
縁側をご利用いただく際のルール&マナー集を用意いたしました
ユーザーの皆様に楽しくご参加いただけるよう、主に投稿時の注意点などをまとめています。
ご投稿の前には必ずご一読をお願いいたします。詳しくはこちら⇒「縁側 ルール&マナー」
紹介文
学校で学ぶ様なことでもなく、生活の知恵という程でもない、知っていても何の得にも役にも立たない知識。
でも、それらにはそこはかとないおもしろみがあったり、思わず唸ってしまう様な新鮮な驚きがあるかもしれない。
そんな「知識」求めてます。
具体的には、何も考えていませんが、どうぞ、皆さんのご存じのちょっとした知恵や蘊蓄を教えて下さい。
ジャンルや内容は問いません。どうぞ、よろしくお願いします。

お勧めスレから。
秋葉原今昔物語 by撮る造さん
http://engawa.kakaku.com/userbbs/76/Thre
adID=76-67/
カメラを持って歴史を歩こうby撮る造さん
http://engawa.kakaku.com/userbbs/76/Thre
adID=76-103/
前スレ お江戸でござる
http://engawa.kakaku.com/userbbs/168/Thr
eadID=168-140/
2010/6/12 14:17 [168-596]

お江戸といえば将軍様(何か変?)将軍様といえば子造り(もっと変??)ということでまずは大奥から。
大奥が誕生したのは二代将軍秀忠の時代ですが、当時はまだ側室はいませんでした。正室お江与の方が作らせなかった(ただしいないわけでは)のを見た家康が(このままでは三代で滅ぶと考え)春日局に作らせたのが原型になったらしいです。
ちなみに正室から次の将軍になったのは三代将軍家光唯一人ですので家康の危惧はあたっていたことになります。
(織田の血を引くお江与の方と明智につながる春日局の争いの結果といえるのかも)
次は最多生産記録保持者家家斉について。かれは16人の側室を持ち、男子26人・女子27人を儲け、(ほかにもお手つきがいて)ご落胤はさらに何人かいたそうですごいですね。ギネスブックに載っていますか?
親でも50人以上の子供なんて名前も顔もおぼえられないでしょうね。ただし半分は若死したようですが。
生まれたら乳母に任され、乳母は自分になつかせないように覆面を付けて赤子の世話をしたといわれています。なんとも残酷な話です。
さらにこの子供達を大名達に押しつけたので、結構いろんな軋轢や混乱はあったようですが。東大赤門は加賀前田家に家斉の娘が嫁いだ結果作られ、現在まで残っていますが。
(ビバ江戸 大奥)
http://www.viva-edo.com/oo_oku.html
(GOO 大奥)
http://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E5%A4%A7%E
5%A5%A5
(大奥を知る)
http://homepage1.nifty.com/SEISYO/oooku.
htm
(徳川家斉)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E
5%B7%9D%E5%AE%B6%E6%96%89
(東大 赤門)
http://www.aalab.com/cg/cgamt01j.htm
白の龍さんの(私の縁側)スレッド紹介は(ありがたいですが)不要なのではと思います。 (お江戸と脈略が無いですし、すでに伝言板でもご紹介いただいていますので。)
2010/6/13 02:54 [168-597]

あ、すいません。
でも江戸から続く話しも多くてつい載せてしまいました。
後個人的に好きなので。^^;
「江戸しぐさ」
さて、前回から登場の魚屋の撮る造さん。(覚えてますか?)
朝っぱらから大変忙しいそうです。
魚屋さんなので魚を裁くわけですが子供には見せません。
魚の内臓がでてくるところや刃物を使うところを、子供が年相応に
なるまでは見せないようにする為ですね。
「魚屋しぐさ」と言う配慮です。
さて初ガツオが出回る時期で大変忙しそう。
「撮る造さん、お忙しいですね」
「てやんでー!!!てめえ何言ってやがんでー!!(怒り」
ガーン! 怒られてしまいました・・・・・。
江戸っ子に忙しいですねなんて、言っちゃあいけません。
「忙しい」という字はりっしんべんに亡くす、つまり心を亡くすと書きます。
心をとても大事と考える江戸っ子。心を失った人間は「でくの坊」でしかないからです。
じゃあ、なんていうか。
「雑用に追われてますね」
「いまかきいれ時でございやすんで」
現代からすればなんか・・・・失礼な気がしますが・・・・。
2010/6/13 23:56 [168-599]

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日本橋魚河岸 | 魚売り | 魚河岸跡の碑 |
白の龍さん こんばんは
当時魚売りは日本橋の魚河岸まで仕入れにいったようですね。魚河岸はもともと佃島の漁師が幕府に献上した残りを往来で売ったのが始めです。
佃島の漁師は江戸開府当時に家康が連れてきた摂津の国の漁師で、漁に関する特権を与えられていました。
(魚河岸と佃島)
http://tokyo.atso-net.jp/index.php?UID=1
168930856
(佃煮 天安本店)
http://www.tenyasu.jp/html/newpage.html?
code=6
魚市場では問屋→仲買→棒手振り(魚売り)という今日に近いシステムだったようですね。
お得意さんには毎日同じ時間に行き、注文があればそこで魚を捌くのも仕事だったようです。
あとは仕入れた魚を売り切るまで町を歩く、結構ハードなお仕事のようです。
(日本橋魚河岸)
http://www.tokyochuo.net/sightseeing/uog
ashi/2004/06/index.html
(日本橋魚河岸地図)
http://www.sakanaya.co.jp/map/index.html
(増上寺と魚売り)
http://www.kabuki-za.com/syoku/2/no83.ht
ml
2010/6/14 02:18 [168-600]

「目付」の歩き方はこんなに特徴的?
http://wishpafupafu.blog110.fc2.com/blog
-entry-280.html
昔、漫画で「おれは直角」というやつがありました。学ラン時代劇という変なジャンルでしたが、「目付」の歩き方をヒントに作られたという話を聞いております。
2010/6/15 23:59 [168-603]

皆川遠江守という五千石の旗本がいました。職業は将軍の小姓。
ひょんなことから、鳶・火消しにあこがれ、しまいには上半身に倶利伽羅紋々の彫り物を入れた。
勤めがあけると、鳶に扮して盛り場を遊び歩いた。
ある時、半鐘の音を聞いた遠江守は、急いで火事場に駆けつけ火消しにあたった。これが目付の目にとまったのだから、さあ大変。
目付の報告で幕閣は唖然とし、審議の結果、皆川遠江守はお役御免を申し渡された。知行五千石のうち二千石を取り上げられ、閉門となった。
『徳川実紀』によると、
「小姓皆川遠江守その行躰をとがめられて職とかれ、禄二千石を収め、門閉さしめらる。」とあります。
ふーむ、遠山の金さんみたいな人がほかにもいたんだね。閉門うんぬんは別にして。
ついでだから、遠山景元のwiki。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E
5%B1%B1%E6%99%AF%E5%85%83
彫り物についてもちょこっと書かれております。
2010/6/17 22:24 [168-605]


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おいらんさん。品格が違いますね。 |
名前少し変わりました。
ほぼ捨てあかのような名前とPASS忘れてたので
ちゃんとした名前にしました。
またよろしくお願いします。
中原さんにはメール送りましたのでまたよろしくです^^。
庶民と遊女
江戸後期になると、男のたしなみとしても「廓遊び」は一般化していきました。
落語などでは、結婚後も遊郭に行く夫に妻が遊び賃をやる場面も見られます。
その頃の記録に残っている遊郭は悲惨や堕落の場所ではなく華やかで活気に溢れた場所です。
そしてまた、宵越しの銭を持たない江戸っ子がここぞとばかりに見栄を張る場でした。
実際、売春以外にも遊郭では(お金次第で)盛大な宴を催す場所というイメージが
庶民にはあったようです。
また、本気の恋愛をしにいく場所でもありませんでした。
擬似夫婦の関係やお気に入りの妓と小粋な会話を楽しみ、性欲を発散し、
極楽を謳歌して大門をくぐり 元の日常に帰っていく というのが吉原遊びの流れです。
現代の水商売とあまり大差ない意識だったと考えればいいでしょうか。
その他の地域でも、宿場や街路を私娼が出入りしていたため非常に身近だったようです。
特に高名な寺社の周辺には、必ずといっていいほど遊郭があります。
参拝客の増加を当て込んだ寺社側は黙認、参拝客は「○○参りに行く」
などと女房に言い訳をして、参拝を済ませてから遊郭で遊ぶという寸法です。
宿場もまた男性が集まる場所でした。女性の旅行は自由ではなかったので、
宿場には多数の男性客が集まります。次第に旅人の泊まる宿は遊郭化していき、
旅人を引き込んでは飯盛り女と呼ばれる給仕兼娼婦を客にあてがっていました。
もちろん宿泊費より随分高くつきますが、官許の遊女を買うよりはずっと安く済みました。
来日外国人たちは、娼妓としての役目を終えた女性たちがごく普通の結婚をしたり、
売春していた過去を後ろめたく思わないことに驚いたようです。
当時は日本女子の九割がいつ身を売らされてもおかしくない状況だったことや、
小さな村落にも必ず女郎屋があるほど娼妓が身近だったことなど、様々な要因がからんで
遊女あがりの女性が後ろ指さされることはありませんでした。
また、宗教的な要因もあります。姦淫を禁じるキリスト教よりも、
仏教の性倫理は多種多様です。女犯を禁じる宗派もあれば、
フリーセックスを肯定する教義もあり、庶民の間でも人によってかなり感覚が違っていたようです。
「慎ましく献身的な女性」という理想像は、明治以降になってようやく庶民の間にも根付くようになった価値観と言えるかもしれません。
売春に話を戻しますと、当時 親兄弟のために身を売る女性は孝行娘としてむしろ賛美され
諸芸を嗜む遊女あがりの女性には嫁の貰い手も多かったようです。
2010/6/18 00:44 [168-606]

お江戸ミッドナイトだから、夜中に書き込んじゃうか。
徳川家といえば、三つ葉葵。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E
3%81%A4%E8%91%89%E8%91%B5
色々とバリエーションがあるみたいです。
植物系の家紋は、デザインもちょっと細かいところがありますからね。
この葵の紋を使って悪事を働くやつがいました。
葵小僧
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%B5%E
5%B0%8F%E5%83%A7
見ての通り、かなりの悪党です。しかも実在の人物。
これを取り締まったのが、鬼平こと長谷川平蔵。
鬼平犯科帳については、wikiを引っ張り出すまでもないでしょう。
実際には、葵小僧の行列に対し、
鬼平:恐れながら、見慣れぬ葵紋の提灯。いずれの守様の行列にござりましょうや?
行列:川越の松平候でござる。しかと家紋を見られよ。
鬼平:それはお気の毒。川越候のご家紋はやや芯数が多うござる。それでも本物の葵紋と申されるなら、役所で詳細に検分を。
葵小僧は駕籠を飛び出して逃げようとしたが、周りはすっかり取り囲まれて御用となった。
その後の処置については、wikiにある通り。
2010/6/22 23:59 [168-656]

お江戸ミッドナイトですから、照明について。
この当時は電気はありませんでした。石油ランプも明治に入ってからですね。
江戸時代だと、明かりとしては行灯や提灯がありました。
提灯にはローソクを使っていたけど、ローソクそのものは割高でした。ローソクといっても、普段我々が目にするのは洋ローソクでして、これはそう高くないけど、江戸時代には割高の和ローソクしかありませんでした。
行灯は、昼行灯という言葉がありますが、これはまた別の話。
行灯には油を使います。
油といっても、当時は合成油なんかありませんでしたから、ナタネ油か魚油でした。
ナタネ油のほうが高かったので、低所得層は魚油を使っていました。
化け猫が行灯の油をペロペロと舐める妖怪話がありますが、魚油を使った関係なんでしょうかね。
もっと下層階級は、日が暮れるともう寝るしかないです。夜になっても明かりを灯さない。
「早起きは三文の徳」とか言いますが、意味のないことではないです。
日が暮れたらさっさと寝る。夜明けと同時に起床して仕事。それが低所得層の生活のリズム。
葵小僧の話が出たついでに、葵小僧の一行は町木戸をフリーパスだったそうです。
葵の紋が持っている威光は結構なものがあるようで・・・。
2010/6/25 00:29 [168-664]

