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「縁側」-みんなが作る掲示板-からのお知らせ
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縁側をご利用いただく際のルール&マナー集を用意いたしました
ユーザーの皆様に楽しくご参加いただけるよう、主に投稿時の注意点などをまとめています。
ご投稿の前には必ずご一読をお願いいたします。詳しくはこちら⇒「縁側 ルール&マナー

紹介文

学校で学ぶ様なことでもなく、生活の知恵という程でもない、知っていても何の得にも役にも立たない知識。

でも、それらにはそこはかとないおもしろみがあったり、思わず唸ってしまう様な新鮮な驚きがあるかもしれない。
そんな「知識」求めてます。

具体的には、何も考えていませんが、どうぞ、皆さんのご存じのちょっとした知恵や蘊蓄を教えて下さい。
ジャンルや内容は問いません。どうぞ、よろしくお願いします。

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スレ主 白の龍さん  

こんにちわ。
まずは自己紹介。
しもうたやの白の龍です。

しもうたや はお江戸商人の憧れの商売。
西鶴はしもうたやについて 

節季勘定に遊行する町人、七つの蔵に備蓄小判があり、大節季払いと大名貸しを知らない町人

つまり、金貸しですね。
江戸ではある程度金がたまったら 金貸し になって悠々自適になるのが理想だったようです。

2010/4/1 15:17  [168-140]   

江戸時代ですか?

それでは、一つ書き込みします。
江戸の庶民(町人)の生活は、いわゆるその日暮らしでしたが、現代の庶民には無い大きなメリットを享受してました。
それは、税金が無かったのです。所得税も市民税も払う必要が無かったのです。
大工の留さんや八百屋の熊さん、飾り職人の八っあんなどは、税金を払うことなく暮らしておりました。

武士は、その収入を米に依存していたので、農民に税を課していました。
藩財政が苦しくなると商人に運上金などを課したりしましたが、一般の町民には最後まで税金を課すことはありませんでした。
それでも、警察機構(町奉行や火付け盗賊改め等)、消防機構(町火消し・大名火消し)、上下水道整備等の公共事業もそこそこ充実しており、ある程度のレベルで行政サービスも受けることが出来るという生活でした。

今よりも生活レベルや栄養・健康面での遅れはありましたが、それなりに生活は成り立っていたようです。

2010/4/1 22:47  [168-143]   

スレ主 白の龍さん  

良いですね。税金が無いのって。
でもその分地方に負担がかなりかかってるような・・・
今もそうですがね。

さてその庶民の住む裏長屋の平屋平均的な間取りは 九尺二間 2.7m*3.6m
と言われてます。

出稼ぎが多かったので圧倒的に男ばかりのお江戸ですから、
男一人にはこれで十分でした。

もちろん女性もいましたがかなり少ないですので、裏長屋に次に来る女性は、
ほぼいなかったでしょうね・・・。
女性のお化粧品、紅一匁金一匁と言われてます。
裏長屋住まいには到底無理なお買い物ですね。

こういう川柳があります。

「九尺二間に過ぎたるものは、紅のついたる○○○○」

さて○○○○は何でしょう?


2010/4/2 00:35  [168-144]   

こんばんは。

答えはさておき、「九尺二間」について「きゅうしゃくふたま」という間取りの話ではありません。
「きゅうしゃくにけん」という広さの話です。
間口が九尺(一間半・約2.7m)、奥行きが二間(約3.6m)の1Kと言えばよいでしょうか。

2010/4/2 01:29  [168-145]   

江戸時代から続いている料理屋さんて味は変わっていないのですかね。(神田の「いせ源」というあんこう鍋やさんに行ったときは味が濃すぎる感じでしたが。これが江戸の味?と思いました)
 あと有名なうなぎ屋さんなどで昔からたれを足して使っているのは、化学分析や衛生的にはどうなのでしょうね。(一応、気にしないで食べてますが)
 老舗の味って美味しいと思いますか?
(いせ源)あんこう鍋
http://www.isegen.com/ankou/

(うなぎ 前川)創業200年
http://www1.odn.ne.jp/unagimaekawa/

(名古屋 河文)創業400年
http://www.kawabun.co.jp/index.html

(笹乃雪)創業300年、豆富料理
http://www.sasanoyuki.com/tenpo/index.ht
ml


(王子 扇屋)ここの玉子焼きはおいしい
http://www.enjoytokyo.jp/OD003Detail.htm
l?SPOT_ID=l_00000853

2010/4/2 01:56  [168-147]   

スレ主 白の龍さん  

撮るぞうさんこんばんわ。

先の答えは 火吹き竹 です。

裏長屋に紅のついた火吹き竹(嫁に来る人は珍しく過ぎたるものだ)は似合和ないという事でしょうか。

まあ、1Kと言うか6畳一間ですが、ここにカマドやらおけやら仕事道具やらを置くと
かなり窮屈だったのではないでしょうか。江戸東京博物館に復元した長屋がありますが
かな〜り狭いです。子供入れて生活はかなり無理がありそうな・・・・。

でわ、少ないすくないといわれてる女性の割合。
その当時100万人を超える世界最大の都市 江戸。
武家の人数を除くと吉宗の調査によれば「54万人」

そのうちの女性の数は約 20万人 とされてます。(1733年)

野郎ばっかですね。。。。

2010/4/2 02:05  [168-148]   

撮る造さん こんばんは。

江戸の味は、濃いし、しょっぱいのだそうです。
たまり醤油が江戸庶民に受け入れられなかったため、ヤマサ醤油では濃いめの味に整えた醤油を発売し、江戸の庶民に受け入れられたようです。

当時の江戸庶民は朝早くから働き出しており、塩分の補給も必要で体が塩辛い物を要求していたのか、しょっぱい味が好まれたそうです。

あと、10時や15時のおやつの習慣も肉体労働者のエネルギー補給の必要性から生まれた習慣です。

2010/4/2 02:40  [168-149]   

白の龍さん

川柳ではなくて、どんな上の句にもつけられる有名な下の句として
「それにつけても、金の欲しさよ」があったような。

>その当時100万人を超える世界最大の都市 江戸。

歴史パズルという本によると、1721年に人口は100万を越え、さらにふえ続けたという。
1760年の世界主要都市の人口
北京 100万
ロンドン 60万
パリ 70万
江戸の人口はしっかりとはわからないけど、北京よりは多かったらしく人口では世界一の都市だったという。

>先の答えは 火吹き竹 です。

火吹き竹?
「やれ吹くドンドコ、それ吹くドンドコ、ドシコ、ドシコ。」って、あれですかい?

おう、もうこんな季節になったのか。早いものだの。
ふむ、江戸へ参るぞ。花見ぢゃ。
花見ができるのは、あさってぐらいかの。
満開は過ぎとるかもしれんが、ま、ええぢゃろ。

2010/4/2 11:12  [168-150]   

こんにちは。
昼の休憩を勝手に延長して遊んでいる戸締役です。(汗)

火吹き竹については、子供の頃に使用したことがあります。
炊飯器のスレで書いた、かまどを使っていた頃の話です。
長さが5〜60cmくらいの節を抜いた竹のことで、かまどの火口から中に差し込んで空気を送り込むために使用してました。

私の子供の頃は、またビニール管等も一般的ではなく、また、熱で簡単に変形してしまう品質だったため、耐熱性がビニール管よりもあった竹が、普通に売られていました。
そう言えば、物干し竿も竹を売っている頃でしたね。

江戸のお話です。
日本の花は「桜」ですが、これは江戸時代からのことで、それまでは「梅」の方が貴族社会や武家社会では好まれました。
花見の習慣が定着したのも、庶民化したのも江戸時代後期のことです。
東京では北区の飛鳥山公園での花見が有名かと思います。
江戸時代から、飛鳥山では庶民が花見に行き、お酒を飲んでのドンチャン騒ぎが許されていたのがルーツです。

江戸市中(朱引き地内)での花見は禁止されていましたが、当時の飛鳥山は朱引き地外で、江戸町奉行の管轄でなく関東郡代の管轄地であったので、お目こぼしされていたのです。
いわゆる不平不満のガス抜きとして認められていた様です。

2010/4/2 13:16  [168-151]   

中原統一さん

こんちわ。

>日本の花は「桜」ですが、これは江戸時代からのことで、それまでは「梅」の方が貴族社会や武家社会では好まれました。

私が学生の頃、古典の先生から和歌で花といえば桜のことだと教えられました。
あおによし・・・とか
ひさかたの・・・とか

これとは別の話なんですよね。

もちろん、梅の花もそれなりに存在価値はあったと思います。
福岡県に太宰府天満宮というのがあります。飛び梅で知られているところです。
ここの名物が、梅をモチーフにした梅ケ枝(うめがえ)餅。福岡県の県の花が梅です。

武家社会で嫌われていた花というと、椿でしたかね、花が落ちるところが首が落ちるようだと。ただ、これもはっきりしないですが。

>当時の飛鳥山は朱引き地外で、江戸町奉行の管轄でなく関東郡代の管轄地であったので

このことで連想するのは、関八州取締役ですかね。さらに連想をふくらませると、アメリカの西部劇で出てくる連邦保安官ですか。今のFBIの元です。

関東は領地の狭い旗本領が多くて、西部劇で言うところの「WANTED !」なる人物がほかの領地に逃げ込んだら、警察権力が及ばないんです。そんな関係で、博徒・やくざが跳梁跋扈した土地柄でもありました。
江戸は将軍のお膝元ですから、そんなこともないんですけど。
博徒・やくざが跳梁跋扈するには、小金を持った旦那衆がいないと話になりません。
上州では副産業として養蚕が知られてまして、そこから得られる現金収入を当てにして博徒が出入りする。そういった背景でできた話が国定忠治でした。

2010/4/2 15:01  [168-152]   

江戸で花見が一般に普及したのは八代将軍吉宗が隅田川の堤や飛鳥山に桜を植えさせて花見を奨励したことがきっかけといわれていますね。
http://www.chohoji.or.jp/promenade/sakur
a.htm


 当時の桜の名所といえば、隅田川、上野の山、飛鳥山が有名で、次いで浅草寺、谷中感応寺、芝増上寺、根津権現、などが挙げられていたようですね。
 
 江戸時代の行楽といえば、順拝というのもありました、六地蔵、六阿弥陀、五色不動などですが。さらに富士詣で、四万六千日といったお参りもありますね。
 こうしたお参りが盛んというのは、当時は病気や怪我になると大変だったという事もあるのかもしれませんね。

 両国にある「江戸東京博物館」に入ると江戸時代の生活のよく分かる実物大展示が一杯です。
(江戸東京博物館)
http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/


(六地蔵)
http://www.dentan.jp/6jizou/jizou.html

(六阿弥陀)
http://don-quijote.or.tv/special/6amida.
html


(五色不動)
http://www.tokyo-kurenaidan.com/gosgiki.
htm


(富士詣)
http://japanfestival.web.fc2.com/kanren/
fujiko/fujiko.html

2010/4/2 15:15  [168-153]   

あっ〜、長命寺の桜餅が食べたくなってきた!

2010/4/2 15:29  [168-154]   

桜餅といえば関東風と関西風がありますね。本家の長命寺の桜餅は皮で包んで餡が見えないので正確にはどちらでも無いですが。
 愛知には桜餅はあるのかな。(八丁味噌餡だったりして)

(関東風、関西風)
http://allabout.co.jp/family/seasonaleve
nt/closeup/CU20080310A/


(長命寺 桜餅)
http://r.tabelog.com/tokyo/A1312/A131203
/13002949/

2010/4/2 20:29  [168-155]   

>愛知には桜餅はあるのかな。(八丁味噌餡だったりして)
さすがに、それはにゃーでよ。(苦笑)

こちらで桜餅と言えば、やっぱり「道明寺」、つまり関西風ですね。
一部で、長命寺風の桜餅もありますが・・・。

それから、関東風・関西風と言いますが、関東風とそれ以外という感じで、桜餅に関しては、長命寺が少数派だと思います。

もち米を使用する道明寺の方が高級というか原価が高いですね。

2010/4/2 20:41  [168-156]   

今晩わ。

私は一時期愛知県の西三河地区に住んでたことがあります。現在は関東在住です。
その関係で、名古屋のお菓子なんかは少しは知っております。
大納言とかなごやんとか。ただし、食べたことはないんですけど。
ほかには、青柳のういろうなんかはよくCMでやってましたですね。今もやってるのか知らないですけど。

白・黒・抹茶、
 あずき・コーヒー、
  ゆず・さくら。

なーんてね。

桜餅まではわからないです。
お菓子ではないけど、守口漬けまでですかね、知っているのは。

江戸時代の頃は、砂糖は貴重品だったと思います。吉宗の時代にさとうきびの栽培が奨励されたとか言われておりますが、精白糖にしていたのだろうか。そこまでの技術があったかどうかは不明です。

それから、醤油の話が出ていたので。
醤油は別名「むらさき」とも言ってたそうです。語源は不明。
海苔の佃煮で江戸むらさきというのがあります。
愛知県へ来て、初めて「たまり」というものを知りました。刺身や握り寿司専用(外食)だったと思います。

2010/4/2 23:25  [168-157]   

スレ主 白の龍さん  

こんばんわ。
出遅れました〜ww。

むらさきと言うのは小皿に垂らしたおしょうゆの色が赤褐色だったため、
以来おしょうゆのことを「むらさき」と呼ぶようになったという説があります。

こういったものは関西物が重宝されてましたね。
価格もたいへん高価であったと言われてます。

さて、皆さん花見の準備はできましたか。
上野の山へ皆で行きましょう。
豪勢に深川芸者を連れて。

江戸時代、生意気でおませではねっかえりな威勢のいい娘を、
「おちゃっぴい」と呼んでました。
川柳にも「おちゃっぴい 湯番の親父 言い負かし」とあります。

江戸っ子にはおませで、大の男を言い負かすような女の子を可愛いと思って
受け入れてました。

吉原と違って深川はさっぱりした気性。素人らしさの残るのが売りです。
江戸の女は気風がさっぱりした江戸っ子気質。
その進化系、気風が良くていささか感情的、世間とずれても自分の意思を貫く
深川芸者気質が、江戸の庶民には大変好評に受け入れられました。

その深川芸者気質の事を「きゃん」と呼びます。

おちゃっぴい きゃん となんか現代でも通じる言葉ですねww。

でわ、いざ上野へ〜〜

2010/4/3 01:25  [168-158]   

スレ主 白の龍さん  

>むらさきと言うのは小皿に垂らしたおしょうゆの色が赤褐色だったため、
>以来おしょうゆのことを「むらさき」と呼ぶようになったという説があります。

すいません。江戸時代は赤褐色の色を紫と呼んでたようです。

2010/4/3 01:26  [168-159]   

こんばんは。
桜について、書きそびれてました。

>私が学生の頃、古典の先生から和歌で花といえば桜のことだと教えられました。
>あおによし・・・とか
>ひさかたの・・・とか

>これとは別の話なんですよね。

例えば、家紋では、梅の意匠の家紋が古くから沢山ありますが、桜の意匠の家紋は江戸になってから使用される様になりました。
桜は観賞する花としての価値は見出されていましたが、一族の繁栄等の権威付けというか、願望を託す花ではなかったのだと思います。

本居宣長の和歌が桜のイメージを決めている様に思います。
散り際の潔さに美学を見出した心が、日本人故なのでしょうかね?

