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練兵館跡(南門入ってすぐ) 遊就館入り口に零戦が展示されています 97式戦車 本殿

(まずは靖国神社から)
 最近少し太めなのでカロリー消費の為歩くことにしました。やるからには目的を持って歩きたいのでカメラを持って歴史散歩をしてみました。
 まずは桜見物を兼ねて靖国神社に行って見ました。靖国通り側(南口)から入るとすぐ左手に幕末江戸三大道場の一つ、神道無念流錬兵館道場跡地の碑があります。かつて桂小五郎が塾頭を勤め高杉晋作なども通っていた道場です。こんなところにあったのですね。
(三大道場の一つ、千葉周作については秋葉原今昔物語でも少し書いていますが。これら三大道場で学んだ幕末の有名人が一杯います。)
(靖国神社境内案内図)
http://www.yasukuni.or.jp/precincts/map.
html


(幕末三大道場を探せ)これは秋葉原今昔物語でもリンクを紹介しましたが
http://www.aa.alles.or.jp/~kenqbo/sanpo/
sanpo2.htm


(桂小五郎)
http://www.webkohbo.com/info3/katura/kat
ura.html


 靖国神社の参道部分は、幕末時代には幕府陸軍の歩兵屯所ととして使われていたところです。新政府軍が江戸に迫ったときにはかなりの隊員が脱走して役には立たなかったようですが。そこに旧幕軍討伐をした長州の大村益次郎の銅像が建っているのは皮肉ですね。
(幕府組織図)
http://page.freett.com/sukechika/bakuhu/
bakuhu07.html


(大村益次郎)
http://www.webkohbo.com/info3/oomura/oom
ura.html


 靖国神社の中にある遊就館は戦争博物館としてある種異彩を放っています。
(少し日本の戦争に関する解釈が偏っているような表現もありますが)旧日本軍の兵器や資料なども豊富で(特攻関係が多いですが)終戦時阿南陸軍大臣が切腹したときの「一死を以って大罪を謝し奉る」と書かれた有名な血染めの遺書も展示されています。戦争というものを考える上で広島平和記念資料館と並んでここも一度は見ておくのが好いかと思います。

(遊就館)
http://www.yasukuni.jp/~yusyukan/
(陸軍大臣阿南惟幾 遺書)
http://www5f.biglobe.ne.jp/~syake-assi/n
ewpage347.html


 靖国神社に関してはあえて成り立ちなども書いていませんし、意見も言いません。私自身まだ固まっていないせいでもありますが、いろんな考えがあろうかと思いますので。
 次は九段から北の丸公園あたりを歩くつもりです。

(歴史スポットを歩きながら感じたことを書いていくつもりです。皆さんも地元や旅行先で何か見つけたら書き込んでください)



2010/4/9 00:06  [76-103]   

 白の龍さん  
関帝廟 意味無くすがすがしい真言宗 ジャイナ教寺院

神戸 関帝廟 ジャイナ教寺院

関羽は塩の密売に関わっていたとも言われ、蓄財にもたけていたと言う。
そう言った伝承や義に厚いと言うことは、商売に一番必要な信用(約束を守る)を
つかさどると言う意味でも取られた事から商売の神としても知られている。
そのため世界中に華僑が散らばっていったときに、商売が繁盛する様にとその居住区に関帝廟を立てた。

その中の一つ神戸の関帝廟。
神戸は中国の人が多いです。夜は街中を自転車に乗りながら中国語が飛び交います。
後インドの人も多くて、・・・?語が飛び交います。

神戸の歴史物少ないので、なんか観光案内になってしまいましたがww。
東京と比べると歴史は浅いです。



2010/4/9 02:11  [76-104]   

白の龍さんこんばんは
 神戸の関帝廟は去年行きました。(去年は1回の予定がインフルエンザのせいで2回神戸まつりに行く羽目に)それはともかく関帝廟は大阪、京都、長崎、函館など中華街があるところにはありますね。横浜の中華街のはよく行きますが。中国人の心のよりどころなのかも。
(神戸 関帝廟)  
http://www.zhonghua-huiguan.com/kantei/k
antei.html


 ジャイナ教寺院なんてあるのですか。神戸なら湊川神社でもでると思いましたが、あとは 旧外国人居留地ですか。神戸と横浜というのは、どちらも似ているようでだいぶ違いますね
(湊川神社)
http://www.minatogawajinja.or.jp/index2.
html

2010/4/9 03:02  [76-105]   

九段会館 近衛師団司令部 床下の文様(五亡星?) 近衛師団第一連隊の碑

靖国神社の参道を抜け歩道橋をわたると名残の桜見物の人が一杯、歩道橋脇に燈台があります。慰霊の為に靖国神社側に設置されていた燈明台で、明治4年(1871)に建立されたとの記録が。(東京湾からこれが見えたといった記述もありましたが、いくら高台にあるといっても無理だと思いますが)
(常燈明台)
http://tokyojoho.com/23_01/046/

すぐ近くには大山巌、品川弥二郎といった銅像もありますが、それほどの偉人とも思えないのですので省略(一応リンクを下記に)。
(大山巌)
http://www.gtf.tv/blog/?special=entertai
nment&topicid=1005

(品川弥二郎)
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/100.
html


(東京銅像MAP 九段)
http://rekigun.net/original/travel/statu
e/statue-02.html


神保町方面に向かい交差点を右に曲がるとすぐに見えるのが九段会館です。いかにも古めかしいここは戦前には軍人会館と呼ばれ予備役軍人の施設として作られました。二・二六事件ではここに戒厳司令部が置かれ、戦後はGHQ(進駐軍)に接収されていたことも。本来は国有財産ですが法律によって現在日本遺族会に無償で貸出されています。近代史の薫る建物です。
(九段会館)
http://www.kudankaikan.or.jp/

(昭和を歩く 2.26事件)
http://www.tokyo-kurenaidan.com/showa2.h
tm


 更にお堀沿いに歩き、竹橋の交差点を右に折れて国立近代美術館、国立公文書館などを越えて行くとクラシックな建物が見えてきます。(国立近代美術館)工芸館です。
 ここは戦前近衛師団司令部が置かれていた処です。いささか軍隊とは場違いな瀟洒なたたずまいですが、近衛師団とは天皇陛下と宮城の警護の為の軍隊ですからお洒落な外観もそのせいですか。(重要文化財となっています)
 終戦時には、終戦反対派将校に師団長が殺害され、玉音板争奪戦などの行なわれた舞台の一つでもあります「日本のいちばん長い日」という映画が有名ですね。骨太の映画です。
(日本のいちばん長い日)
http://www.j-kinema.com/ichiban-nagaihi.
htm


 中に入ると綺麗な美術品が展示されていて、本当に軍事施設だったというのが信じられません。一度は見るべき歴史的建造物かと思います。展示を見るなら近くの国立近代美術館本館との同時購入での入場券割引もありますのでぜひ。
 すこし気になったのが建物の下の部分の金属装飾です。安倍清明などで有名な五亡星のような文様が(写真)ありました。陰陽師の考えですか、天皇直属の軍隊ですので。
(近衛師団司令部)
http://hix05.com/architect/public/konoe.
html

http://www6.ocn.ne.jp/~akarenga/konoesid
ansireibu.htm


(東京国立近代美術館 工芸館)
http://www.momat.go.jp/CG/introduction.h
tml


 帰りに田安門方面に歩くと日本武道館近くにひっそりと近衛師団第一連隊、第二連隊の碑がありました。
 


2010/4/9 15:00  [76-109]   

明治45年制定の近衛大尉第一種帽 安倍清明判

まず間違いの訂正を、五亡星ではなく五芒星でしたね、失礼しました。
 日本陸軍では星は帽章などに使われていましたが、一般にはいわゆる線で形作る五芒星とは違い内側に線のない五光星(五稜星)ですね。

 明治45年制定の近衛大尉第一種帽帽章などでは上部に五芒星が刺繍してあります(写真)。
 星マークに呪術的なもの(安倍清明判)があるのか、他に理由があるのかはわかりませんが。
 (五芒星WIKI)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E
8%8A%92%E6%98%9F


2010/4/9 21:10  [76-110]   

ブラントンの像 たまくすの樹 日米和親条約締結の碑 象の鼻

本日は横浜に歴史散歩してきました。
 まずは関内駅から港のほうへ、横浜公園の中に。そこにお雇い外国人の一人で、各地に燈台を立て日本燈台の父とも呼ばれ
日本大通りやこの公園をも作ったブラントンの像があります。 目立たないですが、このような人たちの地道な活躍があっての明治以降の発展なのですね。改めて感謝です。
(リャード・ヘンリー・ブラントン)
http://www.k-oka.com/kiminchi.htm

次は横浜開港資料館です。(ここは開港前後からの記録が展示されています。横浜観光の定番)
(横浜開港資料館)
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/

 ここは何度も来ているのでざっと見て(初めての方はじっくりと、と言ってもそんなに時間は掛かりませんが。)
それから目的の庭にある樹を見に行きます。この樹はペリー来航時に艦隊に随行してきた画家ハイネが描いた画の背景に描かれた
「たまくす」の樹です。いわば横浜及び開国に関する歴史の生き証人ともいえます。ぜひ一度ペリーが見たこの樹をあなたも見てください。

 ここのすぐ脇に開港広場があります。ここに日米和親条約の碑があるのをご存知ですか?
 和親条約締結の碑と調印の碑が別にあるというのも珍しいですね。
(日米和親条約調印の碑)
http://hazukimap.sakura.ne.jp/guide/14k/
yokohama/naka/14104S002.htm

 少し海の方に行くと開港時の埠頭が復元されています。象の鼻と呼ばれ、初期にはここが荷揚げの場所だったようです。横浜港はこの小さなところから始まったのだと思うと感慨深いものがありますね。 
http://www.city.yokohama.jp/me/port/gene
ral/zounohana/inf_zou/02.html

2010/4/13 22:18  [76-111]   

英一番館跡の碑 西洋理容発祥の碑 赤い靴はいた女の子 かもめの水兵さんの碑

横浜は街中に碑があります。何がしの発祥の碑が一番多いのもおそらくここでしょう。開国以来いろんなものがここから始まり日本中に広まりました。

 まずは開港広場から通りを渡ったところにあるシルク博物館。ここは絹に関する博物館です(ここも一度は見るべきです)
(シルク博物館)
 http://www.silkmuseum.or.jp/main/goriyou
/


ですが先日人を案内して入ったばかりなので、今回はパス。その前に英一番館の碑があります。
英一番館は開港直後に来日したウィリアム・ケズウイックが貿易を始め、ここでジャーディン・マディソン商会と称していましたがが地元では英一番館と呼ばれていたので、その名が残っています。開国当時すぐに来日とはしかも帆船(!)でとは苦労も多かったでしょうが当時の人はバイタリティにあふれていますね。

 山下公園に入ってみましょう。
 変わった碑がありました、何かと思ったら西洋理容発祥の碑だそうです。髷から西洋理容への移行もここ横浜から始まったのですね。
(西洋理容発祥の碑)
http://www.timeslip-y.jp/china/seiyo.htm
l


 海にのほうに歩くと可愛い女の子の碑が。童謡で有名な「赤い靴はいてた女の子」の碑です。
 この話はご存知ですか?意外に知られていないので紹介すると、「家庭の事情で、親が女の子を育てられず外国人宣教師に預け外国に行くはずでしたが、その女の子きみは日本で結核にかかり亡くなりました。親もそのことは知らずに、娘は外国で幸せに暮らしていると思いながら亡くなった」と言う悲しい話です。女の子が亡くなった麻布十番にも碑があります(親子の碑です)。
(赤い靴の女の子 きみちゃん)
http://jin3.jp/kimi/kimi.html
(野口雨情の詩)
http://jin3.jp/kimi/kashi.html
(麻布十番の碑)
http://www4.ocn.ne.jp/~p10sob/untitled.h
tm13.htm


 童謡の碑がもう一つ氷川丸の近くにあります。
 「かもめの水兵さん」の碑です。この歌は皆さん口ずさんだことがあるでしょう。作詞の竹内俊子さんは「赤い帽子白い帽子」「船頭さん」など日本を代表する作詞家の一人ですね。
(歌詞)
http://www.d-score.com/ar/A02030403.html


(YOUTUBE)
http://www.youtube.com/watch?v=WDSdfj-VZ
Is

2010/4/13 22:40  [76-112]   

領事館のメダリオン 領事館跡 内部 領事館図面

【横浜の続きです。山下公園から港の見える丘公園に移動します】
(フランス山と領事館跡)
 横浜元町近くに港の見える丘公園があります。ここに幕末から明治初期に自国居留民保護を名目としてフランス軍海兵隊が駐留していました。
 
よってフランス山と呼ばれています。逆方向にはイギリス軍が駐留しそこはトワンテ山と呼ばれました。(TWENTY、20連隊の意味)
 明治を迎えフランス軍は撤退しましたが、明治29年そこにフランス領事館が出来ます。フランス人建築家サルダンの設計による瀟洒な建物で、当時の領事の報告書に「極東一の名建築」と言う表記が見られたそうですが関東大震災で完全に崩壊しました。
 その後昭和5年にスイス人の設計で再建されますが、火事にあい焼失しました。
 昭和46年横浜市が現在の「フランス山」部分をフランス政府から購入して港の見える丘公園の一部にしました。

 その歴史的な記念物としてフランス領事館廃墟跡が残されています。また、フランス山側の公園の入り口には領事館のメダリオン(外壁の飾り)がはめられています。(写真)RFはフランス共和国の略称です。
 建物跡を見ると部屋割りなども分かり当時の井戸も残されていますし、当時あった風車も復元されていますので往時をしのぶことが出来ます。

 緑の中の散策や港を一望できる景色などと一緒に、横浜の歴史を偲ぶ散歩はいかがですか。(山下公園側からだと、ちょっと坂のきついところがありますが)

(港の見える丘公園 フランス山)
http://natsuzora.com/may/park/minatonomi
eruoka_france.html

2010/4/16 02:22  [76-113]   

当時の井戸が保存されています ここ関連の年表 フランス軍陣営図

追加の写真です。
当時の井戸

年表(立て看板)

フランス軍陣営図
 の3つです

2010/4/16 02:28  [76-114]   

今回のルート 春日局銅像 慶喜屋敷跡は、現在大学になっています。 慶喜屋敷の通りは今井坂と言います

(春日通りを行く@)

【春日殿町】
 東京都文京区春日、東京ドームに近いこの辺りは春日局が将軍家光から拝領した土地で、昔は春日殿町と呼ばれていました。
 水道橋駅方面から右折、春日通りに入ってすぐの礫川公園には春日局の銅像がありました。
 春日局は明智光秀家臣斉藤利三の娘なのに、大奥に入り将軍長子の乳母になるという異例の出世をしてます。家康の推挙があったとも言われていますが、天海僧正は明智光秀自身ではなかったかとも言われていますので、それが本当ならありえますね。(もしかして信長殺害の黒幕は家康?)

 戦国時代から長男は母親から離して成育するのがあたりまえです。そこで母は次男に愛情を注ぎ長男とは疎遠になっていきます。この辺から来る母や弟とのトラブルは信長にも有りました。
 そこで3代将軍を決めるまえに、世継争いになりかけたところを、老練な家康が長子相続を明快にしたのがこの件の顛末ではなかったのではなかったかと思います。世に言う春日局の上訴などはなかったのでは。
 ただ育てられた家光としては春日局に対し、親以上の愛着があったのとは思えますが。それがこの場所の拝領でしょうね。
(春日局)
http://www.tsukudo.jp/hito-tubone.html

 少し行った辺りが富坂と言う地名です。鳶が多かったので鳶坂、後に富坂。こういうもじるパターン多いですね。
 通りの右手に行けば徳川家の女性が眠る寺、伝通院があります。家康が生母於大の方を葬るために建立された寺で千姫の墓もここにあります。
(伝通院)
http://www.denzuin.or.jp/


【徳川慶喜 終焉の地】
 しかしながら、雨が降ってきたので学芸大附竹早中のところで左折して小道に入り少し行くと国際仏教学大学があります。ここが最後の将軍徳川慶喜屋敷跡(終焉の地)です。
 彼の、倒幕勢力との戦いの中での不可解な行動には理解しがたい点もありますが、光圀の大日本史以降、水戸家に伝わる勤皇の精神が徹底抗戦できなかった理由では無いでしょうか。
 明治になってからは静岡に蟄居しながら、自転車、写真、ミシン(!)など趣味の人となっていたそうです。その後、勝海舟の周旋により明治天皇との和解がなり、晩年は東京ですごし76歳まで生きました。墓は上野寛永寺にあります。

(徳川慶喜)
http://homepage3.nifty.com/mihara/yoshin
obu.htm








2010/4/16 22:09  [76-115]   

富坂の由来(看板) 慶喜屋敷(大学)正門 慶喜終焉の地(看板) 日本橋の文字も彼の手によるものと言われています

写真の追加です。(1スレッド4枚だけでは難しいので)
 
 日本橋の橋銘板も徳川慶喜の筆と言われています。
http://www.geocities.jp/tokyo_ashy/bn-ni
honbashi.html

2010/4/16 22:17  [76-116]   

通りの右側、電信柱脇にひっそりと 切支丹屋敷の碑 新井白石

(切支丹屋敷、シドッティと新井白石)
 徳川慶喜屋敷跡から少し行ったところを右に折れ坂を上ります。更に行くと切支丹坂というところに出ます。この近くにあったのが切支丹屋敷で、今は石碑が残るだけです。

 切支丹屋敷は島原の乱の5年後イタリア宣教師ペトロ・マルクエズらが漂着したときに収容されたのが始まりの施設で長らく使われていませんでした。
 1708年に宣教師ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティが変装して屋久島上陸を果たすも捕らえられました。
 本来ならばすぐに処刑されるところですが、儒学者にして時の権力者だった新井白石が興味を持ち、尋問の上幕府に具申してこの切支丹屋敷に幽閉することとなりました。

新井白石という人物、1.貨幣の改鋳の停止 2.裁判の公正 3.長崎貿易の見直しなど優れた見識を持った有能な政治家であり、単なる儒学者と言うより視野の広い思想家でした。こういう人物が西洋と邂逅したことが後の世に与えた影響は非常に大きかったと思います。

 この後の両者の問答は東洋思想と西洋思想の対話として、後に「西洋紀聞」、「采覧異言」として結実していますので、興味があればお読みになってください。

 白石の西洋理解は優れたものですが、キリスト教については理解を示さず、彼の書籍はいわゆる和魂洋才の雛形を作ったようなものともいえます。

 徳川吉宗が将軍につくと、白石は罷免され彼の政策は殆んど変えられてしまいますが、吉宗自身は彼の能力は認めていたと言われ、「西洋紀聞」も読んでいます。その影響もあって後に洋書の漢訳本を90年ぶりに輸入出来るように解禁したのです。

(新井白石)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~MARUYAMA/tok
ugawa/hakuseki.htm


(西洋紀聞 抜粋)
http://www.geocities.jp/masa_nip/Bunko/s
eiyoo-kibun/seiyoo-kibun.html


(シドッティ上陸記念碑-屋久島)
http://www.komazawa-u.ac.jp/~hagi/shidoc
hi.pdf


切支丹坂は志賀直哉の「自転車」の中にも登場します。

恐ろしかったのは小石川の切支丹坂で、昔、切支丹屋敷が近くにあって、この名があるといふ事は後に知ったが、急ではあるが、それ程長くなく、登るのは兎に角、降りるのはそんなに六ケ(むつか)しくない筈なのが、道幅が一間半程しかなく、しかも両側の屋敷の大木が鬱蒼と繁り、昼でも薄暗い坂で、それに一番困るのは降り切つた所が二間もない丁字路で、車に少し勢がつくと前の人家に飛び込む心配のある事だつた。私は或る日、坂の上の牧野といふ家にテニスをしに行つた帰途、一人でその坂を降りてみた。ブレーキがないから、上体を前に、足を真直ぐ後に延ばし、ペダルが全然動かぬやうにして置いて、上から下まで、ズルズル滑り降りたのである。ひよどり越を自転車でするやうなもので、中心を余程うまくとつてゐないと車を倒して了ふ。坂の登り口と降り口には立札があつて、車の通行を禁じてあつた。然し私は遂に成功し、自転車で切支丹坂を降りたのは恐らく自分だけだらうといふ満足を感じた。(『自転車』)

