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ここは主にホンダFIT3HVの徒然ない世間話や、
ドライブ旅行記、オリジナル小説やCGなど
けっこうどうでもいい話題で盛り上がっております。

気だるい午後のひまつぶしにどうぞw

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セントラルアイランドの三姉妹

はじめに。


これは北海道の弟子屈エリアでペンションを経営する三姉妹の物語。

容姿にコンプレックスを持ちながらも一流の経営テクでペンションを支える長女・真子。
バイクやクルマでアクティブに動き回り、旅の情報や食材の仕入れに飛び回る次女・実子。
JKにしてアウトドアクッキングが得意、食事担当の三女・萌子。

彼女らには王子様がいて、彼とともに過ごせる日を待ち望んでいます。

北海道の大自然を舞台に繰り広げられるネイチャー・ストーリー。
3人の姉妹はなにを想い、どんな理想を描きながらペンションで過ごしているのか。
そのあたりを楽しんでいただけたら、と思っております。

なお、この小説は他スレの旅行記「北海道への誘い  -3年後-」での経験や出来事を
アイデアやエピソードとしてかなり取り入れております。
その旅行記を読んだ方は思わずニヤリとすることがたくさんあると思います。

それでは、はじまりはじまり♪

2016/2/13 21:30  [1498-4215]   

プロローグ



新聞販売店のシャッターが景気よく上がる。
マサは大きなあくびをして軽く体操をした。
「そろそろヤツが通る頃だな」
耳をすますと、遥か彼方から野太いバイクの音が聞こえてきた。
「来たな。今日も時間通りだ」
地平線にバイクのヘッドライトが見えたかと思うと、瞬く間にバイクは店先を通り抜けていった。
すれ違い様のピースサインもほとんど見えなかったが、マサにとってはいつものことで気にはしていない。

バイクの音が遥かにかすむと、配達員のバイトが続々と集まってきた。
「ういーっすマサさん! 相変わらずですね、実子ちゃん」
「ああ。毎朝ごくろうなこった。さあて、女に負けてられねぇぜ、今日も配達たのむぞ!」

釧路の漁港にバイクを停め、ヘルメットを脱いだ。
革の黒いツナギに薄紫のジャケット。不精に伸ばした髪をかきあげると彼女は卸市場へ向かった。
市場の一角。馴染みの船長と挨拶をすると大きなスチロールを受け取った。
「実子、今日はイキのいいカツオが大漁だったからサービスしておいたぜ」
「おう、いつもわりーな船長さん! 今度デートしてやるぜ?」
「けっ! そんな気も時間もねぇくせによく言う!」
「気だけはあるぜ、たぶんな。んじゃ明日もよろしく!」
「へっ! まいどォ!」

バイクのタンデムシートに荷物を固定すると、水平線からの光がみこの顔を照らした。
「お。今日の朝日はいいねえ。真子姉が喜ぶな」
みこはウエストポーチからデジタルカメラを取り出し、朝日を数枚撮ってからエンジンをかけた。
「アキラにも…見せてあげてえな、こんな朝日…」
そう呟くと、みこはアクセルを回した。
ジャケットの背中のロゴが釧路の朝日に照らされる。
『CENTRAL ISLAND』と…。




--------------------- HEAVYDUTY SISTERS ---------------------

                  From Now On ...

2016/2/13 21:37  [1498-4216]   

ACT.1 セントラル・アイランドの姉妹


「ただいま」
荷物を持って実子が玄関のドアを開けると、眠い目をこすりながら妹の萌子が出迎えた。
起きたばかりのようでまだパジャマを着ている。いつもはきれいに切りそろえられた
ショートヘアも、今はボサボサだ。

「ふわあ…おかえり、みっちゃん」
「萌子、今日はカツオが旨いらしいぜ。朝メシでタタキにしてやんな」
「ん…わかった…そうそう、新しいイラスト完成したから、おねえちゃんの掲示板のところに
このMO置いておいてね」
萌子は実子にパソコンのMOディスクを渡すと、老婆のように前かがみになって自分の部屋に向かった。
「萌子、いいかげん目を覚ませ。半ケツ出てるぞ。お客さんに見られても知らねーからな」
「えっ!?」
萌子はびっくりして腰に手を当てた。目が覚めるどころか顔が真っ赤だ。
「どんくせーな、冗談だよ」
「もう、みっちゃんのバカあ!」

実子はヘルメットを玄関に置くと2階の自分の部屋に向かった。
その途中、廊下にある掲示板をチェックした。
『9:30〜 裏摩周&亀の子池ツアー 有森夫妻、近藤家族 よろしく!』
となぐり書きで記してあった。
「りょーかい。とりあえず8時半まで寝るか…」
実子は掲示板に『OK』とチェックを入れ、デジカメのメモリーディスクと萌子のMOディスクを
その脇に置いた。

「たったき〜たったき〜ビリーバックビーっ 仕入れ〜たカ〜ツオ〜を火にあ〜ぶり〜♪」
朝日がほどよく射し込み清潔感あふれるキッチン。アカペラで『浦島太郎』の替え歌を歌いながら、
萌子が朝食の支度をしていた。
実子が市場から仕入れてきた新鮮な魚を手際よくさばき、ガラは全て味噌汁の鍋に入れる。
次に、蒸し上がったメークインの皮を丁寧にむいて潰し、ポテトサラダを作る。
床下からナスのぬか漬け、裏庭からパセリと長ねぎを必要ぶんだけとる。
オレンジを切ってジューサーにかけると電子ジャーが炊きあがりを告げるアラームが鳴った。
「よ〜し、でっきあっがりっと♪」

萌子は出来上がった料理を眺め、満足そうに皿に盛り付けていった。
「アキラくんにも、またあたしの料理を食べさせてあげたいなあ…」
そう呟くと、居間の大きなテーブルにどんどん皿を運ぶ。すると、計ったように男性客が2人
居間に入ってきた。
「おはようさん。朝メシできてる〜?」
萌子は笑顔で出迎えた。
「おはようございま〜す! すぐにごはんと味噌汁を持ってきますう」
萌子はごはんと味噌汁をよそって、
「おかわりたくさんありますからね」
と言って手渡した。
若い娘のエプロン姿も手伝ってか、男性客はグラリとくる。
しかし次の瞬間、男性客はもっとグラリときた。
「旨い! こんなカツオは港町の旅館でもなかなか食べられないぜ!」
「昨日の夕食といい、なんで内陸でこんな新鮮なものが食べられるんだ。野菜も新鮮でまさに
採れたてだな!」
「嬉しいですう。たくさん食べてくださいね!」
萌子は満面のスマイルでお礼をすると、次から次へ居間に入って来た客の対応でせわしなく動きまわった。

家族連れや新婚夫妻、ライダーなど様々な旅人が集う居間。本日のスタミナを貯えるべく、
こぞっておかわりをくり返していた。
2人の男性客は、萌子を横目で追っていた。
「萌子ちゃんてすげえな…1人でこれだけの人数の料理つくるんだもんな」
「清楚で可愛くて料理も上手…この宿は大当たりだぜ!」
他の客もそれにもれず、萌子の働きと料理の質にただただ感心するばかりであった。

食事が終わると、客は出発の準備をするべく自分たちの寝室へ戻っていった。
後片付けを一通り終えると、急いでブレザーの制服に着替え、2階の実子の部屋へ駆け込んだ。
「みっちゃん、あとよろしく! いってきまあす!」
返事も聞かず、萌子は大きなおにぎりを机の上に置くと、大急ぎで階段を駆け降り、
家を飛び出して自分のスクータに乗っていった。

「ふわあ…」
仮眠をとった実子はおにぎりを頬張りながら1階に降りると、先刻の男性客2名が出発の準備を
整えて玄関に立っていた。
「あの…萌子ちゃんは…?」
実子は客の前にもかかわらず、髪を掻きながらあくびをした。
「萌子は学校だよ、もう出てった。さっきのスクータの音がそれだよ」
「そうですか…」
男性客は残念そうにため息をついた。
「萌子でなくてゴメンな。オレは萌子の姉の実子ってんだ。萌子のかわりにオレがお客さんを
お見送りしてやるよ。またいつでもこの『ペンション セントラル・アイランド』に来てくれよな!」
実子は屈託のない笑顔を見せた。妹の萌子と比較されるのはもはや慣れていた。
男性客は、萌子と性格がまるで正反対の実子に呆れつつも、その容姿に似合うさばさばとした口調に
新鮮な魅力を感じたのか、上機嫌で出発していった。

2組の客を残し、残りの客の見送りを終えた。
「えーと、残りのお客さんは…有森さん夫婦と近藤さん家族だよな。じゃあ、これから裏摩周&
亀の子池の秘境ツアーに行こうぜ!」
自分が先導する役割であるとはいえ、もはや仲間同士で行くツアーのような雰囲気をつくっていく。
結婚して間もなさそうな雰囲気の有森夫婦、中年の夫婦と小学生の子供の近藤家族はお互いに
自己紹介しあい、実子に挨拶した。
「よろしくお願いします」

実子はガソリン代として客1組につき500円ずつ徴集すると、外に出て中型のRV車を出し、
全員を乗せて出発した。
車内では、これから行く摩周湖の情報やこの近辺の温泉の情報などを、実子なりの感性で説明した。
こういう場での彼女の狎れた性格は非常に都合がよい。
バスガイドのように予め用意されたマニュアルを読むのでなく、自分の知識を友達に説明するような
わかりやすい口調で話す。彼女にとってはそれが地であるため、客にしても本当の意味でリラックス
しながら楽しく説明を聞けるのだ。

2016/2/13 21:47  [1498-4217]   


静まりかえったペンション内。
実子の部屋のとなりにある事務所のドアがゆっくりと開き、右手にドリンク剤、
左手に携帯電話を持った真子が出てきた。
分厚いレンズのメガネ、ジャージ姿の彼女は、血色が悪く、目の下にクマができている。不健康そのものだ。

「うだ〜。また徹夜をやっちゃった…肌に悪いってわかっているのについやってしまう自分が
恨めしいわ…!」
真子は、7つの客室の全ての窓を全開にし、シーツとタオルを洗濯機にかけた。
その間に軽く朝食をとり、各部屋の床に掃除機をかけた。
洗濯物を全て干し終えると、真子は服を全部脱ぎ、浴室の掃除をしつつ、湯舟にどっぷりとつかった。

「あ〜。生き返る〜! やっぱ温泉はいいわあ。カラダの芯から疲れがとれる感じ…。
今度は庭に露天風呂つくっちゃおうかなあ」
すっかりくつろいでいると、携帯電話の着信メロディが浴室内にけたたましく響いた。
防水処理が施された携帯電話のため、浴室の中でも使用できる優れものだ。
「はい、ペンション セントラル・アイランドです! はい、いらっしゃいませ!
来週の金曜日ですね? はい大丈夫です。では2名様の予約を承ります。
それではお名前とご連絡先のお電話番号をお願いいたします」
真子は携帯電話の『メモ』ボタンを押した。こうすれば相手の音声を録音することができ、
あとでゆっくり名簿に記帳することができる。
かけた相手も、まさか通話先の女性が入浴中だとは思いもしなかっただろう。

電話を切ると、同じ携帯電話に今度はEメールが受信された。
その内容は、同様に部屋の予約だった。
「午前中から予約が2件か。悪くないね」

真子は湯舟から上がり、鏡の前にかがんで自分の顔をじっとみつめた。
「・・・」
両頬にある頑固なニキビ。どんな薬や治療でも治せない悪性のもので、非常に気になっていた。
それを見るたびに、真子は大きなため息をついていた。
「毎日温泉に入っているのに…どうして治らないんだろう…」

風呂から上がると、掲示板に置かれたデジカメのメモリーディスクとMOディスクを持って
自分の部屋である事務室へ戻った。
部屋の中にはパソコンが3台。あちこちにコンピュータやインターネット関連の雑誌、
ラベルの不明瞭なCD-ROMディスク、ドリンク剤の空瓶などが散乱しており、足の踏場もない。
客室の清潔で明るい雰囲気とは、もはや比べるまでもない。

「ていっ!」
邪魔な雑誌類を足で蹴飛ばしてメインパソコンであるマッキントッシュの前に座り、
デジカメのメモリーディスクとMOディスクを読込む。
「まあ、素敵な朝日。萌子のイラストも上出来ね。よっし、さっそく合成してホームページに
アップしちゃおう」
マウスとキーボードを巧みに操り、ホームページを更新していく。

ペンションセントラル・アイランドのホームページは真子が一人で運営している。情報の濃さ、
更新頻度の高さ、実子の撮影した風景写真に萌子の得意なイラストを合成した見やすい画像と
レイアウト、返事の早い掲示板やチャットなどが好評で、毎日500件以上のアクセスを誇っている。
検索サイト、情報サイトに片っ端から登録したりと上手にネット営業をしているせいもあるが、
宿泊施設のホームページとしては異例ともいえる人気サイトになっていた。
真子の毎日は、部屋の予約の応対よりもこれらの掲示板のメッセージの返答やサイトの更新など、
ホームページ全般に関わる割合の方が多い。

2016/2/13 21:56  [1498-4218]   


「よし、アップ完了! さあて、今週の収益を計算しなきゃ…」
せわしなく部屋の中をかきまわして宿帳やたくさんの領収書、請求書を拾い集め、真剣に電卓をたたく。

そんな時だった。
『ゆー・がっと・めーる!』
パソコンにEメールの着信を知らせるアラームが響いた。
「きいい! 繊細な計算してるときに誰じゃあ!」
緊急の用件かもしれないため、メール確認は真子にとって最優先事項である。
電卓のオールクリアボタンを連打しながらパソコンに向かった。
「あら、アキラくんからのメールだわ。キャー、ひさしぶり!」
真子は一気にごきげんになり、マウスをたたく音がリズミカルになった。


   真子さん、実子さん、萌子ちゃんへ

    ごぶさたしてます。
   みなさん元気に北の大地の生活を送っていることと思います。
   僕のほうは、あいかわらず家のベッドで寝てばかりの生活です。

   でも本日、先生の診察で「病気は回復に向かっており、このまま
   順調にいけば来月には退院できそう」と言ってくれたんです!
   こんな嬉しいことはありません。
   長かった闘病生活にもようやくおさらばできそうです。

   そこで、退院したらそちらのペンションに一度遊びに行こうと
   思います。
   具体的な日はまだですが、行ける日が決まりしだいまたメール
   します。

   みなさんに会える日を楽しみにしています。

                         春日 明


「うっそー! アキラくん退院できるんだ! しかもこっちに遊びに来るって? きゃー! 
どうしようどうしようどうしよう!」
そう言いつつ両手は『あたしたちはいつでも大歓迎です♪』との返信メールを打っていた…

夕方。
実子と萌子がセントラル・アイランドへ帰ってくると、真子は居間で二人にアキラからのメールを
プリントした紙を見せた。
「うっそー! アキラくんがここに来るの? 素敵、ごちそう作らなきゃ!」
「マジかよ! うおお、すげえ、歓迎してやろーぜ!」
二人は小躍りして喜んだ。
「でしょでしょでしょ〜? ほんと、久しぶりだもんね!」
「新潟にいたときはオレたち全員で看病したもんな」
「やーん、アキラくんがきたらみんなで夜ばいしちゃうしちゃう〜?」
萌子の一言で「きゃ〜♪」と3人の黄色い歓声が響きわたる。家中の隅々まで響きわたるくらいの
大音量だ。

3人姉妹が時間も忘れてアキラの話題で盛り上がっていると、玄関に本日最初の客が到着した。
「こんちわーす! 予約した斉藤ですが〜!」
真子は急に真剣な表情になった。
「アキラくんの話はまたあとで。萌子、お客さんの対応よろしく。実子は明日の仕入れよろしく!
んじゃ、あたしは事務室に戻るから」
「真子おねえちゃんもたまにお客さんのお世話してみたらいいと思うの」
真子は萌子の頬を左右に広げた。
「あたしゃ人前に出るのはイヤなの! 何度言ったらわかるの?」
「イタイタイタイタ! わかりましたごめんなさいごめんなさい!」
「玄関にお客待たせちゃわりーよ萌子。ほら、オレも一緒に玄関行くから」
「う、うん。ありがと、みっちゃん」
実子と萌子は玄関へ急ぎ、精一杯の笑顔で客の前に出た。

「セントラル・アイランドへようこそ!」

2016/2/13 21:57  [1498-4219]   

中島 萌子(三女)

ACT.2 霧多布の宝島


セントラル・アイランドの居間。
夕食後、お客の多くは部屋に戻らずこの居間で酒を飲みながら世間話を交わしていた。
本日も大入り満員、10数名の客がこの居間に居座っていた。
この酒は実子が葡萄を蒸留して作った自家製のワインで、それを目当てにしてやってくる客も
いるほどの評判だ。

この晩酌には夕食の後片付けを終わらせた後、萌子が客の相手をしている。
真子はインターネットの対応で忙しい、というのはたてまえで、実際は人前に顔を出すのが
何よりも嫌な対人恐怖症だったりする。
実子は毎朝夜明け前に食材の仕入れに出かけなければならないため、酒は好きだが夜は
早く寝ねければならない。よって客の晩酌には滅多に顔を出さない。

「萌子ちゃんも一杯飲もうよ」
ワイングラスを片手に男性客が萌子の隣に座った。
「あたし高校生だしお酒ダメなんで、葡萄ジュースで。あたしに遠慮しないで飲んで下さいね、
ハイどうぞ」
萌子はお客のグラスに注いであげた。
「ありがとう。萌子ちゃんて優しいなあ」
「そんなことないですよ〜」
萌子が照れてると、近くで飲んでいた2人の若い女性も寄り添ってきた。
「ねえねえ、さっきの夕食って萌子ちゃんが一人で料理したの?」
「…ええ。あの、お口に合わなかったですか?」
「どーんでもない! あんな美味しい料理たべたのはじめてよ!」
「ああ、あの牛肉の料理、すげー旨かったぜ」
「ほんとですか、よかった!」