2010/4/3 01:48  [168-162]   

スレ主 白の龍さん  

「都々逸」・端唄「深川」
http://www.youtube.com/watch?v=-knbHJpoZ
ic&feature=related


上野の桜まで来たものの、ここは実は上野東叡山の境内。
歌舞音曲と飲酒は禁止であります。
寺侍と飲み介の皆さんで一悶着ありましたねww。
まいったまいった。

さて、おなか減ったし何か食べて帰りましょう。
ここ江戸はなあんでも屋台であります。
そば、天ぷら、うなぎ、大福もち、甘酒、押し寿司・・Etc。
なんせ6千件も屋台がありますから食うには困りません。

蕎麦を食いましょうか。
蕎麦の初期の頃は、実は味噌味でした。
醤油は1升130文。今で言うと5000円くらいでしょうか
とても高価でしたからねえ。

天ぷらそばでも食べましょうか。
Q さて・・・天ぷら蕎麦、一体いくらでしょうか??。

ちなみに普通のそばで 16文。夜鷹の花代24文でした。
今何どきでい!





A。30〜32文
今考えると、夜鷹の値段より高いのですね・・・

2010/4/3 03:06  [168-164]   

 ふうえん79さん  

江戸時代のように、300年もの間安定した統治が為された平穏で、しかも高度の文化を有した時代は、世界史上類を見ないと言われる。偏頗な進歩史観など目を曇らせるだけかもしれない。

ツュンベリーというスウェーデンの植物学者は、「ヨーロッパにあってこの日本にないのは、科学技術だけであって、あとのすべてはヨーロッパより優っているのではないか」と、オランダ商館時代を振り返って記しているという。
「科学技術だけ」がないとは、当時の日本に蒸気機関がなかったことを指しているにすぎないのではないか。

江戸の六上水といわれる江戸時代の上水道がある。その一つ、全長43キロ、高低差わずかに92mの玉川上水は、7か月あまりで作られたという。驚くべき「科学技術」というほかない。

関孝和、平賀源内、志筑忠雄、宇田川榕菴、川本幸民、橋本雲斎、佐久間象山等々。
江戸期にゃ、独創的な科学者はあちらこちらに居るわいさ。

一向に進まぬ仕事。今日はもう止めじゃ。寝ます。

2010/4/3 04:04  [168-165]   

ふうえん79さんへ

関孝和の名前が出ていたので、
同時代の頃の数学者

関孝和(日) 1643〜1708
ニュートン(英) 1643〜1727
ライプニッツ(独) 1646〜1716

ニュートンやライプニッツは微分・積分の先駆者です。ニュートンとライプニッツにつながりはなく、それぞれ独自に考え出したようです。
関孝和は極限の概念を使って円周率を計算しました。微分の元になる考えは極限です。
しかも日本は鎖国のさ中。

関孝和の逸話として、自分の金勘定は苦手だったという話があります。
借金取りがおしかけると、財布をほうり出して勝手に持っていかせたらしいです。
浮世離れした人ですね。

白の龍さんへ

江戸時代における物価変動はどうだったのかわかりませんが、文化・文政・天保年間の頃の値段なんでしょうかね。
江戸時代における蕎麦というと、やはり二八蕎麦かな。
よく夜鳴き蕎麦という言葉を聞きます。
しくしく夜泣くことかと思っていたら、蝉みたいに鳴くほうだったのね。

江戸は、えーどー。

2010/4/3 12:17  [168-166]   

中原統一さんへ

>家紋では、梅の意匠の家紋が古くから沢山ありますが、桜の意匠の家紋は江戸になってから使用される様になりました。

確かに梅の家紋はバリエーションが多いです。
というか、家紋そのものがバリエーションが多いです。花に限らず。
桜は校章とかにはよく使われておりますね。小学校で使う「たいへんよくできました。」とかいうハンコは桜のふちどりですし。四月は入学シーズン。桜に象徴されるようなところがあるんですよね。

>本居宣長の和歌が桜のイメージを決めている様に思います。

いやいや、それだけじゃないでしょう。
軍歌でいうところの同期の桜。予科練の歌でしたかね。桜に錨だったかな。

桜がいいか、梅がいいか、ということについては、こちらとしては特に意見は持ってないです。
花に対するこだわりはないので。
「桜切るバカ、梅切らぬバカ」という言葉は聞いたことありますが。

2010/4/3 18:17  [168-168]   

 チャンツンさん  

こんにちは。
>「桜切るバカ、梅切らぬバカ」という言葉は聞いたことありますが。

この意味は桜の木は病気に弱く、切るとそこから病気になって枯れる事が多いからです。
梅の木はいじめないと翌年から実をつけなくなる(少なくなる)ので、切ると言うよりいじってやらなければいけないという意味です。練馬に住んでいた頃、農家の人が庭先の梅の木をグイグイゆすって実を落としているので聞いたところ「いじめないと来年から実をつけなくなる」と言って、折れそうなぐらいグイグイ木をゆすっていました。

鬼平を全巻読み終えましたが、江戸時代の貨幣単位が今ひとつわかりません。
10両で1年なんとか暮らせるくらいという事はわかったので、だいたい30万円くらいでしょうか?
ただ、その下の単位がわかりません。
1両= ? 分
分= ? 文
鬼平が部下とかに小遣いを与える場面が1分で、だいたい2万円くらいのようなふうに書かれているのですが・・・・・。
詳しい方、教えてください。

2010/4/3 21:14  [168-170]   

チャンツンさんへ

日本史もの知り事典によると、
江戸時代の貨幣は4進法でした。

1両 = 4分(ぶ)
1分(ぶ) = 4朱
1両 = 4000 文

銀は貨幣のほかに重さでも量っていたようです。銀の粒とかね。
1両 = 銀 60 匁

ここらへんから推理してください。

2010/4/3 21:54  [168-171]   

こんばんは。

江戸時代の貨幣は、金、銀、銭の3種類の貨幣が使用されていました。
江戸の金、上方(大阪)の銀という二重構造の貨幣体系でした。

言うにゃ及ぶさんが書かれていますが、金の小判に対して銀は重さで対応しており、その金と銀の交換相場が両替商の腕の見せ所だった様です。
ただ、最初は秤にて銀(丁銀・豆板銀と云われる銀の固まり)を使用していましたが、江戸も中期以降になると銀貨も登場しています。
 一両小判 1枚 = 二分金 2枚 = 一分金 4枚 = 二朱金 8枚 = 一朱金 16枚
 一両小判 1枚 = 丁銀 60匁 = 一分銀 4枚 = 二朱銀 8枚 = 一朱銀 16枚

但し、庶民が金貨や銀貨を手にすることはほとんど無く、銭だけで生活していました。
1文銭 96枚を紐に通して縛った物を100文として流通させていました。
一両小判との両替手数料相当を差し引いて100文としていたようです。

江戸の金経済と上方の銀経済を支えていたのが、佐渡金山と生野銀山です。
江戸期の日本は、世界最大の金産出国であり、世界有数の銀産出国でもありました。

2010/4/3 22:29  [168-172]   

こんばんは。

江戸時代の職人の給料を「手間賃」と云いました。
何故、「手間賃」なのでしょうか?

諸説、色々あると思いますが、私はこの様に解釈しています。
手間とは、両手の技術とその手の間にある頭、つまり脳を使用した工夫に対する対価であるからと考える様にしてます。
手間暇を掛ける仕事とは、技術と時間だけでなく創意工夫が必要であると考えるからです。

ただ、流れ作業のごとく手数を掛けるだけでない、その職人ならでは腕前と工夫にこそ価値があると思います。

翻って、現代社会の我々は、己の何に対しての対価として給料を貰っているのでしょう?
自らの技能と創意工夫の対価として給料を貰っていると胸を張って云いたいものです。

えぇっ、何ですって、「腕前と工夫に見合う給料は貰ってない。」(従業員一同)ですって?
そんなことはないですよ、ちゃんと査定してますよ。(汗)

失礼しました。

2010/4/3 23:33  [168-173]   

 チャンツンさん  
鬼平の慰霊碑

中原師匠、お疲れ様でござんす。大森生まれのニセ江戸っ子でござる。
鬼平犯科帳を読んでいて思ったことは、「岡っぴきは与力、同心からたまに小遣い程度の手当てしかもらっていなかったのだから本業を持っていないと生活できなかったということだから、今だと民生委員とか、保護司みたいなものかなあ?でも、銭形平次は子供の頃見ていた分には他に仕事をしていなかったような・・・・・。しかも収入が少ないのに現金をつぶての代わりに投げる気前のよさ。」
「暴れん坊将軍は『貧乏旗本の三男坊』って、め組に居候しているというのに態度でかいし、親は借金に苦しむような身分なのに着ているものはすごくいい着物着てるし。」
など、架空のTVの主人公をなんか変な目で見てしまいました。
年収200俵が武士の最低の給料という事でしたから、今だとどれくらいなのでしょうか?
1俵約60kgで、いくらくらいだったのかなあ?

鬼平のお墓はお寺の住職によると「厳しく取り締まりすぎて盗賊たちの反感をかい、子孫が根絶やしにされたので墓は無い。」と言うことで、あまりにもかわいそうでござんす。

2010/4/3 23:43  [168-174]   

チャンツンさん ようこそいらっしゃいました。
お好きな話題でどんどん書き込んで下さい。

江戸時代の通常期(飢饉がない時)の相場は、米一石(150kg)=一両位でしたので、現代の米一俵2万円相当で計算すると、一両が5万円という計算となります。
しかし、大工や棒振り商いの最下級の商売人の収入などから検証すると、一両が25〜30万円相当であったとする説があり、経済状況から推測するとこの25万円というのが妥当な所のようです。
米の価格が他の物価に比較して安かったのか、時代が進むにつれて米を現金化して生活していた武士の暮らしが逼迫していったのでしょう。

武士の収入には、知行取り、蔵米(切米)取り、現金支給等のランクがありました。
例えば、知行取りは、600石の旗本の場合、米が600石取れる範囲の土地の領主となります。五公五民として、半分の300石分の米が収入です。
先の米価比較から、年収がおおよそ1500万円と言うことになります。
蔵米(切米)取りで、200俵の武士ならば、400万円と言った所でしょうか。但し、ここから、換金手数料が「札差」に取られますから、もう少し少なくなるでしょう。
現金支給の中での最下級の武士は、三両一分を支給されたので、「さんぴん」とバカにされたのです。

以上が、私に解るレベルのお話です。
換算の基準や考え方は、人により色々ですので、ご自由に空想されてみるのも面白いと思います。

2010/4/4 00:32  [168-176]   

スレ主 白の龍さん  

てーへんだーてーへんだー!!
なんでえ八、いってい、どうしたんだい。
まちなお前さん!カチカチ!

なんで火打石なんでしょうね?

岡っ引きは本当は十手も持たず奉行所からの要請に基づき、
事件の度に奉行所まで取りに行ったそうです。

それに先にも書いてある通りそれでの生計は難しかったでしょうね。
なんでしょう?ボランティア精神だったのでしょうか。

振っておきますが、そう言えば今の刑務所の更生システムが出来たのも
江戸の後期でしたっけ?

さてここはお江戸、百万人都市。
泥棒も多いです。しかし厳しい罰則がありました。

10両盗めば引き回しの上、死罪。
しかし、これが昼に盗んだとあればムチ打ちに減刑されますw。
夜は無防備だが、昼は盗まれる方にも落ち度があるという・・・事らしいですね。

さて何度も言いますがここはお江戸。
カンカンカン!半鐘の音で目が覚めた「言うにゃん」さん。
普段はかんざし職人だが、一度半鐘が鳴るとガバット起きて火元に向かう町火消し!。

町火消しは町民による自衛の消防団ですね。
いろは48組。しかしいろはの文字が入らぬ組がありました。
「へ」 「ら」 「ひ」 「ん」
へは屁 らはマラ ひは火 んは語呂が悪い。
という理由でその4文字は使われませんでした。

代わりの文字は「百」「千」「万」「本」でした。

PS
蕎麦の所ですが、かけそば16文の頃ですから文政あたりですね。
江戸時代も300年あると前期と後期で変わりますねw。
男女比も江戸後期では大体半数どうしになったようです。

よかった。野郎ばかりでなくてwwww。

2010/4/4 00:35  [168-177]   

>振っておきますが、そう言えば今の刑務所の更生システムが出来たのも
>江戸の後期でしたっけ?