2010/4/17 17:24  [76-120]   

門から見る乃木邸 全景 殉死の部屋 馬小屋の方が立派といわれたそうです。

(幽霊坂から乃木坂に、悲運の人乃木希典)

 地下鉄千代田線乃木坂駅を出るとすぐ近くに乃木神社と隣接して旧乃木邸があります。

 乃木邸はいかにも謹厳実直な所有者の性格を現したような建物で、無駄なものは無く質実ですがどこか威厳のある様子がうかがわれます。

 庭には水師営の会見に歌われた棗の木の子孫が植えられていますし、乃木元将軍の自刃した部屋もそのままに残されています。中に入ることは出来ませんが命日の9月13日(その前日12日も)には内部の見学も出来るようです。

 乃木希典という人は軍人には向かなかった人のようでね。子供の頃は良く泣くので泣人というあだ名が合ったほどですから。
 運命のいたずらと人脈の関係(長州閥と薩摩閥の割合の関係で第3軍指揮官になってしまう)という不運が重なり旅順要塞の攻略作戦に、参謀にも恵まれず正面突破を繰り返し、多くの死傷者を出した挙句に作戦の成果が上がらず、児玉源太郎に指揮権を渡さざるを得なくなりました。 

 この戦争で多数の死者を出し自ら2人の子供まで失いながら、自らの手では大きな武勲は挙げられず内心は忸怩たる思いだったのでは。

 その後、学習院院長を勤めた後、大正元年9月13日明治天皇の御大葬が宮城を出発する号砲と共に割腹、夫人も後を追いました。
 彼の遺書には、(1)西南戦争において軍旗を奪われたこと(2)すでに衰老で役に立たない、とだけ書いてあったとのことです。敢えて日露戦争について触れなかったのが彼らしい配慮なのでしょうか。

 彼は日露戦争の際、優秀な詩を2つ残しています。これを読むと本来行くべき道を誤ってしまったのかも知れませんが、その不器用で真直ぐ一生懸命な生き様と男の我慢というものを感じさせられ、何か心に痛みを覚えずにはいられません。

(漢詩 金州城城外)
http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/shi4_0
8/jpn170.htm


 元々幽霊坂と呼ばれていた乃木家脇の坂が乃木坂と呼ばれるようになるのは彼の死後、大正9年でした。

(乃木邸)
http://www.dentan.jp/nogi/nogi02.html

(日露戦争)
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kinda
i2/kindai-nitiro1.html


(乃木神社)
http://www.nogijinja.or.jp/yuisho/main.h
tml

2010/4/21 19:55  [76-123]   

東郷元帥 三笠前部より見たところ 艦長寝室 艦長浴室

記念艦三笠(東郷平八郎と日本海海戦)

 日露戦争における陸軍の英雄乃木希典をあげたからには、海軍の東郷平八郎を上げないわけにはいかないでしょう。
 日本にとってこの戦争は大きなひとつの分かれ目でしたね、もし負けていれば今頃はロシアの一部か属国あたりだったかもしれません。
 さらに言えば、いくつかの偶然と幸運によってもたらされた、薄氷を踏むような勝利、奇跡のような成功だったともいえます。

 戦争後半になると陸軍では、弾薬は底を尽いて作戦遂行に支障をきたし、敵が退却しても追撃も出来ないほどだったのですから。
 そんな中でのバルチック艦隊の来襲ですから、これを破らねばすべてが終わりになっていたはずです。
 東郷提督と秋山真之の活躍については「坂の上の雲」などで有名なのであえてここでは書きませんが、秋山真之の「天気晴朗なれど波高し」という言葉はそれ自体1つの詩ですし、Z旗を揚げた時の東郷提督の「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」というのも歴史に残る名文だとだけ申し上げておきます。
 まあそういう話は、下にリンクをしておいたサイトでご覧になってください。

 横須賀は今も昔も軍港の街です。海伝いに歩いてみれば海上自衛隊や米海軍の港が今もあるのが良く見えます。かつて小栗忠順(上野介)がフランスからヴェルニーを呼び製鉄所を作ったのもここ横須賀でした。(後の海軍工廠)
 (今も横須賀ではヴェルニー公園やヴェルニー・小栗祭りにその名を残しています。)
(ヴェルニー公園)
http://www.kanagawaparks.com/yokosuka/ve
rny/index.html


 京浜急行横須賀中央駅を降りて左手に出、歩くこと十数分で三笠公園に着くと東郷元帥の銅像と記念艦三笠が迎えてくれます。売店脇の自販機で500円観覧券を買い、艦内に入ります。
 すぐ目の前に見えるのは後部30センチ主砲、とにかく日本の戦艦で残っているのはこれだけなのですから感動ものですね。側部も大砲、大砲といった感じで、甲板に(対空を除く)可動砲塔だけがある以降のものとは違います。

 内部に入ると各部の部屋が公開されています。(艦長寝室では)来たり来るバルチック艦隊を思いながらまんじりともしなかったのでは、とか(浴室では)風呂に入ってもくつろげなかったのではと、当時の緊張感につい思いを馳せてしまいます。
 周りの平和な風景の中に三笠がなじんでいるのは不思議な気持ちがしますし、いまや日本海海戦も神話のようにおぼろげな感じがします。
 ですが戦いは実際にあり、勝って世界に衝撃を与え、アジアやトルコそして他の植民地にされていた国々の人たちに希望と勇気を与えたのだということを我々日本人は誇りに思って好いのだと思います。(その後の日本の針路については反省や再考しなければならないのは言うまでもありませんが)

 終戦後三笠はソ連の撤去解体要求にあったり、米軍相手のキャバレートーゴーにされていた、ということですが、当時の日本人の気持ちはどうだったのでしょうか、ニミッツ提督など海外からの支援や激励があっただけに考えさせられますね。
 
 ともかく、この艦が復元され現在も残っていることは大変うれしい事です。また、これからも保存して次代に伝えることは我々の責務なのではないでしょうか。

(記念艦三笠公式HP)
http://www.kinenkan-mikasa.or.jp/

(三笠バーチャルツアー)
http://rekigun.net/original/visual/mikas
a/index.html


(日本海海戦)NHK
http://player.video.search.yahoo.co.jp/v
ideo/ed5f7199a7d771b1168c4bfac9af956c


(日本海海戦 戦闘)
http://www.z-flag.jp/suigun/naval/tsushi
ma_war.html


(日本海海戦Wiki)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E
6%9C%AC%E6%B5%B7%E6%B5%B7%E6%88%A6


(記念艦三笠とニミッツ提督)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/nagos
hi/nimitz.htm

2010/4/30 21:04  [76-130]   

艦後部 砲兵ジオラマ(実際の砲と人形) 司令長官公室 内部案内図

追加の写真です。
1.三笠後部、特徴のある外観です。
2.砲兵のジオラマです。命令音声なども流れていました。
3.司令長官公室、ここで作戦会議をやっていたのでしょうか。
4.内部案内図です。

 書き忘れましたが、京浜急行に乗って品川駅から47分ほど、横浜駅から28分程で横須賀中央駅に着きます。
 東京近辺の方(または東京旅行のついでに)ならば、比較的簡単に行けると思いますので、是非日本の進路を拓いたこの記念艦三笠を一度見に行ってみてください。

 なお横須賀線の横須賀駅は三笠からは少し遠い所なのでご注意を、一応申し上げておきますと。

2010/4/30 21:26  [76-131]   

ロケット発祥の碑 ペンシルロケットは、ガラスが曇って良く見えなかった 以前はこのように見えたそうです 碑文

(日本のロケット発祥の碑) 
 中央線西荻窪駅から、青梅街道に突き当たったあたりにそれはありました。今は日産プリンス東京荻窪店となっていますが、当時は富士精密工業(その後プリンス自動車)の敷地の中にひっそり石碑が2つ。
 そのうちの一つの石碑は道行く人も気づかないような場所ですが、石碑に埋め込んだ模型のような小さなロケットが、確かにここが日本ロケットの発祥地であることを示しています。
 ガラスの劣化か傷か、ロケット自体あまり良く見えない状態なので、これは何とかしてほしいなと思いましたが。
(実は日本ロケット発祥の地を主張するのは、他にも秋田県の由利本荘市、千葉県千葉市(ペンシルロケット発射地)、秋水(ロケット戦闘機)関係地など結構ありますが。)

 日本のロケットはたった23cmの小さなロケットの水平(!)飛行から始まりました。開発の中心はかの糸川英夫さんですね。
 彼は東大卒業後、中島飛行機の技師として戦闘機の設計を行っていました。戦後東大に戻り東京大学生産技術研究所内にAVSA研究班という組織を造り、はじめはロケット旅客機の夢を追求することに。
 1955年にペンシルロケットが完成し水平飛行実験が成功、やがて大型化や2段化など発展し、ベビーロケットに発展しその後カッパロケットなど続きました。
(この辺は、下記リンクのペンシルロケット物語を)

 その後文部省宇宙科学研究所(ISAS)と科学技術庁宇宙開発事業団(NASDA)という2つの団体が出来ることで対立、アメリカの介入など混乱時代があり糸川は第一線を去ることになります。
(日本の宇宙開発のいろいろに関してはリンクの日本宇宙開拓史が詳しいので、一読を)

 それはともかく、ペンシルロケットの推進薬は、朝鮮戦争用バズーカ砲弾用黒色火薬がベース、機体のジュラルミンは太平洋戦争時の軍用機材の余り(チ-201)の活用と時代を感じさせるものでした。
 実際に作成に当たったのは碑文にあるように富士精密株式会社でしたが。日産とロケットというCMを見た覚えがありましたが、これが起源だったのですね。
 ロケットの実機は上野の国立科学博物館にも展示してありますので、日本の最初のロケットとその苦労を見に行ってください。

 糸川英夫という方は、かつて一式戦闘機 隼の設計に携わっていたことでも有名ですが、惑星探査機ハヤブサが2005年9月12日にそのイトカワに到達したのには、宇宙を翔けるロマンを感じるといったところでしょうか。

(ロケット発祥の碑)
http://members.jcom.home.ne.jp/nobish/88
4rocket.html


(ペンシルロケット物語)
http://www.jaxa.jp/article/interview/sp1
/index_j.html


(日本宇宙開拓史)
http://www.sf-fantasy.com/magazine/seria
ls/develop/index.shtml


(ハヤブサが捉えたイトカワ)
http://www.isas.jaxa.jp/j/special/2008/h
ayabusa/index.shtml

(動画)
http://www.youtube.com/watch?v=eGM1TBKgS
Cw


(秋田県 ロケット発祥の碑)
http://bqspot.hp.infoseek.co.jp/yurii.ht
ml


(千葉はロケット発祥の地)
http://www.chiba-u.ac.jp/event/pdf/20050
709rocket.pdf

2010/5/4 21:55  [76-132]   

2つの碑の位置関係 中島飛行機発祥の碑 誉 エンジン 「橘花」の元になった、メッサーシュミットMe262

(中島飛行機発祥の碑)
 ロケット発祥の碑の隣に鎮座しているのが中島飛行機発祥の碑です、こちらの方が前にあって目立っていますが。

 中島飛行機の前身は群馬県太田市ですので、本来はそちらになるのかとは思いますが、本格的に航空機生産に入った場所ということなのでしょう。

 荻窪では、武蔵野工場とともに航空機エンジンを作っていたようですね、いわゆる「寿」「栄」「護」「誉」といった漢字一文字のがここの製品です。
 「栄」は海軍の零戦、陸軍では隼などに搭載され大量に生産されていました。「誉」は終戦近くの戦闘機「紫電改」、「疾風」といった名機に搭載された高性能エンジンです。
 「隼」、「疾風」は中島の代表的な機体でもありました。そういえば、ドイツから技術導入を受けわが国初のジェット機「橘花」を作ったのもここでしたね。
 また、零戦といえば三菱ですが、一部の零戦は中島で作られていました。
 中島関係では「疾風」は知覧特攻平和会館に実機がありますが、「隼」など他の機体は国内には無く、スミソニアン博物館など海外にあるのみのようです。

 会社としては、戦後は分割され、富士精密(プリンス→日産)、富士重工などが、今でもある意味その進取のDNAを引き継いでいるのかも。そういえば富士重工では戦後国産初の「T1」ジェット練習機を作っていましたね。
(中島飛行機に関しては下記リンクを)

(中島飛行機物語)
http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/n
akajima/naka-cont.html


(一式戦闘機 隼)
http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/c
l-pln3/TH030.html


(四式戦闘機 疾風)
http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/c
l-pln/FR047.html


(初のジェット機 橘花)
http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/n
akajima/KIKKA/KIKKA.html


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E
8%8A%B1_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)


知覧特攻平和会館
http://www.city.minamikyushu.lg.jp/cgi-b
in/hpViewContent.cgi?pID=20070920195935&
amp;pLang=ja


(T1ジェット練習機)
http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/T
-1/T1.html

2010/5/5 00:13  [76-133]   

日本初飛行の碑 徳川好敏大尉 徳川・日野大尉像 アンリ・ファルマン機

(代々木練兵場 日本初飛行の碑と徳川好敏)代々木公園にて
 「1910年(明治43年)12月19日午前、代々木練兵場(現在、代々木公園)にて陸軍の飛行試験が行われ徳川好敏大尉操縦のアンリファルマン機が高度40m、800m程を飛行した。これが我国最初の飛行である。」
 公式発表的なものを集約するとこうなりますが、その背後にはもろもろの事情や思惑、思いなどが詰まった初飛行でした。

 徳川好敏大尉はその名のとおり、清水徳川家の嫡男であり、さらにいえば水戸徳川家に繋がる名門の血筋でもあります。
 しかしながら父篤守は事業に失敗し、裁判により禁固刑の上財産没収となり「華族の体面を守れず」として爵位を返上する羽目にまで。

 そんな境遇で育った彼はやがて陸軍に入り、工兵科を経てフランスに飛行機操縦留学を命ぜられ、帰任時にアンリ・ファルマン機を持ち帰っています。 
 そしてまだ所沢飛行場が出来上がっていなかった為、当時ドイツに派遣されていた日野熊蔵大尉とともに代々木練兵場にて飛行試験を行うこととなります。

 飛行の概念をどう採るかで評価が分かれるところですが、最初に完全な飛行をしたのが徳川大尉であったのは間違いないようです。(日野大尉については別稿で取り上げます)
 当時、両機ともプロペラが折れたり満身創痍の状態だったようです。(詳しくは下記リンクの徳川・日野大尉の挑戦 代々木初飛行の真相を)
 そんな中、不完全な機体で飛び立てたのは、父の恥辱を晴らし家名を守る一心だったのかも知れません、成功の瞬間の気持ちはいくばくだったのでしょうか。

 陸軍としてもこの威信を賭けたデモンストレーションで、無名の日野大尉より名門徳川大尉の成功を願っていたのは、現場での状況からも容易に見て取れます。

 この後徳川大尉は英雄として扱われ、やがて華族に復帰し男爵位を受ける。そして中将、陸軍航空士官学校長で終戦を迎えることになります。
 終戦後表に出るのは国際航空大学校(現国際航空専門学校)名誉校長としてです、そして1963年に亡くなります。
 日本航空機の黎明期から戦後まで、光の中をを華麗に駆け抜けた貴公子といったところでしょうか。

 「日本初飛行の碑」は代々木公園内の南門に近い所にありますが、ちょっと外れたところにひっそりと建ててあるのでちょっとびっくりしました。

 この稿は数日前に書き終えていましたが、以前秋葉原にあった交通博物館にあったアンリ・ファルマン機の行方が判らないので探してようやく判りましたので(自衛隊入間基地-下記リンク)載せました。
  

(徳川・日野大尉の挑戦 代々木初飛行の真相)
http://www.naa.jp/jp/airport/greenport/2
005_06/07_kouen.pdf#search='
徳川大尉'

(飛行試験使用機)
http://www.h5.dion.ne.jp/~s1868/0002.htm


(自衛隊入間基地 修武台記念館)
http://www.mod.go.jp/asdf/iruma/kouhou/k
inenkan/index.html


(今年は航空100年です)
http://www.mlit.go.jp/koku/koku100_001.h
tml


(アンリ・ファルマンWiki)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E
3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82
%A1%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3


(次回は、第二番目の飛行士 日野熊蔵大尉を紹介します)

2010/5/6 20:10  [76-134]   

碑はこんな感じの看板ひとつです 碑文 日野熊蔵大尉 日野式拳銃

(日本初飛行の光と陰 日野熊蔵)
 地下鉄有楽町線江戸川橋駅3番出口を出て、首都高速5号線沿いに歩くと新宿区西五軒町のはずれに(国産飛行機発祥の碑)という小さな立て看板があります。
 日野熊蔵大尉の設計で林田商会が国産初の飛行機「日野式一号機」を作った場所です。

 日野熊蔵という人の生涯を見ると、飛行士や軍人としてよりもエンジニアとしての側面が大きいように思われます。
 彼は熊本県人吉の出身で熊本英学校を卒業後陸軍に入り、25歳の時に日野式自動拳銃を考案し、陸軍技術審査部員となっています。そしてこの拳銃を孫文革命運動に提供したという話も。

 公式飛行試験は1910年12月19日でしたが12月14日に日野の乗るグラーデ機は陸上から浮遊し、さらに翌日にも同様に、ただ陸軍はこれを成功とは見なさず12月19日の両者成功にいたります。
 徳川大尉が成功した後、前日の転倒でまともな状態でなかったグラーデ機を飛ばしたのは彼の執念なのでしょうか。軍の方針で2番手にさせられた彼の胸中は穏やかではいられなかったのかも。

 この後、徳川大尉が軍の協力を受け飛行機開発を行い介式1号機を作成したのに対し、彼は国産飛行機の開発に私財を投じ日野式一号機、二号機、三号機など作りますがいずれも飛ぶことは叶いませんでした。

 ただ彼は大量の特許を残していますし「じきに単葉機の時代が来る」といった様に時代を見る目は確かだったようですが、華やかな徳川好敏氏の活躍と違いその後は多額の借金を抱え不遇な生涯を送ったとか。

 「日野熊蔵伝」という伝記が出ていますので、興味がある方は是非読んでみてください。
 また、日本工業大学内工業技術博物館に日野式2号機の復元機が展示されています。

(日野熊蔵伝)
http://ksa.axisz.jp/Tosho-30Hino.htm

(日本工業大学工業技術博物館)
http://ksa.axisz.jp/a3319NihonKogyoDaiga
ku.htm


(介式1号機)
http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/Museum/Mus
e214.html
 

(日野式拳銃)
http://homepage3.nifty.com/gun45/hinosyo
usai.htm


http://homepage3.nifty.com/gun45/hinojit
ujyuu.htm


2010/5/6 23:18  [76-135]   

日本考古学発祥の碑 大森貝塚の碑 貝塚 地図

(モース博士と大森貝塚)
 京浜東北線大森駅のホーム中央付近にひとつの碑が建っています。日本考古学発祥の碑です。
 日本考古学の父と称されるモース博士が発見した大森貝塚が日本考古学の嚆矢となりました。
 実際に貝塚の位置は品川区大井ですので、本来大井貝塚と呼ばれるべきなのかも知れませんが、この駅から降りて調査したので大森貝塚なのだそうですが。 
 大森駅北口を大井町方向(右手)に行くとすぐに史跡大森貝塚と彫られた案内板が。そこに入って階段を降りると線路に正対して大森貝塚の碑があります。
 モース博士(Edward Sylvester morse)は汽車の窓から日本初の貝塚を発見したそうですが、この位置なら納得です。

 彼は日本文化の研究家や陶磁器の収集家としても有名ですが、ダーウィンの進化論を日本に広めた人でもあります。ただし縄文人の食人習慣を主張して問題になったこともありました。(この辺はリンクを)