萌子はそのお客に夕食のメインディッシュ「牛肉のビール煮込み」の調理法を説明した。
「おいしく作るコツは黒ビールを使うことと、たくさん出る灰汁をこまめに取りのぞくことなんですよ」
「なるほどねえ」
女性客は感心しながらレシピを覚えようと質問をくり返した。

その脇から、今度は別の男性客が割り込んできた。
「萌子ちゃんよ。きみの料理になんくせをつけるわけじゃないが…」
男はもったいぶるようにワインを一口含んだ。
「きみの料理は、そのほとんどが野外用の料理だ。今じゃアウトドア料理などとおしゃれに
呼ばれているが、もともとはサバイバル中に作ることを考慮されたもの。そのワイルドさを
現代的に、ペンション用にお洒落にアレンジしているのさ」
萌子はギクリとした。
一見お洒落で美味しい料理だが、その実体は野趣あふれるサバイバル料理のアレンジ。
まさに男の言う通りだった。

「それはウソでしょ。萌子ちゃんの料理は銀座の一流ホテルのディナーに負けるとも劣らない
美味しいものばかりだわ」
女性客は男を否定し萌子の味方をしたが、萌子はあっさりと口を割った。
「お客さん、お料理に詳しいんですね。確かにあたしの料理はアウトドア料理をアレンジしたものが
多いです。でもそれは、北海道ならではの新鮮な素材をお客さまにより美味しく食べて
もらうためなんです。この土地の素材をいちばん美味しく食べられるから…」
「素材の問題じゃないよ」
男は萌子の口を制した。
「オレの言いたいことは素材の善し悪しじゃない。きみの調理法だ。いいかい、料理ってのは
作る人の感性、思想、そして生きざまがモロに現れる。正直いってオレは感心してるんだよ。
都会的で人なつっこい萌子ちゃんが、その若さで野趣あふれるサバイバル料理を熟知していることにね。
よければその調理法を覚えるきっかけになったルーツを話してほしいんだ」
悪い人ではない。
萌子は料理のクレームでないことにひと安心した。
「…そこまであたしの料理をわかってくれた人はお客さまがはじめてです。わかりました。
あたしの料理のルーツ、大して面白くないかもしれないけどお話します」
萌子は葡萄ジュースを少し口に含んでから話しはじめた。
まわりの客も、萌子の話に聞き耳をたてた。

2016/2/13 22:03  [1498-4220]   


2年前の新潟の山あいの田舎。

夏は湿度の高い蒸し暑さ、冬は気温はともかく国内有数の豪雪地帯。
新緑の季節、萌子は紺サージのセーラー服を着て近くの中学校へ通っていた。
木造の古い校舎の教室、来春の高校受験に向けてクラスの誰もが必死に勉強していた。

「萌子っち、あなたどの高校行くか決めた?」
親友の留美。保育所からのつきあいで、萌子と同様に都会に憧れる一人であった。
ポニーテールがよく似合い、ショートヘアの萌子は彼女に密かに憧れていた。
「あたし、まだ決めてない。ていうかこの辺の公立なんて3校しかねえすけ、
やっぱ商業科かなあ。できれば東京のオシャレな制服が着れる女子高に行きてえんけどなあ」
「方言バリバリの田舎娘が東京の華やかな女子高に行っても似合わないね」
「留美っち! 言うにことかいて〜!」
「冗談冗談! でもさ、あんたの家、姉妹だけの3人暮らしでしょ。あんただけ
都会暮らしなんて、大丈夫なの?」
萌子は少し俯いた。
「無理に決まってるすけさ、夢の話じゃん。近くの公立の商業科にすると思うわね…」

家庭科の授業中。
単語帳を片目に、課題の「鍋掴み」をブランケットステッチで縫っていると隣の留美が話しかけてきた。
「萌子っち、もうすぐ夏休みじゃん。どっか泊まりがけで旅行行こうよ」
「へえっ? この受験まっただ中に? 何考えてるの?」
「このシーズンだからこそよ。15歳の夏は二度と戻らないのよ」
「おめさん、この時期になると毎年同じこと言ってるわね。『○歳の夏は二度と戻らない』とかゆーてさ」
「そ、そおんなことないわよ〜」
留美の声が裏返る。あからさまに図星だ。
「でも、今回は留美っちの言うことに賛成できるわ。高校が別々になるかもしれないし、
中学生の思い出にどっか行こっかねえ」
「そうこなくっちゃ!」
「で、どこ行くん?」
「廊下です!」
二人は廊下に立たされてしまった。

「…留美っち〜! あんたのせいでこんな恥ずかしいメに…!」
「なにゆーてけつかる。恥ずかしいメってのは…こういうことだああ〜っ!」
留美は萌子のスカートをめくり、それを頭の上で結んだ。
「きゃあああ!?」
「巾着ぶくろ〜!」
この学校の女子はスカートの中に当然のようにブルマをはいている。萌子も例外ではないが、
それよりも上半身を巾着状態にされたことが萌子をパニックにさせた。
廊下で騒ぎ続ける二人は、家庭科の担任の脳の血管を数本切らせてしまう結果となった。

こってりと叱られた二人だが、放課後の帰り道にはすっかり元気になっていた。
「で、留美っち。旅行はどこにする?」
「そうさねえ、ちょっとふんぱつして北海道へ行こうよ!」
「北海道!? ちょっと遠すぎるよお。何泊もするんでしょ? せめて佐渡とかにしようよ」
「いいじゃん。中学校最後の冒険っちゅーことでさ! 世の中には小学生で日本縦断してるコも
いるんだよ」
「女の子でそれやった話は聞いたことないよ…ていうか、あたしの言いたいことは何泊もすることが…」
「絶対大丈夫だって! ねえ北海道にしようよ! 宿はユースホステルとかに泊まれば安いし、
おいしい食べ物たくさんあるよ」

留美にそそのかされて萌子はだんだんその気になっていったが、決断には至らなかった。
資金的に無理というわけではない。
確かに北海道への旅行というと、電車代、宿泊代、もろもろを考えると、とても中学生にとって
即座に出せる金額ではない。
だが、萌子は両親の残した遺産と保険金があるので、たまに旅行する程度の余裕はある。
決断できない本当の理由は他にあった。

「ちょっと考えさせて、留美っち。んじゃまた明日ね!」
萌子はそう言うと留美と別れ、足早に自宅へ向かった。

2016/2/13 22:09  [1498-4221]   


自宅へ戻ると、誰もいなかった。
実子は大学のため、いつも一番に家に戻るのは萌子であった。
「真子おねえちゃんはやっぱり帰ってないか…。春に家を飛び出して行ったきり、
もう3ヶ月が経っちゃう…どこへ行っちゃったんだろう…」
萌子は一息つく間もなく鞄を部屋に置くと、セーラー服のまま隣の家へ行った。

「こんにちは〜!」
隣の家の玄関を開けると、奥から40歳半ばくらいの女性が現れた。
「あら萌子ちゃん、いつもごくろうさま」
とスリッパを用意してくれた。
萌子は2階へ上がり、奥の部屋をノックした。
「どーぞ」
中から少年の声がした。

部屋に入ると、萌子より若干年上の少年が病人用ベッドで横たわっていた。
普通であれば高校生くらいの少年で、クラスにいれば一番モテそうなくらいのよい顔だち。
彼は「やあ」と笑顔で萌子を迎えた。
「アキラくん…調子はどう?」
「ん。とりあえずなんともないや。別にどこも調子わるくない気はするんだけどな…」

血友病。
男性にしかかからない奇病で、普段から肌が弱く出血しやすくなってしまう病気。
アキラは子供の頃からこの病気に犯され自宅療養をしていた。

萌子はゆっくりとアキラの上体を起こしてあげた。
「サンキュ。今日はイラスト2作完成したぜ」
アキラはベッドの脇のノート型パソコンを萌子に見せた。
夏の海岸線を走るバイクのイラストと夕焼けに黄昏れたバイクと男のシルエットのイラスト。
プロの作品としても通用しそうな見事な出来栄えだ。
「うわあ、素敵! さすがアキラくん!」
バイクに乗ってこんな風景の中を走りたい、という彼の夢がイラストの中にありありと描かれていた。

「ねえ、この夕日の処理ってパソコンでどうやって描くの?」
「ふむ、じゃ教えてあげよう」
彼はペイントソフトを起動させ、わかりやすく萌子に説明した。
ベッドでほとんど寝たきりを余儀無くされているアキラにとってパソコンは、勉強の道具や趣味など、
もはや欠かせない道具になっていた。誰の迷惑にもならずにインターネットができる環境として、
自宅での療養をしているのであった。

萌子はそんな彼の影響を受けてパソコンで描くイラストが好きになった。
必要な勉強は実子が家庭教師として面倒みてくれる。萌子は最初の頃はただ純粋にお見舞いに
来ていたわけだが、彼の魔法のように描かれたイラストに興味を持ち、今日ではいろいろな
イラストの技術を彼から教えてもらっていた。
アキラも、同じ趣味を持つ者同士として毎日通ってきてくれる彼女を楽しみにしていた。

「なあるほど、よくわかりました。今晩さっそく試してみようっと。それじゃ、今日はもう
陽が暮れるから帰るね」
「ちょっと待った、萌子ちゃん」
部屋を出ようとした萌子をアキラは制した。
「なんか隠し事してないか?」
萌子は心臓が高鳴るのを感じた。
「あ、あたし…」
「毎日外もロクに出れない生活してるとさ、身近の人の微妙な表情とか結構わかっちまうようになるんだ。
なんか悩みごととかあるんじゃないかい?」

萌子はもはや観念して口を開いた。
学校の親友と夏休みに北海道へ行くかもしれない。仮にそうなった場合、アキラのお見舞いが
数日間できなくなってしまう。毎日お見舞いに来てくれる人が、たった1日でも来なかったりしたとき、
病人にとってとても寂しい想いをする。それは盲腸で入院した経験のある萌子はよくわかっていた。
ましてや個人的なレジャーだ。自らの意志で言えるわけがなかった。
だから萌子は、長期旅行に限っては断ろうと考えていた。しかしその想いをアキラに悟られた以上、
話さずにはいられない。何でもない、と言ったところでおさまるアキラでないのは萌子もよく知っていた。

「…実は…」
萌子は事のいきさつをアキラに話した。
「そうか、いいじゃない。行ってきなよ、オレのことは気にしなくていいよ」
「でも…」
アキラは笑顔を見せた。
「オレにとっていちばん辛いのは、オレのことでみんなの自由を奪ってしまうことなんだ。わかるだろ?」
アキラの言いたい事もとてもよくわかる。だが看病する側にとって、それで納得する理由にはならない。
「オレだって、病気が治ったらたくさん旅行したいんだ。病気に打ち勝つくらい奮い立つような、
血が騒ぐようなみやげ話、待ってるからさ!」

萌子は少し考えた。
「…うん…。ありがとう。アキラくんがそう言うなら…あたし行ってくる!」
アキラは笑顔でうなずいた。

2016/2/13 22:15  [1498-4222]   


悪夢のような学期末試験が終わり、待ちに待った夏休みに突入した。

「じゃあ、みっちゃん、行ってきます。もしあたしの旅行中に真子おねえちゃんが帰ってきたら
よろしく言っておいてね」
大学生の実子は萌子よりも早く夏期休暇に入っており、下着姿で家にいた。
「真子姉はしばらく帰ってこないと思うよ。今回は特にひどかったらしいからな」
「そう…やっぱりなんか心配だわ」
「ま、真子姉と家のこと、それとアキラのことはオレにまかせて、萌子は安心して遊んできな」
「う…うん。じゃ、行ってきます」

萌子は実子に見送られて家を出た。隣の2階からアキラも手を降って見送っていた。
萌子はこの旅行で、ただ観光地を見てまわるだけでなく、何かアキラのためになるような経験を
したいと思っていた。ただし何をするか、具体的にはまだ決まっていなかった。

駅で留美と落ち合い、新潟駅へ、羽越本線で青森へ、津軽海峡線で函館へ。
『青春18きっぷ』という鈍行列車乗り放題の格安きっぷを買ったので全ての列車は鈍行か快速。
函館に到着するまでまる1日かかった。

函館駅で二人は改札口を出た。
「はあ〜るばる、来たぜはあ〜こだってえ〜!」
「留美っち、恥ずかしいよ。ていうかおめさん歳いくつだね?」
「さぶファンに歳は関係ないよ。萌子っちこそここまできて越後弁バリバリじゃないよ」
「てへへ、なかなか直せないのよねえ、この喋り」
「とりあえず、なんかおいしいもの食べようよ。この旅は食べて食べて食べまくるわよ〜!」
 二人は名物函館朝市の中の食堂でイカソーメンとウニ・イクラ・ホタテの3色丼を食べた。
「うわー! 美味しい! こんな新鮮なイカ初めて〜!」
「うんうん!!」

感激もつかのま、再び電車に乗り札幌に向かった。
札幌の宿に到着したのは日もとっくに暮れた夜。だが二人は電車の中で一眠りしたのでまだまだ元気だった。
有名なススキノで味噌ラーメンを食べた。
「うわー! 美味しい! さすが本場の札幌ラーメンね〜!
「うんうん!」

次の日は札幌市街の雪印パーラーというカフェレストランで巨大なパフェを二人で食べた。
「うわー! 美味しい! さすが北海道の乳製品は濃くて美味しいね〜!」
「うんうん」
二人は再び列車に乗り、北海道のへそと呼ばれる富良野へ向かった。

富良野では有名なカレー屋へ行き、野菜カレーと自家製ソーセージを堪能した。
「うわー! 美味しい! このカレーとソーセージはやみつきになるね!」
「うんうん…」
次の日、東へ向かう電車に乗り、帯広へ着いた。
二人は名物の豚丼を食べた。
「うわー! 美味しい! ジューシーで香ばしい豚肉、そしてタレがたまんないわ!」
「うんうん……」

この夜は、大平洋が身近に広がる愛冠(あいかっぷ)のユースホステルに泊まった。
留美は部屋に入るなりいきなり萌子に向かって怒鳴った。
「ちょっと萌子っち! なんであんた食べてるとき『うんうん』しか言わないわけ?
しかもあんまり美味しそうに食べないじゃないよ!」
萌子はびっくりして腰を抜かした。
「え…そんなことないよお。どこの料理もすごく美味しいかったよ〜」
「ウソおっしゃい! もう、あなたと一緒にいると美味しいものも美味しくなくなるわ!
明日からしばらく別行動するからねっ!」
「そんな…ちょっと留美っち…!」

留美は萌子の言うことに耳をかそうとせず、すぐにベッドに入ってしまった。
「留美っち…」

2016/2/13 22:20  [1498-4223]   


次の日、留美は待ち合わせの日と宿泊地の書かれたメモを萌子に渡すなり、ユースを出ていった。
萌子はしばらくユースの部屋でひとり泣いていた。

どうして留美を怒らせてしまったのか。
萌子は食事中アキラのことばかりを考えていたのだ。
アキラのために何かをしてあげたい、何かを学ばなきゃ、そればかり焦って考えていた。
「もう…あたしってなんてバカなんだろ。せっかくの楽しい思い出をつくるための旅行が
台なしじゃないよ…」

本日はどこへも行く気になれず、愛冠のユースで連泊することにした。
昼11時頃、ユースの管理人のおばさんが部屋にやってきた。
「あらまあ、生気のない顔して。何があったかは知らないけど、せっかくいい天気なんだから、
外に出てきなよ。バスで20分くらい行けば霧多布(きりたっぷ)岬、とても景色のいいところだよ。
元気出るから!」

ほとんど追い出されるように萌子は外へ出た。
確かにいい天気だが、アクティブに行動する気になれない。
とりあえず萌子は言われた通りバスに乗り、岬の方へ向かった。海からの潮風は今の萌子にとって
一層悲愴感をかきたてる薫りに感じられた。
それにしても、今まで食べてきた料理は心の底から美味しいものばかりだった。
しかし食べれば食べるほど、何か物足りなさを感じていたのは事実だった。それが何なのか、
今の萌子に考える余裕など微塵もなかった。

霧多布岬。
大平洋に突き出たテーブル形の半島で、断崖絶壁の荒波が打ち寄せている。
たくさんの観光客が崖の下を見下ろしてはため息を漏らしていた。
萌子は人気の少ない野原に座って海を眺めた。
ふんわりとした草原、穏やかな海。
留美と一緒に来ていれば、はしゃぎながら記念撮影しあっていただろう。それを想うとまた涙が出てきた。

「なに泣いてるの?」
突然目の前に、知らない女性が現れた。
額にバンダナを捲いた、20代後半くらいの女性。姉の実子に似た、いかにもアクティブそうな娘だ。
萌子は首を振って「なんでもないです」と言ってその女性を遠ざけた。
女性は何も言わず、向こうへ行ってしまった。
「何よあのオバさんは…感傷に浸ってるときの同情なんていらないわ…」
などと呟きつつも、少し罪悪感を感じて女性の姿を探し振り向いた。

その女性は萌子の真後ろで、茹でたてのとうもろこしを持って立っていた。
「一緒にもろこし食べよ。きっと美味しいよ」
萌子は驚いて言葉を失った。
「あたしは梨花。一人旅してるんだ。あなたは見たところ連れがいないようだけど、一人旅?」
梨花はとうもろこしを素手で真っ二つに折り、太い方を萌子に差し出した。
「え、遠慮します、あたし」
「そう。じゃあたしが食べるから、持っててよ」