話題に上がっている鬼平こと長谷川平蔵の進言により、石川島に「加役方人足寄場」が造られたのが、犯罪者の更正システムの始まりですね。
それ以前は、佐渡の金山に人足として送られるという過酷なものでした。

2010/4/4 00:47  [168-178]   

 チャンツンさん  

中原師匠、おばんでござる。
するってえと、旗本の最低が200俵で、年収500万円くらい、つうことになるんでやんすか。
それでも最低下男、下女1人くらい雇わないといけなかったのだから、生活は厳しそうですな。
あっしは大森生まれなので、武州という事になるんでしょうか?
母は愛宕なんで、江戸っ子ですな。鬼平とか、かわせみを読むと、愛宕神社に参詣する人をあてにして、売春アリの茶店が回りにたくさんあったと言うから、あまり良い所でもなさそうですな。
その母(私の母方の祖母)は、向島→巣鴨→大森、と言っていたので、江戸の周りをうろうろしていたという感じでげす。
祖母は小学校の頃の住所を「東京市北豊島郡大字巣鴨字池袋」と言っていたので、池袋は昭和に入るまで、巣鴨よりも田舎だったようです。

2010/4/4 00:57  [168-179]   

 チャンツンさん  

>岡っ引きは本当は十手も持たず奉行所からの要請に基づき、
事件の度に奉行所まで取りに行ったそうです。

実際に捕り物に使った十手はTVの岡引が持っているようなものではなく、大きかったので、普段もって歩くことが出来なかったからでしょう。
鬼平の愛刀が「二尺二寸九分」とありますが、それくらいの長さのものもあったようです。
町人だから刀を持たせるわけにも行かないので鉄の棒を持たせたという感じですね。
2尺以上ある実物をどこかの博物館で見た記憶があります。

人足寄場の隣の佃島ですが、記録では徳川家康が、江戸湾での漁業を発展させるために大坂から漁師30数人を連れてきたとあるのですが、どうやらただの漁師ではなかったという話を聞いたことがあります。
服部半蔵の部下か、その類の忍者だったのではないか、幕府を守るための隠密だったという説です。
佃島の隅田川に面した所にのぼり旗が3本立てられていて、その日によって立てられる本数が
違ったという話です。当時は平屋かせいぜい2階建てばかりだったので、旗の本数が江戸城からも見える。立てる本数や立て方が暗号になっていて、市中の様子などをそれとなくお城に知らせていたのではないか、という話ですが、真偽のほどは定かではありません。

2010/4/4 01:33  [168-181]   

スレ主 白の龍さん  

さて丑三つ時。
客のつかなかった女郎も寝る支度で髪をすいてる色っぽい時間ですw。
吉原の営業が終る拍子木八つはとっくに鳴り終えました。

八百屋おしちでは無いけれど、娘が親の目を盗んでそっと恋文を読んでます。
「母親も共にやつれる物思い」
恋文は夜中にそっと読むものですねw。

鬼平さんってえらいですね。
それと十手って実際には役に立つんですかね。
振り回してる絵を見るとかっこいいんですが・・・

明日は朝から歌舞伎へ行きましょう。
朝6時から夕方6時までやってます。
我々長屋暮らしは1幕見16文で楽しみましょうw。

おやすみなさい・・・・

2010/4/4 02:29  [168-183]   

 チャンツンさん  

もう1ヶ月も成駒屋が集まるマックカフェを探していますが、まだ見つかりません。どなたかご存知ではないでしょうか?(笑)
今の歌舞伎役者の年収も気になりますが、江戸時代はどれくらいだったのでしょうか?
芝居だけではとても少なくて、名前の入った手ぬぐいやら反物やら、今で言うノベルティグッズを売らないと食っていけなかったということです。
販売する店を表通りに出すので、看板は名前と関係の無い「成田屋」「高麗屋」という屋号をつけた。
それが今でも役者が舞台に出てきたときの「よっ!**屋っ!」の掛け声で残っている。
掛け声をかけるのはあくまでも客で、無償だそうですが、場面に合わせることが出来るまで、相当年季がいる。通うのに金もかかる。江戸っ子の見栄ですな。
芝居小屋の前には歌舞伎座の横の所のようなお茶屋が、もっとたくさんあり、芝居の前後に役者も頻繁に顔を出していたとか。
そして、芝居が終わったあと役者を連れ出す仲介をお茶屋がやっていた。
人身売買です。
江戸時代にも有閑マダムがいたのでしょうか?
お江戸は桜が満開で、天気も良さそうなので、江戸城あたりに花見にいこうと思います。
おやすみなさい。

2010/4/4 03:27  [168-187]   

スレ主 白の龍さん  

いよ!!なりこまや!(あ、ずれた!恥ずかしい〜!)

歌舞伎役者の年収ですが、はっきりと残ってるのが少ないですね。
ただ、5代目団十郎(成田屋!!)は千両役者、つまり年収千両だそうですよw。
芝居町では1日千両の金が動くそうです。
年収千両でも安いんじゃないでしょうかw。

さて寝る前に・・・
江戸の気質

通 粋 イナセ

それぞれ違いがありますがどう違うのでしょうか?

僕のいめーじは・・
通   なんか伊藤博文?
粋   手拭とかフランスのエスプリとか?
イナセ 頭が青い湯屋帰りのお兄さんってイメージ?

2010/4/4 03:48  [168-189]   

確か、魚河岸で働く若者たちの髪型が「鯔背銀杏(いなせいちょう)」と呼ばれたのが語源とか。
粋は、センスが良い事かな? 

粋で、気っ風が良い、あるいは威勢の良いお兄さんたちをイナセ(カッコイイかな?)と表現したと思います。

でも、ボラの背中の様な髷って、どんな髪型のでしょう? イメージが湧きませんが・・・。

2010/4/4 04:01  [168-190]   

 チャンツンさん  

中野サンプラザの西側に「囲町公園」という名前の公園があります。
何を囲っていたのかと思ったら「お犬様」
生類憐みの令で殺すと犯罪になるために蔓延った野良犬、野犬を集めて養っていたらしいです。江戸市中外なのに、「町」とついたところから考えるともしかして、相当栄えていたのではないでしょうか?
甲州街道最初の宿場の新宿より向こうですから、捕まえた犬を連れて行くのも大変そう。時代劇で見るような罪人を入れる編んだ篭に乗せて行ったのでしょうか?
気になるのは生類憐みの令の廃止後。評判の悪い法律だけに綱吉将軍のあとはすぐに廃止されたと思うのですが、お役所仕事の法則からすると大量に集められた野犬をわざわざ殺処分する事は考えられず、野に放たれたのか、囲ったまま餓死するまで放置されたのか?
300年経って回りはビルだらけなのに、ここだけ殺風景な公園だということを考えると、犬のキリングフィールドになった可能性が高いと思います。
以前は何度も通ったことがありますが、個人的には鈴が森の刑場跡地よりも通るのがイヤでした。

歌舞伎の話ですが、千両役者というのは例外中の例外だと思います。
芝居が終わったあと、有閑マダムと店外デートして、ノベルティグッズ作って店を出して売らないと生活が出来なかったくらいですから。
身分も「士農工商」の下と見られていたようで、裏通りにしか住めない。
そこで表通りに店を出すために、中村、とか市川、という名前と違う屋号の看板を掲げたのが「**屋」の始まりらしいです。
「大根役者」「2枚目、3枚目」も語源は歌舞伎ですね。

2010/4/4 08:52  [168-191]   

さくらサポーター

白の龍さん

>一度半鐘が鳴るとガバット起きて火元に向かう町火消し!。

丸たん棒を枕にみんなが寝ていて、いざとなると、不寝番が丸たん棒の端っこを杵みたいなのでガンと叩く。
これでみんな飛びおきるんだそうです。
荒っぽいねー。

>それと十手って実際には役に立つんですかね。

歴史考証家・稲垣史生氏によると、目明しが十手を額にかざすだけで相手はへたったという。
要するに、十手は徳川幕府国家権力の象徴であるということが言いたかったみたいです。

花見は終わりましたよー。
行ったところは、千鳥ケ淵から靖国神社まで。天気は悪かったけど、まあ何とかです。

2010/4/4 22:21  [168-193]   

スレ主 白の龍さん  
グリスをだいあ〜〜〜 こいつは春から縁起がいい〜・・? イナセで粋らしい・・・

今日は上方に行って不二屋でご飯食べて帰って来てCPUグリスを塗ったらもうこんな時間w。
CPUのグリスはダイアモンドですと、お江戸の話にこいつは野暮だね!!!

通 てのはその道に通じるで通ですな。
おもに遊びの分野に通じるもので、昔はオタクと言われずに庶民から通だね!と
褒め称えられたそうです。グリスをダイアとはこいつは通だね!。

粋は僕も良くわからんのですが、上方では すい て呼んでるらしいっす。

あるところからの抜粋。
粋は息。

吸っているときにはただの空気で、それがからだの中を通って、吐いたときに息になる。

この、身の内から外に出していくというのが、江戸の「粋(イキ)」。
こそぎ落としていく、背負い込まない、吐いていく、削除していく、そうやって
ぎりぎりの最低限のところまで削り取っていって、最後に残った骨格のところに、
何か一つポッとつけるのが、江戸の「粋(イキ)」なんです。

「粋は深川  いなせは神田 人の悪いは日本橋〜」
ちょんちょん!

それと木枕をドカンと・・・
これは火事場に行く前に気絶しそ〜〜。
十手を見てへなへなとは、やっぱりお上には逆らえね〜〜〜や。ちょんちょん。

犬囲い・・そう言えばその犬たちは本当どうなったんでしょう。
食ったとか・・・。

あ〜まだ花見行ってません。

2010/4/4 23:44  [168-194]   

スレ主 白の龍さん  
魚河岸 七つ立 大名行列

現代人てのは時間がそんなにないのかね?
1日が短い短いと言っちゃーいるがお江戸で暮らすおいらにゃ分らねえ。

虎の刻 午前4時頃
夜蕎麦売りが店じまい。

豆腐屋が豆腐を売りに来ます。
「豆腐屋は時計のように周りけり」

江戸の朝は日本橋北詰、魚河岸で始まります。
朝の商いで千両落ちる。日本橋魚市の始まり〜。

商家の小僧も泣き笑いの1日の始まり。
「うなされた丁稚三つ四つ蹴飛ばされ」

大名行列が日本橋を出発。
大名行列の一番早い時刻 七つ立が一番早い時間。

相撲の一番太鼓が鳴ってます。

庶民が起き出すのはこの一時間〜後。。。

2010/4/5 00:05  [168-195]   

スレ主 白の龍さん  
撮るぞうさん 湯屋のふうえん侍

卯の時 明け6つ

明け六つの鐘が鳴り皆日を拝むのが習慣。
江戸の警備の為に作られた町境の門、町木戸が開かれます。
木戸番 チャンツンさんが木戸を開けます。

蘭学者の中ちゃんは、時計を持ってるのでそれで時間を見てます。
西洋時間で朝六時頃です。

ふうえん侍は銭湯へ。朝の銭湯は凄い混み合い。
「今開いた湯屋へ蓮見の帰りがけ」

魚売りの撮るぞうさんは町へ繰り出します。
「初ガツオ飛ぶがごとくに通り町」

水売りもいますね。
隅田川の真中から取った水は健康にいいという噂です。
でも実際は・・・・若い人なら問題ないでしょうww。
年寄りには危ないかも。。これが俗に言う 年寄りの冷や水!

2010/4/5 00:28  [168-196]   

江戸に「日銭千両の雨が降る」と言われた場所が3つあります。

一つは白の龍さんが上げられた魚河岸、江戸の台所ですね。
百万都市「江戸」の食欲を支えた場所です。

後の二つも欲望の町です。悪所といわれてました。
一つは云わずと知れた色里「吉原」、色欲ですね。
もう一つが、中村座や市村座のあった「芝居町」と呼ばれた界隈です。
贅沢な娯楽の町だったのでしょう。

そうそう、歌舞伎が語源と言われる言葉に「十八番(おはこ)」があります。
七代目市川団十郎が代々の団十郎が得意とする荒事の18作品を演目として演じた時にその台本を箱に入れて大切に保管した事によると云われています。

しかし、「十八番(おはこ)」という言葉自体はそれ以前からあり、もともとは茶道の道具類の真贋鑑定結果を箱書きにしたことが本当の語源の様ですが、人気歌舞伎役者の団十郎が使用したことにより一気に流行語となり定着したのでしょう。
その為に、得意の芸事を意味する言葉となったようです。

2010/4/5 00:29  [168-197]   

スレ主 白の龍さん  
蘭学者 中原源外

やっぱり人間は欲が大好きですねww。
まあこれだから人間なんですけどねえww。

江戸の人はエピキュリアンですなw。

2010/4/5 00:37  [168-198]   

東都名所 高輪廿六夜待遊興之図

歌川広重の「東都名所 高輪廿六夜待遊興之図」を見ると随分いろんな屋台が出ていますね。
(高輪は月見の名所だったらしいですが)
 向かって右手から、
 水菓子(果物)すいかが人気だったらしい
 すし
 冷水(砂糖と白玉入り?)
 いか焼き(スルメの丸焼き、ゲソ)
 天麩羅(魚介類。野菜は精進揚げで天麩羅とは言わなかった)
 麦湯(麦茶)
 二八蕎麦
 団子
 汁粉(切り餅入り)

 もうファストフードの元祖があったのですね。

2010/4/5 01:04  [168-199]   

乱雑者 中原論外

「蘭学者 中原源外」、その実態は「乱雑者 中原論外」です。

2010/4/5 01:06  [168-200]   

 チャンツンさん  
日本橋魚河岸址記念碑 今、日本の真ん中。江戸時代、違う。 高輪大木戸址。こっち、江戸。向こう側、武州?相州? 1週間前、日本橋高島屋の裏あたり

>それと十手って実際には役に立つんですかね。

>歴史考証家・稲垣史生氏によると、目明しが十手を額にかざすだけで相手はへたったという。
要するに、十手は徳川幕府国家権力の象徴であるということが言いたかったみたいです。

小型の物から大型の物まであったようで、小型のものはTVで見るようなサイズで、それこそ岡引の目印みたいなものだったのでしょう。大型のものは2〜3尺はあったので、まるきり鉄の棒ですから破壊力はあったと思います。頭でも殴られたら死にます。大刀も折れるかも。捕り物の際は有効かもしれませんが、重くて実用性があったかどうか?それよりもサスマタとかのほうが役に立ちそうです。

>犬囲い・・そう言えばその犬たちは本当どうなったんでしょう。
食ったとか・・・

日本は中国、韓国と違い犬の肉を食う習慣はないし、江戸時代は4つ足のものは食べてはいけないので、食べられたことは無いでしょう。ただ、300年後、そのまた西隣の陸軍中野学校では戦地で補給が無いとき食べられるものの研究をしていて、犬肉の食べ方も研究したとか。うまい順は、白>赤>ブチ>黒、だったそうで。

花見、眠くて昼寝しすぎて行けませんでした。
毎年九段下駅で降りて、田安門から北の丸公園に入るか、そのまま千鳥が淵、半蔵門までいくか、靖国神社を抜け、飯田橋から御茶ノ水までの神田川沿いも捨てがたく、迷うのですが、今年はその前に挫折しました。

今も残るもので不思議というか、気になるものは「将門の首塚」現在ある場所(三井物産の裏)を考えると江戸城の二の丸か、それともこのあたりはもう武家屋敷が始まっていたのでしょうか?江戸の行政機関か、その武家屋敷あたりが建っていたと思われますが、江戸時代も果たしてタタリを恐れて管理されていたのでしょうか?現在でもこの周りの会社などでいつもきれいにされていて、毎月初めの昼休みは重役が集まりお参りをしています。しないと会社に悪いことが起きるらしいです。が、この南側にあった、長銀は移転してから悪いことが起きましたけどー。将門の呪い?