 大森貝塚の碑からさらに少し進むと大森貝塚遺跡庭園があります。ここにはモース博士の像とともに貝塚の一部地層を展示しています。
 庭園を出てさらに道なりに行くと品川歴史館があります。ここには土器などの出土品もあるので、ひとつの散歩コースとしてはお勧めできます。

 なお遺跡庭園を右に曲がると心霊スポットとしても有名な鈴が森刑場跡がありますので、そちら方面がお好みの方はどうぞ。

(大森貝塚)
http://www.st.rim.or.jp/~komatsu/omori.h
tml


(大森貝塚遺跡庭園)
http://www3.ocn.ne.jp/~zeon/machi/kaizuk
a/kaizuka.htm


(モース博士年譜)
http://www.lib.u-tokyo.ac.jp/tenjikai/jo
setsu/2005_01/m_nenpu.html


(モースについて)
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/kwg184
0/morse.html


(品川歴史館)
http://www.city.shinagawa.tokyo.jp/jigyo
/06/historyhp/annai/annai.html

2010/5/13 00:00  [76-136]   

刑場看板 2つの道路に挟まれている場所です 磔台の看板 供養塔

(鈴が森刑場-心霊スポット)
 大森貝塚遺跡庭園の交差点を右に曲がりどこまでも行くと、第一京浜に突き当たります。それを渡って少し川崎方面に歩くと樹木に囲まれた一角があります。ここが鈴が森刑場跡です。
 鈴が森はかつて小塚原刑場、大和田刑場と並び江戸の3大刑場と呼ばれていました。(20万人も処刑されたという話も)
 上方方面から江戸にはいる最初の宿場が品川宿です。その前に鈴が森刑場を通ることとなります。
 おそらく見せしめ的な意味と、江戸に盗賊などを入れない為のこの場所ではなかったのでしょうか。

 丸橋忠弥が最初の処刑人といわれていますが、彼はすでに死んでいたのを、見せしめの為さらに処刑したとも言われています。
 その後も天一坊、八百屋お七などが処刑されています。
 処刑方法は、火炙り、磔、斬首などがあったようで、それぞれを彷彿されるような礎石や看板があり、ちょっと怖い周囲とは違った空気のような場所です。
 あまり長居は無用と考えすぐに立ち去りました。

(鈴が森刑場跡)
http://www2.rosenet.ne.jp/~gate/evmspot0
4.htm

(心霊スポット)
http://www.k4.dion.ne.jp/~sinrei/suzugam
orikeijou1.html


http://www.k4.dion.ne.jp/~sinrei/suzugam
orikeijou2.html


2010/5/13 00:52  [76-137]   

三宮神社 神戸事件発生地の碑 顛末の書かれた看板 当時、備前岡山藩兵が所持していたのと同型の砲

(神戸事件 三宮神社)
 神戸祭りということで神戸まで来ましたので、この地の歴史散歩でも。
 まずは三宮の中心部にある三宮神社が舞台となった事件について。
 神戸事件といってもよく知らない方も多いでしょうが、大政奉還直後、出来立ての明治新政府を震撼させた事件です。

 ことの顛末は、新政府から西宮警備を命ぜられた備前岡山藩の藩兵450名がここ三宮神社付近を通りかかったときに、彼らの前をフランス人水兵2人が横切ったことでした。
 これは武家社会では供割という無礼な行為で、静止の際指揮官の滝善三郎が水兵を槍で刺してしまい、水兵側は拳銃を取り出し、これに対し藩兵は射撃をするという事態に発展しました。
 この事態によって、おりしも終結していた外国艦船から出撃した米、英、仏の軍隊によって神戸は占領状態となってしまいました。

 ことを複雑にしたのは、新政府と幕府側との外交権をめぐっての綱引き状態が背景にあったこと(リンクの神戸事件の背景を参照)でした。
 新政府より派遣された伊藤博文と伊達宗城が、外国公使との折衝を行い、責任者の切腹で自体の収拾を図ることに。

 本来ならば、家老の日置帯刀となるのでしょうが、指揮官の滝善三郎が責任を取って切腹することになります。

 滝は、武家社会の掟通りに行動しただけなのに、謂われの無い罪をかぶり、それでも藩を守る為に従容として腹を切ることになります。
 外国公使が並ぶ中、落ち着いて口上を述べ、それから立派な切腹をしたと言われています。
(アーネスト・サトーの「一外交官の見た明治維新」(岩波文庫)が詳しいです)
 4歳の息子と2歳の娘に心を残して、それでも自らの死を以って藩を守り、ひいては日本を守った武士(もののふ)の心意気には、何か胸を衝かれるものがありますね。

(神戸事件)
http://www2e.biglobe.ne.jp/~fujimoto/oka
yama/koube1.htm


(神戸事件の背景 維新政権の成立と政権承認問題)
http://www.h-web.org/misc/Bizen-Incident
.html


「一外交官の見た明治維新」(岩波文庫)
http://d.hatena.ne.jp/rensan/20080718/12
16754896


(滝善三郎)
http://singetu.ddo.jp/uminaritamazu/taki
_zenzaburou/index.htm

2010/5/18 01:18  [76-138]   

第五福竜丸展示館 展示場 第五福竜丸 死の灰

(第五福竜丸と夢の島)
 東京の地下鉄有楽町線の終点新木場駅、地下鉄を使ってディズニーランドや幕張メッセに行った人にはお馴染みの乗換駅です。
 この駅から北に少し行くと夢の島公園があります。今日はここに展示館がある、第五福竜丸のお話です。
 この船の名を聞くことも少なくなってしまいました。かつては原水爆反対運動の象徴的な船でしたが。

 1954年マグロ漁船第五福竜丸はマーシャル諸島近海でビキニ環礁でアメリカが行なった水爆実験(ブラボー実験)に遭遇し被曝しました。
 真夜中に真昼のような閃光ときのこ雲を見た乗組員達がどれだけ恐怖に震えたのかは想像に難くないでしょう。
 危険水域外であったにも関わらず、大量の放射線を浴びたのは水爆の爆発が、アメリカ軍による核出力想定の3倍近かったのが原因と言われています。
 第五福竜丸は(秘密保持の為に)米軍による攻撃を恐れSOSを発信せずに隠れるように焼津に帰港した。

 帰国後、久保山愛吉さんが放射線症によって死去され、それにより原水爆反対運動が高まりました。
 積んでいたマグロにも大量の放射能が発見され、築地市場の一角などに埋められました。
 アメリカはこの実験による被害は無かったという立場をとり続けていますが、一説によれば当時1000隻ほどが操業していたらしいので実際の被害者はもっと多かったのでは。(被害者となると周囲に差別されるので)言わない人も多かったようです。
 冷戦と言う不幸な時代であったとしても、当時のアメリカの態度や行動にはなにやら怒りを覚えずにはいられません。

 その後、第五福竜丸は日本政府に買い上げられ、東京水産大学の練習船「はやぶさ丸」となります。やがて1967年に廃船処分となり当時ゴミ捨て場だった夢の島14号地に廃棄されることに。それを発見した人たちの運動や新聞報道などがあり、東京都によりここに展示館が出来て今日にいたる、数奇な運命をたどっています。

 この船はある意味、核というものが人々にどんな不幸を呼ぶのかを思い起こさせてくれる大切な存在に思えてなりません。
 この不幸の船が(夢の島と名付けられた)ここにあるのはとても皮肉なことですが、皆さんも機会があれば、是非見に行かれることを望みます。
 
(第五福竜丸)
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/0815
-atmic.htm


http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/
daigofukuruumaru.htm


キャッスル作戦【水爆実験】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E
3%83%A3%E3%83%83%E3%82%B9%E3%83%AB%E4%BD
%9C%E6%88%A6


(第五福竜丸展示館)
http://www.d5f.org/top.htm

2010/5/21 22:55  [76-140]   

赤レンガパークの海側です 後部から見たところ 船首部分 4発エンジン

【北朝鮮不審船(工作船)】
 本日見に行くのは、かつて大きな話題となった北朝鮮工作船です。我々にとって歴史と言うより現在進行中の問題ですが、第二次世界大戦後初めて日本の部隊が交戦を行なったと言う点では歴史的なことなので敢て取り上げました。

 九州南西海域工作船事件をまだ覚えていますか。2001年というからもう9年も経つのですね、月日の経つのは早いものです。
 横浜、桜木町から少し歩くと赤レンガ倉庫(これ自体も100年前の史跡で、今ではショッピングセンターになっています)があります。赤レンガパークに面した海上保安庁横浜海上防災基地の脇に海上保安資料館横浜館として、北朝鮮工作船及び搭載品が展示されています。

(海上保安資料館 横浜館)
http://www.kaiho.mlit.go.jp/03kanku/kouh
ou/jcgm_yokohama/


 北朝鮮による、不法な侵入事件は結構ありますが、交戦状態にまでなったのは初めてでした。しかも自衛隊でなく海上保安庁の巡視船との銃撃戦という点も特異な事件ですね。
 船を実際に見ると、それほど大きいものではありません。特徴的なのは後部ハッチ内に小型漁船風の船を載せているところで、これが内部スペースの殆んどです。

 おそらく、過去に拉致された人たちも、このような船に乗せられて北に向かったのかも。水中スクーターなどもあったので、この船は日本に潜入する目的にも使われたのでしょうが。
 エンジンは1100馬力が4発で其々4つのスクリューを駆動する高速船というのもこの船も目的の特異さを印象付けます。搭載の武器も多種に及び機関砲、無反動砲から自動小銃まで積んでいました。ロケット弾が巡視船に当たらなかったのは幸いでしたね。

 当時対応した巡視船あまみ搭載の目標追尾型遠隔操縦機能(RFS)付き20mm多銃身機関砲というのは、荒れた海でも、あの距離ならまず外さないという説明でした。
 なおこの交戦の教訓によって防弾能力など一部が改良され換装したそうです。

 おそらく覚せい剤の類の密輸だったので、海中投棄してから自爆したのでしょうが。
 自爆と言えば、船自体には大きな爆発痕(穴)が無いようで、海水を引き入れる装置によって沈めたのだろうと言う、説明員の方の話でした。なお工作船乗組員数人はこの間に捕まったり死んだりせずに逃げたのではないかという話もあるようですが。
(説明員の方が数人いて、いろいろ詳しく話してもらいました)

 百聞は一見に如かずともいいますので、横浜に行かれることがあったら、ついでに見ておくのも良いかと思います。
(沖縄基地や韓国哨戒艦問題など、色々防衛関係で考えさせられる事の多いこの頃ですので)

(YouTube 九州南西海域工作船事件)緊迫した事態の推移が分かります
http://www.youtube.com/watch?v=CxU_FtAjQ
x0


(大十管区海上保安本部 不審船事案)
http://www.kaiho.mlit.go.jp/10kanku/hush
insen/index.html


(船の科学館での展示、かつて2003−2004年に行なわれた)
http://www.sfile.org/north-korea/boat.ht
ml

2010/5/25 20:39  [76-142]   

後部ハッチ内 水中スクーター(これはスパイ映画そのもの) 機関砲(こんなものまで) 自爆スイッチ

追加の写真です。
 平和な日本のすぐ近くでこんなことになっているとは。
 感想などもありましたら書き込んでください。

2010/5/25 20:47  [76-143]   

鉄道唱歌の碑(汽車模型みたいのが乗ってます) 鉄道歴史展示室(旧新橋停車場復元) 駅舎玄関遺構 今回買った小冊子、興味深い内容でした

新橋駅の汐留口脇に鉄道唱歌の碑がありました。
 「汽笛一声新橋を、はや我が汽車は離れたり・・・」で始まるように、最初の営業運転はここ新橋(汐留)から横浜(桜木町)まででしたね。この鉄道唱歌何番まであるか何種類あるのかを知っている人は少ないのでは。
 実は各線ごとに、5集334番まであるそうです。全部歌った人はいるのかな。

 汐留と言えば、汐留シオサイトとして近年再開発が行なわれた地区ですが、その一角に旧新橋停車場が復元されて鉄道歴史展示室になっています。(裏に当時の発車地点を示す0哩標識も復元されました)
 いま「正岡子規と明治の鉄道展」が開催されています。中は広くありませんし展示物は少ないですが、2階のビデオ関係展示は面白いものが多かったです。また過去展の冊子も販売されていました。
 中では「ニッポンを見た幕末・明治の外国人」、「首都・東京の形成」の2冊は興味深いものでした。
 新橋や汐留地区に用事のあるときに、ついでに見てくれば好いかと。

(鉄道唱歌)
http://homepage1.nifty.com/gyouseinet/te
tsudou/


(鉄道唱歌Wiki)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E
9%81%93%E5%94%B1%E6%AD%8C


(シオサイト)
http://www.sio-site.or.jp/facility/info.
html?PHPSESSID=7de901ab08f3666241d7be0b3
2c288ea#02


(鉄道歴史展示館)
http://www.ejrcf.or.jp/shinbashi/

http://www.date-navi.com/shiodome/teisya
zyou.html


(東京散歩 新橋付近)
http://itp.ne.jp/contents/mitown/sanpo/2
00712_1.html

2010/5/27 01:08  [76-144]   

鉄道発祥の碑 碑の説明看板 創業当時の横浜 横浜の開業式に向かう明治天皇のお召し列車

当時新橋を出た汽車は終点横浜(場所は桜木町付近)まで行ったのだから、当然鉄道関係の碑があるはずだと思い、探したら駅から関内駅よりに少し行ったところにひっそりとありました。
 以前は桜木町のすぐ脇にあったと聞きましたが、今では気づく人も少ないようです。
 碑の脇にある、文字が薄くなった看板は読みにくいところもあって「明治は遠くなりにけり」と言った所ですかね。
 碑に刻んである、開業当時の横浜駅の画は当時を想像させてくれますが、これだけでは何か淋しいですね。

(日本の鉄道開業)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E
6%9C%AC%E3%81%AE%E9%89%84%E9%81%93%E9%96
%8B%E6%A5%AD


(日本の鉄道の歴史 国土交通省)
http://www.mlit.go.jp/tetudo/nandemo/13_
01.html

2010/5/27 01:28  [76-145]   

 白の龍さん  

なんかドキドキしながら書きます。
書こうかどうか迷いましたが。

北朝鮮の事件の船は写真で見ると凄く生々しいですね。
そこに人がいて、事件があった。と言うのが想像できます。
また撮る造さんの文章が余計にリアルさを感じました。

2010/5/27 02:21  [76-146]   

無反動砲、こんなのが発射されたのですね しきしま 海保の看板船です PLH06 ちくぜん PLH10 だいせん

白の龍さん おはようございます
 実は横浜に住む友人から、「近年無いほど(海保の)巡視船が集まっている」という情報を貰ったので、それの撮影を兼ねて(護衛艦や巡視船など船は絵になるので)工作船を見に行った次第です。

 上の写真で、工作船展示館に横付けされているのが、海上保安庁最強の(フランスからのプルトニウム輸送でも使われた)PLH31「しきしま」です。巡視船としては異例な対空レーダーまで付いています。
 他にも十数隻いました、第七管区の「ちくぜん」、第八管区の「だいせん」などPLH型のがこれほど集まるのは観艦式みたいと思っていたら、船の配置がまるでここの威嚇警備しているようにも見えますが。

 釣りをしている人達もいましたが、目つきが鋭かったりイヤホンなどして、どうやら工作船破壊を警戒しているようですね。

 こういう北朝鮮情勢ですから仕方の無いことでしょうが、この近辺さりげなく準戦時状態のようです。(穿った見方かも知れませんが)

2010/5/27 10:01  [76-147]   

水道橋の碑 この辺ですか(電車の1両目あたり) 碑文 安藤広重「東都名所お茶之水之図」

(水道の橋 神田上水、江戸技術の華)
 中央線に水道橋(すいどうばし)という駅があります。読売ジャイアンツの本拠地東京ドーム、元水戸家上屋敷の小石川後楽園などがある駅ですね。
 なぜ水道と橋という単語が繋がっている地名なのでしょうか。ここは神田川の上を水道(神田上水)の水道橋が架かっていたのです。

 これは当時としては最先端の技術であり、江戸人々にとって信じがたいほど未来的な光景であったようで、安藤広重の「東都名所お茶之水之図」をはじめ色々な画家によって描かれています。

 神田上水の水源は「井の頭池」で場所は現在の井の頭恩賜公園にあたります。そこから延長距離67kmの長い水道で江戸に水を供給していました。
 そのほか玉川上水、青山上水、三田上水、亀有上水、千川上水というものがあり併せて六上水です。このような水道設備は世界最大級と言っても過言では無いでしょう。(ただし下水道は明治時代まで待たなければなりませんが)
 江戸の水道事情は下記の、「江戸の水道」や「水の歴史館」というリンクが分かり易そうなので御一読を。

 水道橋駅から少し御茶ノ水駅よりに(川沿いに)歩くと、懸樋(と言うのだそうです)が実際に架けられていた場所に石碑があります。
 また、近くの順天堂大学裏に本郷給水所公苑があります。ここには発掘された神田上水幹線水路(石樋)の一部が園内に移築復元されています。また隣に東京都水道歴史館もありますので、お近くに行く機会があればこの辺りで江戸時代の知恵を見て感じられるのには最適かと思います。

(江戸の水道)
http://www.viva-edo.com/suidou.html

(水の歴史館)
http://homepage1.nifty.com/shincoo/m092r
ekisi-nihon.html


(本郷給水所公苑)
http://www.geocities.jp/tokyo_saunterer/
a031000.htm


(東京都水道歴史館)
http://www.waterworks.metro.tokyo.jp/wat
er/pp/rekisi/

2010/5/28 23:21  [76-148]   

明治時代に撮られた写真 実際の水道橋の図解 水道橋脇にある銘板 川沿いにある説明版

追加の資料です
 明治に撮られた写真と水道橋の図解、川沿いにあった銘板などの写真です。

2010/5/28 23:39  [76-149]   

日本橋地図 長崎屋のあった辺り 長崎屋跡を示す看板 葛飾北斎 「日本橋本石町長崎屋」

(日本橋その1長崎屋)
 地下鉄半蔵門線と銀座線の連絡地下通路の壁に「熈代勝覧」(きだいしょうらん)という絵巻物(複製)が展示されています。
 本物はベルリン国立アジア美術館にあるそうですが、当時の日本橋界隈の店々や往来する人々の表情まで描かれた優れものですので通ることがあれば一度見ておくのも。(下記リンクを)
 こういうのが海外流出してしまったのはとても残念ですが。

 江戸時代からある老舗がここ日本橋には結構あります。三越(越後屋)をはじめとして茶の山本山、刃物の木屋、果物の千疋屋、村田眼鏡店、佐々木印店(元幕府御印判師)などです。他にも結構ありますが、まさに400年以上繁華街として続いている街ならではですね。

 当時異色の店がこの通りにありました。鎖国状態でも唯一交易を続けていたオランダ、そのオランダ商館長(カピタン)が、年に1度(後年4年に1度)長崎から、将軍に謁見・言上することが通例となっていました。
 その時の定宿として定められたのが長崎屋だったのです。
 その場所は現在、新日本橋駅の入り口脇に立て看板のみがありますが、当時ここに日本の文化人、杉田 玄白、平賀源内、青木昆陽などが集まりオランダ人との交流をしていたそうです。鎖国時代でも国際交流の火は消えていなかったのですね。
 「蘭学事始」の中でオランダ人から渡された知恵の輪を平賀源内があっという間に解いてしまったエピソードなどを読むと、流石だと思わされますね。葛飾北斎もこの長崎屋の風景を描いています、当時の江戸町民にとっては興味津々のことだったようです。


(熈代勝覧)
http://www.muian.com/muian10/10kidaishou
ran.htm


(ルネサンス江戸長崎屋)
http://www.pref.nagasaki.jp/tokyo/hiraka
watyo_vol7.html


(蘭学事始)
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya037
0.html


(江戸時代の国際交流)
http://www.yushodo.co.jp/pinus/56/forum0
3/katagiri/p06.html


(長崎屋源右衛門Wiki)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E
5%B4%8E%E5%B1%8B%E6%BA%90%E5%8F%B3%E8%A1
%9B%E9%96%80

2010/6/5 01:11  [76-150]   

