに2回(下記リンク)失われていますので現在熱田神宮にあるのは本物ではないのかも。
(草薙剣盗難事件)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%89%E
8%96%99%E5%89%A3%E7%9B%97%E9%9B%A3%E4%BA
%8B%E4%BB%B6

(禁闕の変)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E
9%97%95%E3%81%AE%E5%A4%89


2014/2/15 00:09  [76-2819]   

撮る造さん、こんばんわ。

ははー、こちらのほうの話ですか。

神皇正統記
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E
7%9A%87%E6%AD%A3%E7%B5%B1%E8%A8%98


大日本史
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E
6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2


おまけ

南北朝→明治維新→平成維新 日本史の謎
http://blog.goo.ne.jp/kenkyu710/e/8805d1
2688efb8525177a5457a3aed24


「逆説の日本史」7-8太平記と南北朝の謎〜を読む
http://pub.ne.jp/Indianinkworld/?entry_i
d=4531783

2014/2/15 00:24  [76-2820]   

撮る造さん、こんにちわ。

以仁王
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A5%E
4%BB%81%E7%8E%8B


義経が壇ノ浦でやった「大失態」とは? 神器水没よりむしろ「安徳帝身柄確保失敗」のほうがデカイ。
http://ameblo.jp/eiichi-k/entry-11225726
488.html


『三種の神器 〈玉・鏡・剣〉が示す天皇の起源』 祟り神は守護神となる
http://honz.jp/21288

関門海峡
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E
9%96%80%E6%B5%B7%E5%B3%A1

>約6000年前 - 本州と九州が分断され、海峡が形成される。

関門海峡運河説
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5930397.html

2014/2/15 12:30  [76-2821]   

追加です。
今度は剣と刀について。
古代では剣という形が主流でしたが、後に刀という形が主流になりました。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%A3
>剣と刀
>刀剣のうち、片刃のものを刀と呼び、両刃のものをさして剣と呼ぶのが中国語の漢字の字義からは正しい。ただし日本語およびその文化では、広義の「剣」は刀も含めた刀剣類全般を指す言葉として用いられる。これは、日本刀の発明以後、両刃の剣が完全に廃れてしまい、区別する必要がなくなったためである

古代日本の「矛」ですが、両方に“刃”があります。 以降の日本に、両方に“刃”がある...
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/
question_detail/q1416362644


さらに追加

殯(もがり)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%AF

日本の歴史(蘇我馬子の野望)
http://history.kaisetsuvoice.com/Umako.h
tml

2014/2/15 18:44  [76-2822]   

「焼津」「木更津」「三重」各地に今も残る「ヤマトタケル伝説」 地名と伝承の興味深さ
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/
news/140215/wlf14021518010022-n1.htm


ここのタイトルである「日本史の謎」で検索してみたら、こんなのがありました。

日本の歴史の謎・ミステリー(いまだ解明されていない真実)
http://matome.naver.jp/odai/212900593946
0223701


謎に包まれた日本の歴史について
http://matome.naver.jp/odai/213387189681
0284901


日本古代史をとりまく謎
http://inoues.net/mystery/mystery.html

この中には撮る造さんの嫌うトンデモ説もかなりあるかとは思いますが。

2014/2/16 12:20  [76-2825]   

>日本の歴史(蘇我馬子の野望)

雑誌「歴史と旅」に「劇画日本史」という漫画が掲載されてました。作者は甲良幹二郎。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E
8%89%AF%E5%B9%B9%E4%BA%8C%E9%83%8E

第6回「仏教の伝来」が上のシーンなんですよね。
敏達の前の欽明朝での主要人物はミズラという髪型をしていました。
ところが、敏達朝になると、普通の髪型になっておるわけですよね。
ここらへんの理由はよくわかりませんが。

角髪(みずら)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E
9%AB%AA


『みずら』の作り方
http://nimo.s31.xrea.com/yama_miz1.htm

さて、(蘇我馬子の野望)のところで穴穂部皇子が敏達天皇崩御後の殯(もがり)の場へ登場します。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%B4%E
7%A9%82%E9%83%A8%E7%9A%87%E5%AD%90

>殯宮で葬儀が行われた際に「何故に死する王に仕え、生きる王(自分)に仕えないのか」と憤慨した。

「劇画日本史」では、半分酔っぱらった状態での登場で、wikiとはちょっとニュアンスが違いますかね。
穴穂部皇子というのは蘇我馬子の甥っ子にもあたるわけでして、「劇画日本史」では蘇我馬子に「わが甥ながら困ったお人じゃ。」と嘆かせています。
それでも、馬子が穴穂部皇子を敵に回して殺してしまうわけですよね。

2014/2/16 16:39  [76-2826]   

撮る造 さん  

2014/2/16 17:37  [76-2827]  削除

(天皇家と藤原家のインブリード)
 インブリードというのは近親交配のことで、品種改良などにも良くつかわれれます。
 サラブレッドなどでは3x4(三代目と4代目の親が一緒)の場合奇跡の血量などと呼んで、意図的にそういう掛け合わせにすることもあります。
(極端な例としての血統表です)
http://db.netkeiba.com/horse/ped/1978101

925/

 最近では極端なのはありませんが、かつては1x2(親子)や2x2などと言う極端な組み合わせを試みた例もありました。
 成功した例としては凱旋門賞勝ったコロネーションでしょうか。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Oak

/2817/horse/horse43.html
 ただこの馬も繁殖能力には問題がありましたし、血統的に悪い面が出すぎる危険も大きくなります。
 人間の場合こうしたことはやらないのが普通で、日本では古くから禁忌とされていましたが、中世の皇室では権力のために意図的に行われていました。

 天皇家の系図見ると凄いことになっているのに気付かれるでしょうね。天皇の后は藤原氏ばかりが目立って、インブリードの展示会みたいになっています。
 藤原道長などは娘(彰子)が生んだ、後一条天皇に彰子の妹威子(甥、叔母の関係になる)を嫁がせるなど、権力のためなら何でもあり状態にしてゆきます。
(天皇家系図)
http://www9.wind.ne.jp/chihiro-t/royal/T

ennoke.htm

 その後も系図見ればわかるように、天皇家の血筋に藤原氏のDNAが次々送り込まれてゆきます。(五摂家だと一見荘は見えませんが、藤原氏には違い無い)

 ここまでインブリードの実験状態だと、何らかの遺伝子異常が出ても不思議はありませんね。
 藤原氏にとっては、天皇家は自らの支配のための道具みたいなものなので、生きて存在していれば良いと言うようなものだったのでしょうか。

 それにしても、実力で朝廷内での地位目指した者は横死したり、1代限りで没落してゆくのが殆どですね。
 武士としてはじめて太政大臣になった平清盛、子供を天皇にしようとした足利義満(急死)、右大臣となった織田信長(叛乱)、関白となった豊臣秀吉などですが。もっと古くだと菅原道真や道鏡などもいましたが。

 これら見ると「裏で藤原氏を中心とする公家の既得権益守るため、異分子を排除するような陰謀があったのでは」と言うのもあながち空論とは言えない気もしてきますね。

 その辺がわかっているので源頼朝や徳川家康は朝廷と距離を置いていたし徳川幕府にいたっては、朝廷の無視や無力化していったのかも。

(文字訂正のため、書き直しました)

2014/2/16 17:36  [76-2828]   