梨花は萌子の横に座ってひとりで食べはじめた。
萌子はこの場に居づらくなり、立ち上がろうとした。
「あたしも寂しいんだよ。一人旅してると人恋しくてさ」
「…!」
萌子は立ち上がるのをやめた。
自分への同情でなく、年上なのに同等の感情をさらけだしていることに対して敬服したのだ。
「何か食べるとき、誰かと一緒だとそれだけで美味しいよね」
美味しそうにとうもろこしを頬張る梨花。それを見ていたら、急にお腹がすいてきた。
考えてみたら今日は朝から何も食べていない。
「…いただきます…とうもろこし…」
「フフフ、遠慮しないでどーぞ」

「あたしはね、この近くの無人島に眠る財宝を探し当てるためにここに来たのよ」
とうもろこしの芯を片手に、梨花が語った。
「はあ?」
唐突な話に萌子は我が耳を疑ったが、梨花は気にせず話を続けた。
「日本に眠る財宝で、徳川埋蔵金って有名でしょ?」
「はあ」
「あれは本州の各地にそれっぽい情報がデマとともに流れているから、もはやどこに眠っているか
わからないけど、それに匹敵するほどのアイヌの財宝が、この霧多布のケンボッキ島に眠っている、
という情報をあたしは掴んだのよ。確かな筋からの情報だから、間違いないのよ! フフフ…
トレジャーハンターリカの血がうずくわ!」
「はあ」
「ほら、この宝の地図をみてよ。ケンボッキ島の座標と意味不明の『絶壁のUI』の文字。
この文字の秘密を解けば宝はあたしのものなのよ!」

萌子は、もはや現実みのない話として聞く耳を持ちたくなかった。
「そんなわけであたしはこれからそのケンボッキ島で2〜3日一人で過ごすんだ。無人島で
一人暮らしなんてめったにできないし、とても楽しみだわ」
それを聞いて、萌子の心の底で何かがうごめいた。
「あなたも行く? なーんてね」

「行く!」
萌子は即答した。その表情は冗談ではなかった。
「あたしも連れてって。財宝なんていらない。何か、非現実的な中で何かをしたいの!」
「う、うそだよ。冗談だって! 本気にしないでよ」
梨花は苦笑しながらその場をとりつくろった。ヒッチハイクのように気軽に連れていくことなど
できるはずもない。
「え…? 無人島も、地図も、財宝も、みんな冗談だったの?」
「も、もちろんよ。仮に本当の話だったら初対面のあなたになんて言わないってば」
萌子は完全にがっかりした。

「……………………………………」
しばらく二人の間に沈黙が流れた。
梨花は何度か萌子に何かを言いかけようとしたが、思うように口が開かない。
「…仕方ないなあ…」
梨花は頭をかきながら腰をあげた。
「財宝が出ても、あなたにはあげないからね」
「え…?」
萌子が顔をあげると梨花はウインクをしてみせた。

2016/2/13 22:32  [1498-4224]   


萌子を隣に乗せ、青いRV車を運転する梨花。
車の後ろには小型のジェットスキーが連結されていた。
「見たところあなたはキャンプの経験とかなさそうだし、服装もすごくカジュアルチックだけど、
本当に島へ行く気なの? とりあえずテントは3人用のだし寝袋も余分にあるからそのへんはいいけど」
「うん! 少しだけど何か見えはじめた気がするの。あたしにできることは何でも手伝うすけ!」
「すけ?」
「あ…ごめんなさい、あたしおばあちゃん子だったから、無意識によく越後弁を使っちゃうんです」
「へえ、越後のコだったのね。そういやまだ聞いてなかったわね、あなたの名前」
「あたし、萌子っていいます」
「ふうん、萌子ちゃんね。アメリカザリガニって俗名『マッカチン』ていうんだけど、
萌子ちゃんのこと『もっこちん』て呼んでいい?」
「絶対却下します」
「そう…残念ね」

ケンボッキ島が目前に見える桟橋。
梨花は車を止め、ジェットスキーを海に浮かべて荷物を搭載した。
「さあ、行くよ!」
ジェットスキーのエンジンがかん高く吠える。梨花はウエットスーツ、萌子は梨花に
貸してもらったレインウェアを着てジェットスキーに乗った。
この日の大平洋は波が穏やかだったが、地に足がつかず、吸い込まれそうに深く蒼い海を見ると
萌子はこの上ない恐怖にかられた。萌子は、ゆうゆうとジェットスキーを操る梨花に強く
しがみついた。

目前に迫るケンボッキ島。地図の上ではゴマ粒のような小さな島だが、いざ目前に迫ると、
巨大な要塞のように見えた。四方の海岸は断崖絶壁になっており、大自然の強大さを物語っている。
数少ない砂浜の海岸に上陸し、荷物を下ろした。
全周4キロメートル程度の島。

辺りを見渡すと、砂浜から内陸側は雑草が荒れ放題でジャングルのような木々が生い茂っている。
ふと、雑草の影に2〜3件の建物が見えた。明らかに家だ。
「梨花さん、建物があるねかて。ここ無人島ってゆーたがや?」
梨花は荷物をほどきながら答えた。
「よく見てみ、誰も住んでない廃虚だよ。昔はムツゴロウさんとかが住んでいたらしいけどね」
近くで見てみると、屋根は抜け、壁も風化して崩れていた。人の気配どころか生活の痕跡すら伺えない。
「ほんとだ…オバケでも出そうらね。みっちゃんが見たら腰抜かすんじゃねえろっか」
萌子はとにかく梨花の荷物の運搬を手伝った。
もう太陽は西に沈みはじめていた。

少し丘になったところにテントを張り、その中に衣類と毛布を入れた。テントの前室には
発掘器材やキャンプ用具を入れた。
「よっし。とりあえず準備完了ね。もうすぐ陽が暮れるわ。萌子ちゃん、あたしは薪を
拾ってくるから、あなたは夕食の準備をお願い。材料と水はクーラーボックスにあるから」
「はい!」
梨花は林の中へ歩いていった。

大きなクーラーボックスを開けると、肉や野菜がどっさり入っていた。
「あらら。あたしてっきり単純なレトルトばかりかと思ってたけど、これはちゃんと料理しないと
いけないのね…どうしよう。何を作ろうかな。まずは何はなくともごはんでしょ。この材料から
作れるおかずは…ふむふむ…少しやれそうかな」
萌子は知らず知らずのうちに食事をつくることに集中していた。
大きな石を並べてかまどを作り、米をとぎ、ナイフで野菜を切る。

梨花が燃えそうな薪を両手に抱えて戻ってきた。
「ほう、ずいぶん手慣れたナイフさばきだね。手際もいい。意外といっちゃあ悪いけど
けっこう料理してるんだね」
「ええまあ。あたしの家は姉2人の3人暮らしで、ウチに帰るのはあたしが一番最初だから、
必然的に食事当番をはあたしになっちゃったんです」

梨花は太い木と細い木を選別してかまどに置き、ライターで着火した。
あたりにたき火の乾いた香りが立ちこめる。
炎のせいか、萌子の瞳が輝いていた。
「よし、あとは煮るだけらね」
萌子は米の入った鍋と野菜の入った鍋をかまどに乗せた。
梨花は米の鍋の蓋に大きめの石をのせた。
「こうするとよく蒸されて美味しいごはんができるんだよ」
「なるほど。ありがとう」

2016/2/14 08:55  [1498-4225]   

二人はかまどを囲んで座った。
辺りは一気に暗くなり、炎の光が質素に二人を照らした。時折パチンと音をさせて小さな火の粉が
舞い上がった。

梨花はリュックからシェラカップを取り出し、ワイルド・ターキーを注いだ。
「ん〜! やっぱキャンプで飲む酒は格別だね!」
梨花の恍惚とした表情を見て、萌子ははっとした。
「そっか…そういうことだったんだ…」
米の鍋から白い湯が吹き出て鍋を黒く焦がす。萌子は野菜の鍋を炎から遠ざけ、固形のルウを放り込んだ。
「あたし…函館からここへ来るまで、いろんな美味しい名物や特産品を友達の留美ってコと
食べてきたんです」
梨花はターキーを少しずつ飲みながら萌子の話を黙って聞いた。

「どれも北海道ならではの美味しい料理ばっかで、普通ならそれで充分満足してた
はずだったんけど、何かもうひとつ足りなくなってきて、でもそれが何なのかわからなくて、
それであたしってすぐ顔に出るから、留美に『あんたと旅行してるとつまんない』って
嫌われちゃって、別行動することになってしまったんです…」
「それで岬で泣いていたのね…」
「うん…。でも、梨花さんにもらったとうもろこし、あれを食べて、特別な調理をしたわけでもない
とうもろこしがなんでこんなに美味しいんだろうって思ったんです。その理由がよくわからなくて、
でも妙に納得したくて…」
「それでこのケンボッキ島でサバイバルしようって決めたわけなのね」

萌子は吹きこぼれのおさまった米の鍋を火から遠ざけた。梨花はその鍋を持つと、
蓋を押さえながら鍋を天地逆にして鍋底を棒で強く叩き、逆さまのまま鍋を地面に置いた。
「こうやって15分ほど蒸らしてご飯は出来上がりだよ」
「なるほど。電子ジャーで炊くより大変ね…でも、なんか楽しい…!」
「そお?」
「そうよ。あたしわかったんです! せっかく北海道にいるのなら、雄大な景色の空の下で、
リラックスした気分で食べることが、きっと最高に美味しい調味料になるんだわ。
雰囲気の問題…っていうのかな? 外で作って食べる食事がこんなに楽しいと思わなかったの。
食事ってふつうは室内で食べるのが当たり前になってるから、空の下でのびのび食べることの
開放感って素晴らしいスパイスだと思うわ」
「でも野外でフランス料理のフルコースなんて食べてもどうかと思うけど…」
揚げ足をとる梨花に、萌子は微笑んでみせた。
「それは調理方法の問題ね。食べるシチュエーションによって室内では室内、野外では野外での
調理法があるわけよ。外で食べるなら、火加減に左右されず素材本来の味が楽しめるような料理に
したらいいんだわ」

萌子は野菜の鍋を火から下ろした。蓋を開けるとクリーミーなシチューの香りが広がる。
「うおう! シチューかあ。いいねえ」
萌子はシェラカップに並々と盛り付け、ごはんとともに梨花に渡した。
「シチューって、案外食堂とかのメニューにないけど、北海道にきたら食べたいってなんとなく
思ってたんです」

梨花はシチューを一口食べてみた。
「うん、うまい。なかなかやるじゃん。あたしが作るよりはるかに美味しいわ」
「仕上げにチーズを溶かしたんです」
「げ。つまみにと思って買っておいた十勝のチーズが…トホホ…」
「じゃあ、明日はそのお酒に似合うおつまみもなにか作りますよ」
「ふむ。そりゃいい、楽しみだね。あたしは明日から宝探しするけど、このキャンプ全般の管理は
萌子ちゃんに一任するわね」
「はい。旅が終わるまでに、外で食べておいしいいろんな料理を研究して、新潟に帰ったら
アキラくんにごちそうしてあげよう!」
「アキラ? なになになに? 中坊で彼氏持ちかい?」
萌子は顔を真っ赤にした。
「そそそ、そんなんじゃないです! 隣の家に住んでる、あたしにとってはお兄ちゃんみたいなヒトで…」
「ようは萌子ちゃんの片思いってことね」
「そんなんじゃないんてゆーてんがやて!」
必死になって否定する萌子を見て、梨花はため息をひとつついた。
「ま、いいさ。昼間のあんたは放っておいたら自殺でもしそうなくらいダークな雰囲気してたからね。
元気になってくれて安心したよ」

萌子は照れて頬を軽く掻いた。
「…でも、他人のあたしなんかに心配してくれて…」
「北海道で一人旅をしてる者同士って打ち解けやすいんだよ。まして女同士ならなおさらさ。
他人だから云々という感情は旅のときは捨てたほうがいいよ。できれば、日常生活でもね」
「…うん、そうね。とても大切なことだとあたしも思う…あ…んっっ」
突然萌子が身体をよじらせた。
「な、なによ突然色っぽい声出して…」
萌子はズボンの裾をまくった。
「かかかか…蚊だよ蚊に刺されたの! なにこれ、なまらでけー! 2センチはあるよお! 
うわあ、服の上からなのにたっぷり血を吸われたあ! あたしまだ献血もしたことないのに…」
「蚊? ああ。蚊くらいはいるだろうね…」
萌子は足に止まった蚊を平手で仕留め、梨花に見せた。
「ほらこのくちばし、新潟のよか太くて硬くて…」
「萌子ちゃん…あなた本当に中学生?」

2016/2/14 09:03  [1498-4226]   


3日が過ぎた。
この日は朝から島周辺を濃い霧が立ちこめていた。霧多布の名の由来通り、こういった霧の日は
この地方に多いらしい。

梨花の宝探し、いまだに発見はされていない。梨花の持っている宝の地図には島の座標と
『絶壁のUI』と書かれてあるだけで、『UI』がどんな意味を持つものなのか、見当もつかなかった。
それでも『絶壁の』という部分から、島の外周の崖のどこかだという目処が立っていたので、
梨花は島中の崖をかなりの危険を犯して調査した。3日の間にほぼ島一周の崖を調べたが、
宝が隠されていそうな場所は見つからなかった。

萌子はこの3日の間に凄まじいくらい料理の腕を上げていた。段ボールを利用してスモーク料理を
つくったり、強力粉とドライイーストを使ってナンを焼いたりと、梨花の思う以上の働きをしてみせた。
しかし絶対的な食材が底をついてきた。2〜3日で宝は見つかるだろうと予想していたため、
食料もそれ以上用意していなかったのだ。

梨花は萌子と相談し、食料の買い出しのため霧多布の街へ戻ることにした。ただし萌子は
ケンボッキ島には戻らず、そのまま梨花とお別れになることとした。萌子自身の問答に
納得できる回答を得られたようで、またもうすぐ友達の留美と待ち合わせた日であるためだ。
もちろん梨花もそのへんは充分に理解しており、名残惜しくても引き止めようとは思わなかった。

テントなどはそのままに、必要な荷物だけをジェットスキーに載せてスターターを思いきり引っぱった。
「あれ…?」
エンジンがかからない。
「おかしいな」
スターターを何度引っぱってもエンジンは無言のままだった。
「ヤバいよ萌子ちゃん。島から脱出できないわ」
「え〜っ!?」
梨花はジェットスキーのエンジン部分をくまなくチェックした。
「あ。プラグがイカれてる。これじゃダメだわ。新品のプラグに交換しないと動かないね」
梨花はサラリと言ったが、萌子は全身の血の気が引いた。
「…いやだああ〜っ! こんな無人島で飢え死になんて…! あたしまだやりたいことたくさんあるのに!」
萌子は絶叫してその場に座りこんだ。

携帯電話の電波も届かないケンボッキ島。遥かに見えるはずの霧多布の街は、今は深い霧に
阻まれて見えない。泳ぐにはあまりにも遠すぎる。島へ渡るとは誰にも言ってはいないため、
救助もまずないと思って間違いないだろう。

さっきまでの気持ちいい潮風が、今では霧とともに絶望と恐怖の香りとなって萌子を嗚咽させた。
「だいじょーぶ。きっとなんとかなるよ。アハハ! 気楽にいこうよ萌子ちゃん」
梨花はけらけらと笑った。その表情は気休めを言う顔ではなく、必ずなんとかなると
確信している顔であった。
「根拠…あるんですか?」
「う…たぶん、この霧が晴れたら…ね」
「霧…ですか?」

梨花はまず改めて食料のチェックをした。
「ジャガイモが1コだけか…調味料はまあまあ残っているし、なんにしても死にゃしないヨ」
萌子はとにかく梨花を信じることにした。
帰りたいという願望を抱くよりも、今は生き延びる手段を考えなければならない。

「いい、萌子ちゃん。この1コのジャガイモをあなたに託すわ。あなたに課せられた使命は、
このジャガイモで3日の間、空腹を感じさせないための料理を作り続けてちょうだい」
梨花はそう言ってジャガイモを萌子に手渡した。
「こんな…ジャガイモひとつ、一食のおかずで終わっちゃうじゃないですか。それを3日間…
9食もこれひとつだけでまかなうなんて無茶です!」
「無茶は承知よ。足りないぶんはどっかから採ってくるしかないね。萌子ちゃん、これはあたしが
捲いたタネだから偉そうなことはいえないけど、ここからが本当のサバイバルよ。あたしも
島中から食べられそうなもの見つけてくるからさ、がんばってみようよ」
「3日…で本当にあたしたちは助かるんですね?」
「う…。まあ、あたしだって大学時代から佐渡金山やら恐山やら、日本中の宝の噂のあるとこを
サバイバルしてきたんだ。このトレジャーハンターリカを信じてよ!」
「その中で財宝と呼ばれるお宝は見つけたことあるんですか?」
「…砂金のちっちゃなの、いっこ…かな…アハハ!」
「………」

2016/2/14 09:07  [1498-4227]   


水をつくるため、火をたいて海水を沸騰、蒸留させているあいだ、萌子はその近くの樹の下に座り、
じっとジャガイモをみつめていた。

いろんなことが頭をよぎった。
今まで作ってきたものが、まるでままごとのように思えてならなかった。
ろくに考えもせず食材を好き放題使い、むいた皮など他の料理の材料にもなるのを知りつつも
捨てていた。彼女にとってはいちばん悔やまれ、反省すべき点であった。
じゃがいもは保存がきくので、初日にじゃがいもをふんだんに使ったシチューを作るのは
間違いではなかったか…などと考えはじめると、今までつくってきた料理すべてを自ら否定したくなった。

「いままでたくさん料理してきたけど…ここまで食材を限定されたの、はじめてだよ…」
あるものはジャガイモひとつだけ。あとは自然にあるものをとることになる。
ひとまず火を消すと、萌子は島の中へ食材探しに出かけた。
「梨花さんはこの状況下にも宝探しに出かけちゃったし…ほんとに食べ物なんて見つかるのかなあ」