七つに、日本橋を発つと、八つ過ぎあたりで高輪あたりを通過したのでしょうな。2時間かければ今でも十分歩いていける。高輪の大木戸址は残っているのに、四谷の大木戸は姿かたちも無く、名前のみが残る。(新宿御苑・大木戸口、四谷大木戸郵便局)何故でしょうか?
甲州街道が狭かったから舗装するときに壊したのか?新宿御苑を広げてそのときに壊してしまったか?東海道は元々広かったから、残しておいても問題が無かっただけか?歴史学者とか、地元の政治家の力関係で片や壊され、片や残ったのか?わからないけれど、日本はもう少し古い建築物を大事にしたほうが良いと思います。

2010/4/5 01:40  [168-201]   

>四谷の大木戸は姿かたちも無く
 大木戸は、どうやら江戸時代に撤去されたようですね。(下記リンク)


http://kkubota.cool.ne.jp/yotuyaookido.h
tm

2010/4/5 02:16  [168-202]   

スレ主 白の龍さん  

今お江戸に住んでる人は当たり前の話でしょうが、

四谷と言えば 許すまじ伊右衛門殿〜 なのですが、実は実はお岩さん。
本当は仲良い夫婦で、収入の乏しい生活を岩が奉公に出て支えていたという。
それそれは良い話ですね〜。

東海道四谷怪談は忠臣蔵外伝という位置づけで書かれました。
鶴屋南北さん作 1825年、江戸中村座で初演でした。

将門首塚は江戸の話ではあまり聞きませんね・・。
見落としてるかもしれませんが・・・。

2010/4/5 03:01  [168-203]   

 チャンツンさん  

一年を十日で暮らすいい男

江戸時代のお相撲さんは本場所が10日しかなかった。その後20日になった。今は15日×6回、だから90日。
ほかに上方場所が7日、地方巡業もあったのだろうが、今のお相撲さんに比べると、楽そう。
土俵も今より一回り小さくて、ほとんど立会いから押していって勝敗がついたらしい。
決まり手が、寄り切りや押し出しばかりなら、怪我も少なそうだ。
大名や旗本に雇われていたらしいが、収入はどれくらいだったのか?
今と同じでパトロンからの収入もあり、はっきりした金額は出ないであろうが。

四谷大木戸は江戸時代中に戸が撤去され、明治9年に石垣も撤去ということは、新宿御苑を整備するのに邪魔だから壊されてしまったんでしょうね。
鬼平犯科帳を読むと四谷左門町というもの出てきて、江戸市中外のように書いてあったような気がしたのですが、地図を見ると市中内。
四谷三丁目交差点から慶応大学病院までの道の途中を曲がって坂を下ると鬼平の慰霊碑がありますが、その手前、曲がって慰霊碑の有るお寺との中間くらいの路地を左に曲がるとお岩稲荷があります。
映画やTVドラマで幽霊物をやるときは必ずスタッフが事前に御参りするとか。
先日鬼平の慰霊碑のところまで行ったときも、なるべくそちらのほうを見ないようにして通り過ぎました。将門の首塚も横を通るときは時間があってもわざわざ奥まで見に行くことはしません。若い頃は平気だったのですが、どうも年を取ると「**危うきに近寄らず」という感じになります。

貨幣の話に少し戻りますが、確か江戸時代は金:銀がおよそ、1:1の、交換比率だったのだが、欧州では、1:4くらいだったのでそのために金が欧州に大量に流出することになり、小判の金の含有量を減らした。それがインフレのひとつの原因となったというのを聞いた事があります。
オランダには江戸時代の金の差益を返して欲しいものでござる。
まあ、江戸のために役に立ち、名前を現在にも残したオランダ人もいることなので、勘弁して使わそう。
ヤン・ヨーステンの屋敷があった辺りが、その名前がなまって「八重洲」になったとは知らなかったでござる。

2010/4/5 05:34  [168-204]   

スレ主 白の龍さん  
長屋の朝 うけを狙うチャんついさんの子供ww ふうえん侍の子供を叱る中原論外図

辰の刻 8〜9時

亭主を送りだした長屋の女房たちが共同井戸に集まって話をしてます。
そこへはいろんな人がやってきます。
日雇いで依頼を先を廻る洗濯女 乳母 囲い者 山出し下女・・・

そこへ物売りの声がしました。
「とんとんとん唐がらし、ひりりとからいはさんしょのこ、
 すはすはからいはこしょうのこ、けしの粉ごまの粉ちんぴの粉、とんとんとん唐がらし」。
長屋の路地の朝はいろんな物売りの声で始まります。

衣類 食べ物 薬 道具などの生活必需品以外に新年の宝船から暮れの門松まで。
俗に言う一文商いの物売りたちは長屋に季節を告げる者たちでした。

「洗濯の時は下駄を尻へ履き」
洗剤は灰汁を使い洗濯をしました。灰汁桶は大切な嫁入り道具でした。
針仕事も嫁入り条件の一つなので、娘が8〜9歳の頃には桶と針箱を与えられ
教え込まれました。その道具は一生ものでした。

ちゃんついさんの子供もふうえん侍の子供も寺小屋へ行く時間です。
寺子屋の教師は、浪人、町人、僧侶、など様々な人が教師になりました。
女性の教師も多かったですね。

年齢も親の身分も職業もばらばらの子供たちが集まります。
この辺りでは、中原論外先生の所へ。
子供が多少騒ごうが教師は頓着せず、おおらかな授業でした。
教師と子供の温かい師弟関係は一生続いたと言います。

2010/4/6 00:29  [168-208]   

 チャンツンさん  
たぶん 和時計 中原源内さんといえばこれ。 時代劇といえば石見銀山とこれ。

初めから読んでみて思ったことは
『夜鷹、激安っ!ドンキどころじゃない安さ。』
鬼平犯科帳を読んでいると、息子の辰三が悪友といっしょに岡場所に遊びに行くのに「2人で1両は無いと心細い」とあるところから見ると、吉原よりも少し安い所でも泊まりでなくて、1分か2分は取られたようですから、1分の40分の1というのは激安です。歌舞伎役者の給料の安さを考えても興行主の取り分がものすごく高かったのでしょう。

どなたか江戸時代の金貸しの利率の資料をお持ちではないでしょうか?
高校時代に何故か世界史の先生から聞いた記憶があります。
その頃たしか、サラ金の利率が問題となり始めていた頃で、年利30%くらいが上限だったはずですが「そんなもんじゃあないぞ。」という利率を聞いて驚き『娘を売らないといけなくなるわけだよなあ。』と思ったのですが、数字は思い出せません。

国立科学博物館で見る江戸時代。
1枚目  ニホンオオカミ。
ホワイト家のお父さんくらいの大きさしかありません。
これに襲われてもそれほど怖くない。旅行中どうしても夜間、道中を進まなくてはならなくて狼が出るというところを行くときは、矢立とキセルをひもで轢きずって「カチャカチャ」音をするようにして、狼よけにしたとか。なるほど、これくらいの狼ならば、それくらいの音で近寄らないでしょう。追いはぎのほうが怖いですな。
2枚目  和時計。
日の出と日没を基準にしてそれを12等分して24時間にしていたのだから、毎日1時間、1分の長さが違う。それなのに毎日誤差を修正しなくても正しい時を刻む時計を作ったというのだから、江戸時代の職人はてえしたもんだ。

2010/4/6 05:16  [168-209]   

きゃん
「江戸の俗語。少女のはすはなるをいふ。」と【俚言集覧】にあるようです。
字は「侠」を当てる。
「きゃん」と似た言葉に「おてんば」という言葉があります。
歌舞伎では、「暫」というのが荒事として知られていますが、これの女版がありまして女暫の「つらね」というのがあります。
そのセリフから
「・・・巴といへるてんばもの・・・」、「・・・ういういしいやら恥ずかしの・・・」
ここらへんから、だいたいの雰囲気はわかるのではないかと。

なお、八代目市川団十郎は謎の自殺をとげておりますね。女暫とは関係のない話ですが。

鬼平こと長谷川平蔵
意外なことに彼は銭相場に手を出したとか。相場師としての才覚もなかなかのものだったようです。ただし、これは私利私欲のためではなく、公務の補助としてやったものだという。
すごいですよ鬼平さんってのは。ただのさむらいじゃあない。一歩間違えるとあれですもんねえ。
こういったところから、松平定信は眉をひそめたという。「武士にあるまじき所業」ってとこですかね。

撮る造さん紹介の江戸東京博物館へは過去2回ほど行ったことがあります。両国駅の近くですね。

最後に自己レス

>「やれ吹くドンドコ、それ吹くドンドコ、ドシコ、ドシコ。」

「ヤレフクフク、ソレフクフク、ドシコ、ドシコ。」の間違いでした。どーでもいいような話だけど。

2010/4/6 13:38  [168-210]   

こんばんは。

>意外なことに彼は銭相場に手を出したとか。
人足寄場の運営資金に当てるため、幕府より金を借りて銭相場に投入したらしいです。

>「武士にあるまじき所業」
武士が金儲けに必死になるのはみっともない、との考え方が主流でしたから。
なんと言っても「士農工商」という身分を生み出した社会ですから、商売は卑しいものと忌避していた様です。

「寺子屋」というものの存在が、日本人の識字率のベースにあったと言えます。
明治時代なってからの義務教育の普及の下地になったと思います。
その成果で、高い識字率と計算力が備わったのだと思います。

ロシア軍では、日露戦争頃まで、士官になる条件に自分の名前が書けること、簡単な足し算引き算ができることと言うのがあったようです。
それらに比べて、日本は江戸期から識字率が高く、そこそこの計算力がある国民が多い国だったようです。

2010/4/6 23:07  [168-211]   

皆さんこんばんは
 長谷川平蔵の住居跡が東京都墨田区菊川にありますが、小説の場所とは違いますね。
 ちなみに屋敷換えの後、遠山金四郎が住んでいたようです。まるでTVの番組換えみたいですね。

http://machimegu.jp/spots/15

http://homepage1.nifty.com/shimizumon/sa
nko/kiru_contents/kiru10/kiru10_sanko.ht
ml


2010/4/7 00:02  [168-212]   

 ふうえん79さん  

湯屋でひとっ風呂浴びて、その足で大門をくぐる。

帰りしな、見返り柳の辺りで思い出した。
我が勘定奉行様に渡された金子。日頃お世話になっている中原論外殿や撮るぞう殿に付け届けを頼まれていた。

これは一大事。浅草の顔見知りの大だなに無理を聞いてもらうしかない。


当時、この界隈の風情は、如何ばかりであったろうか。

2010/4/7 01:13  [168-215]   

スレ主 白の龍さん  
物見遊山っすね!

昼四つ 10〜11時

職人たちが働いてる時間。
大工 桶屋 染めや 左官 看板屋 ・・一つ一つの工程の職人がいて数えきれません。
さて職人達の労働時間は約10時間と決められていたそうです。

しかし実情は休みの合間に仕事という感じでした。
例えば大工さんは実働4時間で後は休憩。
と守貞漫稿(実在です!)が書いてます。

働いてる女性もいれば、物見遊山へ外出したくの女性もいます。

女性の髪は長い間自分で結うのがたしなみでしたが
髪型が複雑化するにつれ女髪結いが生まれ安永年間に瞬く間に普及しました。
でも度々禁止のお触れ書きが出たようです。
しかし、女性の欲しい物が無くなる事はありませんよネw
幕末はますます増えいてったそうです。

外出の礼装は 武家の女性は打ち掛け、町人は裾模様に紋付き小袖。
他にも歌舞伎の女形が流行らせたものも多く、書ききれませんが、
流行にかなり敏感な所は現代でも一緒ですね。

「賽銭を身ごしらへして女投げ」
江戸時代の寺社参りは宗教性が希薄になり、物見遊山をかねてでした。

2010/4/7 01:24  [168-216]   

江戸時代から少し話が飛ぶこともありますが、ご容赦を。

>髪型が複雑化するにつれ女髪結いが生まれ

今でいうところの床屋さん・理髪店は明治になって西洋から入ってきた西洋床屋です。それまでは髪結いと呼ばれていましたが、これは和式のやつでして、床屋さんとは呼ばれなかったんじゃないですか。
床屋さんで使われるクルクル回るおなじみの客寄せ塔。
元々は外科医も兼ねていたようです。赤が動脈、青が静脈、白が包帯とかで、フランスとは全く関係がありません。
いつしか外科医のほうがなくなって、散髪だけってことになりました。
ところが、例のクルクルマークだけは残って形骸化してしまいました。その頃に日本へ入ってきたようですね。