(足利義満)
 古代にはあったとしても帝位簒奪というのは記録には出来ません。もちろん、それ以降は天皇制というべき制度が確立しているので事実上不可能に近くなっています。
 それに対して中世以降挑戦したと思える人物は歴史上たった二人だけですね。足利義満と織田信長です。信長の場合、天皇制の外にそれ以上の権威を作ろうとした意図があったので(自ら望めばもっと上を目指せるのに)右大臣どまりでいたのでしょう。

 ですから自分の息子を天皇にしようとまで試みたのは、記録に残っている人物では足利義満が唯一無二の存在ということになります。
(足利義満)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E
5%88%A9%E7%BE%A9%E6%BA%80


 彼は明との交易で「日本国准三后源道義」という使い名を使い使者を送り、冊封(臣下)国として貿易をはじめ、日本国王に封じられます。たぶん問題になっただろうこの事柄も武力を背景にした義満には逆らえなかったのでしょう。
 次いで彼は真実の日本国王を目指します。とはいっても自らではなく次男足利義嗣を天皇に即位させようとしていたといわれています。
 ただ、当時の公家の日記(公式の史書がないため、当時を知る唯一の資料)にも攻した経緯を書いたものは一切ありません。つまり天皇を目指したと言う直接の証拠は無いのですが。

 ただ、義満の急死はなんとなく不自然な感じもしますし、足利義嗣も(謀反の疑いで)兄である足利義持によって殺害されてしまうなど何か裏がありそうです。

 なお義満の死後、朝廷は彼に「鹿苑院太上天皇」という称号を送りますが、何とも曰くありげな称号ですね。(「皇位簒奪は出来なかっただろう、ざまあみろ」という嘲りか、あるいは暗殺の祟りを恐れたので称号与えたのか?)
 将軍足利義持はこれを辞退し、その後彼は(義満のような地位ではなく)実質的に朝廷に対し影響力を強めてゆきます。
(足利義持)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E
5%88%A9%E7%BE%A9%E6%8C%81


(日本国王・足利義満の生涯と皇位簒奪計画)
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/vision/
history001/muromachi005.html


2014/2/16 18:40  [76-2829]   

(天皇家と藤原家のインブリード)でコピペして文字修正したら、リンクが切れてしまったので、そこだけ書き直します)

(極端な例としての血統表です)
http://db.netkeiba.com/horse/ped/1978101
925/


最近では極端なのはありませんが、かつては1x2(親子)や2x2などと言う極端な組み合わせを試みた例もありました。
 成功した例としては凱旋門賞勝ったコロネーションでしょうか。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Oak
/2817/horse/horse43.html



(天皇家系図)
http://www9.wind.ne.jp/chihiro-t/royal/T
ennoke.htm

2014/2/16 18:46  [76-2830]   

撮る造さん、こんばんわ。

皇位簒奪
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E
4%BD%8D%E7%B0%92%E5%A5%AA


「皇位簒奪」で検索すると、秋篠宮という言葉が出てきます。
それはともかくとして、

最近、「足利義満の皇位簒奪計画はなかった」という学者さんが増えているそうです...
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/
question_detail/q1186402376


応仁の乱以降、天皇家や公家などの経済力が極端に低下しました。
応仁の乱
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E
4%BB%81%E3%81%AE%E4%B9%B1


後柏原天皇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E
6%9F%8F%E5%8E%9F%E5%A4%A9%E7%9A%87

>費用調達の為に朝廷の儀式を中止するなど経費節約をし、室町幕府や本願寺9世実如の献金をあわせることで、即位22年目の大永元年(1521年)3月22日にようやく即位の礼を執り行うことができた。
知名度的には非常にマイナーな天皇です。

朝廷の経済力は戦国から江戸にかけては、少しは回復したんじゃないかな。
これは時の実力者に取り入ったせいもあるでしょうね。

宮中某重大事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E
4%B8%AD%E6%9F%90%E9%87%8D%E5%A4%A7%E4%BA
%8B%E4%BB%B6


熊沢寛道(熊沢天皇)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E
6%B2%A2%E5%AF%9B%E9%81%93

2014/2/16 20:52  [76-2831]   

こんなのだったかと

言うにゃ及ぶさん こんばんは
劇画日本史ですか、単行本なら知り合いの家で見たことはあります。
 歴史を劇画で見るというのはちょっと違和感ありますが、暇つぶしの読み物としてなら良いのでしょうね。

 足利義満は明から日本国王という称号与えられましたが、徳川幕府が朝鮮と国交を結びなおした折これと同様に日本国王という称号の国書を受け取っています。国王同士(対等)と言う意味ですか?
(朝鮮通信使)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E
9%AE%AE%E9%80%9A%E4%BF%A1%E4%BD%BF


 明治になって新政府が新たに国書を送ると、朝鮮はこれを拒否します。
 どういうことかというと、 国書の中に(皇)や(勅)という文字があった為(これは天子しか使えない文字なので)清の冊封国だった朝鮮が日本の下風に立つので受け取れないといったことのようです。

 朝鮮は清への朝貢を拒否して、清の皇帝ホンタイジに征服された過去があるので、日本への服従とも取れる国書は受け取れないのは当然だったのかも。これが征韓論にきっかけの一つになりますが。
 私の周辺でも、意外に隣国の歴史知らない人が多いですね。
 韓国でも、日本によって清の支配から逃れられたなんて教えてるわけでは無いでしょうが。

(大清皇帝功徳碑)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E
6%B8%85%E7%9A%87%E5%B8%9D%E5%8A%9F%E5%BE
%B3%E7%A2%91

(西郷の遣韓使)
http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/syou
gai11.htm

2014/2/16 23:30  [76-2833]   

撮る造さん、こんばんわ。

>足利義満は明から日本国王という称号与えられましたが、徳川幕府が朝鮮と国交を結びなおした折これと同様に日本国王という称号の国書を受け取っています。国王同士(対等)と言う意味ですか?

何とも言えませんね。
わかっているのは、日本も朝鮮も相当にプライドが高いということ。
その狭間にあって、対馬藩の苦労がうかがえます。

征韓論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E
9%9F%93%E8%AB%96


大久保利通はどうして征韓論に反対したのですか? また、どのようにして征韓論は生...
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/
question_detail/q1217594357

2014/2/17 01:02  [76-2834]   

(鉄砲伝来)
 いわゆる鉄砲伝来というもの、ポルトガル人が種子島に漂着して云々は教科書にも載っている言わば定説となっていますが、これは胡散臭い説です。中国船に乗って通訳つれてきたと言うことは鉄砲を売り込みに来た商人だったのでは。
 時期的にも(「北条五代記」ではもっと前に唐から入ってきたとなってますし)それ以前に倭寇などを通じて入ってきていた可能性も高いようですが。
(鉄砲伝来Wiki)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E
7%A0%B2%E4%BC%9D%E6%9D%A5


 また、火薬の作り方などがすぐに広まったのは不思議でしたが、中国から朝鮮経由で火薬製造法は伝わっていたそうだったのをみて納得しました。(応仁の乱で火薬兵器が使われたらしい)
 硝石の採れない日本では南蛮貿易で輸入していましたが、これも日本独自の方法で解決もしていました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E
8%96%AC

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/
question_detail/q1145129761