雑草の茂る上り坂を登りきると、広い草原に出た。
さらに進むと反対側の海岸に出た。目がくらむような断崖絶壁になっており、下におりるのはまず無理だ。
萌子はその崖っぷちに座った。
霧の涼しい風が萌子の頬をかすめる。

「留美…あたしのこと心配してるだろうな…」
そう思いたかった。もちろん再会したときには萌子は誠心誠意謝ろうと思っているが、
保育所からの親友である彼女との友情は、こんなことで途切れたりするはずがない、そう信じていた。
留美にひとこと謝るためにも、萌子はこの危機的状況を生き延びる決心をした。
「アキラくんにもいろいろお話したいし…あら?」
ふと見下ろした崖の途中に鳥とその巣を見つけた。

萌子は目を凝らしてその鳥をよく見た。
一見カラスに似た黒い鳥だが、よく見ると首が若干長い。崖の途中に巣をつくっていた。
「う…そうか、あれってたしか『鵜』だ」
鵜。首を縄で縛って泳がせ、鮎などを食べさせたあとにその食べた鮎を吐かせるという、
長良川でしか見られない特殊な漁業をさせる鳥だ。

「へええ。鵜なんてはじめて見たんや。焼いたらおいしいかな…」
萌子はそう呟くと、はっとした。
全ての生物に対して「食料」としか思えなくなっていたのだ。
「あはは…やめとこ。せっかくの自然の鵜の繁殖地だすけな。そっとしておいてあげよ………あ!」
萌子は何かを思いついて立ち上がった。

そして、3日が過ぎた。
霧多布を覆っていた霧はすっかり消え、青空が水平線の彼方までスッキリと見えていた。
この日、梨花の言った通り救助はあっさり来た。
霧多布からボートがこのケンボッキ島に向かってやってきたのだ。

萌子は両手を振って叫んだ。
「やったー! 助かったあ〜! 梨花さん、救助の船が来たよお〜!」
梨花もとりあえず一安心し、陸へ戻る準備をした。
ボートが陸に到着すると、なぜか10人ほどの観光客がボートから下りた。
しかも驚くべきことにその中に留美がいた。

「留美っち! なんでここに…!」
留美は萌子に気付くと、顔色を変えて萌子に抱きついた。
「萌子っち…無事でよかった、待ち合わせ場所にあなたが来なかったから、あたしたちが別れた
愛冠のユースホステルに問い合わせたの。そしたら別れた日からチェックアウトしてないって
言われたの。ユースの人にいろいろ聞いたら、ひょっとしたらこのケンボッキ島に行っている
かもって言われて…。もうあたし…すごい心配したんだから…!」

萌子はいまひとつ状況が理解できず、わんわん泣く留美の髪をなでることしかできなかった。

2016/2/14 09:12  [1498-4228]   


ボートに乗って霧多布へ戻る途中、梨花が説明した。
「ケンボッキ島ってのはね、実は観光地なんだよ。霧多布のユースとかライダーハウスに泊まる
人たちに向けた島のハイキングツアーっていうのがあって、けっこう人は来るんだ。昨日まで
何も来なかったのは、単に霧が濃かったからだったんだよ」
つまりは霧が晴れた時点で人がこの島に来ることを梨花は確信していたのだ。

萌子はそれを聞くと激怒した。
「ひどいです! そんな大事なことをなんであたしに黙ってたんですか!」
「ごめんごめん。あの状況下、どうせなら萌子ちゃんに本当のサバイバルってやつを
体験してほしかったの」
それでも顔を真っ赤にし、両手を上下させて怒りをあらわにする萌子。梨花はその両手を
がっしりと抑え、萌子の瞳をまっすぐ見つめた。

「萌子ちゃん、あなたの根性にあたしは本当に感心したんだよ。島の中で長いもを掘って
とろろ料理を作ったり、昆布をとって刺身にしたり日干しにしていいダシのお汁をつくったり、
柔らかい木の芽を美味しく調理したり。ジャガイモひとつにしても千切りにして固めて焼いた
ジャガイモケーキを作ったり、輪切りにして軽く焼いてポテトチップのようにしたりと…
あたしの予想をはるかに上回る料理のレパートリーをあなたは作り上げたのよ。ほんと、大した
娘だよ、あなたはね」

そう梨花に言われると、萌子は緊張の糸が切れたのか、その場で意識を失いかけて留美にもたれかかった。
「萌子っち!? どうしたの、しっかり!」
意識が薄れていく萌子は、最後の気力を振り絞って呟いた。
「おフロに…入りたい…」
梨花と留美は顔を見合わせ、思わず吹き出した。

愛冠のユースホステルで風呂に入り、島でのサバイバル生活の垢をすっかり落とした萌子は
出発の準備を整えて外に出た。
「駅まで送るよ」
梨花の運転する青いRVは萌子と留美を乗せて出発した。
「留美っち、あたしあなたに謝らなきゃならないんだ」
留美は笑顔で首を横に振った。
「だいたいの事情は梨花さんに聞いたよ。片思いの彼氏のために料理の修行をするなんて、
可愛いとこあるじゃない、うひひ♪」
萌子は真っ赤になって梨花を睨んだ。
「梨花さんっっ! 留美っちにヘンなこと吹き込んで!」
「あはは〜! 耳たぶまで真っ赤にしちゃって。かわい〜、もっこちん♪」
「き〜!」

話し込む間もなく車は茶内駅に到着した。
3人でホームへ進むと、いい具合に東から汽笛が聞こえた。
「梨花さん、いろいろとありがとう。あたし、島での体験を絶対忘れない」
萌子は涙ぐむ笑顔で頭を下げた。

「ふふ。がんばり屋の萌子ちゃんの将来が楽しみだね。いつかまた会おうよ。あたしは今から町で
食材とジェットスキーのプラグを買って、また島に戻って宝探しの続きをするよ。きっと
そのうち新聞にでっかく報道されるわ。『トレジャーハンターリカ、国宝級の宝を掘り当てる』ってね」
それを聞いて萌子は思い出したように両手を叩いた。
「そうそう、その宝のことなんだけど…梨花さん、宝の地図いま持ってます?」
「ああ。肌身離さず持ってるよ。ほら」

梨花は胸の奥から地図を取り出し、萌子に見せた。
「うん。間違いない。あたしこの『絶壁のUI』の秘密わかっちゃった!」
「ええっ!? 本当に!」
梨花は絶叫した。

萌子はゆっくりと説明した。
「『UI』っていうのは『鵜』のことです。反時計回しに見てみるとひらがなの『う』になるでしょ。
これは宝の地図なんかじゃなく、野生の鵜の生息地を示したものですよ。たぶんこれを書いたヒトが、
鵜という漢字がわからなくて慌ててひらがなで書いただけだと思います」
「ウソでしょ。だってこれはアイヌの財宝が眠るっていう伝説があるって、そう説明されたんだよ」
それについては留美が口を挟んで説明した。

「アイヌの民族は自然とともに暮らすことが習慣でした。いろんな装飾品はあっても、国宝級の
お宝と呼べるものが存在していたという事実はありえないかと思います。もしあるとしたら、
野鳥の繁殖地であるあの島そのものが、アイヌにとっての財宝だったんじゃないかな」
萌子も相づちを打った。
「あたしも同感。あの島はアイヌだけでなく全ての生き物にとっての財宝だわ」
「そ…そんなあ…!」

梨花が呆然としているところに、釧路行きの電車が到着した。
萌子と留美は電車に乗り込んだ。
「それじゃ梨花さん、またいつか会いましょう。本当にいろいろありがとう!」
「さよ〜ならあ〜」
梨花は頭の中が真っ白になった状態で、手を振るのが精一杯だった。
二人を乗せた電車は発車し、やがて陽炎に揺られながら梨花の視界から消えていった。

しばらく立ちすくんでいた留美は『フッ』と軽く笑みをこぼすと車に乗り込んだ。
「さて…撤収するかな」
梨花の車が霧多布に向かって走り出すと、その上空を一羽の小型の鳥が横切った。
エトピリカ。この地方に棲む鳥で、オウムに似てくちばしが大変太いのが特徴。現在では絶滅に
瀕しているため地元に住む人ですら滅多にみることができず極めて珍しい鳥だ。

エトピリカはしばらく梨花の車と並行して飛ぶと、ケンボッキ島へ向かって飛んでいった。

2016/2/14 09:19  [1498-4229]   


電車に揺られる萌子と留美は、お互いの旅の出来事を話し合った。
別れてみてはじめてわかる寂しさを互いに経験したので、二人は以前にも増して仲良く話が
できるようになっていた。

「それにしても留美っち、あなたあんなにアイヌの文化に詳しかったん?」
「まーね。あんたと別れてから、あたしも食べるだけじゃ脳がないかなって思って、
アイヌの歴史館とかいろんな博物館に行って北海道の歴史をささやかながら勉強してたんだ」
「へぇ〜。留美っちが歴史の勉強するなんて似合わないわ」
「なによ『もっこちん』のくせに生意気なのよ」
「きいい、その呼び方やめなせてば!」
「なんかヒワイな響きだよね」
「なに想像してんがや、エロ留美〜!」
車両中に響きわたるくらいの大声。二人の話は帰路の道中まるで途切れることはなかった。

「へえ〜。そりゃまた特殊な体験をしたんだな…」
アキラの部屋。
旅行から戻ってきた翌日、萌子は島で会得した料理でいちばんの自信作のポテトケーキを持って、
アキラにその体験を話した。
「おお、このポテトケーキうまいよ。ザクザクした歯ざわり、シナモンが絶妙だね」
「フフフ、ありがとアキラくん。あたし…いままでなんとなくお料理作っていたけど、
これからはいろいろ考えながら作るわ。食べてくれる人がその土地を、その空気を、
そこに息づくもの全てを感じてもらえるような素敵な料理を作りたいんだ」
「そうか。とても素晴らしいことだよ萌子ちゃん。オレも元気がでてきたよ。本当にいい旅をしてきたな」
アキラはそう言うと、
「将来きっといいお嫁さんになれるね」
と笑顔で付け加えた。

萌子は恥ずかしそうに「アキラくんたら〜」と笑っていたが、彼に恋をしている自分を
はじめて自覚した瞬間でもあった。


ACT.1 終

2016/2/14 09:22  [1498-4230]   

ねこフィットV(さん) さん  

2016/2/15 12:08  [1498-4232]  削除

ねこフィットV(さん) さん  

2016/2/15 12:08  [1498-4233]  削除

ねこフィットV(さん) さん  

2016/2/15 12:08  [1498-4234]  削除

中島 実子(次女)

ACT.3 天空の島から落ちた少女




「あいつはいつ来るんだろうな…」
暗い部屋、ベッドでまどろみながら彼のことを考える実子。
1階の居間からはお客が実子特製のワインを飲みながら笑う声が時々聞こえてくる。
萌子もお客のもてなしで忙しいことだろう。

そうだ、とっておきのワインをご馳走しよう。あたしが厳選に厳選を重ねて選び抜いた葡萄に
摩周の水で熟成されたワインだからな。「不味い」なんて言ったらぶん殴ってやる!
拳を握りしめるのと裏腹に顔がほころぶ実子。
「アキラ…はやく来いよ…」
カーテンを避けて入る涼しい風が実子の頬を撫でた。

翌朝、バイクでの仕入れから帰ってくると、実子は驚きのあまりヘルメットを床に落としてしまった。
真子の部屋の前にある連絡用ホワイト・ボードに『本日ツアー客なし 実子OFF』と書かれてあったのだ。
このツアーは、半日の行程で摩周湖や屈斜路湖周辺のみどころを、メジャーどころはもちろん
地元民ですら知らない秘境の花園なんかも織りまぜて案内するものだ。夏真っ盛りのいま、
実子の案内するツアーは評判が評判を呼んで毎日必ず開催している。
それが本日に限ってツアー客がいない。何日も休みなくツアーをし続けているので少し
飽きてきたところだが、かといって突然休みになるのもなんだか納得いかない。
仕事に対するプライドというものがあるのだ。

「あら実子、おかえり」
湯気をたてたマグカップを持って姉の真子が階段を登ってきた。目の下にくっきりとクマができており、
肉まんを一口でほおばれるくらい巨大なあくびをしていた。明らかに昨晩も徹夜をしていたのだろう。
「掲示板を見てわかるとおり今日はあんた昼間休みでいいわよ。昨日急な宿泊キャンセルが2件あって、
そのどちらもツアー予約客だったの」
「な〜る、そういうことか。じゃあ今日は久しぶりに羽根を伸ばしていいんだな!」

実子は大喜びで自分の部屋へ戻った。
「よっしゃー! 休み休み! どこいこっかなー!」
ライディング・スーツからタンクトップとショートパンツの軽装に着替えると、1階の食堂に下りた。

食堂では萌子がエプロンをして朝食の調理をはじめていた。
「あれ、みっちゃん。どしたの? 仕入れから帰ってくるといつも仮眠してるのに」
「へへっ。今日は休みになったんでな、ちと日帰りツーリングにでも行ってこようかなと思って。
せっかくだから朝食つくるの手伝ってやるよ萌子」
すっかりご機嫌の実子は冷蔵庫からパック牛乳を取り出すとノドを鳴らして一気に飲み干した。
「あー! 全部飲んじゃったの? ミルクがなきゃ朝食のカフェオレができないじゃない」
「気にすんな。母乳で作ればいいだろ。おっぱいカフェオレ!」
実子はボイルしたてのウインナーをかじった。
「母乳なんて出るわけないでしょっっ! ああ〜もう、つまみぐいしちゃだめぇ!」
「胸ないもんな萌子。がんばって搾りだせよ、貧乳カフェオレ」
「キー!!」

お客と一緒に朝食をとると、実子はすぐに出発の準備を整えた。
萌子は夏季休暇のため日中ずっとペンションにいる。このため実子はお客が全員出発するまで
ペンションに居続ける必要はなかった。

萌子がつくってくれた昼ごはんのおにぎりをジャックウルフスキンの小さなデイバッグに入れると、
実子は愛車ワルキューレのアクセルをぐいっと回し、出発した。

道東の朝はまだ涼しい。
弟子屈の街路樹のストリートを抜けると、やがて丘陵地帯が広がっていく。
どこまでも続くようないくつもの丘を1本をアスファルトが切り開いていく。
大気の澄みきった青空と無垢な雲の群れが鮮やかな天空。

「うは〜、最高! い〜い天気だ〜!」
この快晴に誘われてきたかのようなバイクと数台すれ違う。ライダー同士の挨拶、ピースサインを交わす。
どのバイクのリヤシートにも荷物を詰め込んだバッグが縛られている。みんな北海道の匂いに
誘われてやってきた本州ツアラーだ。

ライダーは、冬眠から覚める春先と入道雲をはじめて見た初夏の季節にいちばん血が騒ぐという。
どこかへ出掛けたくなる、どうしようもない冒険者の血。これだけは男も女も理屈もない。
その精神と肉体を満たしてくれる壮大なフィールド、それがこの北海道の大地だ。走っても走っても
果てなく続く直線の道路、野性味あふれる大自然、本州ではなかなか味わうことのできない
爽快感が、北海道には溢れている。

2016/2/15 12:05  [1498-4235]   


いくつかの山と集落、そして近代リゾートと化した阿寒湖を抜けると、いよいよ実子の未開拓の道が
たくさんありそうな北見の外れにきた。
ここからは自分の感性だけで走ろう。そう思った実子は、森の中へ深く続く道を選んだ。

案の定、林道になっておりすぐに砂利道になった。
実子のアメリカンバイクが最も苦手とするダートだが、足下で路面をつかみとるように
中腰になってゆっくりと進んだ。

危険を犯して侵入した甲斐あり、緑あふれる木々がトンネル状態になっていく。ダートのすぐ脇には
澄んだ小川が流れていた。
「おー。いいねいいね。マイナスイオンたっぷりの森林浴…とかいうツアーにできるな。
ウチのクルマならこんな程度の砂利道はぜんぜん平気だしな」

十数分も走ると、さすがに腰が痛くなってきた。
小休止しよう、と実子はバイクを止めた。
野太いエンジンを停止させると、辺りは静寂のつつまれた。

小川のせせらぎ以外なにも聞こえない。自分の心臓の鼓動がやけに大きく聞こえる。
たまに聞こえる小鳥のさえずりですらどきりとする。
川のほとりの岩場を少し歩いてみた。ちいさな子供が入っても溺れる心配なさそうな、
浅くて緩やかな清流。

「ふーん…イワナとか釣れるかな」
などと探索していたら、前方の木陰に停められたオフロードバイクを2台発見した。
付近に人がいるのか、と川沿いを上流に向かって探し歩いた。

歩きにくい岩場を軽快なステップで越えていくと、やがて小川のほとりの針葉樹の木陰に人陰を
二つみつけた。2人とも二十歳前後の女性で、楽しそうに釣り竿を握ってお喋りしていた。
「よっ! こんちは。邪魔していいかい?」
実子は2人の様子を観察する間もなく彼女らの輪に入っていった。
2人の女は驚きながらも、同性で同世代の実子を歓迎したようだった。

「びっくりした! こんなとこに人がいると思わなかったもの。ねえ睦美」
はきはきと喋るのは恵。ショートカットでボーイッシュな雰囲気、みるからにアウトドア派な娘だ。
「あたし、クマさんが出てきたかと思っちゃったよ〜」
おっとり喋るのは睦美。ふわりとしたロングの黒髪。性格も眼もタレ気味の娘だ。
2人は短大の友人同士で、夏季休講を利用してツーリングに来ていたという。

「オレは実子、よろしくな。それはそうと、なんか釣れてるんかい?」
「かれこれ2時間やってるけど、あたしはまだヒットなし。でも睦美がさっき1匹釣ったよ」
折畳みの網をみると、やや小振りの渓流魚が見事に釣り上げられていた。
「お、これはオショロコマだな。塩焼きにするとうまいよ」
「てへへ〜。このお魚さん、キラキラしてるから『ピカル』って名付けたの。ねーメグメグ♪」
「ピカルの塩焼き。なんだかか弱い男のコを火あぶりしてる感じがしてゾクゾクするわ」
恵が恍惚とした表情をみせる。