「おっ、散髪にいってきたな。」
「うむ、まあそんな床屋。」
「おハツ(ポンコ)!」

識字率が出ていたので
鎌倉時代の東国武士は識字率が低かったみたいです。梶原景時のように和歌もこなす文部両道の東国武士はほんの一握りでした。
それが戦国時代になると様子も変わってくるんです。外国人宣教師が日本に来て驚いたことのうちのひとつに、日本人の識字率の高さがありました。とりわけ女性の識字率の高さには驚いたらしいです。当時の西ヨーロッパでは女性の識字率はかなり低かったみたいです。
戦国大名・武将などは手紙や起請文など読み書きができなければ、不便だったでしょう。というか、読み書きのできなかった戦国大名・武将など聞いたことがないです。雑兵クラスは知りませんけど。
それから、商人。証文が読めなければ話になりません。鎌倉時代ですからかねえ、ぽつぽつお店が出てくるのは。この頃から生産力も上がり、貨幣経済の発達や物資の流通(輸入品も含めて)が活発になります。それに合わせて商人もふえてきたことでしょう。

江戸時代になると戦乱もおさまって浪人が仕官するには、武芸はともかく最低限読み書きができなかったら仕官は難しかったんじゃないですか。学者嫌いで知られた大久保彦左衛門でさえ、「三河物語」を書き残しているのですから。
読み書きができる階級というと、僧侶・お公家さんあたりでしたけど、江戸時代になってからそれに武士階級が加わってくるんです。
逆に堕落したのが仏教界。江戸時代になって、なまぐさ坊主がふえたらしいです。
寺子屋の出現は確かに庶民レベルの識字率を上げたのは間違いないと思います。また、寺子屋の先生にも僧侶はいたでありましょうね。

木戸について
夜中は閉まりますが、夜中でもフリーパスの人がいました。
その職業は産婆さん。
「サンバなんか踊ってる場合じゃないぞ、それ急げー。」

2010/4/7 13:57  [168-217]   

 チャンツンさん  

>>長谷川平蔵の住居跡が東京都墨田区菊川にありますが、小説の場所とは違いますね。

鬼平犯科帳では、役宅(公邸)が清水門外、私邸が目白となっていますが、平蔵が家督を継ぐ前は鉄三郎という名で「本所のテツ」と呼ばれ、継母との折り合いが悪いことから家に寄り付かず、悪の限りを尽くしていたと書かれています。菊川は本所ですから、家督を継ぐ以前の私邸がこの場所にあったということでしょう。

話は少しそれますが、識字率が高かったことは日露戦争のかくれた勝因の一つでしょう。
無線、電話が発達していなかった時代に伝達事項がいちいち口頭で行われるのは時間を要するわけで、文章にしてあれば間違いもなく、直接本人に会わなくても手紙で伝えることができる。いわゆるマニュアルを作っておけば、それを読めば手ほどきを受けなくても違う型の銃砲も扱うことが出来る。作戦の遂行で有利であることは間違いないわけです。
それ以前の時代、当然、電話も無線も無いので通信手段といえば手紙しかなく、政をする上でも戦をする上でも重要なわけで、戦国武将にとって読み書きは絶対的に必要だったでしょう。
徳川家康も本能寺の変のあと、伊賀越えをして命かながら三河に帰る途中から手紙を処方に書きまくり、小さい城の豪族にまで味方についてくれるかを確認しまくっています。その後、関が原、大坂冬・夏の陣と「どっちにつくのか?」と処方に手紙を書きまくっているようで、武将としていくさを戦う腕もさることながら、筆まめだったのが天下を取る要因になったような気もします。
さて、ここからは江戸の庶民の話で以前NHKの時代劇でやっていた話なので「本当かな?」な話です。江戸時代になると一般庶民同士も手紙のやり取りがあったようですが、普通郵便は戸別配達が無かったというのです。届いた手紙は飛脚の店の前の縁台に宛名が見えるようにして重石をして置いてあり、1〜2週間放置。通りかかった人が見て「おっ、うちの長屋に住んでいる人のだ」とみつけると持って行ってやったというのですが・・・・・たしかに番地というものが無かったでしょうから本当のような、小説で家まで持っていくところを読んだような気もするし、そのあたりはどうだったんでしょうね。
江戸から大坂まで、普通郵便で1ヶ月から2ヶ月。今なら2日で届きます。

2010/4/7 17:59  [168-221]   

スレ主 白の龍さん  

かんざし屋チャンツンさんの補足です。

仕立ての7両2分(約38万)〜町飛脚の24文(約300円)
までと様々な運賃と、所要日数があったといいます。
金一両=4分=銀60匁=銭4000文〈12.5円/文として)

下表は江戸・大阪間(約550km)の運賃と所要日数です。
仕立とされる「特急便」は、トップスピードを維持するために、
宿場単位(宿場間隔27〜30km平均)に引継ぎリレーで運び、
昼夜兼行と思われますが、幸便あたりは2.3人若しくは、単独だったといわれます。

『仕立(したて)』

正三日半限 封物100目限(375g) 金7両2分[157km/日]

正四日限 金4両2分[137km/日]

正四日半限 金4両 [122km/日]

正五日限 金3両2分[110km/日]

正六日限 金3両 [92km/日]

正七日限 銀60匁[78.5km/日]

『幸便(さいわいびん)』

(正六日限) 書状1通 金1朱[61km/日]

(六日限実際は6〜9日)[61km/日]
書状1通 銀2匁
荷物一貫目 銀50匁
金100両 銀55匁

(七日限 )[78.5km/日]
書状1通 銀1匁5分
荷物一貫目 銀40匁
金100両 銀45匁

(八日限)[69km/日]
書状1通 銀1匁
荷物一貫目 銀30匁
金100両 銀35匁

(十日限)[55km/日]
書状1通 銀6分
荷物一貫目 銀15匁
金100両 銀20匁

(並便 十日限実際は20日以上)[27km/日]
書状1通 銀3分
荷物一貫目 銀9匁5分
金100両 銀11匁

>届いた手紙は飛脚の店の前の縁台に宛名が見えるようにして重石をして置いてあり、
>1〜2週間放置。

真偽のほどはわかりませんが、まあ〜〜時間の流れがまず違いますね。


とりあえず言うにゃんさんの座布団1枚取っとくれww。

2010/4/8 00:30  [168-226]   

 チャンツンさん  
意味なし 寂しいので入れてみました。

もう1つ、昔のNHKも時代劇でやっていた『本当かな〜?』な話。(天下堂々か、そのあとやっていたやつ)
火事とけんかは江戸の華、というくらい火事が多かった。そして牢獄の近くまで火が及んでくると『3日後の八つに××に集合。戻れば刑を減刑する』と言って、牢から出して逃がした。9割方戻ってきた。
本当かな〜?軽くても50叩き、市中払い。10両盗めば首が飛ぶくらい刑罰が重かったのに、いくら今よりも義理、人情に厚かったとはいえ、うまいこと逃げることが出来たのに、そんなに戻ってきたのかなあ?

そして人から聞いた本当かなあ〜?な話
「テレビ局というのは近年に出来た産業だからある程度の大きさの建物を建てるのに東京に残っていた土地は、それまで何らかの不都合があった場所。日テレなんか、番町だろ。番町皿屋敷の所だから誰も手を出さなかったんで空いていたので建てられたんだ。」
じゃあ、TBSは?赤阪は江戸城からもそう遠くなく屋敷が並んでいただろうし、曙町はそれこそ新宿の手前で畑しか無さそうだし、テレ朝は今でも池があるくらいで湿地だったかもしれないけれどすぐ先には仙台坂やら盛岡町で東北地方の大名屋敷があっただろうし、狸穴の道場には神林東吾が通っていたくらいで人もそこそこ住んでいた。
そのときは『なるほど』と思ったけれどよく考えたら、ホラ話のようです。

今、私のパソコン「マミアナ」を一発で正しく変換しました。
ちょっと感動しました。

2010/4/8 01:20  [168-228]   

スレ主 白の龍さん  

牛の刻 12〜午後1時頃

「川風を売り物にする江戸の夏」

季節は夏。
「・・かんてんやあ〜ところてん・・」ところ天売りが来ました。

町中を季節の行商が通り過ぎて行きます。
金魚売り 団扇売り 蚊帳売り 
木陰では水売りが冷たい水に甘露白玉を入れて売ってます。
撮るぞうさんの浮世絵の中にあった水菓子売りがまくわ瓜やスイカを売ってます。

お昼ご飯どき・・
昼飯を取る習慣が出来たのは江戸中期になってからです。
昼は冷や飯に一菜、夕食は漬物で茶漬けが一般的な家庭の献立です。

商家もにぎわってます。
おや、あそこに撮るゾウさんが。
論外先生から買ったエレキテルの入れ物を探してるようです。
ふうえん侍もいますね。女房殿と越後屋へ行くようですね。

三井越後屋や下村大丸のように京に本店を置き、江戸店を持つのが商家の夢でした。
その頃はまだ客が来ると手代が品を聞き小僧に蔵から取りださせて客に見せる。
上得意には昼飯も出ました。

さて昼前に仕事を終えた人たちが釣りをしてます。
江戸の人は釣り好きが多いですね。言うにゃんさん、隅田川で鯉釣りですか?
江戸の釣りの名所は 佃島 鉄砲洲 洲崎 中川 品川です
「漁人道しるべ」 「闇の明かり」などのハウツー本がベストセラーとなりました。
「釣りさおのちょっちょっと見える葦の中」

さて朝閑散とした女湯屋も人が増えてまいりました。
湯けむりの向こうに見えるは芸者さんでしょうか。
でも実際は湯屋は暗くて殆ど見えませんでしたね。
入浴には紅葉袋と言われるヌカ袋や鶯のふんを混ぜた特性洗い粉も考案され
女性に大いに愛ようされました。

2010/4/8 01:29  [168-229]   

チャンツンさんへ

稲垣史生氏の「TV時代劇のウソを見抜いて楽しむ法 − 時代考証で寄らば斬るぞ!」という本を持ってますけど、そんなことには全く触れておりませんでした。

その中に「八丁堀の七不思議」のひとつとして「女湯の刀掛け」というのがあります。
稲垣氏の説明によると、与力は朝出勤が早い。女は朝が忙しくて湯屋が空いているから、朝に限って与力が女湯を利用することが黙認されていたとあります。
逆に江戸っ子は朝湯が好きで、男湯は混雑していたという。まあ、特権みたいなもんですかね。

この本では、「江戸ものしり帳」(江戸野次馬クラブ編)のことを批判しておりました。
自身番の隣に必ず番太郎小屋があったというのは間違いだと指摘しております。
自身番は町の中央にあり、番太郎小屋は原則的に木戸のそば。
自身番が庶民の社交場とあるのも間違いだとしております。ここは大屋の事務所であり、書役を雇って町務を執っていたところだそうです。
ゆめゆめ盆踊りの稽古などするところではござらぬと指摘しております。

2010/4/8 13:27  [168-232]   

 チャンツンさん  

言うにゃ及ぶさん、時代劇のウソの本、読んでみたいです。調べると83年版。図書館にもなく、amazonだと古いのに数がないから¥1,500もする。ブックオフで偶然¥105になっているのを期待するしかなさそうです。

150年位前のことなのに、わからないことだらけです。
徳川埋蔵金も掘っても掘っても出てこない。(笑)
8代将軍のときにすでに幕府の財政が苦しくなり、上げ米制度を実施しているくらいですし、それが15代目ともなり、薩長に対抗して軍事費の支出も増えた後ともなれば、江戸城の金蔵が空っぽだったのは当たり前だと思うのですが・・・・・。

江戸時代およびそれ以前の輸入品の中に「サメの皮」というのがあり、『何に使ったんだ?』
クイズです。

2010/4/8 19:58  [168-233]   

みなさん こんばんは 初めまして

皆さんのように知識(雑学)がないけど、皆さんの書き込みを読むと楽しです。(^O^)/

>江戸時代およびそれ以前の輸入品の中に「サメの皮」というのがあり、『何に使ったんだ?』
 クイズです。
・わさびおろし?大根おろし?(ブー不正解)

 失礼しました<(_ _)>

2010/4/8 23:40  [168-237]   

スレ主 白の龍さん  

普通に考えると・・おかんさんの答えですが、あまのじゃくなので・・いがいや、服とか。
カブキ者のww

カブキ者ってインディアンみたいな感じだったんすねww。
昨日テレビで見たけど。

2010/4/9 00:51  [168-238]   

スレ主 白の龍さん  

なんとなく探したら、カブキ者の絵がありました。
でもなんか変なんですよね。。。www現代の人が描いたイラストみたいです。
明日はまた江戸の時間を・・書き・・ま・・Zzz

2010/4/9 01:34  [168-242]   

 チャンツンさん  

皆さん、聞いてくだされ。
拙者、現在、訳あって浪人中の身の上ゆえ、暇はあるも金すのほうは不足気味。
よって3日と空けず図書館に通い、時代劇小説を借りてむさぼり読んでいるのでござる。
さて、鬼平犯科帳も全巻読破し、剣客商売へと移った先日のこと、まず1巻を読み初め、驚愕すべきことが起こりもうした。
なんと、この本、鼻糞まみれなのでござる。その箇所6にも及び、頁の上から中ほどまで青汁を擦り付けてあるところ、鼻毛までついているところ、挙句の果てには鼻をいじりすぎて血が混じっているのまで有りもうした。
本を破ったり書き込みをしたりする輩がいるとは聞いてはおりましたが、このようなひどい所業をする不届き者がいるとは想像も出来なんだ。
返却の際、書院番に対し『曲者は拙者の前に借りた者に間違いなく、弁償をさせるべきである。』と訴えるも「可能なかぎりはそうしている。」との答え。
『そなたのほうでやらないのであれば奉行所に器物損壊罪で拙者が告発しよう。さすればそなたは告訴せざるを得まい。いかがなものか?』そう申し向けるも「返却されると借りた者の氏名は消える仕組みに電脳がなっているために、お主の前に借りた者の氏名を探るのは無理じゃ。」との回答でござった。
憤慨するも致し方なく、後続巻を借りて帰宅し、注意して読み進めたところ、2の巻、3の巻は通常の使用感であったが、4の巻は再び3箇所にわたり鼻糞が擦り付けられ鼻毛まで付いているではないか!
不届き千万、池波先生に申し訳が立たぬ。下手人をひっとらえ、手打ちにいたしたい所である。
此度は返却の際、『DNA鑑定をやり下手人を探せとまで言わぬが、専門業者を雇い、電脳のサーバーを探索し、曲者を洗い出し弁償させるべきである。』との文を添え、本を返却してきた。
さて、結果はいかがなものか?はたまた、ほかに何か下手人に制裁を加える手立ては無いか、皆々様のお知恵をお借りしたい。
失礼つかまつった。