2010/6/29 00:11 [168-694] 削除

そういえばこのスレッドあまり書き込みが無いですね。
8月1日(旧暦)は江戸時代には八朔と呼ばれ、正月に次ぐ特別の祝日として扱われていたようですね。
徳川家康が江戸入府した日だからで、その日には武士は白ずくめの正装で登城、大奥でも白帷子を着ける、など白の日と言うべき日でもありました。
果ては吉原の遊女でさえ、白無垢を着るようになり、それを「八朔の白妙」と呼ぶようになったようです。
(八朔)
http://www.kashiwashobo.co.jp/new_web/co
lumn/rensai/r03-23.html
それはさておき、八月一日(朔日)という苗字の人がいますね。「ほずみ」と読む場合が多いのですが、由来のリンクを。
http://www.njg.co.jp/blog_morioka.html?i
temid=575
2010/6/29 00:16 [168-695]

すみません、上のやつを削除したのは私です。全く個人的な都合によるもの。
書き込んだ内容は皿屋敷伝説でして、一部書き直して掲載します。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%BF%E
5%B1%8B%E6%95%B7
番町皿屋敷や播州皿屋敷とか。落語のネタにもなっております。
ほかのサイト、例えば(直リンは差し控えます)
ttp://ginjo.fc2web.com/73sarayasiki/sara
yasiki.htm
によると、
彦根藩にも似たような話があったり、神奈川県平塚市にはお菊の墓・井戸があったようですね。
2010/6/29 00:20 [168-696]

こんばんは。少しお邪魔いたします。。
お江戸といえば、文明開化の幕開けとともに帝都東京になったのですが。。
私、幕末では慶喜公と榎本武揚提督が好きです。
一ツ橋慶喜公はご存知のとおり、第15代将軍で最後の将軍で、
大権現、大納言、源氏の頭領、征夷大将軍、時の最高権力者!でありました。
それが薩長討幕軍に時のバトンを掠め取られる訳ですが、
大坂城に合津中将率いる幕軍1万が立てこもり、神戸沖には榎本艦隊を停泊させながら、
慶喜公は大政奉還に至ります。その後は無血開城、恭順謹慎し、余生は政界から退きました。
しかし時は明治31年〜
近代国家の首都東京は皇居に、天下を奪った慶喜へひと言詫びたいと明治天皇さま!
天皇&皇后への拝謁を許された慶喜公は、何とそのとき!
天下御免の三つ葉葵の紋付ハカマ姿で皇居に上がり明治天皇に拝謁したとか!!
よっ、ニッポン一!男だねぇ〜〜☆
明治天皇もさすが偉人の器量と思いましたし、
慶喜公は単なる英才家に終わらない部門の誇りを忘れなかったお方と知りました。
軽い大人が多い昨今ですが、男性はやはり最後は器量で勝負だと思いました、はい。。。
と、いう事なんですが・・
最後の将軍慶喜公は明治天皇陛下より1年長生きし、
大正2年11月(享年77歳)にお亡くなりになりました。。。
失礼しました(ペコリ)
2010/7/5 21:50 [168-736]

昔、「薩摩飛脚」というやつをテレビで見たことがあります。
はあ〜、大仏次郎さんの原作でしたか。
薩摩へ公儀隠密やお庭番を派遣すると、戻ってこなかったそうです。
薩摩藩で知られた人は何人かいますが、その中のひとりにこういう人が。
調所笑左衛門
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%BF%E
6%89%80%E5%BA%83%E9%83%B7
ところが、この人、意外なところで出てきます。
柴田錬三郎描くところの眠狂四郎。
http://www.geocities.jp/musomasa/k-jinbu
tsu.html
wikiを見ればわかるように、調所笑左衛門は経済には明るいものの、政界の黒幕にはほど遠い存在の人でした。
まあ、眠狂四郎という話自体が虚構なんで、誰が登場しようと、あんまり関係ないんですけどね。
2010/7/6 12:23 [168-738]

初代警視総監(笑)
幕末で薩摩軍が最も雄姿みせたのは幕軍との戦闘よりも、
明治初頭、治安維持の為に西郷どん自ら1万の軍鎮部隊と共に東京府に再び姿現した時では?
と思ったりします。
別スレも拝見しましたが、栗田艦隊の幻の突入作戦時はもう既に〜の実質
高速戦艦による艦砲射撃によってヘンダーソン基地を攻撃したソロモン夜襲戦あたりが
戦闘作戦としてまともに成立した最後かな?
と思いますが・・
2010/7/8 20:41 [168-742]

竜きちさん
>初代警視総監(笑)
こちらのかたですか。
川路利良(川路大警視とも)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E
8%B7%AF%E5%88%A9%E8%89%AF
同じ幕末の人で川路聖謨という人もいましたが、こちらは幕府方の人間です。間違えやすいです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E
8%B7%AF%E8%81%96%E8%AC%A8
警視庁抜刀隊
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%9C%E
5%88%80%E9%9A%8A
>幕末では慶喜公と榎本武揚提督が好きです。
戦国時代だと、運営者の中原統一さんは織田信長ファンであり、たまに書き込んでくれる撮る造さんは徳川家康ファンのようであります。
まあ誰のファンでもいいんじゃないですかねえ。
それにしても、江戸時代とは別に幕末・明治維新のスレッドを作っといたほうがいいのかなあ。NHKの大河ドラマでも、戦国時代や幕末・明治維新ものって多いですし。
2010/7/8 21:44 [168-743]

言うにゃ及ぶさん
こんばんは。
そうです!人斬り利良〜さんです
同郷の人です(笑)
>まあ誰のファンでもいいんじゃないですかねえ。
まぁそうなんですけどねぇ〜
現代では理念を貫いていては生活が成り立ちません。会社でも地域社会でも。。
しかし封建時代の謙信は青い正義?を強大な軍事力と覇権をもって理念を貫くロマンが(笑)
>それにしても、江戸時代とは別に幕末・明治維新のスレッドを作っといたほうがいいのかなあ
スレに行きますよ♪
2010/7/8 22:07 [168-744]

幕府には小十人組という組織がありました。
将軍警護に付く人たちで江戸城から将軍が出るときには、目的地に危険が無いかを探る先遣隊や将軍行列の警護に当たる部隊などからなっていました。小十人組の構成は1組20人総勢400人ほどです。
更に将軍の乗り物の周りを固めたのが、徒組(徒歩組)という黒羽織を着た集団で1組28人の部隊が20組、総勢560人ほどで構成されていました。
現代のSPみたいなものが当時からあったのですね。
(小十人Wiki)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E
5%8D%81%E4%BA%BA
(徒士Wiki)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%92%E
5%A3%AB
2010/7/9 01:05 [168-746]

造る蔵さん、こんばんは。
遅くまで起きられてますね。
そうでなんですか、護衛組織にそんな数がいたとは・・
>現代のSPみたいなものが当時からあったのですね。
現代のSPは身長178以上、柔剣道の有段者、英語以外にもう1ヶ国語、でしたよね。
当時の護衛もさぞ、侍エリート集団だったんでしょうね☆
2010/7/9 01:16 [168-748]

竜きちさん こんばんは
私もよく間違えるので、レスのときには相手の名前はコピー&ペーストです。
私はルー・テーズや藤波辰爾が好きだったって、これはスレ違いですね。
江戸時代のことはWEBではあまり載っていないのが普通ですね。Wikiに一寸ある以外あまりこういう警護の話はどこにも無かった様です。
ところで江戸時代の婚姻は男女とも13歳で許され、そのため町人では女子は7歳から家事を学んだそうです。
実際の結婚は、武家で15〜16歳町人はもう少し遅かったようですが。
15〜18歳が娘盛りで、それ以降は年増(!)、30過ぎたら大年増って、今の女性が聞いたら怒りそうですね。
2010/7/9 01:56 [168-750]

撮る造さん
>相手の名前はコピー&ペーストです。
そうですよね、有難うございます。
>私はルー・テーズや藤波辰爾が好きだったって、これはスレ違いですね。
あっ!これはどうもです(苦笑)
でも、たった今、私の縁側が消しました。幻のケシ・・の如く♪
私は、榎本艦隊が維新軍の制止を無視して江戸湾を離れてゆくその姿に
日ノ本の国、古今東西きっての武門の意地を垣間見る訳です・・
中世の侍たちが敵も持たぬ近代的な艦隊をもって幕府終焉を目にして戦いを誓う・・
馬場がこの世を去った後に三沢が全日の不滅を誓う・・
あっ、スレ違いです(笑)
今後ともどうぞ宜しくお願いします(ペコリ)
2010/7/9 21:58 [168-755]

江戸時代初期の頃に口入屋という商売がありました。今でいうハローワークみたいなもんです。
その中でも有名なのが、幡随院長兵衛。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%A1%E
9%9A%8F%E9%99%A2%E9%95%B7%E5%85%B5%E8%A1
%9B
「ばんずいいん」というのは何とも呼びにくい名前ですが、これはお寺さんの名前。
幡随院の近くに住んでいたからこのように呼ばれていたようです。三河町の半七みたいなもんですかね。
弱気を助け強きをくじくという侠客の元祖みたいな人でした。
幡随院長兵衛を筆頭に徒党を組んでいたのが町奴。
これと張り合っていたのが、水野十郎左衛門を棟梁とする白柄組。こちらは旗本奴です。
派手な格好をした「かぶき者」のたぐいだけど、やってることは旗本愚連隊みたいなもん。庶民からは嫌われてました。
そうですねえ、戦乱がなくなって退屈な世の中になったものですから・・・、ですかねえ。
そういえば、市川右太衛門の当たり役「旗本退屈男」の衣装も派手でしたねえ。こちらは旗本奴とは関係のない話で、おまけに虚構でしたから。でも、旗本奴の話をヒントに作られたのかもしれないです。
なお、幡随院長兵衛は水野十郎左衛門に殺されるわけですが、その後も旗本奴と町奴のもめ事は続いてまして、結局水野十郎左衛門は幕府からお咎めを受けて切腹ということになりました。
幡随院長兵衛の話は、歌舞伎や落語のネタにもなっております。
2010/7/11 23:51 [168-766]

えー、書きようが悪かったみたいです。
>江戸時代初期の頃に口入屋という商売がありました。
口入れ屋は江戸時代を通してありました。
幡随院長兵衛・町奴・旗本奴などが江戸時代初期の頃の話という意味です。
奴(やっこ)というのは中間のことです。
武家奉公人の一種
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E
5%AE%B6%E5%A5%89%E5%85%AC%E4%BA%BA
落語大好きというブログには中間のステータスが書かれています。
http://rakugo-fan.at.webry.info/200809/a
rticle_2.html
「やっこ」の意味
http://homepage2.nifty.com/osiete/seito1
51.htm
さんぴん侍
http://blog.goo.ne.jp/goo1592/e/00347d71
a8dbad183803d32c54e951e9
以上、失礼しました。
2010/7/12 15:08 [168-767]

こんにちは。
やっこは家来と云う意味ですか・・
落語文化みても今よりレベル上?と感じます。
この江戸時代ってーのは、260年間もあった訳ですが、
後半の方は、中世と云うよりはほぼ近代社会ではないかなと思えます。
2010/7/12 18:26 [168-768]

竜きちさん、こんばんわ。
>中世と云うよりはほぼ近代社会ではないかなと思えます。
江戸時代は「近世」という区分で通っているようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E
4%B8%96
「中世」はこんな定義みたいです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E
4%B8%96
学者先生でも考えが完全に統一されているわけではないですが。
2010/7/12 19:21 [168-769]

言うにゃ及ぶさん
いつも有難うございます!(ペコリ)
>学者先生でも考えが完全に統一されているわけではないですが。
ですよねぇー(苦笑)
私は社会学の専門家ではないんで何ですが、社会学寄りの有識者と話してて出た話題でした。
時代区分を考えるとき、文化、科学技術、社会体系、生活水準とどの側面で捉えるかでも変わってくると考えます。
最終的には教えて下さった様に、前期・後期で細分化するしかないでしょうね。
境界線の前後時代が緩慢な物差しになり、意見の相違に譲り合いが可能となりますものね。
江戸は中世と云うよりはほぼ近代社会ではないかなと云うお考えには、
ほぼが付いているので私も納得して賛同いたします(笑)
>江戸時代は「近世」という区分で通っているようです。
これが正解となるんでしょうね。
どもう「中世」を呼ぶとヨーロッパのイメージが強くて、
同時代の日本の場合を指すときは「戦国期」になってしまいます。個人的に。。
ここは雑学のすすめと云うよりは、本格的な歴史の雑談ぽくて面白いです♪
2010/7/12 19:39 [168-770]