 日本における改良によって、日本の火縄銃は操作性や精度、射程距離など世界最高の銃となります。文禄・慶長の役通じてそれが知れ渡り、明や朝鮮にも影響を与えることに。
 海外由来の物に改良を加え、性能を磨き上げるのは匠の国日本の伝統ですかね。
 なお東南アジアにも輸出されていたそうですが、

(日本の火縄銃の引き金は銃床の中心にある)リンクが出来ないのでアドレス欄にコピペしてください
http://www.日本の武器兵器.jp/archives/4785

(文禄、慶長の役)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E
7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81
%AE%E5%BD%B9

(日本と世界の火縄銃)
http://paomaru.dousetsu.com/file/09_hina
wa_005.html

2014/2/17 01:36  [76-2835]   

撮る造さん、こんにちわ。

>いわゆる鉄砲伝来というもの、ポルトガル人が種子島に漂着して云々は教科書にも載っている言わば定説となっていますが、これは胡散臭い説です。中国船に乗って通訳つれてきたと言うことは鉄砲を売り込みに来た商人だったのでは。
>時期的にも(「北条五代記」ではもっと前に唐から入ってきたとなってますし)それ以前に倭寇などを通じて入ってきていた可能性も高いようですが。

正式な記録が無い以上、ポルトガルからの伝来でいいと思います。
ただし、火薬や鉄砲の発明は中国。
えらく遠回りというか、日本へ伝来するのに時間がかかりすぎです。
この時期、世界で爆発的に広まった梅毒とはえらい違いです。
梅毒
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E
6%AF%92

>梅毒が歴史上に突発的に現われたのは15世紀末

>海外由来の物に改良を加え、性能を磨き上げるのは匠の国日本の伝統ですかね。

これはその通りでしょうねえ。

秀吉の朝鮮出兵
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-
1582.html


「朝鮮出兵」多くの朝鮮民衆が味方し勝ち進んだ秀吉軍
http://blog.jul22.net/article/66059117.h
tml

>この朝鮮出兵で多くの朝鮮の陶工が捕虜として日本軍に連行されたとよく言われるのだが、彼等にとっては自国に残っても奴隷(奴婢)の過酷な暮らしが待っているだけではなかったのか。日本で技能者として優遇されるのであれば、日本での暮らしを望んだ人が多くいても不思議ではないのだ。
北朝鮮の拉致とはわけが違う・・・か。

次は明治の頃に飛んでいきます。
不平士族ってなんでしょうか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/
question_detail/q1176392836

2014/2/17 12:25  [76-2836]   

なんか、どっかで見聞きした話で

スピルバーク君がレイダース(失われた三種の神器←けんけんRX仮称)をやろうとして企画倒れに終わったという話がありました。

万世一系の所以が神器によるものなのか?
万世一系の家系に神器がやどるもののか?
有事の際は、皇居から神器がオスプレイにのって!?

第X代のやんどころなき方のお印に、ぜひとも「はくぶん」を!

とりあえず歌会始のお題に「はくぶん」をねじ込んでもらいたいものです。

聞くところによると、かの「大喪の礼」の際のしきりは、某大手宣伝会社がおこなったようです。電●さんにねじこめばなんとか?(藁)

2014/2/17 21:45  [76-2837]   

ちなみに、近くの古本屋に学習漫画・日本の歴史その他 がワンセット入ったのです。

「見たくない歴史もあるのでバラにして売らんか!」とおじさんに言ったのですが、ダメっていわれました。そのうち無くなっていたのですが、ほんまセットで売れたかどうか疑問です。(藁)

日本の歴史〜近代史編

学習漫画「GHQ占領から高度成長・田中角栄の野望!」とか早くでませんかね?

2014/2/18 00:36  [76-2838]   

けんけんRXさん こんばんは
>万世一系の所以が神器によるものなのか?
>万世一系の家系に神器がやどるもののか?
シリーズによって神器は違うようですが、三種の神器ってこれ?ですか。
(三種の神器と映画で検索したら、こんなのが出ましたが)
http://ameblo.jp/luckyclover1010/entry-1
1605078303.html


 そもそも某家は万世一系ではなさそうですし、神器も真偽が判りませんので。
 皇居が地震で倒壊や津波で水没は無いと思いますが、北朝鮮から核ミサイルが飛んでくるなら逃げようも無いし。それに勾玉以外は形代だけですし。オスプレイは落ちるのでやめるでしょうね。

 歌会始 録る造帝 御製
 新しき 年の初めに はくぶんを 刻んで雑煮 いと美味きかな

2014/2/18 00:47  [76-2839]   

皆さん、こんばんわ。

>歌会始 録る造帝 御製
> 新しき 年の初めに はくぶんを 刻んで雑煮 いと美味きかな

ブラックユーモアですか?

三種の神器というと、こんなのもありました。

三種の神器 (電化製品)
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7
%A8%AE%E3%81%AE%E7%A5%9E%E5%99%A8_(%E9%9
B%BB%E5%8C%96%E8%A3%BD%E5%93%81)

ついでだ、これも。

三種の神器はユダヤルーツか!
http://www.historyjp.com/article.asp?kij
i=60

2014/2/18 01:28  [76-2841]   

言うにゃ及ぶさん こんばんは
 不平士族ですか、本来勝ち組のはずの藩からこういう動きになるとは、武士の矛盾ですね。
 
 明治維新というものが封建社会からの脱却ですから、これが武士の権利や誇りを奪ってゆくのは当然ですね。だまされたと言う気分?
 徴兵制、版籍奉還、廃藩置県などによって武士は不要とされます。
 また秩禄処分によって収入が激減して困窮すれば氾濫が起きる土壌が出来上がり、それに何かのきっかけさえあれば充分ですから。

 江藤新平は他の地区への波及を望んで佐賀の乱を起こしますが、すぐに連動したところは無く、内部もばらばらだったので鎮圧され梟首されます。
http://yagiken.cocolog-nifty.com/yagiken
_web_site/2010/12/post-2728.html


 この江藤への扱いが西郷の心境に変化をきたし西南戦争に至ったのでは。
 私学校生の跳ね上がりが西南戦争招いたとされていますが、(維新の功労者)西郷に罪を背負わせないための配慮かと思っています。
 多分、すべて西郷隆盛の指示でことは運んでいたはず。
http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/syou
gai12.htm


 それにしても、九州進軍していって東京まで行くつもりだったのでしょうか?とても無理な行軍だったと思われますが。途中で反乱に同意する勢力を確保していたわけでもなさそうですし。

 (東京に攻め上るなら)海軍力さえあれば海上進むのが常道ですし、当時考えれば、(新政府と対決するなら)フランスやイギリスの協力や同意は必要だった筈ですが。
 単に私学生道づれに、自分の死に場所選んだとしか思えませんね。

2014/2/18 01:30  [76-2842]   

撮る造さん、こんにちわ。

江藤新平は不思議な人物です。
できるヤツとダメなヤツが混在してるといいますか。
一般的には、できるヤツと見られているのでしょうが。
ところが、高知でつかまった時は、江藤新平らしからぬものでした。ここに江藤新平がいますよってな感じで。
しかも、護送途中で役人の一人にここで逃げるようにすすめられたけど、それを断ったという。
江藤新平
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E
8%97%A4%E6%96%B0%E5%B9%B3


梟首されたのは江藤新平だけでなく、新撰組の近藤勇もそうでしたかね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E
8%97%A4%E5%8B%87


ところが、梟首された生首を写真撮影されたのは江藤新平くらいのものでしょう。
そこまでやる必要があったのか?
異例のことですよ。
まあつかまった江藤新平が身代わりだったとは思いませんが、それにしても生首を写真撮影する意味がわかりません。

新撰組のほうへ話を振替えます。
原田左之助は槍の使い手で、新撰組解体後上野の彰義隊戦士として死亡しました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E
7%94%B0%E5%B7%A6%E4%B9%8B%E5%8A%A9

ところが、一部には生き延びて大陸へ渡って馬賊になったという説もあります。

2014/2/18 14:28  [76-2844]   

>歌会始 録る造帝 御製
 新しき 年の初めに はくぶんを 刻んで雑煮 いと美味きかな

これは不敬罪で逮捕です!