2010/4/9 10:48  [168-244]   

スレ主 白の龍さん  

番外 白の龍

チャンツンさん。
こんばんわ。

楽しいひと時が残念な事態になり、お気の毒に思います。
もともと江戸のスレを立てたのは、江戸のおおらかで通 粋 があり、
物を大切にする江戸の精神の世界に、皆でタイムトラベルする為です。

本を、しかも公共のものを汚して平気なその気もちがわかりませんが、
しかし殆どの方がチャンツンさんと同じ心の持ち主であり、
本を汚すなどの輩はごく一部だと思います。
それはチャンツンさんも思う通りだと思います。

犯人を特定したいですね。
でしょうが、犯人がわかっても何ら罰則がないもなくと言うところが現実でしょうか。
本当に犯人か、しらを切れば終わりですからねえ。

捕まえたい、そして代償を払わせたい。
チャンツンさんと同じ気持ちですが、制裁を加える手立てを考えるのは今後の課題にしましょう。
でもチャンツンさんのおかげで、後読の方は不快な思いを避けれたかもしれません。
ここは一つ成り行きを見守ってくだされ、どうぞこらえてくだされ。

でも本当に、平気で汚せる気持ちが悲しいですね・・・。

2010/4/9 23:56  [168-252]   

 チャンツンさん  

こんにちは。気を取り直して、再びTVでやっていた「本当かな〜?」な話です。
私が10代後半頃、NHKでは鈴木健二アナウンサーが大人気で「歴史への招待」の他に日曜の夜にクイズ番組をやっていました。その中でやっていた歴史クイズで「本当かな〜?」で憶えている問題。
小僧さんがお店のおつかいで出かけました。途中で、ほかのお店の小僧さんと会い、いっしょに遊び始めました。さて、持っていた荷物はどうしたでしょうか?荷物にはお金も入っています。
@適当にそこらに放置。
A木などの高い人の手の届きにくい所に置いた。
B空き地などには必ず荷物置き場があった。
で、正解は@.「それくらい治安が良かった。盗まれることが無かった。」
本当かな〜?本当にそれくらい治安が良かったのかと疑問に思い30年たった今も覚えていますが、よく考えてみたら「小僧を一人でお使いに行かせるか?増してや現金を持たせて?」
であります。

「歴史への招待」という番組では事実はあったけれども、芝居などで脚色されてしまった話や伝説のような話も真面目に取り上げていて、その中で憶えているのは忠臣蔵で大石の金銭出納帳を真面目に調べ、さすがに敵を欺くために芸者を上げてドンチャン騒ぎをしたという形跡は無いこと。幕府は赤穂浪士が江戸に集まってきていて、どうも敵討ちをやろうとしていると気付いていたような形跡があるが、それを放置していたのではないか?というようなこともいっていた記憶があります。それから、義経伝説について「衣川では死なず、北海道まで逃げたという話が出始めたのは徳川光圀が大日本史を編纂し始めてから。」という話で、それまではそういう話は無かったという事でした。(いわゆる都市伝説の類。話が地方で埋もれていたというよりも、日本各地から歴史の話を集め始めたら、自慢話のような感じで生まれてきてしまったという表現であった。)

お江戸の話ですが、文明というか、庶民の文化的な度合いというのは当時のヨーロッパよりも進んでいたようです。風呂好きなのはいつごろ始まったかわかりませんが、徳川家康は熱海から湯を江戸城まで運ばせたといいますし、水戸黄門もさすがに全国は回りませんが、箱根まで湯治に行ったことがあるようです。町には銭湯があり、庶民も日常的に風呂に入っていたようですが、欧州ではこの頃、産湯を漬ったら死ぬまで風呂に入らず過ごす人も多かったらしく、日常的に風呂に入るようになったのは200年位前からと言われています。
植木、盆栽、鉢植えなど、貧乏長屋でもそこかしこに鉢植えが置かれて草花を楽しんでいたようですが、欧州ではその時代庶民にそういう風習は無く貴族の楽しみだったようです。明治時代になり、日本にやってきたイギリス人商人の手記で、路地や庶民の家の軒先にも鉢植えなどが置いてあるのを見て「一般庶民がガーデニングをやっているので驚いた」という記述があります。

2010/4/10 14:33  [168-259]   

チャンツンさんの書き込み中にある歴史クイズについて

稲垣史生氏の「TV時代劇のウソを見抜いて楽しむ法」で、こんなことが書いてありました。

関ケ原で小早川秀秋の裏切りで東軍が勝つと、その混乱の中を島津義弘が逆に東軍の中を突破して伊勢へ逃れようとした。
時に福島正則は討ち取って手柄にしようとしたが、家来に諌められて思いとどまるが、敵に後ろを見せては卑怯と、前を向いたまま後退したという。

さてここで、例の番組での問題です。
福島正則はどうやって後退したでしょう?

1.前を向きつつ乗馬を後退させた。
2.馬を降り、徒歩で後ろ向きに退がった。
3.馬に逆乗りをし、自分は前向きで退がった。

馬は後ずさりしないからだめ、大将の徒歩もまずく、結局3.が正解ということであった。

これに納得がいかない著者はNHKに電話。その間の担当者とのやりとり。

「馬に逆乗りするとき鞍はどうするの?」
「置き替えるんです。」
「高低があってピッタリいかんよ。鐙は?」
「そのままではいけませんか?」
「つま先の覆いがないから足が掛からないね。前に馬の尻があって、首が無いから正則は落っこっちまう。洒落ではないがうまくないよ。正解は3.ではなくて2.ということだ。担当者も一生懸命考えてやっているんだろうが、ちゃんとやってもらわなくてはね。」

ということでした。

2010/4/10 20:46  [168-261]   

こんばんは。

江戸時代の金貸しについてちょっと調べてみました。
「烏金(カラスがね)」と言われる金貸しが多数を占めていたそうです。
いわゆる街金、消費者金融ですね。

棒手振り商い(天秤棒に荷物載せ、担いで売り歩く)の八百屋の熊さんは、毎朝、「般若の政吉」と呼ばれるやくざの親分の元へ、その日の商売の元手を借りに行きます。
仕入れのお金800文を借り受けます。すると当日の利息三分(24文)を差し引いた776文が、熊さんに手渡されます。
この金で青物市場で野菜類を仕入れてお馴染みの長屋に売り歩く訳です。
商売を終えると、「般若の政吉」親分の所へ800文を返しに行きます。

カラスが朝ねぐらを出て夕方に戻る様に、朝に貸し付けたお金が夕方に戻ってくるので「烏金(カラスがね)」としゃれに言われたそうです。

さて、やくざで金貸しの「般若の政吉」にはもう一つの顔がありました。
南の番所(南町奉行所)の同心の旦那に手形を貰って岡っ引きを勤めていました。
博打打ちややくざが、お上の御用を勤めることを「二足の草鞋を履く」といいます。

もともとがやくざであり、普段からお金を借りたりしていたので近隣の住人は逆らえません。さらにお上の御用をちらつかせて阿漕な商売を行っていたようです。

毒をもって毒を制す、あるいは、裏の情報網を期待したのか、この様な二足の草鞋を履いた岡っ引きが多かった様です。

以上、金貸しと岡っ引きについてのお話でした。

2010/4/10 22:36  [168-262]   

江戸と上方というのは食文化など随分違いますね。濃口醤油と薄口醤油、白味噌と赤味噌、鰹だしと昆布だし
うなぎは裂き方、蒸すか地焼きか、蕎麦とうどんなど全く違うので、意識的にやっているのですかね?
(尾張はまた別に特殊な食文化になってますが)

 関東のうなぎの裂き方は、実際には串に刺すときに形が整いやすくする為、背から裂いたのが真相らしいですが、他は分かりませんね。

 神戸まつりで初めて行ったとき「京町筋でサンバをやっている」と聞いて「大地震で道に筋が出来たのか?」と思ってしまいましたが。
南北の道は大阪などでは筋というのですね、御堂筋などというのは(町)が省略されたものだとばかり思っていました。
 京都だと東西の道は条で、通りは南北だったりするのでややこしいです。

 まあ江戸の通りは、上方と違って碁盤の目みたいになっていないので(基本は江戸城からの放射状の「のの字」大通りですから。)しょうが無いですが。

2010/4/10 22:54  [168-263]   

こんばんわ。

中原統一さんの書き込みにある、「番所(南町奉行所)」で思い出しました。
自身番のことを番屋とも呼んでいたようで、番所と番屋がごっちゃになることもあるようです。
TV時代劇で岡っ引きや同心が、「ちょいと番屋へ来てもらおうか。」とあるのは番所の間違いではないかという話です。

岡っ引きと目明しの違いは、地方によって呼び方が違うってことでしょうか?
庄屋と名主みたいなもんですかね。


撮る造さんへ

>関東のうなぎの裂き方は、実際には串に刺すときに形が整いやすくする為、背から裂いたのが真相らしいですが、

腹から裂くと切腹を連想させるのでそれを嫌ってという話をどこかで聞いたことがあります。うなぎではなかったかもしれないですが。

2010/4/10 23:17  [168-264]   

言うにゃ及ぶさん こんばんは
>腹から裂くと切腹を連想させるのでそれを嫌ってという話
 これは俗説みたいですね、実際に調理する人は当然武士では無いですし、食べる人も町人が多いですからそんなことは知ったことではないのでは。
 「江戸にはいい板前が少なかったので、(難しい腹でなく)背開きになった」と言ったのは、作家の藤本義一でしたが。

 実際のところ真相と言えるような正式記録はないみたいです。うなぎの加工工場に行ったときに聞いたのが先ほどのレスに書いたことですが。
(うなぎの裂き方焼き方)
http://www.usiwakamaru.or.jp/~syohei3/sh
iizakana/shiizakana004/tok4.htm

2010/4/10 23:33  [168-266]   

撮る造さん、こんばんわ。

そうですか、俗説でしたか。ひとつ勉強になりました。

どうもありがとうございました。

2010/4/10 23:55  [168-267]   

スレ主 白の龍さん  

未の刻 昼八つ 午後二〜三時頃

「手習いを帰ると文字へ又通い」

手習い草子がまっ黒になる八つどき。
手習い草子を師匠に見せて本日の寺子屋は終わり!。

銭をぶつけて取りあう穴一は賭博と一緒だと親に大目玉を食らい、
紙めんこの前身、泥めんこが流行りました。
他凧上げ、魚とりと子供の遊ぶものに有限はありません。
地面が暗くて見えなくなるまで遊びました。
「わんぱくは鼻でシャボンを吹いて来る」

「八つの耳ふり立て帰る手習子」
おやつは 八つ時から生まれたもの。江戸の菓子は最初は京菓子全盛だったが、
享保頃から、蒸菓子 干菓子 餅菓子などに江戸独特の風味が加えられ、
江戸らしい菓子が生まれました。「長妙寺桜餅」「塩瀬饅頭」「金つば焼き」「大福」など・・

昼下がりの芝居町。明け六つから始まる芝居は通し狂言が主で、観客の方も筋に精通して
何処が見せ場か心得てました。いよいよ大詰めの場面になり、待ち構えていた役者が出ると
朝からきてた観客と舞台が一体となりものすごい熱気だったそうです。

自然を鑑賞するのも江戸の楽しみの一つです。
春の花見 夏の藤見 秋の紅葉狩り 冬の雪見。

大きな神社仏閣や遊里、芝居町と密接な江戸の盛り場。
両国 浅草 吉原は不思議な活気と喧噪を見せてました。

2010/4/11 00:18  [168-268]   

 チャンツンさん  
吉原近くのうまい蕎麦屋 郷に入りては・・・・・

>>江戸と上方というのは食文化など随分違いますね。濃口醤油と薄口醤油、白味噌と赤味噌、鰹だしと昆布だし
うなぎは裂き方、蒸すか地焼きか、蕎麦とうどんなど全く違うので、意識的にやっているのですかね?

この間、何かで読んだのは、江戸は大坂よりもきれいな水が手に入りやすかったので、蕎麦がはやり、大坂はあまり水がキレイでなかったからよく煮る必要があったのでうどんになったと言うのですが・・・・・たしかに淀川は京都の下水が流れてきますけれど、そうするとうどんの麺自体が打てないことになるわけで、眉唾です。蕎麦粉自体が手に入り易いかどうかというのが原因のような気がします。蕎麦というのは新しく開いて痩せている畑によく植えられると聞いたことがあるので、関西よりも関東のほうで手に入りやすかったから発達したのではないかと思います。
鰻の割き方の謎ですが・・・・・・普通の魚を三枚に下ろすときは肛門の辺りの柔らかいほうから刃を入れていくわけで、背中のほうが割くのは難しいと思います。鰻は違うのでしょうか?

クイズの答えですが、わさびの下ろし金もたぶん正解ですね。今でも売っているし。
江戸時代、およびそれ以前、輸入品目に入っていたサメの皮は刀の柄の滑り止めに巻かれていたそうです。時代劇だとサテンの布地か何かで色鮮やかでキレイですが、実際は命にかかわる事なので、色なんか付けられていなかったのではないでしょうか?

素朴な疑問。
@日本刀の真剣(大刀)の長さはせいぜい二尺五寸がいいところなのに、稽古のときの竹刀はどうして三尺八寸とか、三尺九寸で長いのでしょうか?稽古で長いのを使っていると、実戦で役にたたないのでは?
A鬼平か、かわせみか忘れましたが、「出入りの植木屋に門松を依頼」とあり『????』
門松を飾るのは「鳶」の仕事と昔も今も決まっている。
大先生が間違えたのか?それとも、植木屋でも頼まれればやるのか?