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「びくにはし雪中」広重 |
いわゆる肉食というのは明治の牛鍋が最初だと思っている方も多いですね。
実際には江戸時代からあったのです。
捕ってきた猪や鹿の肉を食べさせる「ももんじ屋【百獣屋】」という店で、猪は「山鯨」、鹿の肉を「紅葉」と称していました。
そして肉食のことを「薬食い」と言っていました。確かに滋養強壮に効くのでしょうが、それ以上に建前が必要だったのでしょう。
安藤広重の「名所江戸百景 びくにはし雪中」にも描かれています。比丘尼橋は銀座1丁目辺りですか、京橋川に掛かっていたといわれています。
2010/7/13 23:53 [168-771]

時代劇でおなじみ、遠山の金さんについて。
劇中では、遠山左衛門尉(さえもんのじょう)とも呼ばれることがある。
同じ「金さん」でも、北朝鮮の「金さん」とはわけが違う。
日本が誇るヒーローの一人であり、しかも実在の人物。
ところが、実像はというと、映画やテレビとはほんのちょっと違うようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E
5%B1%B1%E6%99%AF%E5%85%83
この人は天保の時代の人でして、天保の改革の時期にありました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E
4%BF%9D%E3%81%AE%E6%94%B9%E9%9D%A9
その中で、
歌舞伎がなくなってしまうところを遠山の金さんに助けてもらったわけです。
江戸庶民に娯楽は必要ということで。いってみれば、演劇界の恩人でもあるわけです。
さあこうなると、遠山の金さんを劇中のヒーローに仕立て上げなければ演劇界の義理がすたるというもの。
それでできあがったのが、遠山の金さん。
背中の彫り物については怪しいけど、腕に彫り物はしていたみたいですね。
水戸黄門で使われる葵の印籠と同様に、遠山の金さんが「お白洲」へ降りる時にもろ肌脱いでべらんめえというのは「お約束」。
ところがどっこい、ちょっと待った。
座敷から「お白洲」へ降りる階段というのは、実際には無かったわけです。
でもねえ、階段が有ることにしておかないと、あのシーンが生きてこないじゃないですか。
2010/7/14 20:35 [168-772]

次は、刀について。
戦国時代では、当初直属の家臣は刃渡りの長い太刀が中心で足軽は短い打刀でした。やがて打刀中心になりますが、大小2本差すのは、侍大将以上が殆んどでした。
江戸時代になって、野太刀のような刃渡り90cm以上のものは、幕府が規制したのでなくなりました。
そして身分を明らかにする意図もあって、侍は皆大小二本を差すことになりました。ところが2本挿すと3〜4kgはあるものを(片側の腰に)常に差し続けるので、腰に痛みがでたり背骨や骨盤が歪んだりと異常が出る武士が続出しました。
そこで元々80〜75cmの刀身は短くなり70cm以下になりました。(60cm以下のは脇差と分類するのが普通のようです)
人によっては辛いので、鞘だけ長いまがい物の刀を差したりしたようです。武士の魂を持つのも大変だった様です。
刀は武士の魂というくらいですからしきたりも大変で、人の刀を跨いだり、刀同士がぶつかったりしたら斬り合いに成りかねません。また良く映画などで見るように、人に対面するときには逆側に刀を置き換えたりと、結構難儀な作法が多かったのですね。
勿論左利きでも、左側に差したりすることはしませんし出来ませんでした。
2010/7/14 22:51 [168-774]

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孔雀茶屋 | 江戸時代に描かれたらくだ | ラクダの見世物 | 象 |
花鳥茶屋というものがありました。
元々は上方で孔雀茶屋といって始まり、孔雀を見ながらお茶を飲むといったものでした。
同様のものが江戸に花鳥茶屋という名で出来ると、インコや高麗キジ、文長、カナリア、丹頂鶴などいろんな鳥が見られる場所となり、お酒を出すようにもなりました。
見世物小屋も流行ったそうです。文政4年(1821年)にはひとこぶラクダ、文久2年(1862年)にはふたこぶラクダが来て大人気だったようですね。
図のインド象は将軍吉宗が注文したもので、享保13年 (1728) に到着し、最初は浜御殿で、後には中野で飼われたようです。【長崎から歩かせて江戸まで持ってきた途中で、(天皇が見たいと言い出し)この象に位階(従4位)が与えられたそうです。(天皇に面会できるのは従5位以上の為)】
http://www.ffortune.net/social/seso/niho
n-edo/elephant1729.htm
2010/7/14 23:52 [168-775]

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永美ハルオのイラスト |
寛政の三奇人のひとりに林子平という人がいました。『海国兵談』で知られるかたです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E
5%AD%90%E5%B9%B3
「親も無し 妻無し子無し版木無し 金も無けれど死にたくも無し」と嘆き、自ら六無斎(ろくむさい)と号した。
とありますから、これだけで奇人のうちに入るのでしょうか?
wikiには書かれてない逸話。
時期は冬の仙台。非常に寒いわけです。
その時期に兄嫁の通夜が行われました。
死因はよくわからないけど、病死なのかな。通夜ですから、遺体は布団の中で横たわってます。
明かりは行灯。子平は遺体を安置してある部屋で酒を飲んでいます。
兄は隣の部屋で火鉢で暖をとっているうちに眠ってしまいます。
明け方近くになって兄のほうは目が覚めて隣の部屋を見たところ、行灯の火が消えかかっている。そこで、油を追加しようとしたところ、子平の姿が見えない。行灯ですから、そう明るくはない。
よくよく見てみると、子平は遺体と同じ布団で寝ていました。
「これ、子平、起きろ!」
どういうつもりなのだと聞いたところ、とにかく寒かったからだと。
兄嫁の死体に悪さはしてないのだけど、死体と同衾するというのは変なやつですよ、いくら寒いとはいってもね。
永美ハルオのカットが面白かったので、この話を書き込みました。
2010/7/15 00:24 [168-776]

江戸町奉行所(番所)は住居と役所がひとつになったもので、看板・表札などはなかったという。
敷地面積は、約2500〜2600坪。表門は長屋門。壁は黒い渋塗り白なまこ壁というから、白だか黒だか、よくわからん。
時代劇では看板が出ていることもあるが、これは間違い。
時代考証を厳密にするなら、看板無しにしておいて、テロップや字幕で説明するのが正しいのだろうね。
江戸町奉行所の役人としては同心がいる。その上役が与力。目明しや岡っ引きなどは私的配下の者であって、公務員では無い。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8C%E
5%BF%83
ここでわかるように、八丁堀というのは役所があった場所ではなく、同心たちが居住する官舎街です。
町人たちから、「八丁堀の旦那」と言われる所以ですね。
町奉行所の牢屋があったのは、小伝馬町。「小伝馬町送り」という刑罰がありました。
「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるように、江戸は火事が多かったようです。
小伝馬町に火事が及びそうになると、罪人達は一時放免となります。「いついつまでに戻ってこいよ。」という条件付きで。
それで、全員戻ってきたのか?
よくわからないけど、ほとんど戻ってきたんじゃないですかね。全員かどうかまでは・・・。
2010/7/22 13:20 [168-793]


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さてさて、動物好きは昔からの事で、当然江戸時代も沢山の動物が来日したり。
ペットブームも今よりすごい白熱ぶりだったとか。
メンデルの遺伝の法則より1世紀も前に、ペット用ネズミの品種改良記録が世に出ました。
珍翫鼠育草(ちんがんそだてくさ)
飼ってる猫や犬が亡くなるとそれはそれは悲しんでお墓をわざわざ立てたものです。
各地に賢猫の塔と言うお墓が残ってます。
1728年、ベトナムから像が来日、1821年ラクダ来日。1860年にはヒョウまでも来ました。
江戸時代にもアザラシの玉ちゃんがいたようで迷い込んだアザラシが捕えられ芸をしたらしいのですが、
束の間に死んでしまったと・・・
置物や絵などが飛ぶように売れてと言う事。
絵はココでは貼れませんが、とっても可愛く書いた刷り絵ですw。
絵の世界でも動物は大活躍。
若冲 応挙 広重 谷文晁 ら多くの絵師によって迫力ある動物の絵が描かれました。
2010/7/23 23:42 [168-796]

(江戸城の鬼門封じ)
平安京が陰陽道を元に都市設計された事は良く知られていますが、江戸もまた(天海僧正の発案で)同じ様に作られています(帝都物語という映画などでもやっていましたので知っている方も多いでしょうがが)。
陰陽道では鬼門という考え方があり、これは鬼が出入りする方角のことを言います。具体的に言うと、丑寅(北東)の方角ですが、ここに神田明神、浅草寺を移して鬼門守護に当てています。
また裏鬼門に当たる(未申)の方向には日枝神社、増上寺が当てられています。
また京都にある建造物に倣ったシンボルも造られました。京都の鬼門にある延暦寺に対して東叡山寛永寺、清水寺には清水堂、(琵琶湖の代わりに)不忍池を掘り下げて(琵琶湖の竹生島に対して)弁天島まで、といった具合です。
更に鬼門封じとして五色不動と言うのも後に追加されていましたね。
旗本の配置、譜代と外様大名屋敷などの配置も鬼門、裏鬼門で決めるといった徹底振りで、もしかしたら徳川将軍が15代まで継続したのもこのせいなのかもしれませんね。
(江戸城の鬼門除け)
http://www.feng-shui88.jp/fuusui/3.html
(江戸の鬼門封じと五色不動)
http://www.ley-line.net/tokyo/top.html
(江戸は風水都市?)
http://homepage2.nifty.com/kankiken/hana
shi%20-7%20.htm
2010/7/24 17:07 [168-798]

ここは中原さんの縁側なので、中原城、いや違った名古屋城の金の鯱について
名古屋城のシンボルは金の鯱(しゃちほこ)ですが、鯱は雌雄一対となっており、北が雄、南が雌だそうで、最初に造ったときには合わせて純金215.3kg(金は鱗部分)を使ったそうです。
この鯱の本来の目的は、将来財政的に必要があったときの用意として(家康の助言で)造られたものだと言われています。
事実、享保11年(1726年)修理との名目で地上に降ろされ、一部が江戸藩邸の再建に用いられています。(他に2回程同様のことがあったそうです)そのため、段々黄金の輝きがなくなってしまったので、後には金網で隠したそうですが。
金ですから、盗もうとする人間も多かったようです。江戸時代には(大凧に乗り鱗3枚を奪ったと言う)怪盗柿木金助の話が有名で芝居にもなっていますが、本当に盗まれたのは明治時代になってからのようです。
昭和20年の名古屋大空襲で鯱は消失、回収された金で茶釜2個と名古屋市の旗竿の飾りが作られました。
昭和34年に再建されましたが、かつてよりは廉価版になってしまったようですね。
(名古屋城の金鯱Wiki)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E
5%8F%A4%E5%B1%8B%E5%9F%8E#.E5.90.8D.E5.8
F.A4.E5.B1.8B.E5.9F.8E.E3.81.AE.E9.87.91
.E9.AF.B1
名古屋城紹介サイト
http://www.museum.or.jp/nagoyajo/menu02.
html
(名古屋城の金の鯱は本当に盗まれたのか?)
http://wishpafupafu.blog110.fc2.com/blog
-entry-93.html
(柿木金助 牢を破る)
http://network2010.org/nc400/rensai/hiro
kojistory/edo/edo03.html
2010/7/24 18:17 [168-800]