「熈代勝覧」展示場所の駅名を書いていませんでしたね、失礼しました。(半蔵門線、銀座線)三越前です。リンクを載せておきます。(三越日本橋本店地下のあたりです)
 行けない方の為に動画サイトも

(熈代勝覧 三越前に)
http://www.mitsuifudosan.co.jp/corporate
/news/2009/1130/index.html


(熈代勝覧 動画)
http://www.nihonbashi-meikyou.jp/movie/m
ov100202/index.html

2010/6/5 01:37  [76-151]   

一応麒麟像ですが どうやっても麒麟にゃ見えない 麒麟ですが、別に・・・ こちらは、ちゃんと獅子です東京都(市)のマークつき

(日本橋その2 日本橋の麒麟)
 よく見る、よく通る処で、いつも不思議に思っているけど、調べる程ではない事って良くありませんか。

 日本橋を渡るたびに、(橋の中央に塔がありますが)そこに設置されている彫刻の動物は何だろうといつも思っていました。
 龍にしては一寸違いすぎるし西洋のドラゴンみたいでもあるが、そんな物がここに置かれる理由は無いし、といつも不思議に思っていました。橋の両端にある獅子像の方は分かりやすいですが。
 東京都公文書館のホームページを調べてみたら、伝説の聖獣「麒麟」だったのですね。

 ちなみに獅子像が持っているのは東京市の紋章です。この意匠は現在まで使われています。
 しかしながら、麒麟像はどう見ても西洋のドラゴンにしか見えないので、帰ってからネットで調べてみました。

 明治44(1911)年に完成したこの橋の欄干装飾を手がけたのは、明治天皇騎馬像(旧多摩聖蹟記念館)などで有名な彫刻家渡辺 長男(わたなべ おさお)でした。
 橋の表示看板ではでは「麒麟は東京市の繁栄を、獅子は守護を」意味するとありました。麒麟に本来無い羽をつけたのは道路の起点である日本橋から羽ばたくという公式見解のようですが。

 しかしながら麒麟にはどうしても見えないこの像に、疑問を持った人は結構いたようで(「ロンドン歩けば・・」林丈二)という本でもロンドンの橋とのデザインの類似性を描かれています。
 またこの本を読んで実際にロンドンに行き、指摘のホルボーン高架橋を見た方のブログもリンクしておきます。

 結論としてパクったのか、ドラゴンの方が似合うのでそ知らぬ顔で「これは麒麟です」と言ったかどちらかでは無いでしょうか、羽云々も後からつけた理屈のようですね。

 こんなことでも調べてみると、案外面白そうな話題が見つかるものですね。

(ロンドン歩けば)この本はあいにく手に入らなかったので、後で神田神保町(古書の街です)で探しに行くつもりですが
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?ref
ShinCode=0100000000000030974411&Acti
on_id=121&Sza_id=F3


(ロンドン雑学講座)ホルボーン高架橋と日本橋
http://ameblo.jp/his-london/entry-102548
47592.html#main


(日本橋の改築と麒麟像ー東京都公文書館)
http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/
archives/0717nihonbashi.htm


(渡辺 長男Wiki)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E
8%BE%BA%E9%95%B7%E7%94%B7




2010/6/5 17:37  [76-152]   

憲政記念館(国会側のここが入り口) 水準原点標庫 表示板 建物についての説明板

(日本水準原点)
 「もののはじまりが一ならば、国の始まりは大和の国・・・」は寅さんの啖呵売りの口上ですが、土地などを測るには基準となる原点が必要です。
 領土、領海はいうに及ばず、小さな土地一つでも、基準となる座標がなければ測量しようが無いですね。

 まずは日本の測量の原点の一つ、高さや標高の基準となる日本水準原点を紹介しておきます。これは国会議事堂の前にある憲政記念館の庭にひっそりとありました。

 本来、水準点の基準は平均水面によって計算されますが地上に基準が無いと実際の水準測量が出来ないので、ここの場所に原点標が収められ頑丈な造りの建物によって守られています。
(ちなみにこの場所の原点標は東京湾平均海面上24.4140mとなっています、関東大震災前は24.500mだったのですが)

 ここに行かれる場合は、地下鉄有楽町線の永田町駅からだと2番出口から国会図書館方面に歩き、図書館を越えて通りを渡ったところが憲政記念館です。そこを右に折れ、国会のところを左折して少し行くと庭園の入り口があり、すぐに建物(原点標庫)が見えます。
 実際のところ、見たからといってどうこうと言うことも無いものですが、原点標庫は明治時代の近代洋式建築の代表的なものみたいなので話の種ぐらいにはなるかと思いますが。

 また、憲政記念館は国会や議会政治に関する展示をしていますので、興味があるか暇でしたら中をご覧になるのも。
 またこの地は、かの加藤清正、井伊直弼などの屋敷跡でもありますしその面影を残す庭の散歩なども良いのでは。
 
(国土地理院 日本水準原点)
http://www.gsi.go.jp/kanto/ki8bsuigenten
.html


(日本水準原点)
http://masuda91.hp.infoseek.co.jp/page02
c.html


(憲政記念館)
http://www.shugiin.go.jp/itdb_annai.nsf/
html/statics/kensei/kensei.htm


(測量 YAHOO百科事典)
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%B8%AC%
E9%87%8F/

2010/6/7 20:06  [76-153]   

撮る造 さん  

2010/6/7 20:32  [76-154]  削除

ロシア大使館のわき道を行く 右手奥側(突き当りはアフガン大使館) こんな感じです 原点標の場所

(日本経緯度原点)
 次に、もう一つの測量の基準である日本経緯度原点はどこにあるかというと東京都麻布台にありました。ロシア大使館の脇道を入り突き当たりはアフガニスタン大使館という場所で、この辺りの警備が厳重なのも判るような気が。 
 この通りにある麻布台ビルは、私が最初に就いた仕事で数年働いていた場所だったので、当時の思い出と感慨をもってここを歩きました。当時こんな原点があったのは知りませんでしたが。

 もし行かれる場合は地下鉄日比谷線神谷町駅から(2番出口)右に歩けば飯倉の交差点で右手にロシア大使館の警備ボックスが見えますのでその小道を真直ぐ行けばアフガン大使館の右手前です。
 こちらはとり立てて見に行くのをお奨めする要素もないですし殺風景な場所なので、特に興味があったら見に行くか東京タワー見物(数年後にはスカイツリーに役目を奪われるので)のついでなら。

 測量と言えば、三角測量に不可欠な点の記を山上に造る苦難を描いた「剱岳 点の記」という映画(原作は新田次郎)が有りましたね。

(国土地理院 日本経緯度原点)
http://www.gsi.go.jp/kanto/ki8cgenten.ht
ml


(日本経緯度原点)
http://www.h2.dion.ne.jp/~kazuf/sao/135e
/keiidogenten.htm


(日本測量協会 「剱岳 点の記」コーナー)
http://www.jsurvey.jp/tsurugidake/index.
htm

(映画「剱岳 点の記」)
http://www.tsurugidake.jp/


2010/6/7 20:46  [76-155]   

 白の龍さん  

今更ながら第5福竜丸についてですが。
ベンシャーンの絵を思い出します。

それでも 無線で「助けてくれ」とたのむと なにをされるか わからない
もっとひどいめに あわされてしまうかもしれないのだ
水爆という 見てはいけなかった秘密を 見たのだから

これは風化するのでしょうか。
最後にはワールドウオーセカンドのように何かの勝利への、また敗北への、
歴史の教科書の一部のお話になってしまうのでしょうか。

麒麟の彫像は実は映画 帝都物語 で知りました。
映画はあれですが^^;
見れば見るほど不思議なものですね。
渡辺おさお氏の塑像等をみましたが、何ともドラマチックな作りが多いですね。

それから、尼崎の九州産業大学フォトコンテストですが、面白かったです。
大きいコンテストだったんですね。

赤いはんてん だったかな5連作。
おばあちゃんが亡くなるまでの連作ですがおばあちゃんの生き方まで見えて感動しました。

コソボ虐殺の連作もありました。良い写真は伝える力が大きいなあと思いました。
あまり良い事言えませんですいません。

後、上野彦馬の写真をずっと展示してました。
坂本竜馬、明治天皇、後当時の風俗や神戸東京の写真もありました。
浮世絵を見てるみたい・・・・。

今度は芦屋カメラクラブの展示を見てきたいと思います。

最近デジ1流行りですが、なにより大事なのは伝えたいと言う気持ちなんでしょうかね。
撮る造さんの写真は人に伝えたいと言うのが伝わると言うか、その中にすーと入り込めますね。
だから生々しいと言うか。その時の気持ちが伝わってきます。
ほぼカメラ初心者が偉そうに言ってすいません。。。。

後東京のサブガイドブックになりつつあって地方の人間にはとても面白いです。

2010/6/8 02:47  [76-156]   

第五福竜丸艦橋、あの日どんな恐怖が 工作船の無反動砲、こういうのも実物を見ると現実感が

白の龍さん こんにちは
 いつも読んでいただき有難うございます。
 
 正直、ここでの写真に関しては褒められる要素は無いと思っています。何せ白昼観光地でもないところを一眼レフなどでバシャバシャと撮っていると、怪しいおっさんと思われるようで、職務質問や誰何されたりし勝ちですので最近ではコンパクトデジカメで(写真のExifデータを見ればお分かりでしょうが)さっと撮ってその場を離れるのが日常になっています。(何せ今は会社等の所属も無いし、公的な証明書を持ち歩いているわけでもないので面倒は避けたいので)
 当然フルオートですし、出来のほうは適当です。館内などで取るときには一眼レフで無いと(対象物が大きいことがあるので)広角が足りませんが。

 それにしても、昨今の撮影環境は最悪ですね。単なる風景撮影でもフレームに通行人を入れない様にしないとその場で文句を言われたり、後でその部分を加工しなければ投稿も出来ないので、権利やプライバシーなど難しいご時世になったものです。

 仕事に追われていると目に入らなかった色々なことが最近漸く判ってきています。多少視野が広くなったのか道端の花が綺麗だったこと、一寸した街のなかの小さな不思議なども発見して楽しめるようになっている自分に気付いて多少驚いています。

 このスレッドは読んだ方に、私自身が興味をもったリンク先を読んで欲しい、そしてもし興味を持ったなら実際にその場所を見に行って欲しい、というのが本来の趣旨です。ですから私の下手な写真や短すぎる文章は単なる導入部に過ぎないのですが。
 まあ、ある種(行列の出来ない)東京裏ガイドブックになってもいますが。

 第五福竜丸や北朝鮮工作船を実際に見ると現実の重みというものに圧倒されてしまいます。戦艦三笠や乃木邸を見れば脳裏にそこに生きた人々の姿が生々しく浮かんできますし、歴史に起きた現場というものは実際にその場を見るという事が、他の全てに勝るのではと最近思って来ています。
 
 デジカメばかりではなく、カメラ棚の昔のカメラ達もたまには使わないと(古いだけに)シャッターに問題が出ますしレンズにカビが生えそうなので、たまにはまともな写真も撮りに行きたいと思います。
 昔の銀塩カメラだと、露出は頭が要りますし(露出計はもう壊れているか付いていないのも多いので)現像するまで判らないのでドキドキすること、何よりも36枚撮りまでしかないのでフィルムを一枚一枚丁寧に撮ることが(写真を撮っているという実感がわくので)いいですね。
 私の場合、クラシックカメラコレクターとしての姿がメインです。広報誌のカメラマンをやらされていたこともありますが、腕のほうはそれなりですので。

2010/6/8 10:33  [76-157]   

元標の広場 記念碑 元標(複製)の嵌めこまれた石碑 元標本体(橋の真ん中です)

(日本道路元標)
 (NHKのブラタモリでもやっていたので見ていた人もいるでしょうが)このところ2回ほど基準となる場所について書いているので、ついでに日本橋(橋)の中央にある道路元票についても書いておきましょう。
 道路元票というものは元々各市町村の距離を測るために旧道路法施行令で制定されたもので、現在ではこれ自体の意味はなくなっています。
 更に日本道路元標というのも現行法的にはなにか変で意味も無いようなのですが、一応ここが五街道の基点であることは間違いないので記念碑的にここに置かれているのでしょう。

 橋のたもと(三越側)に「元標の広場」という場所があり記念碑と元標(複製)の嵌め込まれた石が置いてあります。
 元標本体は(ブラタモリ日本橋編を見た人はお分かりでしょうが)橋の真ん中、道路の中央という通常行けない場所です。
 丁度日本橋迄乗せて貰った車が混雑の為、近くで停止したので車上からこれが撮れましたので一応載せておきます。
 
(道路元標について)
http://www.hrr.mlit.go.jp/niikoku/oshiet
e/kokudo4.html


(現在の道路元標の状況を調べている方もいます)
http://tenbou.travel.coocan.jp/douro/gen
pyo.htm


(道路元標写真館)各地の道路元標の写真集
http://benchmark.ifdef.jp/


(東京考察)橋の中の元標位置が判る写真が載っています
http://www.f-banchan.net/tokyo/nihonbash
i/nihonbashi.htm


(ブラタモリ 日本橋)
http://www.nhk.or.jp/buratamori/broadcas
t/vol007.html


(中央区観光協会)
http://www.chuo-kanko.or.jp/guide/spot/n
ihonbashi/nihonbashi_13.html

2010/6/10 00:00  [76-158]   

撮る造 さん  

2010/6/11 23:59  [76-159]  削除

今回の場所 築地居留地(首都・東京の形成)新橋停車場のスレで紹介 アメリカ公使館の石標 トイスラー記念館

(築地居留地跡1)

 地下鉄有楽町線新富町駅から出て(5,6,7番出口)新大橋通りを築地方面に行くと左手に公園が見えます。この築地川公園も明治初期に作られた築地外国人居留地の跡地です。(入り口に居留地跡の看板がありました)
 この居留地は1869年といいますから、明治維新直後ですね。ここは他の神戸や横浜と違うのは貿易の為ではなく、交易よりもむしろ外交やキリスト教布教の基地的な意味が大きがったようです。

 すぐ近くに聖路加看護大学があります。ここは知られざる史跡スポットで芥川龍之介生誕地の看板や浅野内匠頭邸跡の碑などもあります。校庭に入ればアメリカ公使館跡の石標や昭和初期の歴史的建造物であるトイスラー記念館などもあります。 
 アメリカ公使館は明治8年から23年までここ築地居留地に置かれました。そこの石標がトイスラー記念館前に3個展示されています。 

 この地区には各宗派の教会が進出し、そのせいで後に日本を代表する大学(立教、青山学院、明治学院など)がここでミッションスクールとして発足しています。その記念碑が居留地跡のあちこちにありますが、この構内には通りに面している女子学院の碑と奥側の庭にある立教学院の碑があります。

(築地の米国公使館ー中央区)
http://www.e-navilife.com/chuo/story/09/

11/index.html

(米国大使館の歴史)
http://aboutusa.japan.usembassy.gov/j/ju

saj-usj-embassy.html

(トイスラー記念館)
http://www.ee-tokyo.com/kenzoubutsu/seir

oka-byouin/kinenkan.html

(聖路加看護大學)
http://www.slcn.ac.jp/guidance/guide.htm
l


(築地居留地関係は高価な本が多いですがこのシリーズは安いです)
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%92z
%92n%8B%8F%97%AF%92n%8C%A4%8B%86%89%EF/p
list.html


2010/6/12 00:04  [76-160]   

撮る造 さん  

2010/6/12 00:09  [76-161]  削除

築地居留地に開校した学校 アメリカ公使館石標の説明 立教学院の碑 女子学院発祥の碑

まず、上記レスのリンクの部分の内、3つが繋がらないので書き直します。

(築地の米国公使館ー中央区)
http://www.e-navilife.com/chuo/story/09/
11/index.html


(米国大使館の歴史)
http://aboutusa.japan.usembassy.gov/j/ju
saj-usj-embassy.html


(トイスラー記念館)
http://www.ee-tokyo.com/kenzoubutsu/seir
oka-byouin/kinenkan.html


立教学院はウイリアム主教がここで始めました。自分の母校のリンクは載せないといけませんね。

(立教学院)
http://www.rikkyo.ac.jp/aboutus/philosop
hy/spirit/history/


(女子学院)
http://www.joshigakuin.ed.jp/jg_enkaku01
.htm





2010/6/12 00:22  [76-162]   

蘭学の碑と慶応義塾の碑 慶応義塾の碑 蘭学の泉はここに 解体新書

(築地居留地2)
 聖路加看護大学の奥の出口から出るとすぐに見えるのが、慶応義塾発祥の碑と蘭学発祥の碑の並んだ場所です(丁度立教の碑とは道路を挟んで対角にあります)。
 慶応は安政5年(1858)福沢諭吉がここにあった中津藩奥平家の中屋敷に造った蘭学塾が元だそうです。
 もう一つの「蘭学の泉はここに」と書かれたもう一つの碑は明和8年(1771年)、前野良沢が杉田玄白らとこの中屋敷で、「ターヘル・アナトミア」の翻訳(解体新書)を始めたことを記念した碑です。(どちらも居留地時代以前ですね)


(慶応義塾の起源)
http://www.keio.ac.jp/ja/contents/mamehy
akka/4.html


(解体新書)
http://www.lib.nakamura-u.ac.jp/yogaku/k
aitai/head.htm


(蘭学に泉 中津に湧く)
http://www.coara.or.jp/~gensin/director/
009.html

2010/6/12 00:34  [76-163]   

ヘンリー・フォールズ住居跡の碑 明治学院発祥の碑 青山学院記念の碑 築地鳥瞰図

(築地居留地跡3)
 
 更に海側に歩くと通りを挟んで聖路加国際病院と聖路加ガーデンがあります。ここにも居留地跡の看板が出ていました。公園のは中央区観光課、こちらは同区教育委員会のです。この辺はまさに縦割り行政ですね。
 通りを渡ると聖路加ガーデン前の植え込みに何か石碑がありました。
 ヘンリー・フォールズ住居跡と刻まれています。彼の名は以前紹介したモース博士の大森貝塚発掘の際に協力者としても載っていました。かれは築地病院(聖路加病院の前身)で治療や教育に携わるかたわら指紋の研究を行い、それを英国ネーチャー誌に発表して指紋による個人識別という分野を世に知らしめしました。
 後にこの研究は犯罪捜査に役立つことになったので、ここに碑が建てられたようです。(興味があれば下記リンクの書籍を読んでください)

 少し佃大橋側に歩くと、2つ石碑が建っています。一つは明治学院発祥の碑です。よく間違える人がいますが、ここは東京六大学の明治大学とは関係ありません。
 明治学院は3派のキリスト教教会が合同で建てた学校、東京一致神学校とヘボン塾が元になっています(沿革については下記明治学院のリンクを)。この学校は赤レンガ造りの瀟洒な建物だったといわれています。

 もう一つの碑は青山学院記念の碑と刻まれています。頭初は海岸女学校としてここで発足したようですね(これも下記の沿革があるので割愛)。

 築地は明暦の大火によって大量に出た残骸(だけでは無いようですが)を使って埋め立てた場所だそうですが、明石町辺りは江戸初期からの町で、町名の由来は江戸時代に播州(兵庫県)明石の漁師がこの地に移住したためとも、風景が明石浦に似ていたためともいわれています。
 明治22年に条約改正が成ると1899年治外法権撤廃で居留地はなくなりました。築地近辺は地盤が悪い為関東大震災では被害が大きかったようです。それがこの辺りに古い建物が残っていない理由の一つかもしれませんね。


(ヘンリー・フォールズ 中央区観光協会)
http://www.chuo-kanko.or.jp/knowledge/pe
rson/person_06.html


(指紋を発見した男―ヘンリー・フォールズと犯罪科学捜査の夜明け)
http://item.excite.co.jp/detail/ASIN_407
2412589


(青山学院大学)
http://www.aoyamagakuin.jp/introduction/
history/history_02.html


(明治学院大学 沿革)
http://www.meijigakuin.ac.jp/guide/histo
ry8.html

2010/6/12 16:47  [76-164]   