2014/2/18 16:51  [76-2845]   

http://izasaito.iza.ne.jp/blog/entry/245
3806/


http://www.youtube.com/watch?v=s-lrBS9mL
Is


こんとき、いいかん長い間 雨の御所か?御苑の前でとまっていた仕出し屋さんの名前(トラックについていたロゴ)がおもいだせない。(><)

2014/2/18 18:06  [76-2847]   

近代日本史の謎

京樽の仕出し弁当の配送トラックがでーんと止まっていたような記憶がぁああ!

ひょっとしてタイアップしていたのではないでしょうか?(藁)

2014/2/18 18:11  [76-2848]   

皆さん、こんばんわ。

今度は日本史ではなく、世界史のほうへいってみます。ただし、謎のほうはあんまり関係ないですが。

高校の頃に学校全体で見にいった映画がありました。
タイトルは「八月の砲声」でしたね。
http://eiga.com/movie/62992/
白黒の記録フィルムを編集したもののようでした。

本も出てるようですね。
銀の手帖@読書メモ
http://silvernote.seesaa.net/article/382
206543.html


題材が第一次世界大戦をテーマにしたものでした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E
4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4
%A7%E6%88%A6


映画の原題が「 The Guns of August 」でした。
YouTubeもありました。
http://www.youtube.com/watch?v=h4zPg5Kv_
ug

ただし、こちらは吹き替えも字幕もありません。
1時間40分くらいの長い動画です。

本のほうは読んだことはないので、映画を見て覚えていること。
当時のヨーロッパ列強は国王あるいは皇帝がいまして、昔から列強同士で姻戚関係が盛んでした。
それで、当時の皇帝の顔が似ているのですよ。それが敵味方に別れて戦っていたわけですから。
当時、国王や皇帝がいなかったのはフランスぐらいでしたかねえ。

万世一系から遺伝のほうを連想して、「八月の砲声」を思い出しました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E
4%B8%96%E4%B8%80%E7%B3%BB

2014/2/18 20:54  [76-2849]   

藤原道長の日常生活 講談社現代新書

(藤原道長の日記)
 日本では木造建築ということもあり、歴史的建造物などの保存が少なく城なども取り壊されたり放棄されたりで、当時のまま保存されているものは稀です。

 その代わりといっては何ですが、歴史上の人物による自筆の手紙や日記が豊富に保存されているのが特徴です。
 それらによって、その人物の心情や性格が伺えますし、当時の状況などもその視点で覗くことも出来るのは有難いことです。

 特に古い自筆日記が保存されているのは、他の国には無い日本だけのの特徴ですね。

 最古の自筆日記と言われているものに、藤原道長の「御堂関白記(後にこう名づけられた)」があります。
(御堂関白記)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E
5%A0%82%E9%96%A2%E7%99%BD%E8%A8%98

  藤原道長と言う人は結構筆まめだったようで、日常に起きたことを細部にわたって書き記しています。
 人に見せるつもりの無い備忘録的なものだったので、喜びや怒り、泣き、疑問など感じるままに記載しているのが特徴。
 また地震、火事、放火や殺人などの事件についても、自ら書いているので当時の社会状況も良く判りますね。

 同時代の日記に藤原実資の「小右記」、藤原行成の「権記」があり、「御堂関白記」と比較すると事柄の裏事情が良く判ります。
 「権記」のほうは宮中行事や人事の状況などの実務日記的ですが権力内部の動向がわかりますし、藤原実資は道長に批判的でもあったので、「小右記」には彼のネガティヴな面も書き記しています。道長の「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることの なしと思へば」もここが出典です。
(権記)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%A9%E
8%A8%98

(平安貴族ダチ情報)
http://www2u.biglobe.ne.jp/~heian/kenkyu
/gonki.htm


(藤原 実資)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E
5%8E%9F%E5%AE%9F%E8%B3%87

(小右記)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E
5%8F%B3%E8%A8%98


 この時代なぜ貴族の日記が多いかというと、貴族の仕事は宮中儀式や事務をしきたり通り行うことが主ですが(先例が失われ、その作法が混乱してきていた時代だったので)行われた行事について詳細を記しておく必要があったこと、正史が「日本三大実記」以降造られなかったことが原因だったのではというのが通説のようです。

 道長本人は日記は処分するようにと言ってたようですが、現在まで原本が残って(写本多数)いるので、この支配者の複雑な側面覗けるようになったのですから、この歴史的資料を保存しておいた人達に感謝するべきなのでしょうね。 

 最近読んだ新書に「藤原道長の日常生活」がありました。結構判りやすく書いてありますし、これだけでも道長の心情はある程度理解できると思いますが。
 http://book.asahi.com/reviews/column/201
3042400004.html

2014/2/18 22:44  [76-2850]   

(天皇制と憲法)
 けんけんRXさんのレスに大喪の礼のときのリンクがありましたので。

 大日本帝国憲法下では天皇は神格化された絶対君主として表現(実際的には立憲君主)されていたので、宗教化された儀式と政治の問題は生じなかったのですが、現憲法下でそのままやるのは難しそうです。
 日本国憲法というのは、短期間で作られたせいで英語の直訳みたいなところもありますし、当時の日本側と占領軍のせめぎあいで微妙な表現に為っている部分が多いですね。特に天皇に関わる第一条と防衛関係の第九条にはおかしなところが多いです。

 新憲法下ではじめての天皇交代となったわけなので、前例もなく事務方が苦労したことは想像に難くないでしょう。その指揮に当たった石原副長官の苦労がしのばれますね。
 対外的には国葬ですし、外国の参列者も当然そう思って参列しています。共産圏は別にしてどこの国でも葬儀には宗教色は当然付帯するので本来は問題にならないでしょうし、「葬場殿の儀」と「大喪の礼」一緒でも政教分離の原則は問題ないはず。
 苦肉の策とはいえ、鳥居などを取り除く意味はあったのかは疑問ですが。

 問題になりそうだったのは、皇位の継承である践祚の儀式ですが、これも憲法第二条見れば皇室典範に因るとあるし(皇室典範第二十四条:皇位の継承があつたときは即位の礼を行う)、ここに践祚や朝見の儀も入っていることにすれば何とか為るはずだったのでは。
 日本国憲法 第二条  皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範 の定めるところにより、これを継承する。

 石原信雄官房副長官の「私がいちばん苦慮したことは、『新憲法の趣旨に反しない形で、いかにして伝統的な儀式というものを残すか』 という言ですが。私が思うに政府が関与しない形で皇室独自の践祚や即位、大嘗祭を行い、朝見の儀は臣下に対して行うものですから省き、その後に国家および国民統合の象徴としての契約儀式を行う前例作ったほうが現憲法に即したやり方だったとは思います。