上・中・下屋敷の違いは?
http://www.uraken.net/rekishi/reki-nihon
005.html
さて、甲州街道最初の宿場町は内藤新宿でした。今の新宿ですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E
8%97%A4%E6%96%B0%E5%AE%BF
ここは旗本であった内藤家の中屋敷があった場所です。
敷地のうち、街道沿いに近いところを宿場用として割譲したのが内藤新宿の由来です。四谷新宿とも呼ばれていましたが、内藤新宿のほうが通りがよかったかも。
ちなみに、三河地方では、内藤という苗字は多いです。この旗本も、元をただせば三河武士なんでしょうか?
内藤新宿について面白い話があります。
旗本内藤新五左衛門の弟である大八が、新宿の女郎屋で先客争いの関係で宿場の男衆に叩きのめされた。
これを見ていた町人たちは、旗本が女郎屋の下男風情にこてんこてんにやられたというので、手を打って喜んだという。
これに怒った新五左衛門は、「恥を知れ。」とばかりに大八を無理やり切腹させ、その生首をひっさげて大目付松平図書頭の元へ行き、知行を公儀に返上するから内藤新宿という宿場町を取り潰してくれと願い出た。
何ともまあ、気性の激しい人ですなあ。いくら武士の意地を通すとはいえ。
結局、内藤新宿は一時廃止されることになりました。
これにはほかの要因もありました。
・甲州街道は軍用道路ということで一般通行客も少なく、客引きが激しくてクレームが多かった。
・商売敵である吉原が内藤新宿の営業ぶりを苦々しく思っていた。
内藤新宿に限らず、歓楽街で遊ぶには「お金」が必要。それは今も昔も変わらない。
とおきょお〜、ゼニが・・・、ナイトクラブ〜♪
2010/7/25 14:09 [168-802]

『楓軒偶記』によると、
「小便組は少婦の容貌絶美なるものを売りて大家の婢とし、主人と同じく寝処し小遺(小便)を漏さしむ。主人患えて退かしむれば、ついにその金をかえすことなし。また数所に転売してかくの如し。」
小便組は若くて美人であった。
支度金は3〜5両。
しばらくは特にこれといったこともなく、できるだけ金品をねだる。
そろそろ潮時かなと考えた頃に、主人と一緒にふとんの中にいる時、寝小便をする。
愛想づかしをするまで毎晩やって、手切金をせしめる。
彼女たちのほとんどは、浪人や町人の娘。
年齢層は、14〜24歳くらい。
これでかなり荒稼ぎしたらしい。
現代だと、この手は通用しないだろうね、多分。
暑い日が続いております。そろそろ花火の季節ですかね。
ここを見ているかたなら、「たまや〜」「かぎや〜」の由来を知っているかたも多いかと思いますが、ついでだから。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E
7%81%AB
花火は江戸時代から始まったんですよね。
日本での歴史を見ると、鉄砲伝来以降とありますから、戦国後期というか、安土桃山あたりからですかねえ。
記録上は江戸時代からのようです。
2010/7/27 23:26 [168-806]

高家とは、一般的には名門・名家のことを指す。
江戸時代に入って、役職・家格・格式などが細かく規定された。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5
%AE%B6_(%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%B
B%A3)
幕府のおもしろ役職
http://homepage1.nifty.com/SEISYO/yaku1.
htm
忠臣蔵で知られる吉良上野介も高家であった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E
8%89%AF%E7%BE%A9%E5%A4%AE
領地は愛知県幡豆郡吉良町であるが、地元では名君として知られている。
吉良上野介の跡地はJR両国駅の近くにあります。
JR両国駅付近でオフ会を開くことがありましたので、オフ会前に吉良邸跡を見に行くことは数回ありました。
2010/7/30 12:29 [168-809]

仇討ち(あだうち)
http://www001.upp.so-net.ne.jp/yasuaki/m
isc/cult/cult80.htm
http://homepage2.nifty.com/kenkakusyouba
i/zidai/kataki.htm
仇討ちするほうは、なかなか大変だったようです。
だけど、江戸時代は仇討ちは美談として好まれていました。
忠臣蔵や鍵屋の辻の決闘なんかは厳密に言うと、仇討ちではないそうです。
忠臣蔵は芝居になっていましたが、鍵屋の辻の決闘のほうは講談のほうでよく知られていました。
ただし、講談のことですから、話に尾ひれが付いて、実際には2人しか斬ってないのに、36人斬りのスーパー剣豪になっていました。
これは荒木又右衛門でしたかね、鉢巻に3本くらい手裏剣を差しているイメージがありますよ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8D%B5%E
5%B1%8B%E3%81%AE%E8%BE%BB%E3%81%AE%E6%B1
%BA%E9%97%98
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E
6%9C%A8%E5%8F%88%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96
%80
2010/8/2 14:59 [168-812]

こんばんは。ご無沙汰しています。
忙しさを理由に書き込みをサボっている悪い運営者です。すいません。
今日は、江戸時代の道路問題と環境問題についてレスします。
上下水道などが整備されており、欧州の主要都市よりも先進的な都市であった江戸の街。
しかし、石畳を敷いていた欧州諸都市の市街路と違って、土のままの道路でした。
その為に、雨が降ると泥濘と化してしまい、市民の生活の妨げになりました。
特に梅雨時や夏場の雷雨、野分と呼ばれた台風シーズンのころは、道路が乾くまもなく雨が降り、歩行や荷車(大八車)の運用に苦労したようです。
では、晴れていれば問題がなかったのか? というとそうでもありません。
当時の交通手段に使用されていた馬が、いわゆる環境問題を引き起こしていたのです。
「風が吹けば桶屋が儲かる・・・」があながち出鱈目ではない状況になっていたようです。
特に日本橋を起点とする街道筋では、多くの馬が使用されていたため、そのウンコ、馬糞が大量に転がっている状態でした。
晴天が続けば、馬糞が乾燥して風に舞い、目も開けられない状態となることもあったようです。
大工の熊さんも畳職人の八っあんも、皆、家に入る前には必ず衣服についた馬糞を払っていたことでしょう。
当時の道路事情と環境(公害)問題についてでした。
あっ〜、また、糞のお話になってしまいました。これが本当の「ウンチく話」ですね。(恥)
2010/8/3 00:27 [168-813]

こんな記事がありました。
ラーメンすする?すすらない?
http://www.yomiuri.co.jp/komachi/life/po
p/20100728-OYT8T00738.htm
江戸庶民の食べ物のひとつにそばがあります。ラーメンではないんだけど。
落語でも、そばをおいしそうに食べる所作として、ズルズルっと盛大に音を出しますよね。
でも、現代ではそうもいかないみたいです。ここらへんは人によって違うんだろうねー。
うちでも汁をすするけど、汁をすする時の話ではなくて、麺のほうをすする時の音を問題にしているんじゃないかなあ。
洋食というか、外国で音を立てながらの食事はマナー違反だと聞いております。ただし、おしゃべりは一向に構わない。むしろ、やるべきだとも。
江戸の話としてはちょっとズレてるけど、そばや落語などを出しているので、それで勘弁。
2010/8/3 23:59 [168-815]

中原さん お帰りでしたか、捜索願を出そうかと思ってましたが。
さて、最近見かける大型施設は旧大名屋敷が多いですね。やっぱり古くからの大きな敷地といえばそれか寺しか無かったですから。
六本木ヒルズが毛利藩上屋敷ですしアークヒルズは武蔵川越藩中屋敷などです。
中でも御三家の敷地は有効活用されていますね。尾張藩は上屋敷が市ヶ谷の防衛省、中屋敷が上智大学、下屋敷が新宿戸山公園。水戸藩なら上屋敷は後楽園、中屋敷は東大農学部、下屋敷は墨田公園です。グランドプリンスホテル赤坂は紀州藩上屋敷、赤坂の東宮御所は紀伊藩の中屋敷、芝離宮公園は同下屋敷といった具合です。
明治以降、大名屋敷は皆政府により取り上げられることになりますが、後の時代に広大な土地が必要になったときに役に立っている場合が多いようですねね。(公園、大学、駅などになってる例も多いです)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E
6%88%B8%E8%97%A9%E9%82%B8
2010/8/4 02:33 [168-816]

テレビを見ていたら、たまたま「東八拳(藤八拳とも)」をやってました。
初めて聞く名前なので、ちょっと調べてみました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%90%E
6%8B%B3
ここでは「狐拳」となってますが、東八拳のことです。
江戸時代からあるみたいで、江戸っ子のたしなみみたいなものかも。
ついでに、じゃんけん。これも「けん」が付いてるから、じゃん拳になるのかな。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%98%E
3%82%83%E3%82%93%E3%81%91%E3%82%93
よく時代劇なんかで、旦那が出かける前に、「ちょっと、お前さん。」と火打石でカチカチやるやつ。
あれを「切り火」と言うんだそうです。
清めの儀式なんだそうで・・・。
所作は知っていたけど、言葉としては最近知りました。
2010/8/7 00:03 [168-818]

五代将軍綱吉公とくれば、「生類憐みの令」です。悪法として有名ですね。
綱吉公が城外に出た時に、烏(カラス)のフンが頭にかかった。
「不届きな烏め!」ということで烏は捕まえられたが、法を破るわけにもいかず、烏は伊豆の新島へ流罪となった。
烏は藤丸籠に入れられ、新島まで船送り。
新島で放された烏は、再び江戸へ向かって飛び去ったという。
この話は、新島の名主前田家の古文書に記録されている。
「生類憐みの令」にまつわる話でした。
烏ついでに
「おお、窓のところに烏がいるぞ。」
「あれが噂の窓烏か。」
「あちらには、二本の板の上に烏がいるぞ。」
「うむ、こちらは二本板烏だな。」
2010/8/10 00:20 [168-821]

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大名行列 |
大名行列と言えば、映画などでは人々は行列が通り過ぎるまで道の端に土下座していますが、実際には御三家の行列以外はそんな必要は無かったようです。
参勤交代に掛かる負担は甚大で、その負担軽減のために各宿場には(大名行列を多く見せる為)ダミーの家臣や中間などもいて、宿場を出るまで雇われることも多かったようですね。
一番の注意点は、別の大名行列との遭遇で、格式や石高などで対応が異なるので武鑑(大名名鑑のようなもの)を持った者が確認して対処してたということです。
又他国の領地を通過しなくてはならないので、贈り物や挨拶などにも気を使い、担当の武士は結構神経をすり減らしたのでは無いですかね。
行列の前を横切ることを供割りと言い、最大のタブーで横切った者は切り殺されても文句は言えませんでした。幕末の生麦事件はその典型ですが。
ただし産婆と医者に限っては、行列を横切ることもも許されていたと言う話も残っていますので、その辺は常識として処理されたのでしょうね。(当然声をかけて許可を求めてはいたのでしょうが)
(大名行列Wiki)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E
5%90%8D%E8%A1%8C%E5%88%97
言うにゃ及ぶさん、鼻の具合が良ろしくないようですが夏風邪は厄介ですので、くれぐれも御大事に。
2010/8/10 13:39 [168-823]

えー、今回は山鹿流陣太鼓で知られる山鹿素行について。素行がよかったか悪かったかについてはパス。
彼の若い頃の話。
人の心を見抜くのが名人級の僧がいた。
山鹿素行が仲間数人とこの僧が会って、仲間のほうは心を見抜かれて舌を巻いていた。
さて、山鹿素行の番になると、この僧は「勘弁してくれ。」と言って逃げ帰っていった。
後で仲間がわけを聞くと、「なに、こちらの胸中を口外せば、抜き討ちにするはずでござった。」と。
これは「甲子夜話(かっしやわ)」に載っている話です。
撮る造さんへ
>鼻の具合が良ろしくないようですが
かなり回復しております。
前の晩に、寝ていて耳の中がやけにむず痒くてね、これが関係していたかも。耳と鼻はつながっているともいいますし。(耳鼻咽喉科)
耳垢が出るのであれば関係ないのだけど、そういうわけではなかったからね。
ご用心、ご用心。
ともかく、心配していただいて申し訳なかったです。今はだいぶよくなりました。
2010/8/10 23:23 [168-825]

映画やテレビで知られる水戸黄門。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E
6%88%B8%E9%BB%84%E9%96%80
講談や歌舞伎でも昔からあったようですね。
で、その実像はというと・・・。
徳川光圀
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E
5%B7%9D%E5%85%89%E5%9C%80
ここでは、水子にされそうになったという話もありますね。
また、テレビでやってるように全国津々浦々を漫遊したという記録もありません。
若い頃はかなりの遊び人だったようで、吉原通いもやっていたようです。
こうなると、水戸黄門マン遊記か。
水戸黄門漫遊記では、「天下の副将軍」という肩書があります。
ところが、この肩書、実際には無かったようですよ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%AF%E
5%B0%86%E8%BB%8D
2010/8/12 22:31 [168-828]