銀座築地地区の測量図 当時の学校の写真 青山学院の碑文 聖路加前の看板

追加の写真、資料です。
1.銀座築地地区の測量図
2.当時の学校の写真
3.青山学院の碑文
4.聖路加前の看板

 一つ訂正です。前レスの条約改正は明治32年(1899年)でした。

(誤)明治22年に条約改正が成ると1899年治外法権撤廃で居留地はなくなりました。
(正)明治32年(1899年)に条約改正が成ると治外法権撤廃で居留地はなくなりました。

2010/6/12 17:11  [76-165]   

キャンパスの中にあります 艦橋部 前面から見たところ 当時の新聞の画

(重要文化財 明治丸 越中島)
 今日は海の日だったので、海の日の起源となった船をたずねてみました。
 海の日は明治9年、明治天皇が東北、北海道御巡幸されたときに函館から横浜港に、海路帰着された日(7月20日)を基としています。
(現在は日付ではなくなってますが)
 その際に乗船したのが、この明治丸です。本来の業務は燈台巡視船でしたが、当時新鋭艦船は少なかったのでいろんな場面にも登場しています。(詳しくはリンクを)
 現在は東京海洋大学で補修復元工事中です。(公式には公開していませんがキャンパスの中の芝生にあるので見ることは出来ます)
(明治丸)
http://www.e.kaiyodai.ac.jp/facilities/m
eiji/index.htm


(明治丸Wiki)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E
6%B2%BB%E4%B8%B8


(明治丸ー内部写真も)
http://homepage1.nifty.com/masay/shosen/
page1.htm



 まだ復元途中という事でで船内には入れませんでしたが、大学構内にある芝生の上に白い船体があるのはなかなかシュールですね。結構レトロかつモダンな感じがして、いかにも明治時代といった感じがしました。
 東京海洋大学には門前仲町から清澄通りを歩くか、JP京葉線越中島駅が近いです。
(復元が終わってからゆっくり見に行くのでもいいですが)

(アクセスマップ)
http://www.e.kaiyodai.ac.jp/facilities/m
eiji/info.htm

2010/7/19 19:50  [76-191]   

本所松坂町公園(公園というより記念の地) 戦って死んだ家臣の碑 上野介首洗いの井戸 説明の立て札

JR両国駅から京葉道路を渡ってさらに少し行くと、。小さな本所松坂町公園があります。
 ここは忠臣蔵で有名な旧吉良上野介の屋敷跡です。本来はもっと広大な屋敷(約2500坪)でしたが、戦前地元の有志がその一部を区に寄付して公園となったものです。
 公園といっても近くの両国公園のようなものと違い、吉良家の供養と現場の記念碑的な意味合いが大きいです。
 中に入ると、吉良上野介を祀った上野稲荷、石碑、ここで戦って倒れた家臣の碑や上野介の首洗いの井戸などが残されています。

 吉良家襲撃の際、上野介の養子である左兵衛義周がいたことは、映画やTVドラマなどでも取り上げられず、それほど知られていませんね。
 義周は上杉綱憲の息子ですから、上野介の孫に当たります。 吉良家の跡取りが病死して孫に当たる彼が思わぬ吉良家相続となったわけですが、このせいでこの後とんだ貧乏くじを引く事になってしまいます。

 彼は勇敢な男だったようで、17歳ながら赤穂浪士襲撃の際には薙刀を振るって戦い、不破数右衛門に斬られて重症を負っています。(生き残ったのは、止めを刺されなかったという説と逃げ延びたという説があります)
(吉良左兵衛義周は誰と戦ったのか?)
http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/gisi
news07/news233.htm


 そして父を殺されたながら生き残ったことで、義周の当日の対応は「仕形不届」として藩は改易処分、本人は信濃諏訪藩にお預けの身になりました。
 幽閉された高島城では、髭が伸びても剃刀の使用を禁じられ、鋏で切らざるを得ないなど不自由は多かったようです。
 もともと体は弱かったようで、やがて病に倒れて寝たきりになり、2年後には失意のまま亡くなってしまいました。
 運の悪い人というのも多いですが、この方もまたその典型のような人ですね。

(本所松坂町公園)
http://www.jalan.net/ou/oup2000/ouw2001.
do?spotId=13107ah3330043782


(吉良上野介義央)
http://oniheru.fc2web.com/jinbutsu/kira_
yoshinaka.htm

2010/7/28 20:31  [76-236]   

勝海舟生誕の碑(両国公園) 洗足軒(勝海舟別邸跡)現在中学校 勝夫妻のお墓(公園の中にあります) 西郷隆盛留魂祠

(勝海舟生誕の地)
 上記のレスに書いた本所松坂町公園から両国駅よりにちょっと歩くと両国公園です。
 この公園の端にひっそりと勝海舟生誕の地の碑があります。

 勝海舟の曽祖父である銀一は盲目の検校として高利貸を営みその利益を上げ、その子銀一の代に御家人株を買います。これが男谷家です。
 その3男であった小吉は勝家に養子に出されます。そして海舟は文政6年(1823年)、ここ本所に旗本勝小吉の長男として生まれました。
 幕末の剣豪として知られる男谷精一郎はいとこという事になります。

 この人の業績についてはあまりにも有名なのであえて言う必要は無いと思いますが、佐久間象山を初めとして運命の糸を手繰るように人脈が広がっていったこと、そしてそれら知己を得た人々の信頼を獲得した人間力は凄いとという一言ですね。
 また幕府に出仕するきっかけと成った海防意見書を皮切りに、司司での見事な才能の発揮や、刻々変動する状況に対し的確に決断した能力など日本史の中でも稀有な存在の一人なのかもしれません。

 (幕府というより、日本という観点から外国の介入をさせないため)東征軍の江戸城総攻撃を防ぎ見事な負け方をしてみせたのが一番の功績ですね。(しかもこの際、イギリス公使を使った東征軍への恫喝までさせるとは!)
 勝つことより、見事に負けてみせる方が(一見不名誉みたいでも)実際には大変です。大局的な判断や果断な決定を必要としますし、何よりも反対を抑え無事終了させるには敵味方問わずに信頼される器量が何よりも必要ですから。

(勝海舟終焉の場所)
 彼は幕府終焉後、暫くは静岡に蟄居しましたが、やがて明治政府に仕えました。これは徳川慶喜の赦免や旧幕臣の救済に役立てる為とも言われ、退職後はむしろ政府批判が中心でした。

 晩年は赤坂氷川神社の裏手に住み、別邸(現在大田区立大森第六中学校)が大田区の洗足池近くにありました。勝夫妻の墓所は洗足池公園にありますが、寺ではなく公園の一角にあるというのは彼らしいのかもしれませんね。
 墓の隣に、勝が西郷隆盛を悼んで立てた西郷隆盛留魂祠があります。かつて別の寺に建立したものですが、その寺の移動に伴いここに移されたそうです。

 勝と西郷はここにあった洗足の別邸で日本の将来について語り合ったと伝えられていますが、二人は心の奥底のどこかに共鳴する部分があったのかも知れませんね。

 一度明治維新に際し、江戸と日本の混乱を救った英雄にお御参りしてみてはいかがですか。洗足池自体も綺麗な公園ですし、鯉や亀、鴨などいて写真撮影にも良いのんびり出来る場所なので一度散歩して見てはどうでしょう。

(勝海舟 生誕の地)
http://machimegu.jp/spots/5

(勝海舟 氷川邸跡 柱に表記があるだけです)
http://bangai.atukan.com/katsukaishu/kat
sukaishu.html


(洗足池公園)
http://www.asahi-net.or.jp/~uu2n-mnt/kyu
seki/senzoku.html

2010/7/30 23:18  [76-237]   

私の住む住宅街の一角に・・・怖っ

撮る造さん、こんにちは \(^o^)/

私の実験スレに参加して頂き、ありがとうございました m(__)m
なるほど、自分の縁側を告知するという使い方もあったのですね。
釣られて、お邪魔しました (^_^;)

ただ私はカメラを持っていないし、その趣味も無いので、ケイタイで撮った画像で
よければ、ひとつだけアップ。

こじつければ、歴史の断片と言えるかも?

2010/8/5 00:44  [76-243]   

KIHIRO-Kさん ようこそ
 本当は、太め解消のため歩くのがが主目的なのですが(目的が無いと出不精になるので)このスレッド他、歩かざるを得ないものばかりを作ってみました。

 競馬は趣味なので、そのうちそちらにもお邪魔しますのでよろしく。

 神奈川の住宅街でも狩猟禁止?いのししでも出るのですかね?
 猪鍋は美味しいですが。

2010/8/5 01:51  [76-244]   

>神奈川の住宅街でも狩猟禁止?いのししでも出るのですかね?

実は、私の住む地域は、米軍の座間基地の近くなのです。
私は引っ越してきたので、昔を知るわけではないのですが、ここは今でこそ住宅地
ですが、戦後くらいの時期は野原だったのだと思います。
だって、この看板の左の塀に囲まれているのはゴルフ場ですから・・・(^_^;)

だから、この看板も、多分、当時の基地米兵に対しての警告のためのもの
(古いのに英語での表記があることでも分かる)だったのではないかと思ったので
近代史としての「歴史の断片」と表現しました (^_^;)

2010/8/5 02:15  [76-245]   

良く見ると、狩猟でなく銃猟でしたね。民家近くでGUN HUNTING禁止とはなんだか怖い表現です。
 座間キャンプの近くにお住まいでしたか。旧進駐軍時代の物かも知れませんね。意味がやっと理解できました。

 それにしても、狸か猪などがいたのでしょうか、世田谷区の東急世田谷線沿いには、夜中に狸が出没するのは有名ですが。
 補足の説明有難うございました。

2010/8/5 14:12  [76-246]   

横浜歴史博物館脇のコンビニの前にありました 正面です 下田にある蓮杖の銅像 写真工業発祥の地 碑

(下岡蓮杖顕彰碑 横浜馬車道)
 横浜関内駅から馬車道通りを歩くと横浜歴史博物館の前にドーム型で頂上にカメラの乗った碑があります。
 わが国写真術の開祖の一人、下岡蓮杖がここに写真館を開いていました。その顕彰碑です。

 写真の開祖といわれているのは長崎の上野彦馬と横浜の下岡蓮杖ですが2人ともほぼ同時期ですので双方がそういわれているのでしょう(実際には上野彦馬の方がすこし先のようですが)。

 2人は何から何まで対照的です。彦馬はオランダ人から化学を学ぶうちに写真に興味を持ち写真撮影のための薬品まで自ら作っています。
 蓮杖は元々狩野派の絵を学ぶうちに写真に触れ、横浜開港の為に来日した通訳のヘンリー・ヒュースケンから学び、さらにアメリカの写真家と彼の絵を交換するなどして勉強をしています。

 ほぼ同時期に写真館を開いていますが、上野彦馬は坂本龍馬(弟子撮影説も)木戸孝允、高杉晋作など後の歴史的人物の撮影でも有名ですし日本初の戦跡写真、天体写真など功績を残し、生涯写真一筋でやってますね。

 蓮杖はと言えば、当初外人相手の撮影が主だったようです(外人に鎧を着せたりして人気があったようです)が、(写真で魂を抜かれることは無いと判れば)次第に日本人客も来るようになったようです。

 彼は事業欲豊富な人間だったようで、乗合馬車業、牛乳製造、喫茶店、ビリヤード(!)などいろんな事業に手を出しますが、全て失敗してしまいます。
 晩年は絵画に戻って、彼の函館戦争などの大きな絵画(日本画ではなく油画)は靖国神社遊就館に展示されています。
 波乱万丈の下岡蓮杖のほうが人間的には惹かれますし、その写真にもより人間味が滲んでいるような気がするのは気のせいでしょうか。

 なお本格的に写真が普及するのは現在の新宿中央公園辺りに六桜社(現コニカミノルタホールディング)が出来て感光材の製造を本格的に始めてからといわれ、新宿中央公園の一角には(日本写真工業発祥の地の)碑が立っています。

(下岡蓮杖顕彰碑)
http://hazukimap.sakura.ne.jp/guide/14k/
yokohama/naka/14104S012.htm


(下岡蓮杖)
http://www.ropeway.co.jp/renjou/renjou.h
tm


(蓮杖写真記念館)
http://www.ropeway.co.jp/kinennkann/kine
nn.htm


(上野彦馬Wiki)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E
9%87%8E%E5%BD%A6%E9%A6%AC


(上野彦馬とは)
http://www.sanno.ac.jp/hikoma/uh1.html

(日本写真工業発祥の地)
http://parkandcats.hp.infoseek.co.jp/sin
zyukutyuuoukouenkuminomori.html


(玉川上水と淀橋浄水場と小西六とエニックスと私 )
http://mag.autumn.org/Content.modf?id=20
090201170305

2010/8/12 01:05  [76-254]   

 SC-650さん  
まず、大きな門が 門をくぐると、五重の塔などが、見えてます。 五重の塔です。 ・・・。

(法隆寺)

法隆寺は飛鳥時代の姿を現在に伝える仏教施設であり、聖徳太子こと厩戸王ゆかりの寺院である。創建は推古天皇15年(607年)とされる。金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。境内の広さは約18万7千平方メートルで西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群である。法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E
9%9A%86%E5%AF%BA


写真が趣味になってからいろんなところに行くようになりました、
また、それがいい運動にもなります。

2010/8/17 23:23  [76-255]   

大仏殿です 正倉院は中に入ってみたいです。

ロクさん こんばんは
 奈良は大好きで、神戸まつりの翌日に旅行をセットすることが多いです。
 2009年はインフルエンザのせいで予定に無かった奈良に行き、鑑真坐像を見ることが出来たりして感激しました。

 あとはキトラ古墳の関係で、これは並ぶのが苦痛で見るのが一瞬と、何か報われない感じですが、遥か昔の実物が見られるのでつい行ってしまいますね。
http://kitora.nabunken.go.jp/

 奈良は歩く箇所が多いので、健康の為には良いのでしょうが、さすがに駅周辺から春日大社まで歩くとちょっときついです。京都と違い都会といった感覚が無いのが救いですが。

 急に(奈良の)写真を探してもなかなか出てきませんね。コンパクトカメラで撮ったのがようやく見つかりましたが。

2010/8/18 01:11  [76-256]   

 SC-650さん  
大仏殿と大仏様 大仏様(東大寺盧舎那仏像) 虚空蔵菩薩 遠くに大仏殿

撮る造さん、こんばんは。

撮る造さんは、関東のかたですよね、神戸や奈良まで来られるとは、ホントに旅行好きんんですね、いい趣味をお持ちで羨ましい^^

大仏殿の写真があったので、ちょうどこの前、8月14日に奈良で燈花会といいうイベントに行ったときの画像を貼っておきます。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E
5%A4%A7%E5%AF%BA%E7%9B%A7%E8%88%8E%E9%82
%A3%E4%BB%8F%E5%83%8F

2010/8/19 00:11  [76-260]   

1号館東面 美術館出口まわり(細部まで当時に近づけているのが判ります) 大正時代の丸の内 1丁倫敦

(三菱一号館と1丁倫敦)
 本日三菱一号館美術館に「三菱が夢見た美術館展」に行ってきました。このビルは日本初の洋式ビル街となった丸の内の赤煉瓦造建物第一号を美術館として復元した建物です。
 細部や見えない部分についても拘って復元されているので当時の雰囲気が良く判ります。(勿論耐震基準などが違いますので、全て同じと言うわけではありませんが

 丸の内はもともと大名屋敷の立ち並んでいた場所でしたが、維新後は軍用地として使われその後野原となっていたのを、三菱が払い下げを受けました。
 三菱はここをロンドンのオフィス街をモデルにした、当時としては最先端のビル街を作り上げました。
 設計は鹿鳴館を設計したジョサイア・コンドルを中心に行なわれ、最終的には一号館から二十号館まで造られました。
 明治44年(1911年)完成の十三号館までが煉瓦造で、十四号館以降は鉄筋コンクリート造になってゆきます。
 当初、約1丁(109m)の距離にわたって赤煉瓦の瀟洒な建物が建ち並んでいたので、1丁倫敦と呼ばれていたそうです。当初も美術館構想はあったと言うことが、今回の展覧会の表題の意味でもありますが、これを聞くと当時の人のロマンや意気込みも感じとれます。

 当時、明治41年から東京駅の着工が始まり、大正3年(1914年)に完成をみます。(この完成によって現在の丸の内の原型となっています)
 なお太平洋戦争でも、(占領後に使用するため)連合軍の空襲でも丸の内は目標にはされなかったようです。

 三菱一号館以外のビルの復元体も見たい気もしますが、周りを見渡すと場所もなく流石にこれは無理ですね。
 日本は歴史的建造物の保存を考えるべきでは無いかと思いますね。明治村にも歴史的なものは少ないですし、なまじ明治や大正のような比較的新しいものは壊されてしまい、未来に残されないのは何か釈然としない気も。
 まあせめて、復元されたこの一号館でも見ながら、当時の面影を追ってみるのも一興でしょうか。

(三菱一号館美術館)
http://mimt.jp/index.html 

(1丁倫敦)
http://mimt.jp/pressrelease/pdf/mec09070
1_1.pdf


(丸の内の歴史と建築丸わかり)
http://www.ecozzeria.jp/shimbun/news/200
9/12/28/mitsubishi-ichigokan01.html


(ジョサイア・コンドル)
http://www.mitsubishi.com/j/history/seri
es/man/man12.html

http://www.mitsubishi.com/j/history/seri
es/man/man13.html


2010/8/25 22:10  [76-265]   

弥生式土器発掘ゆかりの地碑 最初に発掘された土器 弥生美術館は東大弥生門のすぐ近くです

(弥生2丁目遺跡−弥生式土器発見地)
 以前大森貝塚とモース博士の話を書きましたが、この時(明治10年頃)に発見された初期の土器は製作過程にちなみ縄文式土器と名付けられました。
 より年代の若い弥生式土器は東京大学本郷キャンパスの裏側、文京区弥生2丁目で明治17年に坪井正五郎、白井光太郎他数名によって発見され、これら縄文後継の土器に(発見地名の)弥生の名が付けられました。
 現在発見を記念して、「弥生式土器発掘ゆかりの地」の碑が弥生2丁目に現在建っています。
 最初に発掘された弥生土器は、現在本郷キャンパス内の東京大学総合研究博物館に所蔵されているそうです。
 
 縄文式土器は宗教(呪術)的意味合いが大きかったのですが、農耕が伝わった以降の弥生土器になって初めて実用的な土器になったといわれています。
 そういえば縄文式土器と違い、弥生の名は製作の方式でないので、最近では(式)を取った弥生土器と呼ばれるようになってきていますね。

 縄文時代から弥生時代になって生活様式や文化が大きく変わったのは、大陸からの渡来人とその技術の影響によるものと言うのが定説になりつつありますが、身長や骨格まで違うようなので縄文人は駆逐されていったのでしょうか

 このような石器、土器、住居跡などの新しい技術が(電車も自動車も無い時代に)どうやって日本各地に伝播していったのかと考えるとちょっと不思議な気持ちになりませんか。

弥生式土器発掘ゆかりの碑に近くには、ロマンの絵師竹久夢二美術館(弥生美術館)もあるのでついでにいかがですか。さらに東大内部の見学も出来ますのでご一緒に。
http://www.yayoi-yumeji-museum.jp/


東京大学総合研究博物館
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/
キュラトリアル・グラフィティ―学術標本の表現』展
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/exhibition/2
009CuratorialGraffiti_description.html


弥生土器については
http://museum.city.fukuoka.jp/je/html/29
1-300/298/298_01.htm


(弥生2丁目遺跡)
http://inoues.net/ruins/yayoi_machi.html

2010/8/31 21:43  [76-270]   

富岡八幡宮 境内の伊能忠敬像 伊能忠敬住居跡(門前仲町駅からすこし歩いたところ) 伊能図(海洋情報資料館)

(伊能忠敬ー富岡八幡宮)
地下鉄東西線門前仲町を降りてすこし歩くと富岡八幡宮があります。ここは勧進相撲発祥の地としても有名で横綱力士碑や大関力士碑などもあり新横綱誕生の際は土俵入りが行われることでも有名ですが、今回は境内に伊能忠敬銅像を見かけたので彼の話を。前回来たときにはなかったので聞いてみると7年前に建てられたそうですが。
 後で、伊能忠敬の住居がこの近く(駅からは逆方向ですが)にあって、彼が測量の無事をここで祈ってから各地に出かけたことを知ってなるほどと思いました。