 まあ国民全部に納得できるようなやり方というのはありませんし、あちこちから批判が来るくらいでちょうど良いと思いますが。


2014/2/19 14:59  [76-2851]   

作家・井沢元彦氏によると、奈良から平安時代にかけては藤原氏の権力確立の歴史なんだそうです。

藤原不比等
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E
5%8E%9F%E4%B8%8D%E6%AF%94%E7%AD%89


彼の息子が藤原四兄弟。
http://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11241
637655.html


長屋王
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E
5%B1%8B%E7%8E%8B


藤原四兄弟が早死にしたのは、長屋王の呪いではないかという話ですね。

藤原四兄弟を死に追いやった疫病の伝染源
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-4/2010
_0721.htm

ここでは、病原菌は海外から持ち込まれたものではないかと指摘しています。

万葉集
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E
8%91%89%E9%9B%86

井沢元彦氏によると、万葉集はアンチ藤原氏の色彩が強いのだそうです。

2014/2/19 16:34  [76-2852]   

今度はお遊び感覚で書き込んでみます。

私は大金持ちではないのだけど、大金持ちになったと仮定しての話です。
ビルを建てようと思う。まあ雑居ビルみたいなもんですが。
ところが、場所が決まらない。
邪馬台国の土地にビルを建てたいのですよ。
決まってないから、西都原でも吉野ヶ里でもどこでもいいや、建ててしまおう。
名前を「邪馬台国ビル」とします。
雑居ビルなんで、テナントを募集します。
店の名前をどうするかなんですよね。

占いコーナー 「鬼道占い・卑弥呼」
スポーツ用品店 「陸行水行」
中華料理店 「親魏倭王」
本屋さん 「金印書店」
リーチ麻雀 「三国志」
喫茶店 「トヨ」
(邪馬台国で「台」の字を使っているから、「トヨ」とします。
 「壱」の字だったら、「イヨ」になります。
 これでは面白くないから、「イヨちゃーん」でもいいけど。
 とりあえず、「トヨ」とします。)

思い浮かぶのはこれくらいですか。

それで、ビルの管理人をどうするか?
陳寿がいいかなと思うけど、あの世から呼び戻すのは難しかろう。

こういうのを古代妄想といいます。

2014/2/19 22:47  [76-2854]   

言うにゃさん!

コイン精米機とか置いたらどうでしょう?

昔の人は 玄米(未精米)くってたんすかね?
つか、健康ブレンド米ショップをテナントにしたらどうっしょ?

2014/2/20 00:58  [76-2856]   

けんけんさんへ

店の名前は邪馬台国や魏志倭人伝ゆかりのものにしたいのですよ。
それで、米穀店・難升米とします。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A3%E
5%8D%87%E7%B1%B3

「なしめ、なんしょうまいとも」ともありますから、どっちにしますかね。「なしめ」のほうにしときますか。

さらに
朝鮮料理・帯方郡も追加しときます。

アイデア、どうもありがとうございました。

2014/2/20 11:44  [76-2859]   

では、ここで日本史クイズを出します。
まずは、天皇のある・なしクイズです。

「ある」
堀河天皇・朱雀天皇・伏見天皇・桜町天皇・陽成天皇・一条天皇・宇多天皇・亀山天皇・土御門天皇・三条天皇・白河天皇・村上天皇・嵯峨天皇・鳥羽天皇・醍醐天皇

「ない」
神武天皇・応神天皇・天武天皇・持統天皇・平城天皇・天智天皇・継体天皇・淳和天皇・安徳天皇・四条天皇・桓武天皇・孝明天皇・明治天皇・大正天皇・昭和天皇

これで、「ははーん。」とピンとくるかたは、かなりの日本史通といえるかと思います。

2014/2/20 12:45  [76-2860]   

言うにゃ及ぶさん こんにちは
 邪馬台国ビル造るなら、1階で「やまタイ焼き」売るといいと思うんですが、いかがでしょうか?

そういえば金印わさびってありましたね。
http://www.kinjirushi.co.jp/

 加後号付いた天皇、そんなにいましたか?
http://www.toride.com/~sansui/posthumous
-name/sigo02-2.html


 なお私が死ぬと後神武天皇と遺諡が付く筈に?【西朝(整腸)の血を引いていますので?】

2014/2/20 16:41  [76-2861]   

日本史パズル&クイズ

撮る造さん、こんにちわ。

>邪馬台国ビル造るなら、1階で「やまタイ焼き」売るといいと思うんですが、いかがでしょうか?

ふむ、これも採用してみますかね。
ありがとうございます。

>そういえば金印わさびってありましたね。

これは知りませんでしたね。

>加後号付いた天皇、そんなにいましたか?

はい、それで正解ですよ。

これは「日本史パズル&クイズ」という本からのものです。
著作権は・・・、とりあえずおいとくとします。

ついでだ、もうひとつ「あるなしクイズ」です。
今度は天皇ではなく、地名です。これもそう難しくはないと思いますが。

ある
仙台・水戸・広島・金沢・高知・熊本

ない
札幌・青森・新潟・神戸・長崎・宮崎

なさそうで「ある」
福島・横浜・千葉・長野・岐阜・奈良

「あるなしクイズ」は、これで最後にします。

2014/2/20 17:05  [76-2862]   

とりあえず降参です!

2014/2/20 19:34  [76-2863]   

邪馬台国パズル

けんけんさんのためにヒントを差し上げましょう。
江戸時代と明治以降

これとは別に、もうひとつパズルを提供します。
邪馬台国についてのものです。
A教授・B教授・C教授と3人の教授がいまして、3人のうち、誰がゴールにたどりつけるでしょうか?

本を見ながらエクセルで作成したので、どっかでひょっとしたら打ち込みミスがあるかもしれませんが。

2014/2/20 23:27  [76-2864]   

邪馬台国パズル・改

エクセルで、罫線の足りないところがありました。
ほとんど変わらないのだけど、差し替えます。
まだミスがあるかな〜。

2014/2/21 00:01  [76-2865]   

誰も回答してくれないので、「あるなしクイズ」の答えを出しておきます。
県庁所在地でお城のある所とない所です。

邪馬台国パズルは単なる迷路なので、そう難しくはなかったと思います。

天武・持統陵に立ち入り調査=考古学研究者ら初めて
http://news.infoseek.co.jp/article/14022
1jijiX672

宮内庁が許可したのだから、この程度ならといったところでしょうね。
小さな発見はあるかもしれないけど、大きな発見というのはないんじゃないですかねえ。

2014/2/21 23:38  [76-2866]   

パズル&クイズから外れてみます。

北海道
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E
6%B5%B7%E9%81%93

歴史のところを見ると、続縄文文化・擦文文化・オホーツク文化・アイヌ文化とあります。
擦文文化→アイヌ文化となってるようで、民族的には同じなんでしょう。
ということは、北海道には3種類の民族がいたということになるのかねえ?