江戸時代に旅は娯楽の一部だったようですね。伊勢参りなどは旅行代理店みたいなものが江戸にあったようで、そこでいろんな手配をしてくれていたようです。
旅に必要な道具とは
1.小田原提灯
2.火打石(携帯用火切金)
3.道中弁当箱
4.印籠(本来は印鑑入れですが薬入れとして)
5.手ごり(荷物入れ)または振り分け荷物(この中に、前述のもの、てぬぐい、替えの衣類などを入れた)
旅装束は、引廻し合羽、笠、手甲、脚絆、足袋などで着物のすそは折り上げて帯に挟んだらしいです。
中でも重要なのは、草鞋で二、三日ではきつぶしたようです。(足元を見るという言葉は草鞋の減り具合を見るということから来て、もともと駕籠やの用語だったとか)
(江戸時代の旅)
http://www.sakuracom.jp/~ikiiki/edonotab
i.htm
(旅の小道具)
http://www.page.sannet.ne.jp/rokano28/ed
o/tabi1.htm
(足元を見る)
http://gogen-allguide.com/a/ashimoto.htm
l
1日40Kmも歩いてゆくとは、現代人には無理かもしれませんね。(新幹線に乗るといつも、「江戸時代はここを歩いていったのだな」という感慨が浮かんできます)
2010/8/13 00:30 [168-829]

江戸時代の職業には、変わった名称のものがあります。
公人朝夕人(くにんちょうじゃくにん)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E
4%BA%BA%E6%9C%9D%E5%A4%95%E4%BA%BA
職務内容は見ての通り。
黒鍬(衆)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E
9%8D%AC
子連れ狼で登場しましたか。
御庭番の類似品かと思っていたら、違うのね。
しいて言えば、ドカチンマイスターといったところか。
保守を兼ねて時折書き込んでおります。この書き込みがいつまで続くのかわかりませんが、よろしく。
2010/8/15 00:26 [168-836]

江戸時代には何々藩とかありましたが、幕府直轄の天領という地区もありました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E
9%A0%98
wikiでは、天領という言葉は明治以降になってからということのようですね。
さて、この中で甲府は江戸中ごろまでは甲府藩でしたが、途中から天領に変わったようです。
そこで甲府勤番という言葉が出てきます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E
5%BA%9C%E5%8B%A4%E7%95%AA
できの悪い江戸詰めの旗本・御家人を排除するためにこの制度ができたようです。
松本清張の時代短編小説にもこれをネタにしたものがありました。
「山流し」と言うくらいですから、サラリーマンの左遷よりもきついようです。子会社への出向命令みたいなもんですかね。
甲州街道の途中には八王子というところがありました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E
5%B7%9E%E8%A1%97%E9%81%93
八王子千人同心
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E
7%8E%8B%E5%AD%90%E5%8D%83%E4%BA%BA%E5%90
%8C%E5%BF%83
内容は、見ての通りであります。
2010/8/17 14:55 [168-840]

江戸時代の剣豪といえば、まず柳生十兵衛が挙げられますね。
彼は祖父石舟斎が死去の翌年に生まれ幼少の頃より剣の才能を現したため、石舟斎の生まれ代わりとまで言われたそうです。
やがて13歳になると将軍継嗣となった家光の小姓となりますが20歳の時に家光の勘気を被り小田原に引きこもります。
3年後家光は再出仕を求めますが、父宗矩はなぜかその上意をかわします。
32歳になり再出仕するまでの足跡は不明で、そこに講談などにある隠密説の背景があります。。
実際には柳生門弟が各地の大名に仕えていて、そこを訪ねていたようですが、なぜか最強と言われたいとこである尾張の兵庫助利厳のところには行っていないようです。
父宗矩の死後、柳生家の相続に際して、領地を弟宗冬と分割していますが、これは異例なことで、その結果柳生家は大名ではなくなってしまいます。
幸い十兵衛には男子が無かったので、死後相続して宗冬が大名に復帰しますが。
なぜ分割したのかといえば、「それなりの働きが、勘気後にあったのではないか」と言うことになり隠密説に繫がったようです。
実際には家光という人は、性格が難しい半面、寂しがりやで、十兵衛にたいしても愛憎入り組んだ気持ちがあったのかも知れませんね。」
ところでこの縁側ですが、ここをロムっている方は中原統一さんのファンが多いのだと思います。
ですから、毎週程度には1行程度でも顔を出して欲しいと思っているのでは。
そこで硬いスレッドばかりではなく、ちょっと顔を出せるスレも必要なのではないでしょうか。このまま私や言うにゃ及ぶさんだけが書いているのでは、この縁側も長くは持たない気もします。
もし作るなら「中原統一 握手会」、「中原統一さんを囲んで」、「中原統一 愛の劇場」などではいかがですか。
2010/8/18 02:00 [168-841]

撮る造さん、こんにちわ。
柳生十兵衛というと、片目に眼帯といういでたちですが、これははっきりしていないようです。
映画・テレビ・小説では片目に眼帯という格好が当たり前になってますけど、実際のところはわからないみたいですね。
将軍家剣術指南役には、柳生家のほかに小野忠明という人がいました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E
9%87%8E%E5%BF%A0%E6%98%8E
「生来高慢不遜」とありまして、こちらは秀忠の勘気を被ったようです。
剣術指南役になったくらいですから、かなり腕は立ったでしょうね。
また柳生家と違って、将軍に剣術指南する時でも手加減などはせず、さんざんに打ちのめしたとか。
秀忠だけでなく、家光にも剣術指南をしていたそうです。
wikiには書かれてないこと。
家光が板橋へ狩りに出かけたおり、賊が人を殺して暴れまわるので、忠明に使いをよこして誅殺させようとした。
忠明は臥床していたが、駕籠に乗り板橋へ到着。賊の前にするすると近寄ると、あっという間に斬り伏せてしまった。
柳生十兵衛が家光に勘気を被る2年後に60歳で小野忠明は死去します。ここらへんに因果関係は無いのですが、世代・年代が十兵衛とはそれだけ違うということが言いたいだけです。面識は多分あったと思います。
2010/8/19 14:45 [168-844]

江戸の奉行所には、北町奉行所と南町奉行所が交代で業務を行っていました。一時的には中町奉行所もあったみたいです。
町奉行
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BA%E
5%A5%89%E8%A1%8C
ところが、大坂では北と南ではなく、東と西になってしまうんですね。位置関係からそうなるのでしょうが。
大坂町奉行
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E
5%9D%82%E7%94%BA%E5%A5%89%E8%A1%8C
2010/8/21 23:51 [168-847]

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お稲荷さん? | 人力車 |
土曜に歌舞伎を見に行ってきました。場所は新橋演舞場。
演目は「義経千本桜」でした。
主役は市川海老蔵さん。ちょっと前に結婚されたかたですよね。
話は源平の頃のやつですが、かつらや衣装なんかは江戸時代のものでした。
こういうのは、当時の人にわかりやすいように格好を合わせていたのでしょう。原作も江戸時代に作られたものですし。
歌舞伎に時代考証を要求するのは無理があるようです。
早変わりや、その他の仕掛けに工夫がありました。
人物が突然消えたり現れたりするのに、奇術やマジックを参考にしているように思いました。これに早変わりを組み合わせていました。
変わらないところといえば、しぐさなんかは何々家の伝統なんでしょうねえ。
立ち回りでは、京劇ほどではないにしても、端役がとんぼをうったりします。役者さんも大変だねえ。運動神経がいるよ。
それから、踊り。
歌舞伎の元祖は出雲の阿国。ややこ踊りを売り物にしていたくらいですから、踊りも歌舞伎の一部なんですよね。踊りで色々なものを表現するというやつです。
裏方さん
効果音なんかは、役者さんの動きに合わせてやらないと・・・。
役者が足をドンと踏み出す時に、効果音。役者が鼓を打つけど、これはしぐさだけ。裏で実際に鼓を打つ者がいて、役者の動きに合わせて音を出します。
最後は主役が宙吊りで独特のしぐさをしながら空中での退出でした。
市川海老蔵のしぐさの売り物のひとつにエビぞりがありました。
なるほど、それで海老蔵なのか。市川海老蔵はあっても、市川蟹蔵はないんだよね。
2010/8/22 12:13 [168-848]

江戸時代に入ってからの忍者について
家康は服部半蔵正成に伊賀組同心200人を率いさせます。
幕府の職制記録によると伊賀組同心の仕事は、江戸城西門(半蔵門)の警備、御広敷番(大奥の警備)小普請方(江戸城の屋根の修理)、明屋敷番(空き家になった大名屋敷の管理)、山里番(西ノ丸山里の門の警備などの任に当たったようです。
後に江戸に入った甲賀百人組は大手三之門の警備を主に担当しました。
又鉄砲百人組の中に一番甲賀組、二番根来組、三番伊賀組、四番青山組があるのでこちらにも鉄砲足軽として組み込まれたようですね。
大奥では、雪の日よく奥女中たちの雪合戦が行われました。その際警備の為、背を向けて警備に当っている伊賀組に対し、奥女中達は雪をぶつけたり背中に雪玉を押し込んだりして遊んでいたと言う話が残っています。
平和の時代、彼らの居場所はなく忍者の誇りさえ奪われていたのでしょうか。
後の島原の乱に際しては松平信綱が派遣された際、甲賀に残っていた(平和で仕事も収入も無い)忍者達が合戦に連れて行くように頼み、その一部10名ほどが軍勢に加わり原城探索や攪乱などに活躍しました。これが忍者としての最後の戦いといわれています。
服部半蔵正成の息子である服部半蔵正就は、父の後を告ぎ伊賀組頭領となりますが(部下をないがしろにして)部下が鉄砲を持って四谷の長善寺に立てこもった事件によって罷免されました。
その後彼は大阪夏の陣で行方不明(戦死?)になり服部半蔵の名は永久に失われることになりました。
なお正就罷免の際、配下の忍者は「大久保忠直、久永重勝、服部中保正、加藤正次などに分付した」と文献にあります。
このうち服部中保正は盗賊の取り締まり捕縛などに当たり、火附盗賊改のような仕事で活躍していたとの記録が残っていますので、彼に従った伊賀者は本来の仕事が出来たのかもしれませんね。
2010/8/24 00:02 [168-851]

撮る造さんから、半蔵門や服部半蔵などが出ていたので、江戸城の門に関する話です。
話はとんでもないところへ行く。
ロンドン警視庁のことをスコットランドヤードとも呼びます。
なぜこう呼ばれるのでしょうか?
答えは、警視庁を桜田門と言うがごとし。
ロンドン警視庁ができた場所の近くには、スコットランド王の離宮がありました。そのため、この一角をスコットランドヤードとも呼んでいたようです。
2010/8/24 15:06 [168-852]

本当にご無沙汰の運営者です。
もっとしっかりしなければ・・・ と考えてはいるのですが、何せ忙しくて。
海外業務拡張のための社員の募集から、進出先の国での連絡体制の構築などやることが増えている上に、増産体制の確立のために新規の下請企業の技術力や人員体制の確認に奔走しております。
毎日が本当に目まぐるしく過ぎていきます。仕事が終わるとぐったりしてネットにアクセスする元気もありません。
来月一杯はこの様な状況が続くものと思われますので、運営者不在の状況が続くことをお許しください。
さて、せっかくこのお江戸ミッドナイトに参りましたので、お話を・・・
タイミングを逸していますが、水戸黄門に関してお話します。
水戸藩は、尾張藩や紀州藩と異なり定府(じょうふ:江戸に常駐し、参勤交代が無い)の家柄でしたので、藩主は常時、江戸に居りました。
その為、江戸に居る徳川姓の人間として将軍の次に位階が高い存在だったために副将軍といわれることもあったようです。
公にその様な地位があった訳でも、職務があった訳でもなく、俗称として言われていただけです。
光圀公に関して言えば、日本で最初にラーメンや餃子を食べた人物とされています。
また、当時、忌み嫌われていた肉食についても積極的で、日本で最初にバーベキューパーティーを楽しんだ人物とも言われています。
五代将軍徳川綱吉が制定した生類憐みの令を無視しての反骨からの行動だったといわれていますが、美食家の藩主ではあったようです。
撮る造さんには色々と気を使わせてしまって申し訳ありません。できるだけレスするようにがんばります。
2010/8/24 18:15 [168-854]