 伊能忠敬の詳しい生涯や業績は下記(伊能忠敬と伊能図の大事典)が詳しいのでそちらを見ていただくのが正しいと思いますので是非御一読を。

(簡単に彼について紹介しますと)彼は佐原の大地主に婿入りして商才を発揮して大成功を収めました。そして50歳になると家業を息子に譲ります。本来ならばそれから悠々自適の隠居生活となるはずですが、彼は江戸に上り幕府天文方の高橋至時に弟子入りして本格的に暦学や天文学を学びます。

 (19歳も年下の)至時は、忠敬を当初単なる金持ちの道楽だと思っていましたが、彼の熱心さと能力を認めるようになります。やがて1778年のロシア船の蝦夷島(北海道)来航などをきっかけに幕府より、忠敬の(私財を投じた)最初の蝦夷測量の許可が下ります。忠敬はもう56歳でした。試行錯誤により作られたこのときの地図の正確さは幕府を驚かせ、更に数次の測量が行われることになります。

 1804年に師の高橋至時は亡くなりますがその年、十一代将軍家斉が忠敬の地図を上覧されました。そして幕閣はみな精緻さに驚きます、やがて彼は幕臣となり第5次以降日本全国の測量は幕府の直轄事業となってこの後1816年まで続きます。
 最後の測量終了後、2年たって伊能忠敬は亡くなります、なんと73歳でした。彼の遺言により彼の墓は(上野源空寺で)師匠高橋至時の墓の脇に眠っています。

 1821年高橋景保(高橋至時の息子)は忠敬の死後、彼の業績として大日本沿海輿地全図を発表します。高橋景保は後にこの地図を廻りシーボルト事件に連座して牢内で獄死したことでも有名ですね。

 伊能図は焼失や行方不明になったものは多いです。状況については下記大日本沿海輿地全図Wikiのリンクをどうぞ、伊能図模写は海洋情報資料館(この縁側の裏東京情報スレッドで紹介しています)でも見ることが出来ます。

 
 よく定年後などがっくりしてしまう人も良く見かけますが。彼のように、中高年から本当の生き甲斐となるものを見つけられたらとても素敵でしょうね。

(伊能忠敬と伊能図の大事典)
http://www.inopedia.jp/index.asp

( あの人の人生を知ろう〜伊能忠敬編)
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/tadataka.
html


(伊能忠敬と高橋至時の眠る浅草の源空寺)
http://yagiken.cocolog-nifty.com/yagiken
_web_site/2007/03/post_ad72.html


(富岡八幡宮)
http://www.tomiokahachimangu.or.jp/
(伊能忠敬銅像)
http://www.tomiokahachimangu.or.jp/htmls
/inoTadatak.html


(相撲と富岡八幡宮)
http://www.tomiokahachimangu.or.jp/htmls
/sumou.html


(日本一の大神輿)
http://www.fukagawa-kanko.com/midokoro/m
ikoshi.htm


(佐原 伊能忠敬記念館)
http://www.city.katori.lg.jp/museum/

(シーボルト事件と流失地図)
http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komo_s
iebold_top.html


(大日本沿海輿地全図Wiki)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E
6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B2%BF%E6%B5%B7%E8%BC
%BF%E5%9C%B0%E5%85%A8%E5%9B%B3


(海洋情報資料館)伊能図模写が見られます(毎週水曜日午後のみ開館)
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KIKAKU/koka
i/kokai.htm






2010/9/7 13:42  [76-280]   

元町のメインストリートです。元町はお洒落な町です。 ウチキパン。一見普通のパン屋さんです。 SINCE 1888という文字が誇らしげにウインドウに ショーウインドウの中にはおいしそうなパンが(評判のイングランドも)

(横浜元町 ウチキパン 文明開化の味)
 横浜元町にウチキパンというパン屋さんがあります。ここは現在まで続いている日本で一番古いパン屋さんです。

 パン自体は戦国時代にポルトガルから渡来したらしいです。(カステラも又一緒)小麦粉生地を使い無発酵のパンは唐菓子の煎餅という形で、発酵生地を蒸したものは点心の饅頭のように扱われました。あまり人気は出なかったようで、キリスト教禁教とともに廃れその後長く忘れられていました。
 カステラは茶の湯の菓子などにも取り入れられある程度普及しましたが、パンが普及しなかったのは、その味などの魅力や日本の食文化上何らかの問題があったのかも。

 一般的にはパンの元祖というと江川太郎左衛門が有名です。彼は幕府に対し沿岸防備を説きますがその際の兵糧としてパンの採用を考え、彼の領地韮山でパン製造を始めます。故に伊豆韮山では彼をパン祖と呼んでいます。
 しかしながら、それは硬いカンパンのような兵糧食であってパンと呼ぶに値しないようなものだったようです。
 現代ではパンの造り方はイースト菌をパン生地に入れ、パン生地を発酵させ焼き上げるる事で柔らかいパンになります。日本ではイースト菌が海外からやってくる前の明治大正時代はビールのホップが使われていました。
 まだ幕末には天然酵母の知識もなかったので、単なる小麦粉をこねて焼いた団子のようなものになってしまっても仕方はなかったのでしょうね。

 横浜では開港後、外国人がパン屋を製造し始めましたが、日本人の中にもパン屋を始めようと考えた人がいました。その一人が内海兵吉です。父が菓子屋をやっていたせいで多少の知識があったのか、フランス人のコックから聞いた知識だけでパンのようなものが出来、パンに飢えていた居留地の外国人に売れたようです。
 やがて彼は富田屋と屋号を定めます。そして品質を上げ軍にパンやビスケットをを納めたりして繁盛したそうですが、戦後廃業して現在店舗はありません。

 もう一人、横浜のというより日本のパンを語る上に重要な人物が打木彦太郎です。
 彼はイギリス人クラークが始めた「ヨコハマベーカリー」に働きました。ここのパンは評判が良かったようです。というのもパン種(ホップ)の品質や造り方が丁寧だったのではと推測されます。
 ここで彦太郎はよく働き、やがてクラークが帰国の際店を譲り受けます。その後明治32年「ヨコハマベーカリー宇千喜商店」これが現在も元町にあるあるウチキパンです。
 ここの菓子パンも良いですが、イングランド(イギリスパン)はおいしいですよ。ヨコハマに行き元町を訪れる機会があったら買って食べてみてください。


(ウチキパン HP)
http://www.uchikipan.com/

(パン祖のパン)
http://itp.ne.jp/contents/kankonavi/shiz
uoka/spot/22000056.html


(「幻想万象資料館」日本のパン)
http://homepage3.nifty.com/onion/labo/br
eadjp.htm


(タイムスリップヨコハマ・パンの発祥地)
http://www.timeslip-y.jp/motomachi/bread
.html


(読売新聞 開港場物語(39)パン製造 外国人ベーカリーの伝統
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kanagaw
a/kikaku/071/41.htm

2010/9/18 00:49  [76-292]   

大手門、ここから入ります ここが二の門です。豪華重厚ですね 百人番所です。かなり巨大です。当時は威圧感さえ有ったのでは 旧江戸城内地図です

皇居東御苑(旧江戸城内)に行ったことがありますか?ここは良く散歩に言って芝生で寝転んだことはあっても、真面目に歴史施設として見た事のは無かったので今回行ってきました。
 ここは3箇所の門から入れます。竹橋駅側からは平河門と北桔梗門、大手町駅からなら大手門です。門から入るとき窓口で入園票を貰い、出るときに返すというシステムです。(当然無料です)

 今回は大手門から入ってみました。皇居といえば旧江戸城な訳ですが、大手門はいわばその正門にあたり、通常登城する大名などはここから入りました。大名になったつもりで登城してみましょう。
 堀に面した入口の門を高麗門(一の門)と言います、それを入るとすぐに本御門(二の門)が有ります。その門を過ぎてすこし行くと三の丸尚蔵館です。ここは皇室関係の収蔵物を展示しています。興味がある方はごらんになってください。

 本日の目的は江戸時代の薫りを求めてですので、まずは100mほど言ったところの同心番所からです。この区域には3ヶ所番所がありますが、ここは最初の場所ですぐ傍にある大手三の門を警護していました。ここを駕籠に乗ったまま通ることができたのは、尾張・紀伊・水戸の徳川御三家だけで、それ以外の大名や旗本はここで降ろされ、徒歩で登城。このことから、この門は下乗門とも呼ばれました。

(同心番所)
http://www.kanko-chiyoda.jp/tabid/989/De
fault.aspx


 さらに少し歩くと一番大きな百人番所があります。当初甲賀百人組が配属されていたので百人番所といわれた様です。その後幕府の職制「鉄砲百人組」(伊賀組、根来組、甲賀組、青山組)が出来。彼らがここの警護をするようになってきましたが。

(鉄砲組同心として活躍した4組の忍者集団)
http://www.01.246.ne.jp/~reki127/index.r
ekitan-13.html


 シーボルトの江戸参府紀行に少し百人番所の話が載っています。
http://www.asahi-net.or.jp/~jt7t-enmt/ed
ojo/bansyo.html


(オランダ商館長の江戸訪問の際はここで控えていたようですね)
http://www1.parkcity.ne.jp/sito/orandatu
uji.html


 更に行くと大番所があります。ここが一番格式の高い番所で、ここには(いわゆる忍者ではない)御家人が詰めていたのでは。江戸城登城の最後の砦です。
(千代田区観光協会 大番所・中之門跡 )
http://www.kanko-chiyoda.jp/tabid/251/De
fault.aspx


ここから坂を上って江戸城に登城します。(2に続く)

 なお、三の丸収蔵館では現在こんな展示をしています。
「皇室の文庫(ふみくら) 書陵部の名品」展
http://www.kunaicho.go.jp/event/sannomar
u/tenrankai-shoryobu.html




2010/9/30 15:07  [76-300]   

富士見櫓 松の廊下跡 天守台(天守閣跡) 大奥跡は、芝生と林だけですね、ひっそりと小さな看板だけがあります。

(旧江戸城を行く2)
 前レスに名前が付けて無かったですね。「旧江戸城を行く」という事でお願いします。
 貼れる写真の枚数に限りがあるので、今回は城の中枢に入ってからです。

 先ずは左に曲がり、富士見櫓があります。お堀の外からも見えますが、内側から見ると又違った印象です。ここはかつて大田道灌が静勝軒を立てていた場所に造られました。櫓は城外の監視や防御に当たる場所ですが、江戸城内にこのような櫓が沢山(46箇所とも)建っていましたが、今では巽櫓、伏見櫓・多聞櫓など数少なくなっています。

 将軍が両国の花火をこの富士見櫓から見たという記録も残っています。当時はビルもないしここから見える景色は良かったのでしょうね。柵があって近寄れないのは残念ですが。

(富士見櫓)
http://www.hls-j2006.com/koukyo/2007/11/
post_7.html


(大田道灌 静勝軒)
http://www.asahi-net.or.jp/~CN3H-KKC/shi
ro/shiro22a.htm


 さらに少し行くと有名な松の廊下があります。と言っても看板だけしかありませんが。ここで浅野内匠頭長矩の刃傷が有りましたね。こんなに(城の)外側だったとは。こういう有名な場所ですから、一部復元してみせる位の工夫もあってよいのかと思いました。(江戸東京博物館には模型がありますが)

(松の廊下)
http://www.kanko-chiyoda.jp/tabid/253/De
fault.aspx


 他に富士見多聞(下記リンクを)などもありますが、とりあえず先に本丸跡ですか。と言っても芝生以外に目だったものはないです。ここで寝そべって将軍気分でも。

 江戸城天守閣は現在石垣に囲まれた遺構(天守台)だけがあります。ここの階段を上ってもあまり意味はありません。高いところに上るとたしかに気分は良いですが。
 ここは明暦の大火で焼失後、再建されることはありませんでした。(保科正之の「(天守閣は飾りで)城の防御に天守閣は必要ない」という一言で、復旧資金を他に廻したそうですが、まだ武士(もののふ)らしさが残っていた事が窺えます。

(富士見多聞)
http://www.kanko-chiyoda.jp/tabid/254/De
fault.aspx


(天守台)
http://www.kanko-chiyoda.jp/tabid/256/De
fault.aspx


(江戸城Wiki)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E
6%88%B8%E5%9F%8E


 次は大奥ですね、芝生の一角に標識がありました、かつて豪華絢爛な女人の世界がそこにあったとは信じられないくらい、見事に何も残ってはいません。
 慶応4年(1866年)江戸城が官軍に引き渡されると、大奥にも退去命令が出ます。その際大奥に勤める者たちは大混乱になり、皆立ち去った跡には衣類や道具などが散乱し清掃さえされておらず、ひどい有様だったと記録に残っています。(ちなみに表の方は勝海舟の指示の下、立派な状態で引き渡されたそうですが)
 天璋院は殆んど荷物を持たずに一橋家に、和宮は田安家に移り、ここに大奥は消滅しました。

 大奥跡から少し歩いて展望台に昇るとお堀越しに大手町のビル群が見え、江戸時代と現代の混在する不思議さを味わえます。

 ここで時間切れ(入園時間は午後4時30分迄)になったようで、帰りに門近くにあるしゃちほこを撮って、大手門から出てきました。

 散策するなら、春か秋が一番で、天気が良い日に出かけられてはいかがですか、江戸時代にそしてその歴史を動かした中心地を廻るのは面白いですし、ここで活躍した有名な人々の足跡や考えに思いを馳せるには最高の場所だと思っていますが。
 両国の江戸東京博物館には、江戸城や江戸時代関係の展示が豊富なのでセットで行くと尚楽しめるはずです。
 

【江戸城の面影(皇居) 】
http://www5e.biglobe.ne.jp/~komichan/tan
bou/edo/edo_jyo.html


【江戸時代の将軍】
http://www.eco-g.co.jp/shougun.html

【江戸東京博物館】
http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/

【皇居東御苑の公開要領】
http://www.kunaicho.go.jp/event/higashig
yoen/higashigyoen.html


2010/9/30 15:23  [76-301]   

同心番所 桃華楽堂、なんとも不思議な外観です 楽部庁舎 しゃちほこ

追加の写真です。
1.同心番所(普通の住居程度の大きさです、別に仕掛けも無さそう。忍者関係の門番(同心)がいたとは思えないようなつくりです。

2.天守台から不思議な建物を発見したので近くに、桃華楽堂という皇室の音楽堂でした。なかなか瀟洒な建物です。
http://homepage3.nifty.com/oohasi/touka.
html


3.桃華楽堂の隣から雅楽が流れてきました、宮内庁楽部庁舎でした。かの東儀秀樹さんもここで演奏練習していたのかも。
(東儀秀樹HP)
http://www.togihideki.net/profile/

4.しゃちほこです。昭和20年(1945)4月に空襲による戦災で焼失した旧大手門渡櫓の屋根に飾られていた鯱だそうです。銘から見て明暦の大火後すぐに作られたようですね。

 なお皇居関係の施設なら皇居参観ガイドのHPを見るといろいろわかり易いですので紹介しておきます。
http://www.hls-j2006.com/koukyo/002/201/

2010/9/30 15:52  [76-302]   

六義園の入場口 綺麗な庭園です 行った時鷺がいました。 風情のある門は江戸時代のもの?

(柳沢吉保ー駒込六義園)
 江戸時代江戸の二大庭園の一つに数えられた六義園は、五代将軍綱吉の側用人柳沢吉保が別邸に、自ら設計し指揮して造った回遊式庭園です。江戸の三大庭園の一つとまで言われています。
 庭園の名称は、中国の古い漢詩集である「毛詩」の六義(風・賦・比・興・雅・頌)から名付けられています。明治になって岩崎弥太郎の所有になり、その後東京市に贈られ、現在に至っています。

江戸時代の将軍の中で、自ら主導権を握り政治を取り行おうとしたのは(初代の家康を除き)家光、吉宗、慶喜そして綱吉くらいです。そのうち家光は実際の政治は重臣にかなり任せていて、慶喜は人材不足の中で対応していただけなので、実際には彼と吉宗の2人だけだったのではないでしょうか。

綱吉が将軍になった当初の側近は老中堀田正俊でした。彼は実直かつ率直な正確で綱吉に対しても事あるごとに直言し、自ら政治を行おうとする彼に次第に煙たがられてゆきます。
 有名なのは生類憐れみの法に対する反対ですが、この後殿中にて稲葉正休に暗殺されます。(稲葉正休もその場で斬殺される)
 この事件は乱心という事で収められましたが、綱吉の意によって起きた事件と言われています。

 この後、側用人柳沢吉保の台頭が始まります。彼は館林藩で親の家督を継いだときには500石あまりのの微禄でしたが、将軍側近となり側用人に昇ると1万石の大名に迄取り立てられます。一説には彼の側室染子は綱吉の愛妾で、染子の生んだ嫡男吉里は綱吉の子供と言う説もありますが、真偽の程は今になってはわかりませんが。
 
 ともかく優秀な官僚だったのは確かで、皇陵修復、赤穂浪士、次期将軍問題など完璧にこなし、側用人になった13人(多くがすぐに解任)のうち唯一ともいえる存在になってゆきます。
 やがて綱吉の信任をバックに老中以上の存在になります。よく水戸黄門が柳沢吉保を懲らしめるなどTVドラマや映画になっていますが、光圀の息子(高松藩主)松平頼常は吉保の取り巻きの一人ですから、あとは推して知るべきですか。

 やがて綱吉が死ぬと、すぐに次期将軍家宣に隠居を申し出て別邸の六義園に生涯を過ごします。柳沢家がその後も繁栄を続けたのは、この見事な引き際にも関係があるようですね。

 生類憐れみの令については、彼の日記などには殆んど出てきません。聡明な彼としてはこの愚かな法令には目を背けていたのでしょうか。
 
 もう一つ赤穂浪士に関して。細井広沢 という儒学者、実は赤穂浪士を支援して吉良邸討ち入り計画にも深く関係していた人ですが、もともと吉保の家臣でした。
 他家とのいさかいによって主家を放逐されたことになっていますが、その後も吉保から資金援助を受けています。あるいは吉保の意を受けての吉良邸討ち入りの手助けをしていたのかも。

 六義園はそういうことを除いても、春はしだれ桜、初夏はサツキ、秋は紅葉などいろんな姿を見せてくれる綺麗な庭園です。池には立派な鯉や亀など数多くいるので、ふらりと行ってベンチなどで休むと気持ちが落ち着きますので、機会があれば是非行ってみてください。

(柳沢吉保)
http://www.weblio.jp/content/%E6%9F%B3%E
6%B2%A2%E5%90%89%E4%BF%9D


(徳川綱吉と堀田正俊)
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/tun
ayositomasatosi.html


(堀田正俊暗殺事件)
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake
/6006/history/hottadeath.html


(都立公園案内 六義園)
http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/kouen
/kouenannai/park/rikugien.html


(六義園 柳沢吉保と徳川綱吉の評判)
http://www.bunkyokurasi.com/rekisitobunk
a/rikugien.html





2010/10/9 20:45  [76-310]   

稲荷塚古墳、犬繋ぎの石柱もあります 古墳の説明板 古墳図解 館跡にある第六天塚古墳

(世田谷犬屋敷と喜多見重政−稲荷塚古墳) 

 柳沢吉保について書きましたので、その陰とも言え、僅かな期間で失脚した側用人喜多見重政についても少しだけ。
 綱吉の時代には側用人が延べ11人いたと書きましたが、中には勘気に触れ罷免された者も結構いました。

 新宿駅から小田急線に乗って行くと、14個めの駅が喜多見駅です。喜多見の名はここを治めていた武蔵喜多見藩主の喜多見氏から来ています。
 喜多見氏はかつて関東に名を届かせた江戸氏の末裔で、徳川家康に仕えて旗本となってから喜多見姓を名乗る様になったと言われています。