続縄文時代
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%9A%E
7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3

擦文時代
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%93%A6%E
6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3

オホーツク文化
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E
3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%AF%E6%96
%87%E5%8C%96

アイヌ文化
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E
3%82%A4%E3%83%8C%E6%96%87%E5%8C%96


アテルイ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E
3%83%86%E3%83%AB%E3%82%A4

平安時代初期の人でして、アイヌとは書いてないです。

シャクシャイン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E
3%83%A3%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82
%A4%E3%83%B3

こちらは江戸時代初期の人でして、アイヌとはっきり書いてあります。

2014/2/22 20:54  [76-2869]   

>護良親王
>昔は「もりながしんのう」と教えられていたけど、途中から「もりよししんのう」に呼び方を変えちゃったみたいね。

宮将軍の末路(上) 武士以上の豪傑「大塔宮」、父・後醍醐帝に逮捕された絶望=c「鎌倉」後、「尊氏」との壮絶権力闘争の行方は
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/
news/140216/wlf14021607010001-n1.htm


宮将軍の末路(下) 「卑」武士が「貴」宮を斬った日本史の“コペルニクス的転回”…「親王」を斬首した「足利権力」の驚愕行為
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/
news/140223/wlf14022307010000-n1.htm


こういったものは主観が入ってるかもしれません。
幕末のおりは、勤王の志士から見ると、足利尊氏は希代の悪人と思われていました。

2014/2/23 13:44  [76-2870]   

言うにゃ及ぶさん こんばんは
 アテルイやシャクシャインの話が出ていたので。
 シャクシャインがだまし討ちにあったように、アテルイの場合も甘言にのせられて殺されてしまったのでしょうね。
 ヤマトタケル神話でも熊襲は女装で暗殺だし出雲の場合もだまし討ち。まつろわぬ勢力の征伐はいつもこんなもんですか。畿内の兵が弱いので策略に頼る必要があったという説もありますが。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E
3%83%9E%E3%83%88%E3%82%BF%E3%82%B1%E3%83
%AB


 相手を安心させて討ち取るのは日本人の十八番みたいで、太田道灌も風呂場から出たところで暗殺されていますね。風呂場というなら幡随院 長兵衛のほうが有名ですが。
(太田道灌)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E
7%94%B0%E9%81%93%E7%81%8C

(幡随院 長兵衛)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%A1%E
9%9A%8F%E9%99%A2%E9%95%B7%E5%85%B5%E8%A1
%9B


 そういえば、酔ってるところや酔った帰りを襲うのは新撰組のやり口でしたね。(芹沢鴨、伊東 甲子太郎)

2014/2/24 00:42  [76-2871]   

とりあえず、こういうのを。

ニュースドキュメント20世紀の記録
http://mojaq.blog.fc2.com/blog-category-
6.html


日本史ではなく、世界史ですが。
世界史でも、現代史になるんでしょうね。

2014/2/24 13:08  [76-2872]   

撮る造さん、こんばんわ。

>相手を安心させて討ち取るのは日本人の十八番みたいで、

戦国時代には、その手の話がいくつかありますね。

怨念!赤壁の謎を追え
http://ww6.tiki.ne.jp/~viper/b-photo2.ht
ml


血痕が絶えない合元寺の赤い壁
http://daizukan9.blog63.fc2.com/blog-ent
ry-920.html


現在の大分県中津市にある合元寺に伝わる話です。実話でもありますが。
中津市は大分県と福岡県の県境近くにありまして、宇佐神宮で知られる宇佐とは非常に近い距離です。
謀殺されたのが宇都宮氏と城井(きい)氏と出てきて混乱しそうですが、豊前宇都宮氏が城井氏のことなので、同じです。

次は東北のほうへいきます。

九戸城
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E
6%88%B8%E5%9F%8E

>この乱は、秀吉による天下統一の総仕上げとされるが、天下の豊臣軍が攻め倦んだ末に謀略、反故、撫で斬りといった史実は歴史書から抹消されたともいわれる。

九戸城跡
http://www.city.ninohe.iwate.jp/kanko/ku
nohecst/kunohecst.html

2014/2/24 20:11  [76-2873]   

日本の城・封印されたミステリー 黒田 如水

九戸城のほうは「日本の城・封印されたミステリー」という本に載ってました。
中津のほうはお城ではなくお寺さんのほうなので、載ってませんでした。
中津のほうは別の本で知ってました。心霊関係の本だったかな。

黒田孝高
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E
7%94%B0%E5%AD%9D%E9%AB%98

黒田 官兵衛(くろだ かんべえ)、あるいは黒田 如水(くろだ じょすい)としても知られている。

2014/2/25 18:59  [76-2874]   

二条河原の落書
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E
6%9D%A1%E6%B2%B3%E5%8E%9F%E3%81%AE%E8%90
%BD%E6%9B%B8

>88節に渡り、建武の新政当時の混乱する政治・社会を批判、風刺した七五調の文書。

「○○に過ぎ足る物が二つあり、□□に△△」
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/
question_detail/q1311233643

これも最後が七五調にならないと面白くないね。

2014/2/26 20:48  [76-2875]   

>これも最後が七五調にならないと面白くないね。

すみません、間違えました。
こちらは七七調でしたね。

2014/2/26 20:51  [76-2876]   

(神道と儒教)
 東アジアの国では基本的に儒教の影響力が強いですが日本の場合は神道というか古典的信仰のほうが影響していますね。朱子学と言うのも支配者にとっては都合が良いのか広く広まりましたし、現代の中国や韓国、北朝鮮などの指導者の考えの根底にもあるようですが。
(朱子学の背景)
http://www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/nanb
oku/shusigaku.htm


 日本的考え方としては、区切りをつけて一応終らせるというというやり方が多いですね。
 イザナミノミコトが黄泉の国から帰った時に禊をします(古事記)。禊とは簡単に言うと穢れを水で洗い流すと言うことで、喧嘩や揉め事の際、水に流すと言うのもここから来ています。
 選挙で禊が済んだと言うのはちょっと違う気がしますが。

 何かを水に流して区切りを着けると言うのは日本人の特徴的な思考で、ある程度問題をうやむやにしても揉め事を終らせる生活の知恵みたいに使われることも多いです。

 儒教だと臥薪嘗胆の世界で、交渉などで区切りつけたように見えても、恨みは延々と残ります。
(臥薪嘗胆)
http://www.benedict.co.jp/Smalltalk/talk
-84.htm


 日韓基本条約や日中国交回復で禊が済んだと思っていても、相手国や国民はそうは簡単に引き下がれない国民感情もあるのでしょうね。

 まあ韓国、中国それぞれに国内事情や勢力争いがあるので、強気に出ざるを得ないのは事実ですが。
(朱子学の影引きずる朴氏の反日)
http://sankei.jp.msn.com/world/news/1312
05/kor13120503140001-n1.htm
 


 ちなみに日本でも朱子学が入って来ましたが、後醍醐天皇の建武の新政や明治維新の素地になったくらいで中国や朝鮮ほど影響は与えなかったようで、むしろ陽明学のほうが政治的影響力は大きいともいえますが、こちらも明治以降の文明開化とともに忘れ去られています。
(陽明学)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%BD%E
6%98%8E%E5%AD%A6


 日本人は思想的に柔軟なので、こういうかたくなな思想は体質的に合わなかったとも言えますが。
 それにしても言霊とか、怨霊を祀るとか外国人にはわかりにくい考え方で、こういうのも島国ならではなのでしょうね。

2014/2/27 01:46  [76-2877]   