江戸っ子の好きなもののうちのひとつに「そば」があげられます。
私は元来が西日本の人間なので、「うどん」文化圏育ちです。それでも、関東へ住み着いてからだいぶたつ。
まだ「そば」の良さについては、よくわからんです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%8E%E
9%BA%A6
なんでこんなものを調べようという気になったのか?
今の時期で麺類というと、冷麺系になります。それで薬味がひやむぎ・そうめんでは「しょうが」なのに対し、そばは「わさび」なんですよね。なぜ違うのだろう?
ここらへんはwikiを見てもわかりませんでした。
だけど、「ざるそば」と「もりそば」が違うってのは意外でしたなあ。やっぱり、うどん系の人間だわ。
あと、注目すべきは、江戸わずらいを回避するためにとありますね。まあこいつは取って付けたような理由でしょう。そばが江戸っ子の好みに合っていたいうのが本筋ではないですか。
そばを食べることによって、江戸わずらいの被害を軽微にとどめるとか。
江戸わずらいというのは、江戸っ子は精白米(銀シャリ)が好みだったようで、ビタミン不足になりやすかったらしいです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/
question_detail/q1210080317
これは江戸だけの傾向なんだそうです。
ほかの地域では、玄米や麦飯なんかを食べていたんでしょうかね?
この精白米にこだわるところは、明治以降になっても軍のほうへ反映されました。
うちでも「そば」はよく食べておりますよ。でも、どちらかというと、「そうめん」や「ひやむぎ」のほうが好きかな。
それから、冷やしたぬきうどんというのも食ったことありますが、こちらの薬味は「わさび」でした。
2010/8/25 16:44 [168-855]

ざるともりが違うのは東京生まれにとっては常識の範囲ですが、薬味の問題は山葵の産地が静岡以東に多いのが原因で、そうめんは関西圏由来の食べ物なのだからでしょうか、そばは関東圏なので山葵なのかな、と考えていますが。
そういえば、きしめんのざるもしょうがだったかと。
話はかわって、江戸時代の人は現代人よりかなり背が低かったようですが、持久力はあったようですね。
かの赤穂浪士が討ち入って、切りあい上野介の首級を取ってから(かなり疲労していた筈)引き上げましたが、そのルートを見ると両国→品川の泉岳寺まで13km位重装備(火事装束に武器)で歩いたという事になります。
討ち入ったのが午前4時ごろ、泉岳寺に到着が午前8時ごろ、というのはどう見ても時間的に無理があるような気がしますが。(4〜5時間は掛かるはずなので、どちらかの記憶違いでは)
それとも火事場の馬鹿力のようなものなのでしょうか。
引上げ途中の出来事(1)
http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/gisi
news08/news242.htm
(吉良邸から泉岳寺まで歩く)
http://www.sumida-gg.or.jp/arekore/SUMID
A001/S001-4.html
中原統一さん、無理をしない範囲でたまにレスをください。ロムっている人達が喜ぶと思いますので。
2010/8/26 00:22 [168-858]

撮る造さん、こんばんわ。
>討ち入ったのが午前4時ごろ、泉岳寺に到着が午前8時ごろ、というのはどう見ても時間的に無理があるような気がしますが。(4〜5時間は掛かるはずなので、どちらかの記憶違いでは)
「フィールズ氏の西洋忠臣蔵」という本を読んでみますと、こうあります。
交通信号のある今では大変な時間を食うが、その頃でも二・三時間はかかっただろう。
直線に近いコースで行ったんですかね?
それから、泉岳寺まで行くのに船で行くか歩いていくか意見が分かれたようですが、内蔵助の意見で歩くことに決まったそうです。
2010/8/27 22:41 [168-861]

時代劇で札差とくれば、だいたい場所は決まっております。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AD%E
5%B7%AE
蔵前というところがあるので、こちらのほうになります。札差はたいてい蔵を持っていたでしょうから、蔵前という名前になったのでしょうか?
http://tankyuclub.com/hudasashi/index.ht
ml
では、両替商はどこにいたのでしょうか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E
6%9B%BF%E5%95%86
江戸の古地図を見ますと、日本橋の西北西の方角に本両替町があったので、こちらのほうではなかったかと思われます。
銀座は新両替町とも呼ばれていたので、こちらにも両替商がいました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%80%E
5%BA%A7
2010/8/30 16:34 [168-864]

相撲でおなじみの国技館は、前は蔵前にありましたが、現在では両国にあります。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E5
%9B%BD_(%E5%A2%A8%E7%94%B0%E5%8C%BA)
両国という地名は隅田川が下総と武蔵の境目で、両方の国にまたがっているからなんだそうです。
さて、相撲における横綱の歴史は江戸時代まで遡ります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E
7%B6%B1
ただし、当時は名誉称号みたいなものでして、番付には反映されませんでした。
番付に横綱が大関の上位として出てくるのは、明治の半ばすぎてからでした。
2010/8/31 22:37 [168-867]

(お庭番について)
お庭番というのが時代劇に良く出てきます。ただ水戸黄門や家光の時代を描いたものにも登場しますが、実際には8代将軍吉宗が紀州から連れてきた忍者が始まりです。
吉宗は将軍の座に着くと、紀伊藩からお供させた者たちを御家人に列させます。この中に紀伊藩薬込役たちがいました。
薬込役とは銃に弾を込める役目という意味ですが、これらの者たちの出自は甲賀者で、本当の任務は隠密でした。
そして従来の江戸城警備の広敷伊賀者などと名目上は同じながら、実際は将軍独自の情報機関としたのです。
なぜかといえば、(それまでの将軍と違い)御三家初の将軍として紀州からきた吉宗にとっては、老中以下の幕臣もそれほど信用するわけには行かず、彼らを通した情報のみではたんなる傀儡になってしまうので、自らの政治を行うためには余計なフィルターを通さぬ情報が必要だったのでは。
当然これら幕府重臣のコントロールのためのネガティブな情報も探っていたのでしょうが。そしてやがて大名などの探索などにも用いられるお庭番という正規職制となって行きます。
お庭番の内密御用には2種類があり、ひとつは江戸近郊探索の「江戸地廻り御用」でもうひとつが遠地の探索の「遠国御用」でした。後者が薩摩藩などの探索に当たっているもので、「蘇鉄問答」などの逸話は有名ですね。
(蘇鉄問答)
http://www.01.246.ne.jp/~reki127/index.r
ekitan-35.html
(お庭番Wiki)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E
5%BA%AD%E7%95%AA
2010/9/1 23:40 [168-870]

ちょっと前に赤穂浪士の討ち入りの話が出ていたので、それに関する話を。
四十七士とは言いますが、実際に討ち入ったのは46人。これに対して、吉良家の護衛役が51人。ほぼ互角といっていいでしょう。
51人のうち22人が当番。29人が非番。非番といっても、屋敷内にいるわけですから、寝ていたか酒を飲んでいたか何かでしょうね。
ところが、吉良側の死者が16人で、重軽傷者が24人。戦わずして逃げた者が11人。赤穂側の被害は軽微なものでした。
寝込みを襲われて防戦一方だったという理由もあるでしょうが、ほかにも理由がありそうです。
元禄というと、江戸初期とは違って荒々しい雰囲気はありませんでした。江戸初期は戦国時代のなごりが少しは残ってましたからね。
武士が仕官をしようと思うと、軟弱といっていいのか、体育会系(武官)よりも文科系(文官)のほうが有利だったものと思われます。要するに、剣術よりも読み書き・そろばんのほうが重要だったのでしょう。
吉良側でも用心棒を雇っていただろうと思うんだけど、剣術の腕に自信はなくとも金目当てで飛びついた侍もいたんじゃないのかなあ。
これに対して赤穂側は準備万端でした。
高田の馬場の決闘で知られる堀部安兵衛(旧姓中山)は決闘の経験から、着込(鎖かたびらみたいなやつ)を着用するようにアイデアを提供しました。
例のユニフォームは敵味方識別用なんでしょうね。
装備が違うし、集団戦法というか、仲間が不利になったら味方が応援にかけつけるとかしましたから。チームワークも抜群だったわけです。
なお、赤穂浪士のユニフォームですが、これが後になって新撰組がデザインを借用するわけです。
幕末ともなると、元禄とは雰囲気が違って剣術道場も大はやり。
NHKの大河ドラマで坂本龍馬をやってる関係か、北辰一刀流・玄武館の人気が急上昇だそうです。
2010/9/2 17:34 [168-872]


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お久しぶりです。
言うにゃ及ぶさん、蔵前という地名は大川(隅田川)に沿って幕府の米蔵が3つ並んで建っていたことから、「大川の蔵」と言うと幕府の蔵のことを指し、言葉の通り「蔵の前辺り」ということで蔵前になったのではないでしょうか。
「鬼平」か「剣客商売」に書いてあったと思います。
前スレでわからなかった大八車の大きさのことですが、幅が1間もあったら一人の人間では使い回す事もできないだろうと思いましたところ、実物を見ることができまして、やはり半間くらいが良い所だと思います。
江戸時代の話とは少しズレますが、太平洋戦争後、GHQが日本の政治家に説明して理解させるのに一番苦労したのは「シビリアンコントロール」(文民が軍隊の指揮権を持って動かすこと)だったそうです。文明開化による民主主義は正しく理解されておらず、軍隊が勝手に動いて戦争をしていた。それを日本人は当たり前だと思っていたようです。
江戸260年間、それ以前から、武士が政府を立てて政治をしていたわけですから、武士(軍人)=政治家というのが当たり前というふうに捉えられていたと言いましょうか、武士が政治家と軍人に別れたけれども、本当は政治家(政府)が軍隊を統制しなければならないのに、元々は同じだから別れたら、それぞれに動くと考えられたのでしょう。
明治以降、日清戦争のころまでは薩長(旧藩)の年功序列から、まだ政府により軍隊がコントロールされていたようですが、政治家も庶民も文民統制を理解していませんから、軍隊はどんどん勝手に動いていってしまったようです。
2010/9/4 05:42 [168-875]

忠臣蔵の話を書き込んだので、それに関わる話です。
歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」の十段目に天野屋利兵衛が出てきます。
「天野屋利兵衛は男でござる。」と大見得を切るやつです。
確かに天野屋利兵衛は実在してましたが、忠臣蔵とは全く関係のない人です。
では、どうして「仮名手本忠臣蔵」に天野屋利兵衛が登場したのでしょうか?
実は天野屋さんは歌舞伎のスポンサーでもありました。歌舞伎の収入源が木戸銭だけってわけじゃないようです。
「仮名手本忠臣蔵」の作者は竹田出雲でしたから、何らかの圧力をかけて十段目を作らせたのかも。
いってみれば、「仮名手本忠臣蔵」の十段目はコマーシャルみたいなもんでしょうね。
歌舞伎ついでに、市川團十郎の屋号が成田屋。初代市川團十郎の宗派が成田山新勝寺。別名成田不動あるいは単に成田山とも呼ばれます。成田屋の由来はそこにあるわけでして。
成田不動さんは江戸っ子にも人気がありました。その理由はいくつかありますが、市川團十郎の屋号もそのうちのひとつと考えていいでしょう。
国民的スターがCMやってるようなものですからね。
さて、歌舞伎から話は飛んで、滑稽本作者の式亭三馬。
彼は自宅では薬や化粧品を販売していました。ところが、あんまり売れないものだから、出版物の登場人物に売品の宣伝をやらせたんです。これが当たって、店の商品が売れるようになりましたとさ。
宣伝もバカにはならないね。
チャンツンさん、こんばんわ。
蔵前の解説、ありがとうございました。米蔵があったのですか。
>文明開化による民主主義は正しく理解されておらず、
文明開化で入ったのは、科学技術や衣服やその他ですが、民主主義はどうだったかなあ。
自由民権運動とかありましたけど、どちらかというと弾圧される傾向にありました。
ただし、方法論としての憲法・議会・選挙などは後に採用されました。
民主主義といえば、イギリス・フランス・アメリカあたりですかね。
ところが、明治憲法の制定にあたって参考にしたのはドイツ(プロイセン)のものでした。ここは民主主義ではなかったはずです。
日本や日本人に民主主義は似合わないという判断だったのでしょう、当時としては。
民主主義に魅力を感じていたのであれば、イギリスの憲法を真似すればよかったのですよ。
明治憲法と軍との関わりでいくと、統帥権干犯の問題がありました。明治憲法では輔弼という言葉が使われてました。
ところが、これがやっかいなやつで、権限の問題がごちゃごちゃになってしまうんです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%94%E
5%BC%BC
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E
5%B8%A5%E6%A8%A9
それから、軍人あがりの総理大臣もいましたよね。これじゃあ文民統制は無理だわ。
これには東洋的な考え方が少しは影響しているかも。
孫子の兵法で知られる孫武の逸話として、
「一たび将軍として任命を受けた以上、軍中にあってはたとえ君命でも従いかねる事もございます」
というのがあるくらいですからね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E
6%AD%A6
視野が広い将軍でなおかつ視野が狭い国家元首だったら、それでもいいのかもしれないが・・・。
2010/9/4 21:37 [168-876]