実子はこの2人に言い知れぬ不安を覚えたが、とりあえず近くに落ちていた小枝を釣り竿がわりにし、
デイバッグのポケットから出した釣り糸を枝に縛り付けた。
次に、川辺の石を静かにどかし、その石の裏に隠れていたチョロ虫(カゲロウの幼虫)をつかまえて
釣り針に付けた。簡易釣り竿の完成だ。
「よっしゃ、あたしも釣るぞ」
その手際のよさに恵と睦美は思わず見とれていた。
「すご〜い実子ちゃん、一瞬にして釣り竿が完成しちゃった。それだと竿がないぶん大した荷物に
ならなくて済むね〜」

実子は流れの緩やかなポイントをめがけて竿を振った。
「まね。この地で遊ぶことが仕事みたいなもんだから、自然とこういう知識が身につくんだ」
恵と睦美は、この地にペンション経営しながら暮らしている、という実子を羨んだ。
「すごいね。夢みたいだよ、そういうの。あたしたちは埼玉から来たんだけど、やっぱ北海道はいいね。
ホント住みたいって思う」
「お前らもすげえじゃねえか。女だけでこんな人気のない林道に来て、釣りしてるんだもん。
いい度胸してるって」
恵はクスリと笑った。
「なんていうか、資金がガソリン代だけで精一杯。単に食費ケチってるだけなんだよね」
「ていうか〜、メグメグは幕張のコミケでショタコン本ばかり買ってお金なくしただけでしょお〜?」
「ばっ…! 余計なコトゆーな! 睦美こそ女のくせにロリコン本ばっか買い漁ってたじゃねーか」
「だってぇ、可愛いんだもん、しょーがないじゃない〜♪」
「変態変態変態!」
「むー。ショタコンショタコンショタコン〜!」

2人が醜く言い争いをしている脇で、実子は涼しげな顔で1匹目を釣り上げた。

2016/2/15 12:06  [1498-4236]   


恵が1匹、睦美は最初の1匹、そして実子が4匹釣り上げて、ひとまず釣りを終えた。

川原の砂利に大きな石を並べ、薪を集めて火をつけた。
実子はワタをとって塩を塗り込んだオショロコマを、拾ってきた細長い枝をナイフで串をつくり、
「く」の字に突き刺していった。

6匹全部の準備ができると、たき火も太い木が燃え始めて火加減がいい具合に安定していた。
3人で手分けして、串刺しの魚を、たき火を囲むように地面に突き刺した。太い木を十字形に
並べたインディアン式のたき火。少ない薪で効率的に火を操ることができる。

「さすが実子さん、手際がいいなあ。もう香ばしい匂いがしてきた」
「ああおなかすいた〜。はやくピカル焼けないかなぁ」
実子はデイバッグから萌子のおにぎりを取り出した。
「3コあるから、1人ひとつずつだ。あとインスタントみそ汁があるから、川の水を湧かして
シェラカップに入れよう」
恵と睦美は小躍りして喜んだ。
「うはー嬉し〜! 至れり尽せりだよ」
「実子ちゃんのおかげで素敵な昼ごはんになっちゃったぁ!」
「あはは、誉めすぎだって」

魚がこんがりと焼き上がると、3人とも凄まじい形相であっという間に食べ上げた。
他に誰もいない空間に女3人、ゆえにお互い素を出し合える。
余った湯でコーヒーを入れ、3人は一息ついた。

「ああ美味しかった。魚の塩加減もちょうどよかったし、梅おかかのおにぎりも最高だったわ!」
「あたしのおにぎりはイクラがたくさん入ってたよ。もう幸せ〜♪」
実子はコーヒーにミルクを入れながら話した。
「貧乏旅行してると、なんでも旨いと思うよな。オレも大学のときはかなりの貧乏ツーリングを
してたもんだ。1食パン1コと牛乳だけなんて当たり前だったよ。でも…それでも幸せだったな…」
睦美は何度も頷いた。
「うんうん。素敵な景色の中にいられるだけで、お腹いっぱいになれるんだよね〜」
「フフ…思い出すなあ、『天空の島』に行ったときのこと…あんな恐い想いをしたのは
後にも先にもないだろうな」
実子は呟いた。
「天空の島??」
恵と睦美は目を見合わせた。

「なにそれ、ラピュタ? 飛行石? そんなの実在するわけないでしょ?」
恵は頭ごなしに否定した。空中に浮かぶ島など架空の世界の話、誰も信じるはずはないが、
実子は笑いながら頷いた。
「あたしもそんなもの信じてなかったさ。この目で確かめるまではね。でも現実に、
この北海道にあるんだよ。そこであたしは…大変なメにあったんだ」
なになに、そのお話、面白そう。聞かせて聞かせて〜!」
睦美が無邪気に瞳を輝かせた。恵も、実子の話を鵜呑みにするわけではなかったが、実子が
実在すると云う天空の島、少なからず興味が湧いてきた。

「あれは、いまから3年前…大学2年の夏、2度目の北海道にツーリングにきたときのことだったんだ…」
実子はコーヒーを少しずつ丁寧に口に含みながら話し始めた。

2016/2/15 12:07  [1498-4237]   


実子は、小さな頃から男の子と混じって野球とかサッカーをやっていた。
べつに女の子だから、とかそういう意識は持ってなかった。部屋の中で本を読んだりするよりも、
とにかく外で走り回っているのが好きだった。

中学生になると、多少は意識したかもしれない。制服で生まれてはじめてスカートを履くように
なったそのおかげで『女』だという意識に真直ぐに向き合えるようになった。
高校生になったら、初めて男子からラブレターをもらって大きなショックを受けた。
実子は男に憧れていたのに、その男が自分に憧れてどうする…などという驚天動地のショックだ。
だから返事は即答で断った。

となりの家に、難病を煩っているアキラという同い年の男子がいるけど、べつに恋人とか彼氏とか、
そういう次元の男ではない。だが、彼に勉強を教える役である実子は、その責任もあって成績は
優秀な方だった。そういう意味では、アキラは実子にとって非常に素敵な存在だといえる。
実子自身の勝手な解釈ではあるが…。

高校卒業と同時にバイクの免許をとった。
バイクの持つスピード感、流れゆく風景、ちょっぴりの孤独感が、たまらなくワイルドに思えて
モロにハマった。
更に加えて、行動範囲が劇的に広がり、バイクに乗って『旅』することに夢中になった…。

大学2年、2度目の北海道ツーリング。
夏季休講期間をめいっぱい使って、初めての本格的な冒険だ。
大学1年のときに初めて北海道へ行ったが、道内3泊という短い日数で道南の観光地を巡るだけ
巡っただけだった。
しかし、それでも北海道というフィールドの素晴らしさを理解するには充分だった。

なぜ夏になるとライダーが北海道を目指すのか。
駆ける喜び、出会う楽しさが、そこにあるからだ。
だから、今年も行く。もっともっと楽しいことに出会うために。
キャンプ用具も一式揃えた。もっともっと北海道を満喫するために。

出発点は、今年も小樽。
朝靄がレンガの街を覆い尽くす早朝、フェリーのタラップから勢いよく飛び出していくライダー達。
「しゃあ! 今年もヤルぜ、オレの冒険!」
ヤシートに大荷物を載せたブロスのエンジンが野太く吠える。コイツも、これから始まる旅に
胸踊らせているのだろう。

さあ、行こう!
小樽の街を抜け、札幌の街を素通りし、日本海の海岸線R231を北上する。
まずは、最北を目指すのだ。
カラリと晴れた天気、スカイブルーの海もキラキラと光っている。
草原あり、トンネルありの起伏に富んだ道は楽しさ満点だ。
すれ違うライダー同士のピースサインが最高に気持ちがいい。

初日の夕方、留萌に到着した。
街の外れの砂浜の海岸でテントを張り、ごはんを炊こうと水道を探していたところ、地元の
漁師さんたちに誘われてバーベキューの席に座った。
捕れたて新鮮な魚介類をはじめ、肉や野菜が焼き網の上で音をたてて焼かれていた。
「うわあ、うまそう。このホタテ、すげえでっかいなあ!」
ホタテに醤油を数滴たらして、食べてみる。
「う、うますぎだ! う〜幸せ〜♪」

漁師さんたちは、実子の食べっぷりを見て感心していた。
「実子ちゃんとやら、若いおなごなのになんでペンションとか宿に泊まろうとしないんだね? 
キミらの年頃の娘はみんなそうやって旅してるだろう」
食べながら答えた。
「ンな金ないって。家は貧乏じゃないけど、この旅はオレがバイトで稼いだ資金だけでやろうって
決めたんだ。それに…」
「それに?」
実子はコホンと咳払いをして、こう言った。
「キャンプのほうが断然楽しいってことが今日判明したよ。タダでこんな豪華なメシに
ありつけたからな! うはははは!」
どっと場が沸き上がる。
「よーし気に入った、今日は実子ちゃんに乾杯だ〜! ほれ、ビール飲め! もっと食え食え!」
漁師達に囲まれ、日本海に沈む夕陽を見ながらの最高のロケーションでの宴会。これ以上ない幸せが
ここにあった。

実をいうと、宿に泊れるだけの余裕はあったりする。だがあえて貧乏旅行を敢行したのには
それなりの理由がある。
キャンプツーリングを貧乏旅行と置き換えるのは、意味的なベクトルが多少違っている部分もあるが、
資金を可能な限り使わないという意味では一緒だ。

2016/2/15 12:41  [1498-4238]   


日本海側の海岸を北上して2日目、納沙布岬に到着した。
最初の目的地である最北地点「宗谷岬」までは、もう目と鼻の先だ。
しかし、ここで予期せぬ事態が勃発した。
雨が降ってきたのだ。

昨日のキャンプで見た日本海の夕陽はたまらなく壮観だった。新潟で見る夕陽とはまた違った夕焼けなのだ。
だから今日の夕陽も楽しみにしていたのに、全天を覆う厚い雲のせいでパアだ。
いや、それどころか土砂降りになってきた。これではキャンプするどころの話ではない。

「なんてこった…。仕方ない、今日はどこか宿に泊まるしかないな」
納沙布岬のそばにある水族館で雨宿りしながら北海道の情報誌の宿情報をチェックした。
ラッキーなことにこのすぐ近くに「ライダーハウス」と呼ばれる格安宿があることが発覚。
これは願ったり叶ったりであった。バイクや自転車の旅行者に対して、寝袋持参ながら
500〜2000円程度という格安な料金で寝床を提供してくれるところ、それがライダーハウスだ。

すぐにそのライダーハウスに電話し、予約した。
雨は止みそうもないので、仕方なくレインウェアを着込んでブロスを走らせた。
ライダーハウスには十数分程度で到着したが、グローブとブーツは防水でないため見事に浸水した。
ガッポガッポと内部に浸水したブーツの音を響かせながらライダーハウスの玄関を開けたが、
オーナーの夫婦はとても親切な方で暖かく迎えてくれた。

部屋に荷物を運んだあと、すぐに風呂へ案内され熱い湯舟に浸かった。ずぶぬれの緊張から一気に
開放され、やっと息を吹き返した気分だ。

夜になると、宿泊者は全員大広間に集合してジュースや酒で乾杯した。
バイクについて語ったり、北海道の様々な見どころを話したり、旅の情報交換のよい機会だ。

「ねえ、あなたどこから来たの?」
1人の女性から話し掛けられた。腕にミサンガを2本捲いた、20代後半くらいの女性。
いかにもアクティブそうな娘だ。彼女もソロ・ツアラーなのだろう。
「えと、実子です。新潟から一昨日上陸したばかりっスよ」
「へえ実子ちゃんね。これからどこへ行くの?」
「とりあえず最北端の宗谷岬に行って、そのあとオホーツク海側を南下して適当なところから
内陸に入っていこうかな、とか漠然と考えてるんです。基本的にはキャンプしながら
行き当たりばったりっス」
ミサンガの女は笑いながら焼酎の入ったコップを傾けた。
「ハハ、思いきりがいいね、気にいったよ。あたしはエリ。北海道中の高山植物を見ながら
巡っているんだ。明日は利尻島へ行って利尻富士をトレッキングしようと思っているんだけど、
この雨じゃ無理かもね」
高山植物と聞いて実子の瞳が輝いた。べつに植物に興味はなかったりするけど、北海道のどんな
ジャンルの話でも聞きたいと思ったのだ。

「エリさんがいままで巡ってきた中で、いちばんのお勧めの場所はどこです?」
「うーん、そうねえ…」
エリは首をかしげて少し考えると、思い出したようにポンと手をたたいた。
「高山植物も素敵なところなんだけど、もっとすごい大自然の脅威が味わえるところがあるよ」
「え、どんなとこなんスか?」
「空に島が浮いてるのよ」
エリはサラリと言い放った。
実子は思わずビールを吹き出してしまった。
「ケホっ…あのね、いくらオレでもそんな話を鵜呑みにできるほどバカじゃねえってば!」
「信じる信じないは実子ちゃんの勝手だよ。でもあたしの話が本当かどうか確かめたかったら、
上川の『うきうきランド』に行ってみ?」
エリの眼は真剣そのものであった。しかし…
「うきうきランドぉ…??」
その軽薄なネーミングを聞いて、ますます怪しくなってきた。

2016/2/15 12:45  [1498-4239]   


翌日。
なんとか雨は上がってくれたが、空にはどんよりとした暗雲がたちこめていた。
エリは最低限降らないこの天気をチャンスと思い、利尻島行きの早朝のフェリーに乗るべく出発していった。

「ん。オレも行こう!」
実子は決断してバッグに荷物をまとめ、ブロスのリヤシートにパッキングしてライダーハウスを後にした。
20分も走ると、ようやく最北端の宗谷岬に到着した。
天気がいいと遥か海の彼方にサハリンが見えるときもあるという、最果ての地だ。
ようやくここまできたか、と感慨もひとしおだ。

北極星をかたどった碑の前で、まだ9時にもならないのに多くの観光客が記念撮影をしていた。
その片隅に男のライダーが数人いたので、少し話を聞いてみることにした。
「あの、すんません。噂で聞いたんだけど、なんか…空に島が浮いているところが
あるらしいんだけど、知って…ます?」
グループ全員が顔を見合わせたが、
「そんなんあるわけねぇっぺよ」
と想像通りの答えが返ってきた。
実子はとりあえずお礼を言うとバイクに戻った。
「そうだよな…。なに聞いてんだオレは…アホか」

最北端の雰囲気を一通り満喫すると、東へ下る道を走り始めた。
右手には荒れた林や湿原、左手にはオホーツクの荒波。走っても走っても単調な景色。
最初のうちはもの珍しくサルのようにはしゃいでいたが、曇り空もあってかそのうち飽きてきた。
そろそろ海沿いを走るのをやめて、内陸を走ろうかと思いはじめていた。

紋別市に入ったところで自販機をみつけると、炭酸のキツいガラナ・メッツを飲みながらマップを広げ、
現在位置と内陸の道路を確認した。
「ふむ、この先のR273に入れば、そこから内陸のワインディング・ロードを楽しめそうだ」
その国道の先を地図でみると上川がある。エリの話では、うきうきランドという意味不明なところがあり、
その近くに空島がある…らしい。

「ったく、さっきからなんか心が迷ってるなぁ。ま、オレの行く先にうきうきランドっていうのが
あるなら、騙されたと思って立ち寄ってやるさ!」
空に浮かぶ島を信じなくても、その場所を避けて通る理由はない。そう思いながらまた走り始めた。
R273に入ると、思ったとおり山に囲まれゆったりしたカーブの続く道になった。

閑散とした村をいくつか越えると滝上という街についた。
ここでまたしても雨が降ってきた。
「うあ、また降ってきやがったか。くっそ、ツイてねーな」

ホクレンのガソリンスタンドに立ち寄り、給油がてらレインウェアを装備した。
「これどうぞ。サービスです」
スタンドのお兄さんが「HOKKAIDO」と書かれた小さな旗(フラッグ)をくれた。
「サンキュー♪」
さっそくブロスの荷物に取付けた。このフラッグをなびかせて走るのが北海道ライダーのトレンドなのだ。

出発するとき、スタンドのお兄さんにそれとなく聞いてみた。
「うきうきランド…ってどのへんかな?」
彼は親切に教えてくれた。
「この先に長いトンネルがあって、それを抜けたらすぐありますよ」
「そっか。どうもありがと」
そうお礼を言うと、雨の中を走り出した。

なんだか、時間がたつごとに「うきうきランド」が気になって仕方がない。
認めたくないことだが、いつのまにかそこが本日の目的地になってしまっていたようだ。
この道を走るのも『山岳のワインディングを楽しむため』と自分に言い聞かせてはいたが、
本音はきっとこの道の先にあるであろう空に浮かぶ島をみてみたかったのだろう。もはや懐疑は
期待に替わっていたのだ。

瑞々しい森と清流の側をトレースする道路は、やがて長いトンネルに突入した。全長4キロ以上もあり、
道内でも1、2を争う長さのトンネルだ。
トンネル内はやや暖かく、トンネルを出る頃にはレインウェアも乾いていた。

どのくらいスピードが出ているのか、よくわからない状態でトンネルを抜け出ると、すぐに
「浮樹浮木ランド」という看板があった。
「うおっと、ここか?」
急ブレーキをかけて看板の方に曲がる。その瞬間、濡れた路面でタイヤが滑り、ブロスは
バランスを崩した。
「うわやばっっ!」
転倒しそうになったが、ギリギリでなんとか立て直した。
心臓が高鳴る状態で、うきうきランドらしき駐車場に入った。
「ここが…うきうきランド…???」