>宇佐神宮で知られる

正確には、宇佐八幡宮になりますかね。

さて、今度は世界史のほうへいってみます。
ドイツのほうですね。

ハーメルンの笛吹き男
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E
3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%81
%AE%E7%AC%9B%E5%90%B9%E3%81%8D%E7%94%B7


歴史を離れて、野球のほうに話を振り替えてみます。
まだ2月ですが、既にオープン戦が始まってます。
セ・リーグは読売巨人軍の連覇が濃厚ですが、巨人軍にちなんだ歴史関係のほうへ話を戻します。

巨人連隊
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A8%E
4%BA%BA%E9%80%A3%E9%9A%8A

>フリードリヒ・ヴィルヘルム時代の近衛連隊であり、ポツダム巨人軍とも呼ばれる。

2014/2/27 13:07  [76-2878]   

(田沼意次の改革)
 高校生の頃習った日本史では幕府の三大改革と言うのも出てきましたが、田沼政治(賄賂云々などは教科書にもあったようですが)については殆ど教わらなかった気がしています。
 最近の教科書では田沼意次もちゃんと改革と評価されているようですね。
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonsh
i/archive/resume022.html


 秀吉に始まり家康になって本格的に石高制となり、米の収穫によって景気や武士の収入が左右されるようになりました。
 米は不作や飢饉では財政が立ち行きませんし、豊作貧乏と言うように取れすぎても価格が下がるし、経済規模も拡大しにくいので安定した経済成長も望めません。
 三大改革なるものも米の収量増やすのが目的ですし、倹約令などデフレ要素込みでは幕府も諸藩もジリ貧になるのも自明の理。
 薩摩藩は調所広郷の密貿易や砂糖専売(借金帳消しもありますが)、長州藩紙や蝋の専売など米以外の収入で経済の立て直しを図ったので倒幕が出来だけの資金も出来たのでしょうね。

 田沼改革は商業と貨幣で収入を増やすと言う下級武士の出ならではの発想が他の改革(正確には〜の治)とは違っていました。この方向で改革が進んでいたら士農工商などとはいえなくなってしまうので、朱子学から来る貴穀賎金という考え方の幕閣からの反対でつぶされてしまいましたが、この方向で言ったなら別の幕府政治になって、その後の方向性も違っていたのかも。

(田沼意次)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E
6%B2%BC%E6%84%8F%E6%AC%A1



 そういえば軍師官兵衛人気出ていませんね。V6だかV8だか知りませんがジャニタレが官兵衛では見たい気も起きませんが。
 

2014/2/27 23:26  [76-2879]   

古代天皇家血の争乱

撮る造さん、こんばんわ。

>高校生の頃習った日本史では

壬申の乱は教えてもらってなかったです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AC%E
7%94%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1

皇位継承権をめぐっての皇族同士の争いですから、当時の文部省では教科書に載せるのはまずいと判断したのでしょう。
今の教科書はどうなってるのか知りませんが。

大化の改新
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E
5%8C%96%E3%81%AE%E6%94%B9%E6%96%B0

>7世紀中〜後半に、大化の改新と同様な改革が行われたことは、比較的見解の一致するところではあるが、その時期を645年よりもっと後に設定するべきであるとの考え方もある。

任那日本府
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%BB%E
9%82%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%BA%9C

この扱いも今の教科書でどうなってるのか、わかりません。

次は江戸時代
鳥居耀蔵
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E
5%B1%85%E8%80%80%E8%94%B5

テレビや漫画で悪役として登場することが多い。
他人からは「ようかい」と呼ばれることも多い。

>そういえば軍師官兵衛人気出ていませんね。

私は大河ドラマは見てません。昔はよく見てましたけど。
というよりも、ここ数年はテレビを見ること自体が少なくなってます。
ただ、話のタネとして大河ドラマのネタを仕入れることはあります。

2014/2/28 19:11  [76-2880]   

http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonsh
i/index.html


■日本史

http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpn
ews/list.cgi


映像の世紀!「日本ニュース」と「意思の勝利」

https://www.youtube.com/watch?v=MV29sgtc
MAc


ワンコインDVDでもみれます。

2014/2/28 23:28  [76-2882]   

大学からの日本史
http://ji-sedai.jp/special/kyokan/post_5
.html

>以前、ウェストファリア条約の話をしてもみんなポカーンとした顔をしているので、「高校で習わなかった?」と聞いてみたら、「うーん、習った気がする……ええと、ああ、1648年だ!」って(笑)

その200年後は革命の時代でした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/1848%E5%B9%
B4%E9%9D%A9%E5%91%BD

2014/3/2 12:27  [76-2884]   

言うニャ先生!質問でぇ〜っす。

ウェストファリア条約は、例の「ケーキを食べればいいのにぃ。ホーホッホッ。」の時代とどのくらいはなれてるんすかぁ?

2014/3/2 13:24  [76-2885]   

先生に質問しりーず

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E
3%82%A414%E4%B8%96_(%E3%83%95%E3%83%A9%E
3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B)


http://www.tsutaya.co.jp/works/10017293.
html


質問@ この波乱万丈な王様の時代と、上記の条約は重なっているのっしょか?

質問A ヴェストファーレン条約 に関わるおもろい人たちの歴史があればおしえてくだしゃい。

質問B この時代背景の入門映画をおしえてくだしゃい。

ざっとぐぐりましたが。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaisunao/sem
inar/12semisi/40osnabrueck.htm

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E
3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%8A%E5%A5
%B3%E7%8E%8B


とかっすがいいっすかね?

2014/3/2 13:49  [76-2886]   

こんばんわ。

けんけんさんの質問ですが、多分答えられないと思います。あしからず。
ただ、関連することだけは書き込んでおきます。

>例の「ケーキを食べればいいのにぃ。ホーホッホッ。」の時代と

これは知らないのですよ。だから、答えようがないです。

ヴェストファーレン条約
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E
3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%95%E3%82
%A1%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E6%9D%A1%
E7%B4%84

ヨーロッパにおける宗教戦争の決着をつけたもの。
「フランス王国はカトリックでありながら戦勝国となった。」とありまして、ここはポイントかなあという気がします。
もしも、フランスがプロテスタントの国だったら、その後の世界史はどうなっていたか、想像もつかんです。
ルイ14世は時代的にもダブっているから、関連性はあるのでしょうね。

17世紀はオランダの世紀とも言われてます。
https://www.google.co.jp/search?q=%E3%82
%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80&rlz=1
C1CHOG_jaJP557JP557&oq=%E3%81%8A%E3%
82%89%E3%82%93%E3%81%A0&aqs=chrome.1
.69i57j0l5.4153j0j7&sourceid=chrome&
amp;espv=210&es_sm=93&ie=UTF-8

ところが、その後がよろしくない。
イギリスに叩かれるわけでして、「出る杭は打たれる。」ってやつですか。

ヴェストファーレン条約を境目にして、カトリックの時代からプロテスタントの時代へと移行していきます。
ただし、これはイギリスやアメリカといったところになりますが。
ドイツはプロテスタントの国だけど、フランスと仲が悪くてね、しょっちゅう戦争やってるような。それで、国力回復に時間がかかる。
その間にイギリスは対岸の火事みたいに見ていて、産業革命が起きるわけですよね。民間資本の充実という要素もありますか。