書き込むことがないのと脱線ついでに、明治と民主主義について追加の書き込みです。
明治の頃には、和魂洋才という言葉がありました。これに対応するのが、洋魂洋才です。
この頃は、洋才は必要だったでしょうが、洋魂はそんなに必要とはしてなかったんじゃないかな。
洋魂といっても色々あるんでしょうが、民主主義もそのうちのひとつじゃないかと思います。
明治の政治家に森有礼という人がいました。彼の主張は、「英語を日本の国語にしよう。」というものでした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E
6%9C%89%E7%A4%BC
英語教育をやる分にはいくらやってもらってもかまわないが、英語を公用語にするのはちょっとやりすぎだと思うね。
外人さんに聞いても、「やめといたほうがいいんじゃないの。」という意見でした。
日本固有の文化を捨てられるのか?
結局はボツになったようですけど、英語を日本の国語にするというのも、洋魂の導入ということになるんでしょうね。
明治がややドタバタした時代なら、大正になるとやや落着きが出てきます。
この頃には、大正デモクラシーというのがありました。民本主義とも言われてましたが、これはデモクラシーを翻訳した言葉です。民主主義じゃなかったんですね。
もちろん、政治主導で行われたものではありません。中心となって活動したのは学者さんでした。
その中で、「天皇機関説」というのが出てきまして、これが右翼を激高させてしまうわけです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E
7%9A%87%E6%A9%9F%E9%96%A2%E8%AA%AC
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E
7%9A%87%E6%A9%9F%E9%96%A2%E8%AA%AC%E4%BA
%8B%E4%BB%B6
ただし、昭和天皇は天皇機関説には理解を示しております。周りがね・・・。
2010/9/5 23:56 [168-878]

えー、またしても明治の話です。今度は民主主義は関係ありません。
明治の中ごろに、犬養毅という政治家が書いた記事をめぐって記者に決闘を申し込まれたことがありました。
結局、決闘はされないままに終わったのですが、これを機に「決闘の是非」をめぐって議論が沸騰。さらには、あちこちで決闘の話が持ち上がってきました。
そこで、明治政府は明治22年、決闘に関する処罰令を公布した。2年以上5年以下の重禁錮罪だったそうです。
当時は、「決闘は文明の花」などと言って粋がっていた西洋かぶれがかなりいたようです。
ところが、江戸時代にも似たようなことはあったわけです。果たし状を送りつけて果し合いとかね。
武器が刀であるか、ピストルであるかの違いだけでしょう。
決闘が西洋の「おはこ」とは限らないわけです。
高田馬場の決闘なんかは有名ですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E
7%94%B0%E9%A6%AC%E5%A0%B4%E3%81%AE%E6%B1
%BA%E9%97%98
昔、東映のチャンバラ映画でこれをネタにしたものがありましたが、話を面白くするため仇討ふうに脚色したものでした。その関係で、高田馬場の決闘を仇討であると勘違いしている人がいるかもしれないが、これは決闘です。
荒木又右衛門がやった鍵屋の辻の決闘、こちらは仇討になります。
なお、明治政府は明治6年に仇討禁止令を出しております。
2010/9/7 22:59 [168-881]

江戸や東京には「谷」という字が付く地名が意外と多いです。
渋谷・日比谷・世田谷・千駄ヶ谷・四谷・市ヶ谷・幡ヶ谷・鶯谷・保谷など。
範囲を広げて神奈川へいくと、保土ヶ谷があります。
埼玉では、熊谷・深谷・越谷・鳩ヶ谷などがあります。
まだほかにもありましたかね?
関東平野とは言うけれど、東京・江戸では細かい起伏が多くて何々坂という地名も多いです。
そういった関係で、やや窪んだ地域に「谷」という字を付けたのでしょうか?
山奥で山と山に挟まれた川のあたりを渓谷と言いますが、これとはちょっと違う「谷」になりますか。
名古屋弁で、「〜だがや」というのがありますが、これとは全く関係ないと思います。
2010/9/8 20:22 [168-884]

今回は三度笠についてです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E
5%BA%A6%E7%AC%A0
wikiにあるように、飛脚から来ているようです。
wikiには書かれてないこと
三度飛脚は町飛脚のことですが、これが段々発展して飛脚の回数もふえてきました。三度とは限らなくなったわけです。
だけど、三度飛脚の名前だはそのまま残ったようですね。
2010/9/10 22:48 [168-886]

江戸時代には、江戸城内で家紋の誤認による殺人事件がありました。
細川九曜(ほそかわくよう)
http://www.manyou-kumamoto.jp/contents.c
fm?id=457
犯人である板倉勝該(いたくらかつかね、正確には板倉修理勝該)の動機は、主家である板倉勝清が勝該を強引に隠居させようとしていたので恨んでいたということです。
勝清が隠居させようとしたのは、勝該が極端な癇癪持ちだったので、分家のお家安泰のためだとか。
それにしても、九曜紋と巴九曜紋を見間違えるとは、板倉修理は余程の近眼だったのか?(確かに似てはいるけど)
薄暗い厠で起きた事件なので、見間違えしやすい状況にはあったかもしれない。
2010/9/12 19:06 [168-889]

チャンツンさん、こんばんわ。
正解かどうかわかりませんが、西日本では「てんぷら」というと二通りの意味がありまして、ややこしいです。
ひとつは、衣を付けて油で揚げるやつです。こちらのほうがイメージとしては一般的でしょうねえ。
もうひとつは、「薩摩揚げ」のことも「てんぷら」というんです。
「おでん」の材料で、薩摩揚げの中身に「ごぼう」や「いか」が入ってるやつを使いますが、略称がそれぞれ、「ごぼ天」・「いか天」になってしまうんです。
具の無い薩摩揚げだけのやつで平たいやつは、「平天」になるんですよね。
衣を付けて油で揚げたやつでも、「ごぼ天」や「いか天」と同じ名前のものがあるんです。
だから、話がややこしい。
2010/9/13 19:41 [168-892]

チャンツンさん、こんばんわ。
うどん粉ですか。
うどん粉も小麦粉の仲間なんですよね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E
9%BA%A6%E7%B2%89
要するに、天ぷら粉でもなければメリケン粉でもない、国産の小麦粉を衣に使ってるってことですね。
小麦粉や天ぷら粉でなく、パン粉を使って揚げたものがフライです。トンカツもこの仲間です。
天ぷらは天つゆで、天つゆが無ければ醤油で味付けしますが、フライはソースで味付けしますね、自分とこでは。
麺類にのっける場合は、醤油やソースは必要無いですが。
それはそうと、徳川家康の死因が鯛の天ぷらによる食中毒だということですけど、近年は胃癌によるものだという説が強くなってるようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E
5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7
クイズ、どうもありがとうございました。
2010/9/13 21:07 [168-895]

今回は佃煮についてです。
「つくだに」と言葉で聞くと、「付くダニ」であんまりいいイメージがないのですが、「佃煮」という文字を目で見れば、「ああ、あれか。」ってなもんです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%83%E
7%85%AE
wikiを見ると、甘露煮のようですね。
だけど、私のイメージとしては、「海苔の佃煮」なんですよね。
言葉の由来は、江戸と大坂の二種類があるようです。
佃 (東京都中央区)
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%83_(%
E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E4%B8%AD%E5%A
4%AE%E5%8C%BA)
海苔の佃煮はご飯によく合うわけでして、ほかにおかずが無くともこれだけでいけますね。
昆布の佃煮は握り飯の具としては、個人的に好きなほうです。
2010/9/16 10:34 [168-901]


クイズの答えは・・・・・必要無さそうですね。
wikiを見たら、載っていました。
失礼しました。
言うにゃ及ぶ、さん。
うどん粉というのは一般的に通じると思ってそう表現したので、特に種類にこだわったわけではありません。練り物なのか、違うのかが区別できれば良いと思っただけです。
それから、さつま揚げをてんぷらと言うかどうかですが、過去に仕事において九州の人とも何人も付き合ったことはあります(福岡、長崎、佐賀、大分、熊本、もちろん鹿児島も)が、さつま揚げのことを「てんぷら」と呼ぶのは鹿児島以外の人では少なかったと思います。
私の個人の付き合いの範囲の中での話です。
2010/9/16 21:02 [168-903]

江戸の石川島には人足寄場がありました。
http://www.digistats.net/doc/isj.htm
http://ksei.exblog.jp/9023055/
チャンツンさん、こんばんわ。
薩摩とくれば薩摩揚げもあるのですが、やっぱり芋のほうを連想するのが一般的かもしれないです。
2010/9/16 23:41 [168-904]


「はて?」
さつま揚げを「丸十」と言う話は聞いたことはありませんが?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E
3%83%84%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%A2
2010/9/17 00:04 [168-905]

チャンツンさんへ
>さつま揚げを「丸十」と言う話は聞いたことはありませんが?
私もさつま揚げを「丸十」だとは言っておりませんが。
>正解かどうかわかりませんが、
と断ってあります。
さらに、
>やっぱり芋のほうを連想するのが一般的
としてあるので、こちらのほうが正解という意味で書き込んだのですが。
書きようが悪かったかな?
チャンツンさんの知っている店では、芋天をうどん粉で揚げているってことですよね?
2010/9/17 09:54 [168-906]

サツマイモの話が出ていたので、青木昆陽さんの名前も出しといたほうがいいでしょうね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E
6%9C%A8%E6%98%86%E9%99%BD
サツマイモは飢饉対策に効果があったようです。
2010/9/20 18:25 [168-913]

鬼平で知られる火付盗賊改方についてです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E
4%BB%98%E7%9B%97%E8%B3%8A%E6%94%B9%E6%96
%B9
wikiを見ると、最初に盗賊改ができて、次に火付改ができたみたいですね。
その後、両組織は廃止されましたが、再び盗賊改が復活し、それに博打改が加わる。次に火付改が復活して火付盗賊改となり、博打改は町奉行へ移管と。
社会情勢に応じて組織の改編が頻繁に行われたみたいですね。
盗賊改の初代長官が中山勘解由ですか。
内藤勘解由なら、すぐにピンときます。大江戸捜査網のほうでしたね。彼の役職は旗本寄合ということで、ほぼ無役に近いです。まあ実在の人物ではないと思いますが。
2010/9/21 23:12 [168-916]

今回はデパート(百貨店)についてです。
三越(Since 1673)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E
8%B6%8A
白木屋(Since 1662)
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6
%9C%A8%E5%B1%8B_(%E3%83%87%E3%83%91%E3%8
3%BC%E3%83%88)
ここは既に無くなっております。
高島屋(Since 1831)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E
5%B3%B6%E5%B1%8B
元は京都の出でした。
そごう(Since 1830)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9D%E
3%81%94%E3%81%86
元は大坂の出でした。
伊勢丹は明治になってからできたもの。(Since 1886)
今では三越と経営統合されておりますね。
戦後の物の無い時代は、こういった店ははやりました。ここへ行けば欲しい物が必ずあったから。
子供の頃よく行ったのは、おもちゃ売り場でしたかね。屋上には小規模ながらも、遊園設備がありましたし。
それが、ダイエーなどの大型スーパーに主役の座を奪われてしまいます。今では、スーパーよりもコンビニという時代になってしまいました。これも時の流れですかね。
デパートも、今ではどちらかというと、衣料品店・洋品店の寄せ集めみたいな感じです。
元々が呉服屋さんから発展したものですから、原点回帰みたいなもんですかねえ。
2010/9/23 13:42 [168-920]