 喜多見重政は旗本石谷長門守武清の次男として生まれ、母方の祖父の養子となって喜多見家の当主となります。
 貞享二年「1685年)生類憐れみの法が発令されると、重政は進んで自らの領地に野犬保護の犬小屋を作っています。これが後の犬屋敷の基になったとされています。
 この功績もあいまって、重政は側用人に抜擢され元禄元年には犬大支配役を命ぜられます。
 しかしながら翌年、重政は勘気をこうむり側用人を罷免、所領も取り上げられ改易、桑名藩にお預けとなり狂死します。
 親類の不始末(刃傷)が原因とされていますが、それの連座にしては一寸処罰が重過ぎますね。

 そのヒントになる話が地元に伝わっています。
 世田谷は古墳の多いところで、喜多見氏館跡地内にも第六天塚古墳がありますが、今回紹介するのは、その近くで現在小さな公園の中にある稲荷塚古墳の話です。
 ここは地元では別名犬繋塚と呼ばれていました。喜多見重政の子、彦太郎がこの古墳の石柱に陣屋の犬を繋いで遊んでいたという話が伝えられていますので、案外これが本当の原因かと。
 これが事実なら、この法を統括する犬大支配役の息子が犬で遊んでいたとはとんでもないことで、生類憐れみの法の実施に大きな影響を与えかねない話ですので他の事件に事寄せて始末したのが真相では。
 恐らくこの件も密告だったのでしょうが、密告によって取り締まっている本人が訴えられるとは。この法令や取り締まっている役人に対して、よほど恨みが深かったのかも知れませんね。


(中野犬屋敷)
http://hino.anime.coocan.jp/kakoi.oinusa
ma/kakoi-2.htm


(世田谷犬屋敷)
http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/ta
m/tama/tam/t057/t057t.htm


(新宿区観光協会 大久保)
http://www.city.shinjuku.lg.jp/foreign/j
apanese/pdf/map/aruki/j_06_okubo.pdf#sea
rch


(武蔵江戸氏)
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/me
do_k.html


(稲荷塚古墳)
http://www008.upp.so-net.ne.jp/takebe_n/
takebe/myhometown/myhometown_13.html

2010/10/18 22:19  [76-315]   

真砂坂 この階段を上ると彼の住んでいたあたり この辺りのようですが 湯島聖堂仰高門、左手にあるのが門衛詰所

(文京区真砂坂−藤田五郎終焉の地、新撰組三番隊長の明治)
 都営地下鉄三田線春日駅を降り、文京シビックセンター(区役所)と逆方向に上る坂道が東富坂(真砂坂)です。
 坂道の途中、左側に階段がありそこを登った辺り(真砂町30)に藤田五郎と言う人物が住んでいました。

 藤田五郎では判りませんね、新撰組三番隊長斉藤一といえばわかり易いでしょうか?
 彼は鳥羽伏見の戦いの後会津に転戦、そこで会津藩が降伏したので会津藩士として斗南に渡り、その後東京に戻り警視庁に勤めることに。
 西南戦争が始まり、薩摩兵の切り込みに対抗して警視庁抜刀隊が結成されると、それに加わり従軍して手柄を上げます。
 彼の剣技の強さも健在で、警視庁時代に行われた撃剣会の記録も残っていますが、1勝1引き分けだったようです。

 その後、警視庁を退職し、東京高等師範学校に奉職、このときの職務は門衛です。
 東京高等師範学校は、その敷地に湯島聖堂を含んでいて、彼の勤務場所は現在も残っている仰高門の脇にある門衛所だったようです。
 やがて妻のつてで敷地の連なっている東京女子師範学校に異動し、そこで定年を迎えます。

 寡黙な性格だったようで、新撰組当時のことなどは自ら話したことはありませんでした。
 藤田五郎と言う名は、松平容保から貰った名という事で生涯大切にしていました。
 彼の妻時尾との婚姻の際の仲人も松平容保が務めているように、容保の新撰組や斉藤一の働きに対する感謝の意が感じ取れますし、藤田五郎の方も、斉藤一だった過去が現れると、(降伏時に会津藩士として扱ってくれた)容保に迷惑が掛かるのではという思いから、過去を語らず藤田五郎で通したのでは。

 ところで真砂坂を降り、右手に白山通りを少し行くと次の白山駅に行く途中に永倉新八の住居があった場所(この辺で数回住居を換えているので)にたどり着きます。
 永倉は維新後松前藩に帰参し監獄看守などを経て退職後、(晩年小樽に戻る迄)東京に出て暮らすようになります。お互いの散歩などで、もしかしたら見知った顔に出くわしたかも。
 近所ではないにしろ、生活圏的には近いですが、はたして本当に斉藤と永倉は出会ったのでしょうか?記録は全く無いですが。
 私は風の便りで存在を知ったとしても、藤田は彼と逢わなかったのではと思いますが。彼の中では新撰組や幕末の動乱などはすでに捨て過去は終わってたのでは。
 
 大正4年永倉新八は小樽で亡くなります、同年後を追うように藤田五郎も胃潰瘍で亡くなり新撰組の残光はここに消えてゆきます。

 彼の住んでいた真砂町は、道路拡張や区画整理などがあり(立て札などもないので)正確な場所は判りづらいですが大体本郷4丁目辺りだったようですね。

(三番隊長斉藤一)
http://www.toshizo.com/name/saito.html

(本郷真砂町)
http://www.1to5.net/saito/places/tokyo/m
asago.html


(警視庁抜刀隊)
http://www.juhojuku.jp/shoyuroku/2007/07
/post.html


永倉新八Wiki
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E
5%80%89%E6%96%B0%E5%85%AB

2010/10/22 23:04  [76-318]   

撮る造 さん  

2010/11/18 20:07  [76-333]  削除

墓所への案内板 墓所入口 容堂公墓所 説明看板

(山内容堂公墓所を訪ねる−京浜急行鮫津駅)
 京浜急行鮫津駅の歩道橋を渡って真直ぐ坂道を登り、少し歩くと横断歩道が見えますがそこの左手にステンレス製の看板が立っています。
 その指示に従って行き、突き当たりの処から階段を上る(かなりデコボコで歩くのには注意です)と、そこが明治維新の立役者の一人山内容堂公の墓所です。
 以前は別のところに有ったのですが、立会川小学校を立てる際校庭部分の真中でしたので、現在の位置(小学校敷地境)に移設されたとのことです。(もともとは土佐藩下屋敷跡)
(墓所への行き方は)
http://bangai.atukan.com/yodo_haka/yodo_
haka.html


(山内容堂)
http://www.bakusin.com/yamauchi.html
http://www10.ocn.ne.jp/~kenjiro/ijin/you
dou.htm


 彼は豊信と言うのが本来の名前で、井伊直弼と対立し安政の大獄時に隠居した際容堂と号しています。
 隠居後力を発揮するのは島津久光に良く似たパターンですが、年齢的に言えばまだ40前後ですから隠居などしていられなかったのでしょう。
 彼の政治姿勢は、勤皇ですが幕府にも肩入れした、微妙な立場で(坂本龍馬の船中八策を基にした)大政奉還を建白したのもその表れなのでしょう。
 やがて薩土同盟がなって大勢が討幕に傾くと、土佐藩兵に対して討幕軍に参加しないように命じるものの、土佐軍の指揮官板垣退助はこれを無視して参軍します。
 彼が自軍に出来たことは、「寒いので自愛せよ」と言うことだけでした。
 明治になって政府に参加しますが、気位の高さから(庶民出の人間と一緒は嫌だったのでしょう)やがて辞職してしまいます。

 その後は酒と女色の生活を送り46歳の若さで無くなりました。鯨海酔侯(自らの呼び名)らしい奔放な気質のまま行動した、最後の殿様と言ったところでしょうか。


 山内容堂という方は豪快な人物で一杯エピソードを残していますが、勝海舟から坂本龍馬の帰参を頼まれた際の話(下記リンク)などはいかにも彼らしいと言う感じですね。
http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/arch
ives/2010/01/post_786.html

(2人の会見場所)
http://blogs.yahoo.co.jp/shouta059/26877
953.html



2010/11/18 20:14  [76-334]   

国道沿いの商店街も商魂たくましく、龍馬ブームに 龍馬像、ブロンズかと思ったら 浜川橋【涙橋】ここの脇道を左に入ると砲台に ただ石が置いてあるだけでした(誰かが看板をもっていった?)

先ずは訂正です。そそっかしいもので、今回もやってしまった。鮫津駅ではなく鮫洲駅でしたね。

 鮫洲から立会川近辺は、土佐藩の下屋敷が合ったところです。駅の山側に下屋敷海側に抱屋敷がありました。(ちなみに国道沿いの商店街に下屋敷跡と書いてあったのには一寸吃驚です)
 立会川駅近くで近年発見されたのが、嘉永6年(1853年)、土佐藩抱屋敷に設けられた浜川砲台です。ちなみに龍馬もここの警護にあったっていたとの事。
 折からの龍馬ブームもあいまって、立会川駅近辺は龍馬像まで置かれにわか龍馬の町になってしまいましたね。竜馬にちなんだお蕎麦やラーメンまであったのには失笑。
 この駅は大井競馬場が近いので、競馬の町だと思っていましたが、どちらも馬に縁がありますからね。
 肝心の浜川砲台はと言えば、表示板すらなくなって石を並べた場所にしか見えなくなっていましたが、どうしたことでしょうね。
(京急WEB)
http://www.keikyu.co.jp/webtrain/tachiai
gawa/feature/


(土佐藩下屋敷と浜川砲台にゆきました)
http://sakamoto.noramba.net/e52917.html

(龍馬年譜)
http://erinkoryo.blog48.fc2.com/blog-ent
ry-89.html

2010/11/19 02:36  [76-335]   

彰義隊士の墓 彰義隊説明板 北白川宮銅像 大村益次郎像(靖国神社)

上野戦争と北白川宮能久親王の生涯)
 用事で上野まで行きましたので、上野公園まで脚を伸ばしてきました。
 ここは良く通るのですが、東京人としては良く眺めるような場所とは言えないですね。西郷さんなどは、今までまともに見たことが無かったです。
 西郷隆盛像のすぐ近くに彰義隊墓地があります。
 幕末、ここで江戸で唯一行われた戦争、上野戦争がありました。恭順を潔しとしない旧幕府軍と大村益次郎率いる新政府軍との戦いです。
 結果についてはご存知の通り新政府軍が勝ち、彰義隊は壊滅し敗走します。
 戦の後、上野周辺に彰義隊士の死骸が放置され散乱していましたが、新政府軍は死体の後片付けさえも許さないため三ノ輪円通寺の住職や新門辰五郎らが収納埋葬したのが、現在の彰義隊の墓です。
 墓碑銘には、山岡鉄舟の筆による戦士之墓とだけ有ります。

 この上野戦争における彰義隊の指揮官は、旗本上野八郎と寛永寺別当の覚王院義観でしたが、名目的に担ぎ上げられたのが公現入道親王ことのちの北白川宮能久親王です。
 公現入道親王は、東征軍を率いていた有栖川宮熾仁親王(別レスで)に面会し、東征中止を頼みますが、(実際には無血での開城を目論んでいた熾仁親王に)けんもほろろに拒絶されます。これが遠因となり名目的な頭領を引き受けたのかも知れませんね。

 下記リンクの通り、上野戦争は官軍の圧勝に終わります。(このリンクかなり正確に自体の推移を追っていますが、勝海舟の思惑については人となりを考えると肯けないところも。)
(上野戦争と大村益次郎)
http://www7a.biglobe.ne.jp/~soutokufu/bo
shinwar/ueno/main.html

 
 戦の後逃れて会津に入った公現入道親王は奥羽越列藩同盟の盟主に擁立されます(一説には東武皇帝を称したという説も)、当時のアメリカ公使は「日本には2人の帝がいる」と本国に連絡したと当時の記録にも。

 やがて戦いは新政府軍の勝利になり、奥羽越列藩同盟は瓦解、親王は京都に蟄居することに。
 しかしながら明治政府により処分を解かれ、伏見宮家に復帰その後北白川宮家の当主になり海外留学の後陸軍に務めます。そして台湾遠征時にマラリアで亡くなり、死後は台湾において台湾神社の主祭神となることに。
 やがて日本敗戦とともに台湾神社は破却され、現在は靖国神社に祭られています。
 その靖国神社参道に大村益次郎の銅像があるのも何かの因縁ですか。なおこの数奇な生涯を送った親王の銅像は東京国立近代美術館工芸館(旧近衛師団司令部)脇にあります。


(北白川宮能久親王)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E
7%99%BD%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E8%83%BD%E4%B9
%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B


(東京国立近代美術館工芸館)
http://www.momat.go.jp/CG/introduction.h
tml




2010/11/26 02:20  [76-337]   

西郷隆盛像 ハチ公像 楠木正成像(馬の凄みが) 和気清麻呂像

(銅像をじっくり見たことありますか)
 東京には銅像が数多くあります。中には訳の判らない変なものまでありますが有名なものを挙げるとすれば誰でも挙げるのは。
1.西郷隆盛像(上野公園)
2.ハチ公像(渋谷駅前)
3.楠木正成像(皇居前)
4.和気清麻呂像(竹橋)
5.大村益次郎像(靖国神社)
 でしょうか。他にも大山巌元帥、品川弥次郎(九段下)、有栖川宮親王(有栖川宮記念公園)、小松宮親王(上野公園)、北白川宮親王(竹橋)など結構ありますが、殆んど戦前に作られたものかその二代目。戦後新しく作られた像は、有名な歴史上の人物でないものの方が多いようです。
 なんと言っても数が多いのは、二宮金次郎像ですね。戦前にはかなりの小学校にはあったそうです。今では見かけませんが、薪を背負って読書をして歩く姿を見たという人なら結構お年なのかも。

 戦前にはもっと銅像があったようですが、戦争中の金属類回収令で供出し鋳潰されて仕舞ったのが結構多く、東京都の象徴のような(都庁の)大田道灌像も二代目です。
 この大田道灌像は、初代は(日本橋の欄干像で有名な)渡辺長男でしたが二代目は実弟の朝倉文夫の製作によるものです。
 このパターンをもう一つ、渋谷駅前の忠犬ハチ公像も安藤照製作の初代が供出され戦後二代目を息子安藤士が作って現在に至っています。
 西郷隆盛像は親しまれていたからか、別の理由か供出は免れていますし、維新に功績の有った人は残っていますね。楠木正成や和気清麻呂は流石に撤去できなかったでしょうし、宮様はもってのほか、なので銅像にも序列があったという事らしいです。(横浜の井伊直弼像はさっさと撤去され鋳潰されてしまいましたが)

 日本最初の西洋型銅像は明治26年に建立された大村益二郎像です。作者大熊氏広はヨーロッパ留学後この製作に関わりますが神社の参道に巨大な台座があり銅像が乗っているのは何かしら威圧感と違和感を感じます。(巨大な台座は上野公園と高さを合わせたようですが、視線は彰義隊の方を見ているのでしょうね、まだ西郷像が出来る前ですから)
 その後、大熊氏広は有栖川宮親王騎馬像、小松宮親王騎馬像、北白川宮親王騎馬像を造りますがこの3像どこか似た雰囲気を感じてましたが。まさか同じ作者だったとは。

 有名な銅像は、同じ作者の手になるものが多いようですね。西郷隆盛像、楠木正成像は高村光雲作です。この方は動物が苦手のようで西郷さんの犬、正成の馬は後藤貞行の手によるものです。この人は馬の彫刻家として有名で楠木正成が、今にも走り出しそうな馬の凄みに負けているようですね。なお詩集「智恵子抄」で有名な高村光太郎は光雲の息子です。

 悪い冗談のようだったのは、笹川良一日本船舶振興会会長(当時)が作った孝子像(母親を背負った自分)ですか。人が作るならともかく。
http://www.youtube.com/watch?v=ECeEbyg2Q
Ps



(近代彫刻の先駆者 大熊氏広)
http://www.city.hatogaya.saitama.jp/sect
ion/kyouiku/kyoudo/okumaujihiro.htm


(高村光雲Wiki)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E
6%9D%91%E5%85%89%E9%9B%B2


(金属類回収令)
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/
kinnzokuruikaisyuurei.htm


(和気清麻呂像)
http://homepage3.nifty.com/oohasi/wake.h
tml


(忠犬ハチ公Wiki)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%A0%E
7%8A%AC%E3%83%8F%E3%83%81%E5%85%AC


(二宮金次郎像)
http://www.geocities.jp/journey4web/Trv/
TRVNinob.html

2010/12/1 22:55  [76-339]   

次に行く前に、読み返してみて気づいたので訂正しておきます。北白川宮能久親王騎馬像は(大熊氏広ではなく)新海竹太郎作でしたね。彼は近衛騎兵大隊出身という珍しい経歴の彫刻家であり、親王の部下でもあったそうです。(詳しくは下記リンクを)
あと、楠木正成像についてのリンクも貼り忘れていたので。

(北白川宮能久親王像)
http://rekigun.net/original/travel/statu
e/statue-04.html


(新海竹太郎)
http://ir.lib.fukushima-u.ac.jp/dspace/b
itstream/10270/463/1/21-1.pdf


(楠木正成像)
http://www.geocities.jp/bane2161/kusunok
imasasige.htm

2010/12/3 00:24  [76-341]   

小松宮彰仁親王騎馬像 小松宮親王像説明板 小松宮彰仁親王

(上野公園 小松宮彰仁親王騎馬像)
 上野公園の奥、上野動物園入り口近くに騎馬像があります。
 以前はあまり関心がなかったのですが、調べてみると小松宮彰仁親王騎馬像でした。

 この方、実は前に紹介した北白川宮能久親王の兄にあたります。こちらは逆に仁和寺門跡から還俗、仁和寺宮嘉彰として奥羽征討総督となり、奥羽越列藩同盟の盟主であった公現入道親王(北白川宮)と対決することに。
 その後は東伏見宮に改め佐賀の乱や西南戦争などで活躍。日清戦争では旅順まで遠征して活躍、その後近衛師団長や参謀総長、元帥にまで上り詰めその後の軍人皇族の有り方を造り上げています。
 赤十字総裁初めとする団体の長として、皇族の公務の基本もこの方からと言われています。

 彼には子供がいなかったため弟依仁親王を嗣子としましたが、訳あって彼の死後依仁親王は東伏見宮家を興すことになり、臣籍降下した小松家を能久親王の第四王子輝久王が継ぐことになります。

 しかしながらなぜ銅像は上野公園に?
 一説には、輪王寺門跡が弟能久親王だったとも言われていますが、それだと関連的には一寸薄いし(能久親王は上野戦争における旧幕軍の名目上頭首でもあるので)変な気がします。
 除幕が明治45年ということなので、西郷隆盛や彰義隊、歴代将軍に対する霊的封じのような意味があるのかも知れませんが。
 まあ上野公園は、他にも野口英世やボードワン博士像があるように、明治6年の太政官布達によって、公園となった芝、浅草、深川、飛鳥山などと比べてもスペース的に余裕があったせいかも知れませんが。

(小松宮彰仁親王Wiki)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E
6%9D%BE%E5%AE%AE%E5%BD%B0%E4%BB%81%E8%A6
%AA%E7%8E%8B


(上野恩賜公園探訪)
http://kyuukyodou.sakura.ne.jp/ueno/koma
tu.html


(北白川家と小松宮家家系図)
http://www1.ncv.ne.jp/~amu/page096.html

2010/12/3 23:16  [76-342]   