私よりもはるかに詳しい皆さんに、生意気にクイズなど出して、申し訳ありませんでした。

2010/4/11 02:41  [168-276]   

こんばんわ。

子供の頃に「戦国の剣豪」というテレビ時代劇がありました。主役は上泉伊勢守役を嵐寛寿郎がやってました。彼は時代劇映画のスターでしたが、既に映画界は引退していたお年よりでした。それをテレビ局では抜擢したようです。
まだ白黒の時代でしたが、キィーンとかドスッとかいう効果音は既に使われておりました。
その中で、戸田勢源という剣豪がかなりひどい扱いでした。割と有名な剣豪なんですけど、上泉伊勢守と実際に対戦したことはあるんでしょうか?
また、テレビの中でよく使われるフレーズがありました。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。」でしたね。
歌も出てきました。
「人に触れれば人を斬り、馬に触れれば馬を斬る・・・。」というやつです。これは上泉伊勢守の弟子である神後伊豆に関わる歌だったと思います。

さて、江戸時代に入ります。
子連れ狼で脚光を浴びた裏柳生。柳生烈堂というのは実在の人物でして僧侶です。剣術の腕前のほどは知りません。柳生の直系ですから、できたかもしれないです。
裏柳生の口伝(くでん)に曰く、「・・・神に逢うては神を斬り、仏に逢うては仏を斬る。」。
柳生一族の陰謀というのは映画は見たことありますが、テレビでもやってたと思います。テレビは見たことあるような無いような・・・。
これを見ると、先の神後伊豆に関わる歌とよう似とるんです。
裏柳生の実在性はともかく、歌や口伝の元ネタって何かあるんですかね?

2010/4/11 19:13  [168-291]   

 チャンツンさん  

こんばんは。
アトランダムに数字の話。

二八蕎麦。2×8=16で、値段が16文だったから。もしくはつなぎに小麦粉を使っていて小麦粉:蕎麦粉の割合が2:8だったから。
後者のほうが本当のような気がします。ちなみに現在は粉の値段のせいで、混ぜる割合が逆転しています。

九里(くり)よりうまい十三里。江戸日本橋から川越まで十三里。サツマイモが名産で、九里=栗、よりもうまいと売り込んだ広告文。現代のCMキャッチフレーズの元祖?

九二屋(ぐにや)。質屋。九−二=七(しち)。「質屋に行く」と言うとかっこ悪いので使われていた隠語。ただし、江戸時代から使われていたかどうか不明。

時代劇の人を切るときの効果音は「三匹が切る」から始まったと聞いたことがあります。マグロとか、野菜を使ったとか。キャベツや白菜が一番良かったらしいです。大河ドラマの「峠の群像」の討ち入りシーンで、それまでの民放の時代劇の切っては捨て、切っては捨て、という感じではなく、睨みあったり鍔迫り合いから体当たりをしたりというのを見て『実際に真剣で戦うとなるとこういう感じが近いだろうなあ』と思いました。
15年位前の映画で「EAST MEETS WEST」というとんでも映画がありましたが、アメリカ人俳優は切られるとすぐに倒れてしまう。切られたらタメを作ってから倒れるという演技指導に苦労したとか。日本人は子供の頃から時代劇見ているので、切られたら「うっ!」と言って止まってから倒れるというのが身についているようです。STAR WARSを1作目から見直した友人が「最初のやつはチャンバラが出来ておらん!」と、感想をもらしておりました。(笑)

2010/4/12 23:10  [168-293]   

スレ主 白の龍さん  

とりあえずクイズの回答。

どうやったら勝ちに持っていけるかを考えて、
試合では鉛を入れない軽い竹刀を使うわけだから・・・長い方が有利じゃん?
でもこれじゃ不公平じゃん? 長い竹刀持ってくれば勝つんだから。
え〜・・じゃあ長さ決めるか?。

2は・・全くわからんw。

>神に逢うては神を斬り、仏に逢うては仏を斬る。。
実戦志向の剣術なので話しする前に居合で殺してしまいますよね。
単なる剣道試合ならわくわくするものですが、柳生の試合は怖いと言うのが本音です。

2010/4/12 23:53  [168-294]   

スレ主 白の龍さん  

>サメの皮は刀の柄の滑り止めに巻かれていたそうです

あ〜忘れていました!!!

2010/4/13 00:06  [168-296]   

白の龍さん みなさん おはようございます

白の龍さんへ

返信ありがとうございます。

皆さんのように書き込む事はできないけど
楽しく「お江戸でござる」を覗いています。

では・・・失礼さました^_^;

2010/4/13 10:29  [168-302]   

チャンツンさんへ

>時代劇の人を切るときの効果音は「三匹が切る」から始まったと聞いたことがあります。

私が子供の頃は、「三匹の侍」というのがありまして、これでも効果音は使ってたと思います。
主役は丹波哲郎・平幹二郎・長門勇でした。長門勇は槍の名手でした。刀も使うけど。

さて、歴史家八切止夫氏によると、刀は片刃がなまったものだと。つまり、剣と刀は別物であって、剣は諸刃で攻撃・防御両用、刀は片刃で専守防衛なんだそうです。
そういえば、中国でも青竜刀とは言いますけど、青竜剣とは言いませんね。
ただ、八切止夫氏の説もいまいちあれかなという気はします。(汗

2010/4/13 13:02  [168-303]   

 チャンツンさん  

言うにゃ及ぶさん、ご指摘ありがとうございます。
「三匹の侍」で正解です。
私の間違いでした。訂正させていただきます。

刀の話ですが、たしかに片刃だと刀で、両刃だと剣ですね。語源は定かではないですけれど、区別していますね。
江戸の話から少しずれますが、日本刀は室町時代より前と後で鉄の質が違うそうです。精錬技術が上がったことにより、鉄の炭素の含有率が増し、鋼が硬くなった。よって、刃を薄く鋭くすることができるようになったのですが、その代わり、斬り合いになったときに折れてしまうことがある。鎌倉時代までの刀は折れない、けれども曲がるそうです。高校のときの日本史の先生は年配の方で学徒出陣で陸軍の飛行機乗りになった。出征のとき、それを知っていたのでいざというときのために「折れない鎌倉時代の刀を蔵から出して持っていった」そうです。

久保田藩(秋田藩)佐竹家。
正月の名物は江戸屋敷の門前に門松の変わりに人を立たせていたこと。もちろん門の左右に1人ずつ、2人で1対。
「佐竹の生き門松」と名物になり、わざわざ見に行く人もいたとか。
ほかに久保田藩がやった変わったことといえば、京都からの美人の輸入。
舞妓→芸妓→その後(年取って安くなってから)を積極的に身請けして秋田に連れて帰る。故に現在でも秋田は美人多し。
この政策の理由は不明。(私なりに考えた所、大奥に女性をたくさん入れて、御公儀の内側からの政治の掌握を狙ったか、そこまでは行かなくても外様大名の中での有利なポジションを狙ってのことか?)
伊達政宗が「天下取りの邪魔だ」と美人を藩内から追い出した仙台藩と、逆ですな。(そのせいか、つい最近まで宮城県には美人がいなかったのは、タレント名鑑を見てもわかると思います。)

2010/4/14 01:02  [168-305]   

スレ主 白の龍さん  
江戸湊 相撲を終えて 行水 見ちゃいや〜ん 吉原内の湯屋

申の刻 夕七つ 午後4時〜午後5時頃


夕暮れ迫る江戸の町。

浅草寺の鐘が、捨て鐘三っつの後、暮れ六つの鐘を鳴らしてます。

仁王門、隋身門が閉められるので賑わった境内の水茶屋 楊枝見世屋なども店仕舞をしています。
浅草二十間茶屋は吉原への通路。
遊客が吉原の噂話で盛り上がってますww。

隅田川に吉原へ向かう猪牙船(ちょきふね)が姿を見せ始めました。
今戸の夕煙が立ち、かりがねが列をなして西に落ちて行きます。

夕闇の中、江戸湊に帰る船の帆が夕日を背景に現れました。
「日の暮れに高輪の戸は惜しくたて」
消費物資は関西 奥州 関東奥地から運ばれて江戸湊にいったん集められ、江戸の運河網によって運ばれました。

「暑い事たらいの中で鯵を呼び」
夕方になって行水を始める時刻に、夕鯵と言って獲れたての鯵を売りに来る物売りがあるいてきました。
「粉のふいた子を抱いて出る夕涼み」
行水を済ませた母親が天花粉で真白な子を連れて外へ出るのが夏の宵。

興業を終えた力士が両国の料理茶屋に、江戸守居役に連れられて行きます。
「やわらかに人を分けてく勝角力」

ペペン ペン♪ お三味の音が聞こえてきました。
江戸下町は様々な音曲の師匠が看板を掲げてました。
常磐津 清元 などの浄瑠璃、長唄 流行り歌、踊りも教えていました。
夕暮れ時にはあちこちから稽古の音が聞こえます。
「三味線のけいこがへりは口で弾き」

芝居町は芝居がはねて客がひけていきます。
桟敷客は芝居茶屋で夕飯と酒席が設けられ、役者を招いてます。

江戸の一日も日が落ちてまいりました。
夕映えの手前であります。

チョンチョン!

2010/4/14 01:25  [168-307]   

チャンツンさんへ

「三匹の侍」は、その後メンバー入れ替えをやってます。長門勇がそのまま残って、あとは加藤剛と安藤昇でしたかね。タイトルも「三匹の侍」だったかどうかまでは覚えてないです。

昔は時代劇で峰打ちというのを時折見かけたことがあります。日本刀は、峰打ちを想定して造られたものではないから、あれはやっちゃいけないそうです。強度的に問題ありだそうです。
人を斬った後の作法として、血糊をぬぐった紙は弊した人の懐へ入れるんだそうです。
当時の歩き方はどうだったんでしょう? 今と同じなんですかね。
それから、乗馬位置。右から乗るか、左から乗るか。武士の馬術は刀を差している関係で、西洋馬術とは反対だそうです。

2010/4/14 12:57  [168-320]   

 チャンツンさん  

>当時の歩き方はどうだったんでしょう? 今と同じなんですかね。
それから、乗馬位置。右から乗るか、左から乗るか。武士の馬術は刀を差している関係で、西洋馬術とは反対だそうです。

刀を左に差していたことを考えると、馬には左からでないと乗りにくそうですね。
前にも一度どこかに書いてあったときに言おうかと思っていたのですが・・・・・普段右側通行か左側通行か定かではありませんが、武士が対峙した時は左によけたと思われます。そうしないと刀の鞘が当たりやすい。鞘当は体当たりと同じで無礼なことになりますから、左によけたと思います。
江戸時代の交通規則はほとんど無かったようですが、大八車の高さ規制というのがあった。荷物を積みすぎると木戸につかえるからというよりも、荷崩れして他の交通の妨害にならないように決められていたようです。大きさの決まりは無かったようですが、積む俵や樽の大きさに合わせた大きさになっていったのではないでしょうか?あまり大きくても道を曲がれなくなるし、人が引いて歩けなくなる。
関連した「本当かなあ?」な、人から聞いた話。
練馬区や世田谷区の江戸時代は畑ばかりであったろう地域の道路。幹線道路から少し入った、昔からの道がそのまま残っているであろう、車がやっとすれ違える道路。測ってみるとだいたい3,6m
「大八車がすれ違える幅」と人から聞いて、そのときは『なるほど』と思ったのですが・・・・・幅1,8m(1間)の大八車といったらとんでもない大きさです。一人では引いて歩くことが出来ない。水戸黄門で悪人と戦うときに八べえが押して突っ込んできますが、押すことも出来ない。どうやら違うようです。

2010/4/14 23:06  [168-325]   

こんばんは。

歩き方については、科学的に実証された訳ではありませんが、現代の日本人の様に大きく手を振って歩いたとは考えられません。

その理由は、一つには武士は、大小二刀を左腰に挿しているためにバランスを崩さないようにすり足のような感じで歩いていたと考えられます。

また、着物を着ているために大股では歩けない、そして草履履きや下駄履きの関係(靴のように密着していない、足の力が歩行と履き物の保持に分散される)もあり、体を左右に捻るような今の歩行姿勢は取れなかったと思います。

腰を正面に向けたまま、足運びをしたと思われます。

以上は、勝手な感想です。

ある学説には、大名行列の絵姿から、右手と右足、左手と左足を同時に出していたというのがあったと思います。
所謂、ナンバ歩行と言うことです。

2010/4/14 23:44  [168-326]   

こんばんわ。

チャンツンさん、中原統一さん、コメントありがとうございました。

大八車が出ていたので、

荷車を使って交通事故で人を死なせたりしたら、死刑だったそうです。

がきデカに「死刑!」と言わせてみたいとこだけど、歴史考証家の稲垣氏に「時代錯誤でござる。」と言われそう。

2010/4/15 00:34  [168-328]   

幕府の中に腰物奉行という、将軍の刀剣管理の役職がありました。
 この腰物奉行の下で切れ味を試したのが御試御用役山田浅(朝)右衛門の名で知られる山田家です。。
 小島剛夕「首切り朝」という漫画でも有名ですね。
(なぜ『首斬り朝』がアメリカで人気なのか)
http://d.hatena.ne.jp/ceena/20051223/113
5319826


 代々山田家では、将軍家のほか諸大名、旗本などの刀剣鑑定(切れ味)をしていました。
 彼らは町奉行所で首切り役を引き受け、その代わり刑死した死体を貰い切れ味の実験をしていました。
 彼らは正規の幕臣ではないので、本来首切り役は出来ません。そこで金を掴ませて代って貰っていたと言われています。
 (金を払ってまで)その訳には山田家の重要な副業の存在がありました。それが「あさえむ丸」です。
 当時死の病と言われていた労咳(結核)の特効薬でした。なぜ?実はこの薬の製法はとんでもないものでした。

(あさえむ丸の製法)
1.死人の腹を裂き肝臓を切り取る。
2.肝臓を天日で乾燥させる。
3.その際に出る肉汁と乾燥の終わった肝臓を混ぜ合わせる
4.更に練りこんで暫く寝かせる。

 これを浅蜊の貝殻につめ1個1両2分という高値で売っていたそうです。
 お陰で収入は大名並みだったそうです。
 明治になって斬首刑廃止以降、山田家は没落し生活に困窮してゆき、人々は「祟り」でそうなったと囁いたそうです。

 江戸の一番不気味な一族ですね。
 山田家の墓は勝興寺(東京都新宿区須賀町8)にあるそうです。


(勝興寺)
http://byp.web.infoseek.co.jp/ooedo42.ht
m

2010/4/15 00:58  [168-333]   