宗教戦争以前
大航海時代
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E
8%88%AA%E6%B5%B7%E6%99%82%E4%BB%A3

ポルトガルとスペインは日本の戦国時代でもおなじみです。
ポルトガル・スペイン間の条約締結
トルデシリャス条約・サラゴサ条約
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E
3%83%AB%E3%83%87%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83
%A3%E3%82%B9%E6%9D%A1%E7%B4%84

これは植民地の割り振りで、地球をスイカ割りのようにまっぷたつにするようなものでした。
日本はどっちに入るかわからんのですが、どちらも日本を植民地化することだけは諦めたようです。

2014/3/2 19:00  [76-2887]   

ポルトガルにしろスペインにしろ、イスラム帝国の時代がありました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E
3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A0%E5%B8%9D%E5%9B
%BD


そのため、レコンキスタが始まりました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E
3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%82
%BF

十字軍と似ているけど、十字軍とは目的地が違います。
十字軍の目的地は主にエルサレムのほうでした。

この当時は、イスラムのほうが文化的に進んでいて、ヨーロッパの文化は遅れてました。
医学・薬学・数学・航海術などイスラム経由でヨーロッパへ入ったものです。
アルコール・アラビア数字・コーヒーなど。

タラス河畔の戦い
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E
3%83%A9%E3%82%B9%E6%B2%B3%E7%95%94%E3%81
%AE%E6%88%A6%E3%81%84

>中国人の捕虜の中に製紙職人がいたとされ、サマルカンドに製紙工場が開かれてイスラム世界に製紙法が伝わった。
紙の製法もイスラム経由です。

ヨーロッパ史のほうから話をそらします。
ディーゼルエンジン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E
3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%AB%E3%82
%A8%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%B3

歴史のほうを見ると、第一次大戦の時の船舶は蒸気機関とディーゼルが混在していたようです。
潜水艦はさすがに蒸気機関では無理ですよね。
ガソリンエンジンのほうがほんのちょっとだけ、ディーゼルよりも歴史が古いです。

船のエンジン
http://homepage2.nifty.com/go_tokyo/enig
in.htm

2014/3/2 21:58  [76-2888]   

みなさん こんにちは
 花粉症の季節になったので、鼻と目がやられダルいです。

>ウェストファリア条約は、例の「ケーキを食べればいいのにぃ。ホーホッホッ。」の時代とどのくらいはなれてるんすかぁ?
 マリー・アントワネットのことですか?実際に「パンが食べられなければケーキを」とは言ってないようですが。ヴェストファーレン条約より100年ほど後ルイ16世の王妃ですね。
 なおオスカルは実在の人物では無いようですが。
(マリー・アントワネット)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E
3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83
%B3%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%8D%E3%83%83%
E3%83%88


 ルイ14世時代背景の映画というなら「宮廷料理人ヴァテール」がそれに当たるかも。
 ルイ14世を招待した晩餐会の映画で「美味しんぼ」真っ青の料理が出てきますし、こだわりの極致として材料が揃わず満足の行く料理が出来なくなると自殺するといったストーリーでした。
 これは実話でフランソワ・ヴァテールは伝説的な料理人ですね。
(宮廷料理人ヴァテール)
http://cinema.werde.com/new/vatel.html
(フランソワ・ヴァテール)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E
3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%AF%E3%83
%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%86%E3%83%BC%
E3%83%AB


 ヴェストファーレン条約といって思い浮かべるのはアルザス・ロレーヌ地区がフランス領になったことですか。
 この件「最後の授業」という副読本で授業受けたことがあったのを思い出します。  
 普仏戦争でプロイセンに併合される直前のアルザス地方、最後のフランス語授業を教師が行い「フランス万歳」で終るといった話でしたが、なぜこんな話を授業でやるのかは当時疑問に思っていました。今思えば隠れた愛国心教育の一環だったのかも。
(最後の授業Wiki)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E
5%BE%8C%E3%81%AE%E6%8E%88%E6%A5%AD


 なお実際には、当時のアルザスはアルザス語がメインでフランス語は外国が扱いだったので、この話プロパガンダかペテンかと言った話が出て、学校では取り上げなくなったようですが。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/3407
8





 
깄

2014/3/3 14:20  [76-2889]   

皆さん、おはよう。

>質問B この時代背景の入門映画をおしえてくだしゃい。

時代背景が17世紀ではなくて、18世紀の映画です。入門かどうかまではわかりませんがね。

ジェヴォーダンの獣 (映画)
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3
%82%A7%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%
80%E3%83%B3%E3%81%AE%E7%8D%A3_(%E6%98%A0
%E7%94%BB)

ジェヴォーダンの獣
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E
3%82%A7%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83
%80%E3%83%B3%E3%81%AE%E7%8D%A3

2014/3/4 10:37  [76-2890]   


 日本史というのが高校で選択科目と言うのは何となく納得できませんね(これが最大の謎)。
 歴史というと年表やどんな事件があったとか試験用が多く、何故おきたのかと言うのを掘り下げることが少ないですね。歴史がつまらないと言われるゆえんです。

 ペリー来航から明治、大正までの歩みも世界情勢や技術発展など横の絡み取り混ぜて複合的に考えると違った視点で見られるし、理数系や語学系とは違って一種の知的ゲーみたいな考え方も出来るのが面白いところかと思いますが。

 最低限、幕末からの歴史の歩みを知らないと現代日本や中国との関わり、韓国の恨みなどがわからないので、(国民としての常識として)近代史は必須科目にすべきかと思いますが。

2014/3/4 13:40  [76-2891]   

(馬の渡来)
 最後になると思うので、(私のフィールドの)馬の話で。
 大陸と分離前にいたヒラマキウマ(アンキテリウム)など馬の先祖の化石が発見されていますが、馬と言うくくりだと日本にはいなかったようです。
(馬の進化)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E
3%83%9E%E3%81%AE%E9%80%B2%E5%8C%96


(馬の進化と人間との関わり)
http://uma.equinst.go.jp/jiten/equus/cab
allus/1-1-5.htm


 縄文時代から馬がいたという説もかつてはありましたが(貝塚から出土というのが根拠になっていたようでしたが後に否定)、最近の研究では弥生時代に大陸から渡来したというのが定説となっているようです。
 魏志倭人伝でも日本には馬がいなかったと言う記載があるので、いても数は少なかったはず。
 馬の埴輪も5世紀ごろからのようで、この頃にはもう一般的になっていたようです。
 奈良時代から本格的使用が始まり武士階級の出現で活用されます。それ以降のことは良く知られているので改めて述べませんが。

 日本在来馬は、戦前の軍馬育成(サラブレッド)のため殆ど残っていません。対馬馬、トカラ馬、宮古馬、野間馬など数は僅かになっています。このうち野間馬は愛媛県まで取材に行ったことがあります。
 こういうのは文化の問題だと思うので、何とか血を繋げて欲しいものですが。
(日本在来馬)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E
6%9C%AC%E5%9C%A8%E6%9D%A5%E9%A6%AC

http://www.isop.ne.jp/atrui/ushi/03_back
/07_horse/uma-6_3.html


 馬はモンゴルが起源で、大陸から朝鮮半島経由で渡来してきたようですが、(当時の馬は小型ですが、臆病な動物なので)弥生時代当時の船で荒い玄界灘を良く渡ってこられたと思いますね。

2014/3/7 13:17  [76-2892]   

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