有栖川宮記念公園 有栖川熾仁親王騎馬像 説明板 有栖川宮 熾仁親王

(有栖川熾仁親王騎馬像−広尾)
 地下鉄日比谷線広尾駅すぐ近くに有栖川宮記念公園があります。
 ここは昔有栖川威仁親王邸でした。その後高松宮に引き継がれ後東京市の公園としてなり現在は港区の区立公園となっています。この奥の一角に有栖川宮 熾仁親王騎馬像が建っています。
 北白川宮、小松宮に続いて、3人目の宮様は有栖川宮 熾仁(たるひと)親王です。この方は先の2親王と違い自らの意思で動乱に身を投じ、幕末明治を駆け抜けた人物です。
 17歳の時皇女和宮と婚約、そして9年後井伊直弼や関白九条尚忠ら公武合体派によって婚約破棄させられますが、このことが親王のこの後の行動に大きな影響を与えたのは想像に難くないでしょう。
 やがて、親王は親長州派公家の首領的存在になります。禁門の変で長州側が敗れると父幟仁親王とともに謹慎させられます。
 ところが孝明天皇が謎の死を遂げ、明治天皇の践祚とともにると謹慎は解け、やがて薩摩長州中心の新政府では最高位の総裁になります。
 そして東征大総督として官軍を率いて東下します。(このときの(宮さん、宮さんと、トンヤレ節で歌われているのはこのときの親王のことです)親王は早い段階で慶喜の助命と江戸無血開城を望んでいたと言われ、恐らく和宮のことが頭にあったのかもしれませんね。
 和宮が親王に、天璋院が西郷に手紙を通じて願ったのもこの頃でしょうか、やがて勝と西郷の面談、イギリスやフランスの思惑などもあって江戸は無血で開城されます。
 その後福岡藩知事、西南戦争にも参戦、やがて明治27年日清戦争が勃発すると広島大本営に下りますが腸チフスを発症し翌年1月神戸市舞子の別邸で亡くなります。(この別邸は現在舞子ビラ神戸のある場所です)
 親王は子供に恵まれなかったため、弟威仁親王が有栖川宮を継ぎますが彼も又子供がなく、ここで有栖川宮家は断絶することになります。
 
 その後熾仁の騎馬銅像は三宅坂の陸軍用地に建立されますが、戦後現在の有栖川記念公園に移設されて現在に至っています。

 広尾は外国人が多い土地で、写真を撮りに行ったときも外国の子供達が銅像のところで遊んでいて銅像を指差し傍にいた母親に何やら叫んでいました、恐らく「これは誰の銅像?」と聞いていたのでしょう、日本の歴史など知らないだろう金髪の母親はただ首を振るだけでしたが。
 
(有栖川宮 熾仁親王)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E
6%A0%96%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E7%86%BE%E4%BB
%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B


(孝明天皇弑逆説)
http://www.asyura2.com/0306/tyu2/msg/223
.html


(トンヤレ節)
http://odasan.s48.xrea.com/music/elec/mi
ya.html


(有栖川宮記念公園)
http://jin3.jp/annai/arisugawa.htm

(有栖川宮と舞子ビラ)
http://www.maikovilla.co.jp/history/

2010/12/10 01:00  [76-345]   

板橋新撰組墓所 永倉と近藤、土方の墓は隣り合わせです 近藤勇像、右手の碑は昭和初期に立てられたもの 永倉新八晩年の姿。

JR埼京線を新宿方面から乗ると池袋の次が板橋駅です。その東口を出て通りを渡ったところに新撰組墓所、近藤勇の墓が見えます。
 実は近藤勇の墓はここ以外に、首を打たれた遺体を納めたといわれている東京三鷹市にある龍源寺、愛知県岡崎市宝蔵寺にある首塚、土方歳三が会津藩主松平容保に願って建立した天寧寺の墓などがあります。(他にも数箇所)
 板橋の墓は元隊士永倉新八が各所に働きかけてここに建てたものです。正面に近藤勇と土方歳三の墓碑、左手に永倉新八の墓があります。墓碑には新撰組隊士(甲陽鎮撫隊なども含む)が刻まれています。

 永倉新八は松前藩士の次男として生まれ、十八歳で神道無念流の免許を受け、道場破りなど剣術修行をしているうちに近藤に見込まれ、試衛館道場に出入りするようになります。
 やがて新撰組の結成とともに二番隊隊長となり活躍することに。当時の隊士阿部十郎は、後年「近藤、沖田(総士)、斉藤(一)、永倉を屈指の剣士」と評していますので彼の腕は確かだったのでしょう。
 しばしば近藤と対立し、甲州勝沼での敗戦後会津行きを巡り論争となりました。相談なしに会津行きを決めた永倉たちに怒った近藤が、「皆が家来になるなら会津行きを承諾する」と言った事で亀裂は決定的に。近藤という男、農民の出でしたので、主君と家来という関係の重さ(隊長と隊士という関係とは違う事)について良く理解出来なかったようで、元藩士や御家人出身の隊士たちをあきれさせたようです。
 そして永倉たちは靖共隊を結成転戦の後江戸に戻り、松前藩に自首しやがて帰参を許され杉村義衛を名乗ります。

 明治に入り、静かになってみると、新撰組と仲間への惜別の情があふれてきたのか、当時新政府高官になっていた旧幕府奥医師松本良順の助けを借りて、まだ戦乱の記憶も生々しい明治9年ここに新撰組受難者の慰霊塔を建てます。
 いくら軍医総監になっていた松本良順の口利きとはいえ、新政府と戦い、幕末は多くの志士を殺めた組織の追悼碑を建てるとは、良く出来たことだとは思いませんか。
 実は近藤勇という人物の生き様や性格が薩摩出身者には好かれていたこと。あと江戸を追い払って無血開城を仕組んだ勝海舟の引け目から来る裏からの根回しなどもあったのかもしれませんが、本当の理由はこの明治9年は各地で旧武士の反乱が起き、翌年には西南戦争がおきる微妙な時期ですので、ある意味このような鎮魂を無下には出来なかった事情も有ったのでは。

 この後、明治20年頃永倉は東京に移住して文京区白山に10年ほど暮らし、講釈師松林伯知に新撰組当時の話を語り、この講談が一つの新撰組伝説の元にもなっています。
 斉藤一の処で書きましたが、この頃二人の住居はすぐ近くでした。記録には出てきませんが、斉藤の勤める湯島聖堂辺りや自宅近辺を散歩したりしてニアミスもあったのかもしれませんね。

 その後小樽新聞の取材に応じた「新撰組顛末記」、(長らく見つからなくて)近年発見された「浪士文久報國記事」など新撰組の語り部として後半生を送り大正4年小樽で亡くなります。
 遺言により遺骨の一部は分骨され、ここ板橋の碑の脇に、かつての同志とともに眠っています。

(新撰組墓所 板橋)
http://www.tamahito.com/itabashi.htm

(新撰組顛末記)
http://www.hokkaido-jin.jp/issue/books/0
99.html


「浪士文久報國記事」
http://www.toshizo.com/takara/shiryo01.h
tml


(ひいじいさんは幕末の志士)
http://www.ne.jp/asahi/ys/namaramuchyo/s
amurai/nagakura/index.html


(永倉新八)
http://www.fan.hi-ho.ne.jp/gary/nagakura
.htm


(龍源寺)
http://shorinjichofu.fc2web.com/chofu-ci
ty/kondoisami/kondoisami.html


(近藤勇 首塚)
http://www.reki-c.com/shiseki_shin019.ht
ml

2010/12/16 15:03  [76-348]   

おじゃま 致します。  

遥か上の方の写真の話題なのですが.........  

よくも まぁ〜 ....... こんなチンケな戦車で、M4シャーマンに 立ち向かったものだと思います。 
( もちろん 97式中戦車のことですよ。) 


............ 日本の戦車兵は、実にお気の毒だった.......と思いますね〜 ...........

2010/12/21 21:31  [76-351]   

トレノさん レスありがとうございます。
 当時の自動車技術では(特にエンジン)この辺が限界だったのかもしれませんね。日本は島国ですから戦艦大和は作れても、飛行機や戦車は小型高性能エンジンの技術の関係で、どうしてもかないませんね。
 対戦車だと相手にならなかったようで、乗っていた戦車兵の方にはお気の毒でしたが。

 もっとも、旧日本軍には戦車重視という発想はなかったようで、ノモンハン戦でソ連軍にやられた教訓も全く無視されていましたが。

 戦中の戦車なら、性能的にはアメリカよりドイツとソ連のほうが双璧ですが。

 自衛隊の90式戦車は性能的には水準にあるようですが、レオパルドなど外国の一線級の5倍以上するのはなんだか予算の無駄遣いみたいですね。(ロシア戦車なら何台買えるやら)
http://www.mil-box.com/sp/tank_history/i
ndex.html

10式戦車というのも配備計画にあるようですが、日本に必要かは疑問ですね。
http://m3i.nobody.jp/military/tkxmenu.ht
ml




2010/12/22 01:28  [76-352]   

浅香宮邸 アンリ・ラパン香水塔(普段は照明) 食堂の雰囲気にはため息が出そう ウインターガーデン(通常非公開です)

【旧浅香宮邸(現東京都庭園美術館)アール・デコの館】
 そろそろ、史跡めぐりも近場が無くなってきて、少し遠出しなくてはならないのかなとは思いますが、もう少しだけ残った近郊の散策にお付き合いください。
 目黒駅から少し歩くと、都会らしからぬ林と立派な門の東京都庭園美術館が左手に見え隣には国立科学博物館付属自然教育園があります。 ここは元は皇族浅香宮の邸宅でした。

 大正時代、皇族は見聞を広めたり各国王族との交流のため、渡欧しするのが慣行となっており、大正11年(1922年)浅香宮鳩彦王はフランスに到着します。
 そこにはすでに実弟の東久邇宮稔彦王や従兄弟の北白川成久王、房子夫妻(前スレで紹介した北白川宮能久親王の3男です)が暮らしていました。

 翌大正12年(1923年)4月1日、北白川夫妻からドライブに出かけますが、成久王の運転ミスにより大事故になり成久王は即死、鳩彦王と房子妃は重傷を負います。
 鳩彦王の妻であり房子妃の妹でもある允子妃は急遽フランスに向かいます。そしてこの奇禍こそがアール・デコ文化が日本に伝わる契機となりました。

 そして鳩彦王のリハビリを兼ねて在住を続けていたパリで、大正14年アール・デコ博覧会が行われる事になります。ここを訪れた夫妻はそのアートに魅了され芸術家達との交流もあったようです。
 やがて日本に帰国後、暫くたって浅香宮邸建築が昭和6年から始まります。基本的な設計は他も宮邸と同じく宮内庁内匠寮が行いますが、内装はパリでのアートに魅惑された允子妃が陣頭指揮に当たりラパンやラリックといったア

ール・デコの作家達を起用し華麗で瀟洒な建物が出来上がります。

 やがて日本が中国に進攻すると、軍人だった鳩彦王は上海派遣軍司令官となります。ここであの上海大虐殺(諸説ありますが)が起こります。
 日程的に早すぎた浅香宮司令官の上海入城式に合わせる為、拙速に掃討を行ったのが原因の一つになったとも言われています。
 また、鳩彦王は強硬な主戦論者としても有名で、戦後は戦犯になる可能性も大きかったのですが、皇族でもありマッカーサーの判断により回避されたとか。

 戦後、11宮が臣籍降下(皇籍離脱)することになり、ここは外務省が使用して、外務大臣兼務の吉田茂首相はここで閣議を行ったこともあったようです。
 やがてこの館も売却されるとこになり、他の宮邸と同様に西武に買収されたうえ、外務省の迎賓館として使われていました。やがて高層のプリンスホテル建設計画が持ち上がりますが反対の声が多く、1981年東京都の所有になり現在に至っています。
 皇族関係の土地と西武グループとの関係については東京都副知事でもある猪瀬直樹氏の「ミカドの肖像」が詳しいので興味がある方は是非一読を。

 館内に入るとアール・デコの装飾があちこちにありアンリ・ラパンの香水塔など、そのモダンとユニークさに圧倒されます。 内匠寮の職人の丁寧かつ精密な作品が各部にあり当時の日本の工芸技術の高さを良く見ることが出来ます。
 フランスのモダンと日本の伝統のコラボレーションも見られて何とも不思議な空間です。今回の「浅香宮のグランドツアー展」では通常公開されていないウインターガーデン(サンルーム)も見ることが出来ますし、1階に限ってですが、通常許されていない撮影も出来ます。近郊の方は是非見ておくと良いかと。

(場所など詳しいことは、私の縁側の中の「行事、思ったこと、雑記帳」を)
http://engawa.kakaku.com/userbbs/76/Thre
adID=76-257/

 
(朝香宮鳩彦王)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E
9%A6%99%E5%AE%AE%E9%B3%A9%E5%BD%A6%E7%8E
%8B


(内装に参加したフランス人)
http://www.teien-art-museum.ne.jp/museum
/france.html


(吉田茂が愛した旧朝香宮邸)
http://mytown.asahi.com/tokyo/news.php?k
_id=13000461003250001


(占領下ー臣籍降下)
http://www.geocities.jp/yamamrhr/ProIKE0
911-30.html


(皇族とプリンスホテル)
http://www.tanken.com/miyake.html

(ミカドの肖像)
http://www.shogakukan.co.jp/books/detail
/_isbn_4094023127

 

2010/12/22 14:50  [76-354]   

1階ロビーです。右手のレリーフはレオン・ブランショの「戯れる子供たち」 マントルピース(アンリ・ラパン画) ラジェーター(宮内庁内匠寮)1つずつ違う精密なデザインです 壁の装飾と床に圧倒されます。

旧浅香宮邸内装飾について、感想のブログなども紹介しておきます。(写真も)

(フランス文化に見せられて-旧浅香宮邸)
http://plaza.rakuten.co.jp/kattyatta/dia
ry/200906150000/


(東京都庭園美術館の建物公開)
http://ameblo.jp/tokyo-sanpo-biyori/entr
y-10506302232.html


2010/12/22 15:08  [76-355]   

TE71 クロのスプリンタートレノ さん  

2010/12/22 22:17  [76-356]  削除

TE71 クロのスプリンタートレノ さん  

2010/12/22 22:17  [76-357]  削除

TE71 クロのスプリンタートレノ さん  

2010/12/22 22:17  [76-358]  削除

撮る造 さん  

2010/12/22 22:17  [76-359]  削除

TE71 クロのスプリンタートレノ さん  

2010/12/22 22:17  [76-360]  削除

紀尾井坂です 大久保利通哀悼碑 碑文 大久保利通

(紀尾井町、大久保利通最後の地)
 四谷駅を降り、上智大学のキャンパスとグラウンドにはさまれた道を行くとホテルオータニに突き当たります。
 ここから左手に下る坂が紀尾井坂です。紀尾井の地名は、紀伊、尾張、井伊藩の江戸屋敷に囲まれていたのが由来と言われています。

 明治11年ここで大久保利通は旧金沢藩士らに襲われ絶命しました。馬車から引きずり出されて滅多切りにされたといいますから、旧士族の恨みは深かったのでしょう。
 近くの清水谷公園の一角に、大久保利通哀悼碑が建立されていますので明治の偉人を偲んでみてください。なお墓所は青山墓地にあります。
 
 明治維新というのは、とても微妙なバランスの上に成し遂げられた偉業だと思います。
 それを動かしていた人物たちも、丁度ジグソーパズルのピースのようにどれ一つかけては出来なかったのでしょう。
 その中でも、一番重要なピースが大久保利通だったと言えると思います。
 彼の業績については多くを語る必要も無いですし、語る言葉を持ち合わせてはおりませんので、ここでは割愛いたします。

 明治6年の変という事がありました。折から不平等条約改正の糸口を求めて大久保ら岩倉使節団が外遊中の留守政府で、板垣退助、江藤新平らの征韓論と西郷隆盛の訪韓使節派遣が持ち上がり大久保は策を持ってこれを退けます。
 これが原因で征韓派と西郷は下野し、不平士族の感情とあいまって佐賀の乱や西南戦争の引き金になってゆきます。
 佐賀の乱では大久保は陣頭指揮をとって鎮圧に当たり、指揮官でありながら部下をみすてたった2日間の戦闘で離脱、捕らえられた江藤を責め、斬首刑に処します。江藤との確執は深かったようです。 
 逆に西南戦争では、西郷の死を知ったときに部屋中を歩き回って鴨居に何度も頭をぶつけていたとか、西郷との絆の深さを感じ取れる逸話ですね。
 紀尾井坂で襲撃されたときにも、馬車の中に西郷隆盛から大久保に宛てた手紙があったと高島 鞆之助が後に語っています。

 ある日、大久保の乗った馬車が紀の国坂を通りかかると、道路脇に立って睨む江藤新平の姿が見え大久保は真っ青になったといわれています。これは亡霊だったのでしょうか?
 実は当時長崎で貿易商をやっていた彼の弟江藤源作が一目仇敵の姿を見てやろうと思いじっと馬車を待っていたのだそうです。それ以降参内への道筋を細く薄暗い坂道である紀尾井坂経由に変えたそうで、一説にはこれが紀尾井坂の変の一因になったともいわれていますが。
 なお、江藤源作の子江藤源九郎は後に陸軍少将を経て衆議院議員となり「天皇機関説」の美濃部達吉を不敬罪で告発しています。

 大久保の死後、財産といえるようなものは殆んど無く、逆に(不足した国家事業に私財を投じるなどして)多額の借金が残っていたそうですが、(政治姿勢や見識とともに)現代の政治家に見習わせたい気もしますね。
 なおロッキード事件で有罪になった大久保利春が彼の孫であることはあまりにも有名ですが

(紀尾井坂の変)
http://blog.goo.ne.jp/hikonejou400/e/4bc
5dd5de7b6f1d5bc63c164004f3784



(大久保利通)
http://www.weblio.jp/content/%E5%A4%A7%E
4%B9%85%E4%BF%9D%E5%88%A9%E9%80%9A


http://www5b.biglobe.ne.jp/~tjk/shiseki/
ji/okubo/index.htm

2011/1/12 20:00  [76-382]   

2.26事件慰霊塔 碑文 戒厳司令部のあった九段会館(当時は軍人会館)

(2.26事件慰霊塔 渋谷)
 ファッショナブルな渋谷公園通りを上って行き、渋谷区役所を左折すると渋谷税務署です。
 その片脇に2.26事件慰霊塔があります。この一帯は陸軍用地で代々木錬兵場がありその一角に東京陸軍刑務所がありました。
 昭和11年7月12日、ここにあった刑務所で首謀者ら17名が死刑を執行されたので、慰霊塔が戦後造られたそうです。(事件の被害者に対する慰霊もかねています)

 2.26事件はいまだ解明されていない部分の多い事件です。本当の首謀者は?目的は?などです。
 本来クーデターなら、最後まで遂行するのが普通ですが、決起部隊は要人暗殺後何かを待っているように動きを止め、陸軍内部は不可解な告示を出したり、彼らを擁護する発言を繰り返したりします。
 首謀者と目されていた真崎甚三郎は、自ら実権を握る目算だったようで陸軍内部もこれを追認しかかりますが、天皇の怒りの前に全てが瓦解し、彼はその後終戦後亡くなるまで一切関与を否定し続けます。
 関係者が皆無くなっている以上、香椎浩平戒厳司令官の不可解な動きとともに全ては歴史の闇の中ですが、この後大臣現役武官制など日本は戦争への道を歩むことになります。

 この事件は、歴史におけるある種のターニングポイントだったのでしょうね。今では舞台になった場所も、反乱部隊占拠の場所も、(山王ホテル→山王パークタワー、料亭幸楽→ホテルニュージャパン〔消失〕→プルデンシャルタワー)となって、軍関係施設と同様もう昔の面影を残すものはほとんど無いですね。(戒厳司令部のお置かれていた九段会館は今も残っていますが)
(小金井市にある江戸東京たてもの園に、殺害された高橋是清邸が移築され暗殺された2階も公開されているようです)
 事件の内容については、下記リンクを読んだほうが良いので、あえて書きませんが。

(兵に告ぐ)
http://www.youtube.com/watch?v=CbRYmwvvk
rE


(2.26事件を巡る)
http://www.tokyo-kurenaidan.com/showa2.h
tm


(2.26事件)
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight
9/226.htm


(山王パークタワー)
http://www.english-resume.net/indiv/bldg
_sanno.php


(江戸東京たてもの園)
http://www.tatemonoen.jp/about/print_map
.pdf


(ドキュメンタリー2.26事件秘話 NHK)5つに分かれています興味があれば
http://www.youtube.com/watch?v=6bkmF7Zax
HU&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=3_2_ig7sN
vM&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=wxfm2H1-o
aQ&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=PgvSYflId
ys&NR=1

http://www.youtube.com/watch?v=IYUKuDaVN
jw&feature=related

2011/2/25 02:26  [76-418]   


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