なんのことはない、ただのキャンプ場だった。
草野球場ができるほどの敷地の中に管理棟がひとつ、丸太で造られたバンガローが3棟、
トイレと炊事場。あとは雑草が雑然と生い茂っており、そこに家族連れらしきテントが三つほど
張られていた。人気はない。
人里離れた山奥、トンネルの側にある閑散としたキャンプ場、それがこの「浮樹浮木ランド」なのだ。

四方を山に囲まれ、あまり日当たりのいいところではない。雨のせいでわびしさが一層引き立って
いる気がする。どうみても陽気な気分でキャンプできるところではない。
どこが「うきうき」なんだろうか。
そのネーミングから、てっきり賑やかなレジャー施設だとばかり思っていたのに。
「ゴメン…賑やかすぎるとこもそうだけど、オレこういうとこ、ちょい苦手…」
誰に向けたものでもなくそう呟きながら周辺を散策していると、ある看板が目に入った。
『浮島湿原』
そう書かれた先に細い山道が続いている。

「島の浮く湿原だって…きっとそこがエリさんの言っていた場所だ」
駐車場のバイクのキーをロックし、貴重品の入った手荷物だけ携帯して歩き出した。
いつのまにか雨は上がっていたが、レインウェアは装備したまま歩いた。

2016/2/15 12:51  [1498-4240]   


いたるところがぬかり、シューズの半分があっという間に泥だらけになった。レインウェアを
着てなければ被害はもっとひどかっただろう。
「くっそ、歩きにくいな。おまけに汗でTシャツがベトベトだ…もうサイアク…」
ブツブツ文句を言いながらも進む。

ぬかる山道を歩き続けておよそ15分ほどすると、ようやく景色が開けた場所に出た。
いくつもの沼が点在し、それらをとり囲むように木道が整備されてあった。
「どうやら、ここが浮島湿原らしいな」
木道をトコトコ歩いてみる。雨上がりの湿原は、エリが絶賛するだけあって高山植物も豊富だ。

沼の周辺にはタチギボウシの薄紫色の花が咲き、水辺にはエゾヒツジグサの白い花が浮いてる。
その水辺に、なんだか不自然な島がいくつもあった。島といっても、大きいものでも畳一帖も
ないくらいの小さなものだが、何が不自然かというと、底がみえない島なのだ。
「これ…もしかして…」

試しに小さな島を棒っきれでつっついてみた。
すると、その島はゆらゆらと湖面を流れていくではないか。
「なるほど、やっぱりな。この島々は湖面に浮いているんだ」
湿草原の根が絡まりあい、永い年月によって苔などがはりついてできた塊。それが浮かぶ島の正体だ。
全国でも珍しい浮く島のある湿原。浮島湿原というネーミングは、まさにそこからきている。
「ふーん。面白いモンだな。でも、水に浮かんでいるだけで、空に浮いていねえじゃねえか。
まったくエリさんも大袈裟なことを言うもんだ」

なにはともあれ、エリの言ったことはこのことだったのだろう。それを確かめることが
できただけでよしとしよう。
でも、しょせんそれだけだった。
喉につっかえていた小骨が取り除かれて、ようやく周辺の雰囲気に気付く。
誰もいない沼。寂しく、無気味で、空虚に思えてならなかった。

「戻ろ…」
と来た道を戻ろうとしたときであった。
乾いた風が吹いて、雲の切れ目から陽の光が射し込んできたかと思うと、みるみる青空が広がっていった。

晴れてきた。待ちわびた太陽の光だ。
「ふっっ…!」
瞳を閉じて大きく背伸びをして深呼吸した。雨で委縮した身体を開放するように大きくストレッチをした。
清清しい草木の香りが心地よい。

そして再び瞳を開いた。
「………あ………っっ……!」
言葉を失った。
信じられない光景が、目の前に広がっていた。

天空に浮かぶ島が、そこにあったのだ。

先刻までは厚い雲が邪魔してわからなかったが、陽の光と青空が広がったとき、その姿が露になった。
沼の湖面が光に反射して青空を映し出し、浮島がまさに空に浮いているように見えるのだ。
「本当に…島が空に浮いてる…!」
しばらくその幻想的な風景に立ちすくんだ。
エリの言った『大自然の脅威』とは、まさにこのことだったのだ。

実子は、てっきり島を宙に浮かす脅威のパワーのことかと思っていたので、どうにも信じることが
できなかった。
沼でいちばん大きな島を探して乗ってみた。島は少し沼に沈みかけたが、そのまま浮き続けた。
「うわ、浮いたぁ!」
まわりすべてが空、その中心に自分の立つ島が浮かんでいる。
天空の島に乗って大空を自由に浮遊するイメージそのものだ。
最高にいい気分。

2016/2/15 12:55  [1498-4241]   


文字どおり浮き足立っていた、そんなときであった。
後方の茂みからガサリと物音がした。
振り向くと、20メートルほど離れたところに黒い物体がいた。

それが何か確信した瞬間、全身の毛穴という毛穴が開く。
「ひっ…ひっっ…ヒグマ…っっ!」
そう。巨大なヒグマがのっそりと出現したのだ。

前足を地に下ろし四足歩行をしているが、その巨大なボディは筋肉隆々のプロレスラーを
遥かに凌ぐデカさだ。
ここは北海道の人里離れた山奥。ヒグマが出てきてもおかしくない。むしろ当然ともいえる。
「ひっっ…ひっっ…ひっ…!」
まわりには実子とクマだけ。間違いなくヤツは実子を見ている。向かって来られたら、間違いなく殺される!

冷や汗が吹き出る実子。すっかりパニックに陥り、後ずさりした。そう、ここが島の上ということを忘れて。
後ろにあるはずの地がない。足がそれに気付いたときには、実子は水柱をあげて沼に転落していた。
一瞬にして衣類が浸水、鼻からドロを吸い込み、無様に沼の中をのたうちまわる。
もう、なにがなんだか自分でもわからない状態だ。

なんとか岸に這い上がり、気が済むまで咳き込むと、ようやく我に返った。
ヒグマはすでにどこかへ消えており、辺りは静寂に包まれていた。
「……助かった…のか…?」

髪の先から全身ドロにまみれた実子は、今世紀最大級の屈辱に犯された気分で浮樹浮木ランドへ戻った。
夕暮れのヒグラシが悲愴感を一層かきたてる。
レインウェアを脱いでも、ライダージャケットもジーンズもドロにまみれている。
こんな姿、だれにも見られたくない。

「うわ! なんだねキミは! 泥んこじゃないか!」
そういうときに限ってヒトがいたりする。
「こりゃ大変じゃないか。私はこのキャンプ場の管理人だ。いまバケツに水を汲んできてあげるから
服を脱ぎなさい!」
管理人と名乗る中年の男は急いで管理棟に向かおうとするが、実子はそれを制し、弱々しい声で話した。
「あの、オレ一応女なんですけど…」
「ああ?」
性別の区別もつかないくらい泥だらけの実子を、管理人の男はまじまじと眺めた。
(頼むからジロジロ見ないでくれ…)
「そ、そうか。すまん…。じゃあそのままの格好で水をかぶればいいだろう。とにかく泥を落としなさい」
「面目ない…」

管理人が懸命に運んでくれたポリバケツの水を5杯ほど浴びて、ようやく主だった泥は落とされた。
「ふむ、水も滴るいい女になったな」
「おっさん…世話になっといてナンだが、今いちばん笑えないギャグだぞそれ」
「ふははは、とりあえず元気は出たようだな。あとは身体をタオルでよく拭いて着替えればいいのだが、
着替える場所がどこにもなくてなぁ。ここは無料で宿泊できるバンガローが3棟あるのだが、
あいにくと今日は他のお客に貸しているからなぁ」

そんなとき、1台のRV車がキャンプ場に入ってきた。管理人はそれを見ると、
「おお、ちょうどいいところに帰ってきたきた!」
とその車を停めた。車の中にいるのは運転手の女性1人だけだ。
「バンガローに泊まっているお客さんだよねえ。そこの彼女が沼に落ちてずぶ濡れなんだ、
すまないがバンガローを着替えの間貸してやってくれんか?」
「沼に落ちたぁ? どこのバカだいそりゃ?」
バンダナを額に巻いたその女性は運転席から降り、衣類のいたるところから水の滴る実子を見た。

もはや惨めさを通り越して居直った実子は、バンダナの女性に愛想笑いをしてみせた。
「うははは…バッカで〜す…」
バンダナの女は露骨にイヤな顔をした。
管理人のおじさんは、バンダナ女の返事も聞かずに、自分の車らしきワゴン車に乗り始めていた。
「じゃ、すまんが頼むよ。私は管理棟の売店の営業時間が過ぎたから帰る」
ブォン、とエンジンを吹かして管理人の車はキャンプ場を出て行った。

「あ〜あ、行っちゃった…」
バンダナ女はもう一度実子をみた。少し迷惑そうな顔をしていたが、我慢できずにクシャミをすると、
「もうっ、こんなんで風邪ひいたらあたしの所為みたいじゃないよ。いいから荷物持って
いちばん奥のバンガローで着替えてきな!」
そう言ってカギを渡した。

2016/2/15 13:00  [1498-4242]   


ジャージに着替え、バンガローから出てくると、バンダナ女が熱いマグカップを手渡してくれた。
「飲みなよ。メイプルシロップ入りのカフェオレだ。身体があったまる」
「あ、ありがと…これ飲んだらそのへんにテント張るよ。今日はここでキャンプする」
2人はバンガロー入口の階段にどっかりと腰掛けた。

「ナンか、ほんとバカみてえだなオレ。カッコわりぃ」
苦笑しながらカフェオレをすすった。
「1人で旅することに慣れていたつもりだったけど…いざ誰もいないあの沼にいただけで、
とてつもなく寂しい…って感じたんだ。海沿いの道は、たくさんライダーが走っていたり、
漁師に出会えたりして楽しいことばかりだったんだけど、内陸にきたら…途端に
『寂しい』って…思えた。なんでだろうな…」
バンダナ女はクスリと笑って話した。

「あんたは『旅』に慣れてないことを自覚してるじゃないか。何日も、何年もかけて探すしかない。
1人でいるときに楽しめること、誰かといるときに楽しめること、それぞれ随分隔たりがあると思うよ。
それをはっきりわかれば一人旅はとことん楽しめるんじゃないかな」
「一人旅の楽しみ…か…」

バンダナ女はすっくと立ち上がった。
「いまからテント設営なんて面倒だろ、今日はこのバンガローに泊まっていきなよ。ここで出会ったのも
何かの縁、ってやつだ。中を見てわかる通り、この無料バンガローは4人が寝れるスペースがあるから、
あたしだけ一人占めするなんて勿体無いよ」
「でも、悪いだろ?」

バンダナ女は自分のカフェオレを少し飲んだ。
「沼に落ちたって聞いて、どんなドジかと思ったけど、あんたは雰囲気的にみてけっこう
しっかりしてると思う。そういうヒトと飲む酒ってのは、嬉しいもんさ。それにあんたも濡れた服を
乾かすとこ、欲しいだろ」
そう言われると、断る理由はない。確かに服を乾かすところは切実な願いだし、ここは四の五の
言わず好意に甘えることにした。
「助かるよ、ほんとありがと。オレは実子、大学生だ。呼び捨てで構わないよ」
ふうん、実子ね…。あたしは梨花。各地に眠るいろんなお宝を探して廻っているトレジャー・
ハンターさ」

「こんなところにお宝なんてあるのかよ?」
裸電球の炊事場の下、手分けして夕食をつくる。梨花は先程釣り上げてきたばかりのオショロコマを
串焼きにしながら答えた。
「ああ。ここには、空を飛ぶ島の伝説があるんだ。もしそれを見つけることができれば、
今までの物理がひっくり返るほどの大発見だろ! きっとそこには天空の城の遺跡や財宝が眠って
いるかもしれない」
実子は苦笑いをした。それを見て自分は文字どおりひっくり返ったのだ。

「あのな、空を飛ぶ島ってのは…」
「あー。言わないで。どうせ信じてないんでしょ? わかってるわよ、あまりにバカげた話だってこと。
でも物理や進化の常識なんて毎年新しい発見によって覆されているものなの。反重力物質だって、
いまの地球上ではありえないけど、もしかしたら隕石の落下によって宇宙からもたらされるかも
しれないでしょ。未知の可能性に賭けるってのは、トレジャーハンターの血が騒ぐのよ。
ロマンなのよロマン!」
「そ、そうなのか…?」

梨花にそこまで言われると、自分の見た情景を話すことができなくなった。

2016/2/15 13:04  [1498-4243]   


夕食を食べ、後片付けを終えるとバンガローに戻った。
寝床にシュラフを敷いた上に座り、キャンドルランタンの明かりでワイルド・ターキーを酌み交わした。
辺りが静まると、やけにトンネルの騒音が気になる。1台でもトンネル内を走行していると、
出口すぐ側の浮樹浮木ランド中に響くのだ。バンガローにいてもこれはどうにも響く。
だが2人は気にせずにケラケラと笑っていた。

「実子、そういやあんたにまだ聞いてなかったけど、何故に浮島湿原の沼に落ちたりしたの?」
実子はストレートのターキーに少しむせながら答えた。
「なんちゅーか…沼を散歩してたらヒグマに遭遇しちまって、思わずビビって足を踏み外したんだ」
梨花はそれを聞くと別段興奮するわけでもなく、冷静に話した。
「ふうん、クマかあ。あたしゃまだ遭遇したことないなあ。そういやこのへんはよく出没する
らしいからね。よく生きてられたたもんだ。あんたが沼に落ちたことで、クマの方がビビって逃げて
いったんじゃない?」
「ありえるかも。我ながらそ〜と〜パニくってたからな」
「ふうん…でもね…ここにはクマよりもっとヤバいのが……いるらしいよ……」
梨花はランタンの明かりの中妖しく微笑する。
「な…なんだよ。いるってなにがだよ…?」

「幽霊…よ」
実子は座ったまま背中が壁に当たるまで後ずさりした。
「う…うはは。うははは。冗談やめてくれよ。そればっかりは絶対信じねえよ!」
頬を引きつらせながらも冷静を装ったが、梨花は構わず話を続けた。
「この浮樹浮木ランドはね、目の前にある浮島トンネルを工事していた当時の資材置き場だったんだ。
トンネルが完成した後の敷地の有効利用としてキャンプ場になったんだよ。キャンプ場としては
変なところだと思ったでしょ?」
「ああ…。じゃ、じゃあ、そのトンネル工事で死んじまったヒトの…?」
梨花はゆっくりと首を振った。

「ううん、違うわ。問題なのはこのキャンプ場の入口なの。実子…あんたも経験してるんじゃないかしら? 
このキャンプ場に入るとき、バイクでコケそうにならなかった?」
実子ははっとした。この浮樹浮木ランドに入るとき、冷や汗をかいた覚えが確かにある。
「な…なんでわかるんだ? 見てたのか?」
「見てないわよ。あたしゃその頃釣りをしてたの。いい? この長い長い浮島トンネルは
こちら側の出口に向かって走る場合、ほんの少しだけ下り坂になっているの。それに気付かない場合、
トンネルを出る頃にはけっこうなスピードになっているわけ。それに加えてトンネル出口の左に
いきなりキャンプ場の入口。道内屈指の事故率の高いポイントなのよ」

実子は生唾をノドを鳴らして飲み込んだ。
「つまり…このキャンプ場の入口で事故って死んだヤツの…」
「ご名答、そゆこと。ツーリング中に死んでしまうと、旅の未練で地縛霊になるの。そうなると、
ここでキャンプしてるヤツのバイクやクルマのエンジンを狂わせたりして、自爆事故を
誘発させるんだって」
自分の顔から血の気が引いていくのがわかる。

実子は少しだけ霊感がある、らしい。寝てるときたまに金縛りとか、意味もなく悪寒が走ったり。
中学生の頃友達とコックリさんを興味半分でやったとき、帰り道でカラスに襲われたこともあった。
このキャンプ場に着いたときも、なんとなく空気が重々しくてイヤな感じだった。
そういう霊験が恐くてオバケ、幽霊、妖怪モンスターなど、それ系の話が苦手になった。
そういう話をするだけで、なんだか目に、見えない、得体の知れないモノに自分の周りを囲まれて
しまうような気がするのだ。

「……実子、どした? カオが真っ青だよ。まさかビビったんじゃない? 最後の話は尾ヒレの類いだよ。
幽霊がエンジンをいじれるワケないじゃない」
「う…もうヤだ! その話題はやめようぜ! もう寝る寝る!」
実子は残りのターキーを一気に飲み干し、シュラフの中に潜り込んだ。
「アハハ、怖がりなのねぇ」

2016/2/15 13:08  [1498-4244]   


明かりを消して20分ほどたっただろうか。
どうにも眠れない。外から聞こえるトンネルの騒音が妙に気になって仕方ないのだ。
いつけたたましいブレーキ音が鳴ってガードレール等にぶつかる音がしてもおかしくない気がする。
それに……。

「梨花さん…もう寝た…?」
暗闇に向かって小声で話しかけた。
「んにゃ。起きてるヨ」
「あのさ…わりーんだけど…トイレ…一緒についてきて…」
「ぷぷっ。すっかり怖じ気付いちゃって。でも面倒だからイヤ」
「た、たのむよぉ。マジビビって1人じゃ行けねえよ。この通り!」
実子は暗闇の中で手を鳴らして拝んだ。

「……そう言われても、こればっかりはダメ。訳は、実子がトイレから帰ってきたら話すわ」
「なんだよソレ…ちぇっ、もう頼まねえよ…」
湿ったシューズを履き、仕方なく勇気を振り絞って外に出た。
外灯はなく、暗闇が広がる。30メートルほど先のトイレの脇にある自動販売機の明かりをめがけて歩いた。