 チャンツンさん  

>荷車を使って交通事故で人を死なせたりしたら、死刑だったそうです。

法律というか、裁きに「過失」という概念が無かったのでしょうね。厳しい。荷車で人を轢き殺すとしたら余程の事が無いと出来ないでしょうが、牛に引かせていたことが多かったようですから、荷物の積みすぎによる事故はあったかもしれません。

江戸時代の人の歩き方というのは特に手を振って歩くという習慣が無かったようです。
1866年に幕府が欧式陸軍を編成するに当たりフランスから指導者を数名呼んで士官の訓練にあたらせた際、行進させるのに苦労した。歩くときに手を振るという習慣が無かったので左右逆に交互に出すということが出来なかったからです。もしくはナンバ歩行だったから左右同時に出していたから?いずれにせよ、江戸時代の人は足と手を左右逆に交互に出すという歩き方をしていなかったようです。
隊列を整えて行進するというのは軍隊の基礎ですから、フランス人たちは頭を抱えたと思います。

参勤交代による大名行列ですが、経費削減のために最小限の人数で、日数を減らすために小走りに街道を進んでいたそうです。(なので、走っている絵なのかも)
江戸などの城下に入るときだけ、見栄を張って、人を雇い、人数を増やす。
江戸時代後半になると、そのために城下町の手前の宿には行列に加わる浪人を斡旋する、専門業者も現れるようになったそうです。
江戸時代にすでに派遣社員と派遣業者がいたんですね。

人間の肝臓を干したものが、肺結核に効いたのでしょうか?
肺結核で死ぬか、ヤコブ病になって死ぬか?というかんじです。

2010/4/15 14:21  [168-341]   

気持ち悪い話を載せてしまったので少し反省してます。(私の縁側用でしたが、雨などで撮影に行けないので)
 口直しとして、江戸時代最強と謳われた雷電為右衛門の話でも。
 江戸時代の相撲は寺社奉行の管轄下の元で年2回(春と冬)行なわれました。

 なぜ寺社奉行かというと入場料が寺社の修復に使われる、いわゆる勧進相撲だったからです。
 寛政年間に相撲興行が本所回向院の境内に固定化され、丁度この頃小野川、谷風と言う名横綱が輩出し人気が高まってきます。
 相撲と言うのは元々武芸ですから武士にも人気があり、各大名も藩お抱え力士を持ち大名間の一種の競争となって行きます。

 この頃現れたのが雷電為右衛門です。谷風の弟子として土俵を踏み、通算成績は254勝10敗と言われていますから勝率、実に9割。とてつもなく強かったのです。

 しかしながら彼は大関止まりで、横綱にはなっていません。その理由は彼を抱えていた松江藩と横綱免許を与える吉田司家を召抱えていた細川家との確執と言われています。これだけ強い力士が実力以外の理由で横綱に成れなかったというのは残念だったでしょう。

 ただ力士の最高位自体は大関でした。横綱と言うのは第11代将軍・徳川家斉の上覧相撲で谷風梶之助と小野川喜三郎が行なった土俵入りの時に着けた白い綱が最初と言われています。
(吉田司家が権威を高める為に考案したと言われていますが)番付に載るようになったのは明治以降でした。

 一方、現代相撲では一度も優勝しないで横綱になった人もいましたが、覚えていますか?

注: 吉田司家は後鳥羽天皇から相撲の全権を与えられ、相撲作法の原型を作り、横綱の免許を与える唯一の権利を最近まで持っていました。(現在では日本相撲協会が全て行なっています。)

2010/4/16 00:38  [168-343]   

スレ主 白の龍さん  
両国橋の夕景 たまや〜 う〜ん高そうな茶屋 雨だと言うのに吉原通い!wさあ行きましょうか。

>気持ち悪い話を載せてしまったので少し反省してます。
そう言う話し、僕は好きです。

本当は江戸のあっちの風俗の話も真面目にしないと完結しないんですがw
春画ってのはどういう目的なのかな?て思うときがあります。
やっぱり今と同じ目的なのでしょうかね?
コレクション?通な趣味だったんでしょうかね?

酉の刻 暮れ六つ 午後六〜七時頃

「暮れかかる軒端みている美しさ」
両国橋から見える夕映えは綺麗ですね。

「又玉やだとぬかすはと鍵や」
玉や〜、夏はやっぱり花火ですね。

「踊り子が出ると座敷が生きてくる」
鐘一つ売れぬ日はなしと、大繁盛の化政期。料理茶屋も空前の繁盛です。
山谷の八百善、深川の平清が開業したのもこの頃。
座敷や庭の造作までも売りにし、凝った浴場で入浴させ、余った肴は笹折に収めて
帰り客にそなえ、夜も更ければ小田原提灯を持たせました。
町芸者も高級料理茶と共に台頭しました。

「闇の夜を一針づつに蛍縫い」
日暮れての楽しみ夏はホタル狩り、秋は虫聞き。
人里離れた原で毛氈を広げ虫の音を聞きながら酒を飲む。
いや〜風流ですw。

吉原も盛況。皆で行きますよ!浅草!
衣紋坂をくだると右に吉徳稲荷、稲荷の前から五〇間の曲がる道を行って突き当たれば
いよいよ吉原大門。
「極楽と此の世の間が五十間」

うまい川柳だな〜。

2010/4/16 01:35  [168-344]   

 チャンツンさん  

>本当は江戸のあっちの風俗の話も真面目にしないと完結しないんですがw

真面目にアンダーグラウンドな話もしてみたいですねぇ。
こちらは大真面目にやっても、誰かに削除されたりすることがあるのであまりできねえ。
アンダーヘアの床屋がいたとか、床屋を頼めないとき(稼ぎが足りないとか、床屋が休みとか、他から回ってこれないとき)は自分で長さを整えていたとか。(長さを整える理由不明。病気よけのまじない?実際に毛じらみとかの予防に効果があった?ただの流行?)

>春画ってのはどういう目的なのかな?て思うときがあります。
やっぱり今と同じ目的なのでしょうかね?
コレクション?通な趣味だったんでしょうかね?

ビデオデッキの普及がエロによって進んだように、春画によって浮世絵の技術(彫りの細かさや、多色刷りなど)が進んだ、なんてね。
現代でも実物よりも、写真やビデオのほうが好き(興奮する)人もいるようなので、江戸時代も実物よりも絵の方が好きだという人もいたから出版されていたのではないでしょうか?


2010/4/17 04:43  [168-355]   

こんにちわになるのか、こんばんわになるのか、よくわかりませんがよろしく。

浮世絵師たちの春画用隠号を紹介します。

鈴木春信 − 酒好何某(しゅずきなにがし)
喜田川歌麿 − むだまら、うたまる
歌川広重 − 色重、夜毎好重(よごとすきしげ)
渓斎英泉 − 淫乱白水

などであります。
歌川広重は安藤広重のほうがよく知られているかもしれません。夜毎好重のセンスは好きですね。
春画は枕絵として利用されていたとか。

話は変わります。
陶器の有田焼などはヨーロッパでも人気がありまして、密輸というのかな、輸出をしていたようです。その時に使われたクッション材が浮世絵だったそうです。春画かどうかまではわかりませんが。
これがフランスで人気になって、絵画の世界で印象派という一派ができました。
ヨーロッパの絵画というと、陰影法を使って光と影の世界を描写したものです。浮世絵のやつは、境界線を線で区切るやりかたですね。
PCで使うフォントには、陰影法を使ったシャドウというやつがあります。ヨーロッパならではの発想ですかね。


余計なこと

サメの皮

サメが泣くのよ、サメザメと。

2010/4/17 18:00  [168-358]   

スレ主 白の龍さん  
真っ暗な江戸の夜 犬におびえる事も 夜の寒まいり 

戌の刻 宵5つ 

午後8時〜午後9時

「夜になり月のあがりを待ち兼ねる」

江戸の夏の夜。
カンテラや薩摩蝋燭の明かりに照らされた露店が並びます。
縁日の夜見世は夜の更けるまでにぎわい、江戸後期は女の夜の外出も普通になりました。

三味弾きと新内流しが二上がりの曲を歌いながら町に消えて行きます。
淡路島かよう千鳥の恋の辻占 と大きい提灯の辻占ない。
豆やー枝豆〜と夏は枝豆売り。

夜の江戸はそれは暗い。
おまけに野犬の集団も多く恐ろしい物でした。
しかし日本独特の情緒的な怪談がたくさん生まれました。

「針仕事行燈へ寄ると女房じみ」
行燈に燈をともす生活は油皿をよく磨き 行燈の紙をこまめに張り替え少しでも明るくと心掛け。
普段は燈心2本でしたが、来客時は3本にして明かりを取りました。

「江戸っ子は裸参りで神頼み」
冬は若い職人がふんどし一丁で技術の上達を祈ってお不動さんへお参りに行きました。




夜毎好重はうけましたw。
技術の裏にエロがあり。
エロは偉大だという言葉を思い出しました。

2010/4/18 02:36  [168-366]   

スレ主 白の龍さん  

今夜はお座敷。

端唄 かっぽれ 藤本二三吉
http://www.youtube.com/watch?v=NkMaSR34y
h0&feature=related


梅は咲いたか   藤本二三吉   端唄
http://www.youtube.com/watch?v=C7AvIJ9gQ
RY&feature=related


猫じゃ猫じゃ 関おひろ
http://www.youtube.com/watch?v=IZljx67we
2Q&feature=related


どんどん節 都家かつ江
http://www.youtube.com/watch?v=m7nZ0LxQN
mo&feature=related


お座附小唄集
http://www.youtube.com/watch?v=AhbWpoMkt
j4&feature=related

2010/4/18 22:48  [168-376]   

絵本吾妻袂

もうレス数が終わりに近づいているので最後っ屁として。

>本当は江戸のあっちの風俗の話も真面目にしないと完結しないんですがw

 平賀源内という人はあっちの趣味のようでしたが、異能な人はやることが違いますね。
 通常の相手と違い金がかかったようですが。
 http://www.weblio.jp/content/%E9%99%B0%E
9%96%93%E8%8C%B6%E5%B1%8B


(平賀源内)
http://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/L9/1
91118.htm


http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary
/200511250001/


こんな話題いいのかな、


 

2010/4/19 02:03  [168-378]   

 チャンツンさん  

>こんな話題いいのかな、

いいんじゃないですか?歴史の話から避けては通れないと思うのですが?
補足と言うか、それではそれに沿った話を。
現代でも(モーホーの)男のデリヘルは普通のデリヘルよりも相場が高く、もののけ歌手が料金でもめて警察沙汰になったと、以前スポーツ紙にありましたが、江戸時代も普通の岡場所よりも高かったんですかー。
でも、武家社会だったので、男色は現代よりも認められていたというか、暗黙の了解であったのではないでしょうか?武田信玄が小姓に「浮気してごめんね。」と書いた手紙が残っているくらいですから。
高校のときの世界史の先生が「日本では何故か宦官が広まらなかった。」と言っていたのですが、外国においてあまりにも政治に力を持ちすぎて、その結果が良くないことを知っていたと言うよりも、ある程度男色が認められていたので広まらなかったという感じでしょうか?

春画の話ですが、男女が絡み合っていて、合体している部分が大きく描かれているものも中にはあったため、日本人の男性は体の大きさに対してモノがデカイと思われていたようです。
それから、女が横になっているのに、合体部分は大きく正対した様に描かれていたものもあったためか、日本人の女性のあそこは(−)というふうになっていると、黒船で来た米人は思っていたようです。

先々週の「なんでも鑑定団」で東海道五十三次、55枚が程度が良く、そろっていて5千万円ということでした。集めたのはその絵の中の1枚に描かれている「とろろ飯屋」の子孫。ご隠居が20年、3千万円位かかったと言うだけあり、状態は良いものばかりでした。
10年前、ハワイのホノルル美術館に行ったら五十三次、20枚以上飾ってありました。刷りが良いものも悪いものもあり、おなじ絵でも刷りが違うものも並べてあったり、何故か赤が抜けている刷りの途中のもの?も2枚くらいありました。興味深かったです。

2010/4/19 03:10  [168-379]   

スレ主 白の龍さん  
町木戸の潜戸を閉める芸者 宴の終わり 江戸の夜 夜鷹と夜鳴き蕎麦

亥の刻 夜四つ
午後10時〜午後11時

「外科ばかり通して番太木戸を閉め」
町木戸を閉じる時間がこの頃です。
閉じられた後は木戸番に了解を取れば脇のくぐり戸から通行させてもらえたが、
木戸番が次の木戸番まで同行するか、拍子木を打って知らせました。
夜間は木戸の行き来は自由に出来ませんでしたが、新道あるいは小路と呼ばれる抜け道があったようです。

「お気の毒などと座敷をおつたてる」
深川の切り店がこの時刻でおわり。
岡場所の宴の燈も消えます。
遊女は床入り、客のつかない張見世女郎のつらい時間。

「月今宵図は油絵の沖の舟」
三つ又に供船をつけた屋形船を浮かべ、水に映る月を詠んだりして月を愛でました。
十五夜の夜は酒徳利にススキを刺し団子を載せた三方を縁側に置いて月に供えました。

わずかな金で春を売る夜鷹。
本所吉田町 四谷鮫 御座を抱えてあらわれ袖を引き。
幕府の追及に私娼が出来ない女は船に乗り、舟饅頭となりました。
陸の夜鷹に水の夜鷹。争いがあったようです。
「船饅頭ちょちょっと細い波が打ち」

さて、江戸ツアーいよいよ第1幕の終わりとなります。
皆さま御覧いただきまして、また書き込みいただきましてありがとうござりまする。

次回のお江戸ツアーをお楽しみに。


2010/4/20 01:36  [168-386]   

白さんへ

「お江戸でござる」 とっても面白いスレをありがとね。
楽しかったし、新しいお客様も増えて、この縁側がよりにぎやかになりました。

駄目な運営者の変わりに、この縁側を良くしてくれて、感謝、感謝です。
第2弾を楽しみに待っています。
きっと、レス頂いた方、ROMされている方も私と一緒の思いだと勝手に想像してます。

2010/4/20 01:44  [168-387]   

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