日本史の教科書で、江戸時代に「武断政治」やら「文治政治」やらが出てきます。
どうもね、歴史の専門用語というのはいまいちピンとこなくて。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E
6%B2%BB%E6%94%BF%E6%B2%BB
確かに、江戸初期の頃は大名の改易・廃絶などを頻繁にやっておりました。なるほど、これを「武断政治」と言うのですか。
その結果、侍の失業率が上がって政情不安に。ために、由井正雪が内乱を起こすわけです。
戦争が無くなったわけですから、武官はあんまりいらないってことなんでしょうけど、これを急激にやるとこんなふうになっちゃうんすね。
改易
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%B9%E
6%98%93
2010/9/25 00:39 [168-925]

子供の頃にテレビで「大江戸の鷹」という時代劇を見たことがあります。
オープニングが、江戸城と思われる石垣と堀がありまして、そこを鳥が飛んでいくんです。鷹なのかな。城そのものは、どうだったかな〜、見えたかな〜。
原作が山手樹一郎だったように思うけど、wikiを見てもそんな作品は無いですね。記憶違いかも。
また、同じタイトルで映画のほうもありました。原作はわかりませんでした。
主人公は「浜町の旦那」と呼ばれる浪人者。
それで、浜町といったらどこなのか調べてみましたら、ありました。日本橋のほうだったんですね。
ほかには、「半七捕物帳」で、三河町の半七という人が出てくるんです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E
4%B8%83%E6%8D%95%E7%89%A9%E5%B8%B3
ほうほう、三河町というのは神田のほうでしたか。
そういえば、銭形平次も神田の明神下ですから、近いじゃあござんせんか。
2010/9/25 19:59 [168-926]

えー、補足です。
銭形平次は架空の人物ですが、半七のほうは実在の人物です。
半七老人の話を元に作られたのが、「半七捕物帳」。
小説の話なので、こういう区別をしておいたほうがいいでしょうね。
2010/9/26 12:41 [168-928]

「火事と喧嘩は江戸の花」とは言いますが、こんな喧嘩もありました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%81%E
7%B5%84%E3%81%AE%E5%96%A7%E5%98%A9
http://homepage2.nifty.com/rekishi-no-ta
bibito/megumi%20no%20kenka.html
町火消しになぜ顔パスが効くのか?
町火消しは江戸の名士でした。纏(まとい)持ちなんかモテたでしょうなあ。
江戸の三火消と消防技術
http://www.gakken.co.jp/kagakusouken/spr
ead/oedo/06/kaisetsu1.html
それにしても、上記の喧嘩はやりすぎ。いくら喧嘩好きといってもね。
2010/9/27 22:06 [168-937]

日本史の教科書で、「入鉄炮に出女」という言葉がありました。もう忘れているかたもいるんじゃないでしょうかね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A5%E
9%89%84%E7%82%AE%E5%87%BA%E5%A5%B3
それでは、クイズです。解答や解説も付いてますよ、下のほうに。
江戸時代「大名行列クイズ」
http://homepage1.nifty.com/moritake/syak
ai/rekisi/gyouretu-quiz.htm
2010/9/28 23:57 [168-941]

江戸時代における海外への窓口であった出島についてです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E
5%B3%B6
日本は鎖国をしていましたが、完全なものではなく、細々とではありますが、出島が窓口になっていました。
まあ、象が日本へやってきたぐらいですからね。
西洋の情報もわずかながら、入ってきてるわけです。
そのほかにも、朝鮮半島からは朝鮮通信使が日本へやって来ました。ただし、こちらは出島経由ではありません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E
9%AE%AE%E9%80%9A%E4%BF%A1%E4%BD%BF
2010/9/30 20:32 [168-944]

庚申待(こうしんまち)というのをご存知でしょうか?
http://www.weblio.jp/content/%E5%BA%9A%E
7%94%B3%E5%BE%85%E3%81%A1
概要は上記の通りであります。
通夜から死体と弔いの感覚を取り除いたようなもんですかね。
落語にもこれをネタにしたものがありました。
http://blog.livedoor.jp/cupliv/archives/
50172632.html
侍でも何でもいいけど、通勤(城・役宅)途中で同輩から面白くもない・興味の無い世間話をしきりに話しかけられてうざったいと思ったとします。こんな時に使うセリフがこれ↓。
「そんな話は、庚申待の時にでもしておくれ。」と、はね返すわけです。
2010/10/1 16:24 [168-947]

こんなニュースがありました。
キアヌ主演で「忠臣蔵」リメーク
http://news.goo.ne.jp/article/sponichi/e
ntertainment/kfuln20101002006001.html
「フィールズ氏の西洋忠臣蔵」という本では、忠臣蔵は西洋人でも理解できるとしています。
フィールズ氏という人はオーストラリア系のハーフです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E
3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%83
%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA
ただし、彼が参考にしたのは、真山青果描くところの「元禄忠臣蔵」です。これを前提としての話です。
忠臣蔵はソナタ形式だと言ってます。
第一楽章 : 大評定
第二楽章 : アンダンテ、赤穂城引き渡し
第三楽章 : スケルツォ、大石の放蕩、時々不協和音
第一楽章 : アレグロ、討ち入り、途中に泉岳寺までのマーチ
ただ、細かいところでは理解に苦しむところがあると言ってますが、これは枝葉末節のことだともしています。
討ち入りの前後で周辺住民に挨拶回りをしているところとか。
また、大石内蔵助はアメリカ人にもいそうなタイプだとも言ってます。
さて、上記の映画はどのような作りになっているのでしょうか?
2010/10/2 19:07 [168-951]

10月からタバコが値上がりしました。
そこでタバコ関連を。
煙管(キセル)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%99%E
7%AE%A1
タバコが日本へ入ってきたのは戦国時代だそうで、普及したのが江戸時代でした。
戦国時代なら、淀殿や伊達正宗あたりですかね。
私も喫煙はしますが、これも世の中の流れですかね。肩身が狭いです。
一応買いだめしてあるので、10月からは買ってないし、買うつもりもないです。
箱が残り少なくなったら、禁煙を考えてみます。
煙が吸いたいわけじゃないんでね、「煙の出ないタバコ」等で代替えとしますか。
電子タバコは論外。
外見上はタバコを吸ってるのと同じ。出てくる煙に害は無いけど、変に間違えられやすいです。ニコチンが無いから、薬理作用も無いだろうしね。
ネオ・シーダーという喉の薬も同じ理由で、勘違いされやすいと思います。
ともかく、箱が無くなるまでは吸ってみます。(吸っちゃえ、吸っちゃえ、吸っちゃえなっと ♪)
同じ吸うなら、やっぱりオッパイのほうがいいのかなあ。
健康のため、吸いすぎには注意しましょう。
2010/10/7 00:00 [168-963]

東洲斎写楽
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E
6%B4%B2%E6%96%8E%E5%86%99%E6%A5%BD
http://atsushikumamoto.hp.infoseek.co.jp
/page039.html
東洲斎写楽というのは謎の人物でありますが、wikiによると、写楽は俗称・斎藤十郎兵衛らしいということのようですね。(写楽せえ)
前の書き込みで、伊達正宗とあるのは伊達政宗の間違いですね。
2010/10/8 13:58 [168-965]

平山行蔵という名前はどこかで聞き覚えがあるのだけど、よく覚えていない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E
5%B1%B1%E8%A1%8C%E8%94%B5
wikiを見ると、「3尺8寸(約115cm)という長い刀を差していた。」とあります。
竹刀と同じ長さだけど、邪魔くさくくないのか? 抜刀もしにくいだろうしね。
また、「長さ4尺・幅3寸の居合刀を抜くこと」とありますから、背が低いわりにはすごいね。
2010/10/14 12:19 [168-976]

言うにゃ及ぶさん こんばんは
平山行蔵ですか。本名は潜というように父は幕臣伊賀衆30俵二人扶持です。
六代前まで遡ると平山清左衛門は服部半蔵配下という事ですから、忍者の血統ですね。
父から剣術を学んだのを皮切りにあらゆる武術を極め、軍学、砲術までも。
知識の面でも優秀で、「海防問答」始め数百の書物を書き残しています。
その生活ぶりから奇人としても有名ですが、鍛錬や食事などストイックな戦国時代そのままの生活をしようとして周りから奇妙にとられていたようです。
その気骨を愛する人とは交流があり、勝海舟の父小吉や直心影流の男谷精一郎、神道無念流斉藤弥九郎などとは交流があったと記録にあります。いずれも豪快な人ですが。
文化四年(1807年)ロシア船が利尻島に上陸する事件がありました。その時に自ら蝦夷地に乗り込む意見書を幕府に提出するも断られます。
3年後大砲の試射を行おうとして幕府に許可されず、不満を漏らしたので疑惑をもたれます。
そのことを知らされた行蔵は翌日に道場をたたんでしまいます。
その後、彼の行動はあまり知られていませんが70歳まで生きたそうです、最後の剣豪と言ったところですか。
(平山行蔵)
http://www3.ocn.ne.jp/~zuiun/83hiraya.ht
m
2010/10/15 00:06 [168-978]

撮る造さんへ
平山行蔵のwikiを見ると、伊賀組同心とありますから、忍者の系統でもあります。
それどころか、かなりの多芸多才で、なおかつ変人ですか。
ほかに覚えている人名としては、曲垣平九郎ですかね。
曲垣平九郎と愛宕山 ・愛宕神社
http://www.juken-net.com/magajin/maga/49
.htm
このスレッドもあと残りわずかです。
私が一回削除したのがあるので、あと3回ではなく、あと2回書き込みができると思います。
最後の締めは、例によって、中原さんにやっていただこうと思ってます。
まあこれも、できたらの話です。
2010/10/15 14:23 [168-979]

「水戸黄門」リニューアル
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/
media/101026/med1010260812000-n1.htm
ここで出てくる高松藩は四国なんでしょうか。
藩ではなく家
http://homepage3.nifty.com/motokiyama/na
gai/nagai40.html
これを読んでみると、藩名には家名ではなく地名を充ててるようですね。
例えば、仙台藩で起きたのは伊達騒動という具合に。
さて、書き込みができるのはあと一回となりました。
最後の締め、よろしくお願いします。
2010/10/26 14:17 [168-1007]

誰も書き込みをしてくれないので、不肖私めが最後のトリを務めさせていただきます。
江戸文字
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E
6%88%B8%E6%96%87%E5%AD%97
勘亭流は、お客さんがどんどん中へ入ってくるようにと、字のほうも内側へ内側へと向いている。つまり、縁起をかついだ文字ともいえるでしょう。
また、わざと正しい字ではないものあるとか。
漢字で一画少ないとか、上へ突き抜けてはいけない棒が突き抜けてるとかね。
相撲の番付で、「蒙御免」という字があります。これは「ごめんこうむる」と読みます。
江戸時代に勧進相撲というのがありまして、その名残なんだそうです。
寺社奉行から興行許可をもらってますよという意味なんだそうです。
今では意味のないものになってますが。
話は現代へ飛んで、羽田空港に国際線が復活しました。国際線のほうには、江戸小路なる飲食店街があるそうです。
また、ほかの書き込みで紹介されてるかもしれませんが、東京は両国駅の近くに江戸博物館なるものがあります。
江戸に興味があるのであれば、こういったところへ寄ってみるのもいいんじゃないでしょうか。
この掲示板を見てるかたはそんなに多くはないでしょうが、ここまで見ていただいて、どうもありがとうございました。
私が立てたスレッドじゃないんですけど、私の書き込みがかなりの割合になっております。
このスレッドの第三弾があるのかどうか、こいつは私にもわかりません。
私のあずかり知らぬところであります。
2010/11/4 22:55 [168-1035]


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