いたるところにある水たまりを避けながら早歩きで向かう。
ゴォォォ…というトンネルの騒音と実子の足音。
恐すぎる。夜中の学校の廊下を徘徊してるような気分だ。

速攻でトイレを済ませ、バンガローに向かおうとした。
「あ、アクエリアス買っていこう」
ワイルド・ターキーをストレートでガンガン飲んだせいだろう、さっぱりとしたスポーツ飲料が恋しい。

自動販売機の前でポケットに手を入れるが、小銭入れがない。
「あ、そか。バンガローに置いてきたんだっけ」
面倒だが小銭を取りに行くことにして、小走りでバンガローに向かった。
そのときだった。

バンガローの前に停めてある梨花の車の後ろに人の影が映った。
「ん?」
梨花だと思い、近付いてみた。
「どうかした、梨花さん?」
誰もいない。
「あれ、おかしいな。確かに梨花さんだと思ったんだけど」
辺りを見回したが、人陰はどこにも見当たらなかった。

ともかく、バンガローの扉を開けた。
キャンドルランタンが再び着いており、梨花は自分の寝床で、後ろ向きで上半身裸で座っていた。
「あ、ゴメン。着替え中だったんだ。ていうか、いま外に出てなかったか?」
梨花は壁に向かったまま答えた。
「いや…ずっとここにいたよ…そんなことより実子…」
「え?」

「あたし………きれい……?」

梨花はゆっくりと実子の方を向いた。
「う…あ…あ…!」
背筋が凍りついた。
梨花はのっぺらぼうだったのだ。

ただし顔ではなく、胸が。
それは、牛で例えるならば「乳牛」ではなく「闘牛」のようなおっぱいだった。
「梨花さん……あんた、まさか…!」

2016/2/15 13:11  [1498-4245]   


「そう、そのまさか。あたし、実は男だったりするわけなの」
実子は後頭部が壁に当たるまで後ずさりした。
「お…オカマだったのかよ!」
「言いにくいことをはっきり言うコね。でもその通り、あたしはオカマ。わからなかったでしょ?」
実子は声を失い、ただ何度も頷くだけで精一杯。

「トレジャーハンターやってると、市役所とか県庁で文化遺産の発掘調査申請の手続きを
しなければいけないんだけど、女の姿をしてると何故かあっさり許可がおりたりするんだ。
考古学を専攻している大学生の協力も得られやすいしね。いやマジで」
そう言われると、なんとなくわかる気がした。かなりアバウトではあるが、女性になりたいという
正当(?)な理由があったのだ。

「ま、そういう理由だから実子のトイレには付き合えない、というコトだったわけ。わかった?」
理解はしたが、少し冷静になると怒りが込み上げてきた。
「どうしてそんな大事なことを最初に言ってくれなかったんだ。あんたが男だとわかっていたら、
こうしてひとつ屋根の下に寝泊まりなんかしなかったよ! まさかあんた、オレを騙して…!」
「あたしは男として生きることに何の未練もないよ。だから、女を愛することよりも、
女として愛されたい派なの」
梨花のその言葉は力強く、説得力があった。確かに、もし実子を襲うつもりだとしたら、
ターキーをガンガンに飲んでた段階でそうなっていただろう。

「それに、このキャンプ場で女1人でテント広げる方がよっぽど危険だよ」
「…? なんでだよ?」
実子の刺々しい口調をかわすように、梨花は大きなあくびをしてみせた。
「さっきあなたバンガローの近くで人陰を見たって言わなかった? それ幽霊じゃないの? 
よく見えたわねえ」
「はっっ…! そういえば…っっ!」
梨花がオカマだという衝撃の告白にすっかり忘れていたが、確かに梨花の自動車の付近に誰かを目撃した。
実子は声を失って青ざめた。

「なーんちゃって、冗談。明朝になればわかるよ。あたしもう眠いから寝る。おやすみ」
梨花はそう言うと、Tシャツを着てシュラフに潜り込んだ。1分もすると寝息が聞こえてきた。
「…明日の朝…?」

何のことかさっぱりわからないまま梨花は寝てしまった。
寝ている仕草まで女っぽい。とても男とは思えない色気が漂っていた。
「………」
確かに幽霊などをこの目で目撃などしてしまったら、とてもテントの暗闇の中独りでいれる自信はない。
どんなパニックに陥っていたか、想像もつかない。

独りでいる心細さと、女の姿をした男と一緒にいる不安。どちらがマシかと訪ねられたら、
実子は紙一重で後者を選ぶだろう。
「結果…よかったのかなあ…」
ぼそりと呟いた。

実子はとりあえず『男といる』状況を把握するため、静まり返ったバンガローの中を見渡した。
「げっ…!」
びしょ濡れの実子の下着が、部屋のド真ん中に吊るされたロープに干してある。色気も洒落っ気も
ないスポーツ用の下着だが、男を前に堂々と見せられるものでは、当然ない。
実子は生乾きのままでもバッグにしまおうかと思ったが、ここまで堂々と見せてしまっていたなら、
もはやどうでもいいように感じられた。
それは、女として汚れた、というより、より自分が女として自覚した、という印象が強い。
「しょせん男のように生きようと思っていても…恥じらいがあるだけ、オレは女だったんだな…」

アクエリアスを飲む気も失せ(というよりもはや外に出たくない)、精神的にも疲れた実子は
深いため息をつきながら自分のシュラフに入ってランタンを消した。
独りなら、間違いなく眠れない夜だっただろう。

2016/2/15 13:16  [1498-4246]   


翌朝、よく晴れたバンガローの外で、実子は愕然と立ちすくしていた。

「あらおはよう実子。なにボーっとしてるの」
梨花がバンガローから出てきた。
「梨花さん…コレ見てよコレ!」
震えながら指すその先には、巨大な獣の足跡がいくつもあった。

「ふーん、やっぱりね」
梨花はその足跡をまじまじと眺め、冷静に言った。
「ヒグマだよ。たまにこのキャンプ場にも出没するって管理人のオヤジが言っていたんだ。
きっとキャンパーのゴミとか食べ残しなんかを漁りにくるんだろうね」
「いやあんただからなにをそんな冷静に…」
「だって昨晩あなた見たじゃない? あたしはトレジャーハンターよ。幽霊だの呪いだの、
非科学的なものなんて一切信じない。あなたが見たのは間違いなく、この足跡をつけた張本人よ」
つまり昨晩実子がみた幽霊は、実はクマだったということだ。
「だって…あんた、昨日は事故で死んだヒトの幽霊だって…」
「実子が意外にも怖がるから、面白がってからかったんだよ。あんた運がいいわね。
2度もクマと遭遇して無事だったんだから。アハハ!」
梨花はけらけらと笑った。
「ひと事だと思ってこん畜生…!」

梨花は膨れっ面をしたオレに手を差し出した。
「だからこのキャンプ場で、独りでテントするのは危険だって言ったでしょ。ま、どーでもいいじゃん。
朝ごはんつくろ?」

朝食の後片付けを終えると、荷物をまとめて愛車ブロスにパッキングした。
「まだ服も半乾きなのにもう出発するの? せっかちだね」
出発の準備が整うと、まだひんやりと湿ったジャケットをまとった。
「こんなもん、走っていればすぐに乾くよ。それに朝からこんないい天気なんだ。昨日のぶんまで
内陸の雄大な景色を楽しみたくてウズウズしてるんだ!」
「こんな恐いキャンプ場とはさっさとオサラバしたいっていうのが本音じゃないの?」
「…。否定はできねえな。…でもあんたには本当に助けられたと思う」
実子は顔を真っ赤にして俯き加減で「……ありがとう」と呟いた。
「フフ、どういたしまして。あたしは天空の島の遺跡を探すまでこのバンガローにいるつもり。
またいつでも遊びにきなよ」
「はは、お生憎。もうオカマの世話にはならねえよ」

実子はバイクのセルスイッチを押そうとした手を止めた。
「なあ梨花さん…ていうか、あんた梨花って名前ウソだろ。本当の名前、なんていうんだ?」
梨花は少し考えてから答えた。
「騎羅だよ。ローマ字のKIRAを並べなおしてRIKAにしたの。それだけ。でも役所にはちゃんと
『梨花』で登録してあるわよ。免許証にもね」
梨花は免許証を見せた。確かに『梨花』になっている。
「ホントだ。なんで? 名前なんて変更できるのかよ」
「トレジャーハンターたる者、公文書偽造なんてお手のものよ。女になるなら、徹底的にやらなきゃ。
でも誰にも言っちゃダメよ」
実子は、梨花の度の越えた肝っ玉のデカさに呆れ果てた。
「まったく、やってくれるぜ」

セルを回し、エンジンを回す。ヘルメットをかぶり、グローブをしっかりとはめた。準備完了だ。
「梨花さん、この天気なら…天空の島、見れるかもよ」
「ふむ…。そうね、行ってみるわ」
実子は『梨花』に手を振って、そして出発した。

このあと梨花が、実子が見たように天空の島を見ることができたかどうか、それっきり梨花と
会うことはなかったのでわからない。
もしかしたら、本当に空に浮く島を見ることができたのかもしれない…実子は時々そんなふうに想った。
それは、実子があの夜見たものはクマではなく、本物の幽霊だったのかもしれない可能性を
否定できないからだ。同じ幻なら、天空の島を信じたい。同じ幻なら、見えて素敵なものがいいに
決まっている。そういう理屈だ。

その後、実子は半月かけて北海道の湖、山、湿地、滝、いろんな自然を徹底的に見て廻った。
1人でキャンプしたときも、誰かとキャンプしたときも、いろんな意味で自然体になれ、
楽しめることができた。
浮樹浮木ランドの出来事が、自分にとってどうプラスになったかなど、わからない。
でも、それが思い出になったとき『恐かったけど、とても楽しかった』と言えるようになった。

2016/2/16 08:07  [1498-4247]   



「…というワケだ」
小川のほとり、すっかり冷えきったコーヒーの入ったマグカップを片手に、恵と睦美は実子の話に
聞き入っていた。

「ははー。天空の島ってのは湖面に映った空の島のことだったのね、なるほど。それにしても、
なんちゅー奇怪なキャンプ場があるんだろ」
恵はため息をついていたが、
「でも、ひとつおかしい点があるのよねえ」
睦美は腕を組みながら首をかしげた。

「……? なにが?」
睦美は目を光らせ、得意気に説明をはじめた。
「梨花さんってオカマだけどホモじゃないと思うの」
「そっちの話かよ!」
実子と恵が同時にツッこむが、睦美は真面目に続けた。
「男のコのような女の子の実子ちゃんって、梨花さんにとってかなり理想的な獲物じゃ
なかったのかしらねえ…?」
「は。何を言い出すかと思えばバカなことを…」
実子はあきれて手を振った。
「いやいや。言われてみると確かに。一見レズのように見えて、実は正常な恋愛が成立するわね」
睦美の意見に恵もいきなり賛同した。
「ばっ…! フザけんな! 冗談じゃねえよ!」
2人は無気味な笑顔で実子ににじり寄った。
「絶対ナンかあったでしょ〜?」
「ねえよねえよねえよ!」
3人がはしゃぎあっている、そんなときであった。

小川の反対側の茂みからガサリと音がした。
全身毛むくじゃらの巨大な野獣、ヒグマだ。その距離、約15メートル。
笑いあっていた3人の顔が、そのままの表情で石膏のように固まる。

ヒグマも3人もそのまましばらく硬直していたが、やがてヒグマがのそりと前進してきた。
「う…わ〜〜〜〜っっっっ!」
堰を切ったように一目散で逃げまどう3人。小川が間にあったおかげで追いつかれることなく
バイクまで辿り着き、エンジンをかけると同時に発進、全速でこのフィールドを離脱した。
恵と睦美はオフロード用のバイク、このような砂利道は走りやすいが、実子のデカいアメリカンタイプの
バイクも負けず劣らずのスピードで、この林道を走り抜けた。

北見の市街地に辿り着き、3人はコンビニの駐車場でようやく一息つくことができた。
バイクを降りて、はじめてヘルメットをかぶっていない自分たちに気付くあたりが、
その狼狽ぶりを物語っている。

「ふ〜。いままで何度かヒグマに会ってきたけど、慣れることはねえなあ。マジで死ぬかと思うよ」
実子は冷や汗を手で拭いながら深呼吸した。
「あたしたち今までいつも森で魚釣りしてたけどぉ、初めてヒグマさんに遭遇しちゃったねえ」
「ああ。なんか今でも生きた心地がしないよ…あ! 鍋とかコッヘルとか全部置いてきちゃったよ。
どうしよう実子さん、あれがないとあたしたち生活できないよ」
実子は「諦めるしかないよ」とは言ったが、どうにか彼女らの力になろうと思案した。
「とりあえず今日はウチのペンションに泊まればいいじゃん。幸い今日はキャンセルがあったから
部屋は空いてるぜ。安くしておくから」

2人は顔を見合わせたが、困った表情をしながら首を横に振った。
「せっかくのお誘いなんだけど、あたしたちマジで手持ちが少ないのよ」
「メグメグってばショタコンの同人誌買いすぎたからね…」
「うるさいよ睦美! あんただってヒトのこと言えんでしょや!」
「だってだってだって〜」
恵と睦美の醜い言い争いをよそに、実子は携帯電話で誰かと話をしていた。
その通話が終わると、ようやく仲裁にはいった。
「じゃあこうしねえか? いまオレの姉貴と話つけたんだけど、ウチのペンションでアルバイト
するってのはどうだ。これからの時期、かなり忙しくなるから少し人手が必要だったんだよ。
期間はおまえらの都合が許す限り好きなだけでいい。バイト代は安いけど日払いするし、
2食つくし、買い出しと食事の準備、掃除と洗濯を手伝ってくれたら、日中はどこかに出掛けても
構わない。どうだ? 悪くない条件だと思うけど」

実子の説明を聞いた2人は目の色を輝かせながら「やるやる〜!」と即答した。
細かい説明は後回しにするとして、とりあえずセントラル・アイランドへ向かうことにした。

2016/2/16 08:13  [1498-4248]   

セントラル・アイランドに到着したのは夕暮れが終わり、一番星がきらめく頃であった。
玄関を開けると、萌子が出迎えた。
「おかえり、みっちゃん。あ、そのヒトたちが真子おねえちゃんが言ってたバイトのおねえさんたちなの?」
実子が「ああ」と言うよりも早く、睦美が目にもとまらぬ速さで萌子をぎゅーっと抱き締めた。
「きゃーっ可愛い! あなたいくつ? ちょっとフリフリの服に着替えてみない????」
などと有無も言わさず萌子の服を脱がしにかかる。
「えっっ…? うわちょっとやめ…ギャーっっっ!?」
恵はそんな萌子に近付くと、まじまじと顔を眺め、
「あなた…半ズボンはいてみない…?」
などと真面目な顔で意味不明なことを呟いた。

その晩、恵と睦美は、真子に勤務の条件や仕事の説明などの打ち合わせをしたあと、
お客に混じって歓迎会をやった。ただし実子だけは翌朝の仕入れのため早々に自分の部屋に戻り、
ベッドに入った。
深いため息をついて、瞳を閉じる。
「なんか慌ただしい一日だったから、グッスリ眠れそうだ…」
まどろみの中、実子は恵と睦美に話した自分のツーリングの、その後の出来事を再び思い返していた。



「ただいまっ! いま帰ったぜ〜!」
北海道ツーリングを終え、新潟の家に着いた実子は勢いよく玄関をあけた。間髪入れずに、
退屈を持て余していた萌子が玄関までとんできた。
「おかえりみっちゃん! どうだった北海道?」
「おう、メッチャ最高だったぜ。細かい話は後回しだ、オレからの宅急便届いているか?」
「うん。昨日届いたよ。なにあの重たいスチロールの箱? クール宅急便だったから冷蔵庫に
入れておいたけど」
「ようし、ちょっと待ってろよ」
実子はそう言い残すと、隣の家へ向かった。

わけもわからず残された萌子はバイクに積まれた荷物を下ろし、重たそうに玄関へ運んだ。
潮とオイルが混ざったバッグの匂いが、旅の楽しさを物語っているような気がした。
「ふーん…北海道か…なんかいいなあ」

萌子が感慨にふけていると、実子がアキラとその母親の律子を連れて戻ってきた。
「み、みっちゃん! アキラくんを外に連れ出していいの…?」
律子は笑いながら
「たまに外の空気も吸わせないと、もっと病気がちになるから」
そう萌子に説明した。

血友病という病気のため、ほとんど寝たきりの生活を送っているアキラだが、こうして外でみると
普通の少年とどこも変わらない。どこが病気なんだろうか、と疑うほどだ。
「で実子、北海道ツーリングの話を聞かせてくれるんだろ?」
アキラは実子をせかした。
「おう。でもその前におみやげがあるんだ!」
全員を居間に上がらせると、実子は自分の送ったスチロールの箱を冷蔵庫から持ってきた。

箱を開けると、捕れたて新鮮の海の幸が氷の中にぎっしりと詰まっていた。
毛ガニ、花咲ガニをはじめ、ウニ、イカ、ホタテ、キンキ、ニシン…見るからに豪華多彩だ。
「す、すごーいみっちゃん! こんな新鮮な魚介類みたことないよ!」
「まあまあ、このイカの透明なこと。美味しそうだわねえ!」
「うわぁ。オレ一回でいいからウニを腹いっぱいたべてみたかったんだ! カニもすげえずっしり
して身が詰まっているよ!」

」みんなの顔がほころぶのを見て、実子も満面の笑みで説明した。
「いやー。おみやげに迷っちゃってさ。たまたま釧路の卸市場で出会った漁師の船長さんに安く
譲ってもらったんだよ。萌子、早速さばいてくれよ。みんなでたべようぜ!」
「うん。わかった! お寿司とかにしたらいいかなあ?」
「そりゃいいぜ!」

萌子と律子は台所へ箱を運び、さっそく捌きに取りかかった。待っている間、実子は各地で
撮ってきたデジカメの写真をノートパソコンで映し、アキラに説明していた。
アキラは写真を次々にみるたび無垢な瞳を輝かせていた。
「ただいま〜。お、実子帰ってたんだ、おかえり…ってアキラくんもウチにきてたの? 
いったいなんの騒ぎよ?」
真子がタイミングよく会社から帰ってきた。
「真子姉も食べようぜ。寿司のネタの準備ができたとこで、いまから萌子に握ってもらうとこだったんだ」
真子はその豪華な魚介類を一望してぶったまげた。
「うっわ! ちょっと美味しそうじゃない! 残業してこなくて正解♪」

全員が揃ったところで、萌子は次々に寿司を握っていった。
みんなが顔をほころばせながら食べる姿をみて、実子は言い様のない満足感であふれていた。
旅費を倹約してまで、豪華なおみやげを買ってきた甲斐があったというものだ。
実子は慣れない手つきで湯呑み茶碗に緑茶を入れた。
「ほらよアキラ。飲め」
「お、ありがとう実子。ほんと、マジで美味しいよ!」
アキラは心からの笑みで湯呑みを受け取った。

その笑顔をみるために、おみやげを買うのも悪くない。
実子は頬を赤らめながら、そう想った…。


ACT.2 終

2016/2/16 08:19  [1498-4249]   

中島 真子(長女)

ACT.4 リメンバー・ラベンダー



「いいかげんにしてくれ、ウゼえんだよ」
容赦ない言葉を浴びせられる。
 ……そんな酷いこと言わなくてもいいじゃない…!
 ……あたし、あなたを困らせるようなこと、してないじゃない……
「悪いけど、タイプじゃないんだ。他をあたってくれよな」
 ……なんで…? あたしのどこがダメだっていうの…?
 ……つき合ってみれば、ウマが合うかもしれないじゃない……
「そこまでオレに言わせるなよ。オレはブスは嫌いなんだ」
 ……ど…努力するから…綺麗になるから……だから…!
「だからウザいって言ってんの。そこまでつき合いきれねえよ」
 ………ひど…い………
そして、運命の崖が崩れる。

 ……………

「うわあああっっ!」
パソコンデスクに突っ伏していた真子が絶叫とともに起きた。
周辺に散乱していたCD-ROMがばたばたと床に落ちていく。
「うわ、びっくりした! どうしたんです真子さん?」
となりのパソコンで画像編集をしていた恵が血相を変えて振り向いた。
真子は、強烈なほど度が入ったとんぼメガネをかけなおした。

恵の心配そうな顔と、これ以上ないほどゴミや雑誌、ディスクなどが散乱しているいつもの事務所を
一望して、ふうとため息をついた。
「……。おはよ、恵。びっくりさせちゃったね」
「おはよ、じゃないですよ。まだ夜の10時をまわったばかりじゃないですか」
恵は心配そうに、額にじっとりと汗を浮かべている真子を見つめた。

睦美と恵がペンション・セントラルアイランドでアルバイトをはじめて1週間が過ぎていた。
2人ともよく働き、客受けも上々であった。
基本的に睦美は畑仕事と萌子の食事づくりのサポート、恵は実子のツアーの補佐と真子の
パソコン作業のアシスタントとして従事していた。
仕事のない自由時間、睦美は美幼女を偏愛する性格のため、高校生の萌子はいいオモチャに
されてしまっていた。

「わああん、真子おねえちゃぁぁん!」
萌子が睦美にまたも何かされたらしく、騒がしく事務所に入ってきた。
「何よ萌子。こんな夜中にうるさ……」
視線をモニターから萌子に向けると、真子は思わず二度見した。

萌子は、ウエストの締まった黒のドレスに、リボンとフリルをめいっぱい装備させたエプロンの姿。
それは、中世ヨーロッパを代表される召し使い、つまりはメイドのそれであった。
いや、過剰なまでのリボンとフリルは「召し使い」という仕事をこなす機能性を無視したもので、
どう見ても別の目的のための衣装としか思えない。

「睦美サンがあたしにこんな恥ずかしい服着せるんだよお」
「あらー。可愛いわよ萌子。萌え萌え。それ男性客に絶大な支持を集めるわ。リピーターが劇的に
増えそうね。札幌のススキノに支店を出してもいいかも」
真子は営業口調でからかうと、萌子は顔を赤らめて両手を振り回した。
「やだやだ〜、あたし見せ物じゃないよう!」

そこに睦美が事務所に入ってきた。なんと彼女も萌子と同じメイド服を着ていた。萌子と違って、
恍惚とした表情が大人の色気をかもし出している。
「萌子ちゃぁあん、あなたはもう少し『見られる喜び』というものを知る必要がありそうね〜。
さあ、お客さまがお待ちよ、こっちにいらっしゃ〜い♪」
「い…イヤぁ〜!」

真子は「ちょっと待って」と睦美を制すると、2人のメイド服をまじまじと眺めた。
「よくできてるわね、この服。手縫いでしょ? 睦美が作ったの?」
睦美の説明によると、おととい真子に頼まれた離れの倉庫の清掃で見つけた、暗幕のような古い
カーテンを使って2日がかりで縫い上げたのだそうだ。
「極貧コスプレーヤーですから、裁縫だけは得意なんです〜」
睦美のその言葉に、一同は納得した。
「なるほどね。ウチは誰も裁縫が得意じゃなかったから、貴重な戦力になりそうね。客ウケの
ツボも心得てるし」
真子は睦美を誉めたたえたが、萌子は「ヤダヤダ〜」とだだっ子のように床でじたばたした。
「でもあたしは、萌子ちゃんにはポロシャツとショートパンツの姿にして、髪をもちょっと切って
男のコっぽくしたら、いいと思うんだけどなぁ。オプションで野球帽とかかぶせたら、
脳天直撃ものね」
恵がぼそりと呟く。彼女は小学生くらいの男の子(しかも半袖半ズボンの姿しか認めない)を偏愛する、
俗にいうショタコンであった。
「それもイヤ〜! あたしはふつーのフリースのシャツとスカートがいいの!」
萌子がそう絶叫したとき。

豪快に事務所のドアが開き、今度は実子が部屋に入ってきた。
「あっ、みっちゃん、ちょうどいいところに! 助け…」
すぱんっ!
萌子の嘆願を叩き落とすように、実子は履いていたスリッパを持ちその脳天に振り下ろした。
「痛いよみっちゃん。何てことするの〜?」
「やかましいっ! となりの部屋で寝てるオレの身になれっつー話だよ! 毎朝4時に起きて、
仕入れのためにこの弟子屈からはるばる釧路まで往復してるオレを! ちったあ静かに寝かせろや!
その姿のままお客さんの前でキン肉バスターしてやろーかゴルァ!?」
安眠を妨害された実子は、明らかに不機嫌であった。
「あ、あうう。キン肉バスターだけはイヤ…! ごめんなさいみっちゃん。静かにしますから
許してください」
萌子は深々と頭を下げると、実子は「まったくもう…」と頭と尻をボリボリかきながら事務所を出て行った。

「うう…最近のあたしって天中殺…」
涙目の萌子がぼそりと呟く。
「萌子に睦美、もうすぐお客さんの消灯時間だよ。居間に残ってるお客さんを部屋に案内して、
後片付けして寝なさい」
真子は、寝ていた実子を起こさせてしまった責任の一端を感じつつも、2人に命じた。
萌子と睦美は「ふぁ〜い…」と気の抜けた返事をして退出していった。

2016/2/16 08:26  [1498-4250]   


惨然とした事務所の中、ひとりキーボードを打つ真子。
ふと手を休めて冷えたマグカップを傾けた。
「ん…。確かに今のままじゃ、ダメになるかな、あたし…」
ぼそりと呟く。

眠りたくても眠れない。それが真子の現状であった。パソコン作業が忙しくて寝る暇がないのではない。
本当に眠れないのだ。
眠ろうとすると、様々な悪夢が次々と脳裏に襲いかかってくる。
なんとなく原因はわかるのだが、対処のしようがない。
そんな不眠症の状態が、当たり前のようになっていた。
どうにかして眠りたいという意志はある。しかし、この不眠症を「仕方ない」と自戒するような、
諦める気持ちもあった。
「明日…か。たまに行くかな…」
カレンダーに丸印で「会合」と書かれた日を見つめる。
深いため息をつくと、真子はメガネのブリッジを人指し指で持ち上げ、再びキーボードを走らせた。

翌日。
客が全員出払った後のセントラルアイランド。
美子と恵は、ツアーを申し込んだ客を連れて裏魔周へ行っている。
萌子と睦美は居間で接客の勉強をしているようだった。

真子は外出用のポロシャツとジーンズに着替え、玄関で靴を履いた。
居間から萌子と睦美の会話が耳に入ってきた。
「いい、萌子ちゃん。メイドになりきるための必殺技よ。あたしに続いてやるのよ〜」
「う、うん」
「も、申し訳ありません、ご主人様…」
「も、申し訳ありません、ご主人様…。これでいいの?」
「表情が切実じゃないわね。上目遣いで瞳をウルウルさせるのがコツよ」
「う〜。難しいよ…こんな感じ?」
「いいわぁ。そんな感じ。じゃ次ね。萌子はいけないコですぅ…いかなるお仕置きも受ける覚悟で
ございますぅ」
「萌子はいけないコですぅ……あの、睦美さん? よくわかんないんだけど、これのどこが必殺技なの?」
玄関の真子はこめかみを押さえながら、萌子を呼びつけた。
「萌子…萌子! ちょっと来て」
「なあに、真子おねえちゃん。あ、会合に行くの? 珍しいね!」
「まあね。たまに出席しないと、後でうるさいから。あんたに電話の子機を渡しておくから、
あとよろしく」
「うん。了解したよ」
萌子は子機を受け取ると「いってらっしゃい」と笑顔で手を振り、真子を送りだした。

「真子さん、お出かけ?」
睦美が怪訝そうに萌子に聞いた。
「うん。たまにこの地域のペンションのオーナーが集まって、会合をするらしいの。真子おねえちゃんは
今まで1回しか出たことなかったんだけど、今日は参加するみたい。どうしてだろ?」
「真子さん、昨晩も徹夜だったんじゃないかしら。萌子ちゃん、真子さんのこと心配じゃない?」
萌子はそう言われると、少し考えて、俯きながら答えた。
「心配にきまってるよ…。いつ倒れてもおかしくないもん…。でも、あたしのおねえちゃんだから、
信じるしかないよ。いままで、ずっとそうだったから…。だから、おねえちゃんを信じてあたしは
あたしの仕事をがんばるの…」
「萌子ちゃん…健気だわ。可愛いっっ!」
睦美は萌子をぎゅっと抱き締めた。萌子はその胸の中で窒息寸前にまで追いやられる羽目になった。

2016/2/17 11:16  [1498-4253]   


「うーむ。なんだかそのうちコスプレがウリのペンションになったりして…」
ガラクタ置場の倉庫からマウンテンバイクを引きずり出しながら、真子は呟いた。
「なんだか懐かしいね、小樽で買ったマウンテンバイク」

夏真っ盛りという季節なのに、真子は今年この自転車を初めて跨いだ。
「おや…どこもサビてないし、ちゃんとチェーンオイルが塗られてる。実子がメンテしてくれてたのかな。
嬉しいことしてくれちゃって」
真子はナップサックを背中に担ぐと、ペダルを漕いだ。
街路樹の木漏れ日に眼を細める。暑い日になりそうな予感がした。

しかし、そんな快晴の青空を見上げても、真子は気分が高まるどころかみるみるテンションが下がっていった。
「くだらない…」
今日の会合について、ぼそりと不満をはいた。
何年も前から経済が不景気になり、旅行者が減少化し、ホテルをはじめ旅館や民宿などの宿泊施設も
経営が悪化している。
ペンションも例外ではない。
多額の借金を背負いながら建てた、立派でお洒落なペンション。その裏では、宿泊代を稼げず、
銀行への返済に苦しむオーナーが星の数だけいる。
そういう危機的状況を打開するために、いわゆる『客寄せ』のアイデアをオーナー同士が協力して
出し合うのが、この会合なのだ。
少なくとも真子は、そう認識していた。

ペンション・セントラルアイランドは、そういう切実な問題とは、無縁といわないまでも、
同業者の中では群を抜いて経営が良好だった。
だから、真子はこのテの会合には、セントラルアイランド開業以来行ったことがなかった。

また、今までは会合に参加する時間がなかったのも事実。
ペンションのホームページの更新、客室の掃除、洗濯、予約の応対、経営管理。接客以外の仕事を
ほとんど1人でこなしていたのだ。ヒマをつくるどころの話ではなかった。

今回、会合に出席しようと思い立った理由は3つあった。
ひとつめは、恵と睦美という2人のアルバイトを雇い、自分の仕事を減らしたことによる時間的余裕
ができたこと。
ふたつめは、たまにでも会合に参加し、オーナー同士という横の関係を少しでも良好に築くことも必要だ、
と思っていたこと。
最後のひとつは、昨晩、恵に心配されていたこと。事務所に閉じこもってばかりいるから余計な
心配をさせてしまう。リフレッシュする感じで外に出ていけば、何かしら安心するのではないか。
そういう魂胆があった。

ペンションの会合は、町のはずれにある公会堂で行なわれる。雑草に覆われ放題の緑に囲まれた
木造の質素な建物だ。その隣には消防団のポンプ車の小屋も見える。

真子が屋根付きの駐輪場に自転車を止めると、後ろから声をかける女性がいた。
「あら中島サンじゃない? 珍しいですわね、あなたがここに来るなんて」
中島、と呼ばれて真子は振り向いた。
日傘をさした白いワンピースの女性。腰までしっとりと伸びた黒髪がなびいている。
顔立ちからも、伶俐な雰囲気をかもし出している。

「だれ…?」
ワンピースの女性は、駐輪場の鉄柱に自ら激突した。
「くはっ…! 私を忘れるなんて、いい度胸してますのね真子! ペンション業の同期だった
私の顔くらい覚えてらっしゃい!」
「冗談よ、岸里百合香(きしりゆりか)。久しぶりね。下の名前で呼ばれなかったから、一瞬誰か
わからなかったよ」
真子がしれっとした顔で答えると、百合香は大きなため息をついた。
「1年も会ってなければ、とりあえず名字でお呼びしたくもなります。それより、今日はいかが
なさいましたの?」
「…? 会合に出席しに来たんだけど?」
百合香はその言葉を聞くと、必要以上に驚いてみせた。
「あらまあ。評判の高い人気ペンションのオーナーさんが、このような場にいらっしゃっても
意味などないのでは?」
やけに刺々しく真子に口撃する。真子も少しカチンときた。
「意味があるかないかなんて、あたしの決めることでしょ。ほっといて」
「そうはいきません。本日はせっかくですから、真子のペンションの成功の秘訣を、
集まった皆さんに発表していただきたいですわね」

真子は「くっ…」と口を尖らせ、百合香に近付いて小声で言った。
「百合香、会合で余計な真似したら、タダじゃおかないわよ…!」
百合香は鼻を「フン」と鳴らし、日傘を丁寧にたたんだ。
「あなたの指図は受けません。真子が会合に毎回参加してらっしゃれば、私も小煩いことは申しませんわ」
百合香はそう言い残すと、公会堂へ入っていった。
「百合香…あんにゃろ、まさか…」
真子は一抹の不安を抱えながら、彼女の後を追って中に入っていった。

2016/2/17 11:21  [1498-4254]   

「さて、繁盛期である8月も半分が過ぎ、いささか皆さんもお疲れのご様子だと思いますが…」
言葉とは裏腹に健康そうにはきはきと喋る中年の男、風祭良二(かざまつりりょうじ)が場を
仕切り、会合は始まった。この公会堂に集まったのは、中年の男女が15人ほど。
8帖の畳部屋の中央にポテトチップスなどの菓子をささやかに並べ、その回りを全員座布団を
敷いて囲んでいた。

20代の若者は真子と百合香のほかは見当たらなかった。
真子にとって2年ぶりに参加するこの会合、顔見知りの人はあまりおらず、初参加のような気分に
なっていた。

議題の中心となったのは、誰ともなく言い出した「客室のコンセント占有」についてであった。
最近では、宿に到着するなり携帯電話、デジカメ、はたまたノートパソコンなどのバッテリーを
充電するために部屋のコンセントを利用する客が多い。
客室は相部屋が基本のペンションが多いが、部屋のコンセントの数は当然限りがあり、
それを占有しようとして客同士で喧嘩になるケースもあったらしい。
また、それによるペンション自体の光熱費が肥大化されていることも問題視された。

(くだらない…。旅行者が多くのデジタル機器を持ち歩くデジタリアンになること、それによる
ペンションの影響なんて想像すりゃすぐにわかるでしょが)
真子は部屋の隅で、コップに出された麦茶を飲みながらそう思っていた。
セントラルアイランドでは、100円ショップで購入したタコ足配線を各部屋のベッドの下に配置して
対処している。また、サービスの一環として、無線LANによるインターネット利用をペンション内で
できるようにしているなど、デジタル機器使用者を優遇していた。
光熱費の肥大化は、真子は目をつむっている。なにしろ真子が電気代を肥大化させている張本人だからだ。

ただし電力の過大な利用については、無視しているわけではない。近日中に、省電力対策を
施す計画が進められていたりする。
(時代のニーズに、迅速に対応しなきゃいけないのに、なにが楽しいのか無能な連中が不毛な
会話をしてる…デジタル機器を使いこなす客の文句を言う前に、対処しろっての。どーせあんたらは
携帯電話のメールだってまともに使いこなせないくせに)
真子はオーナー同士の会話に参加もせず、無言でポットの麦茶のおかわりをくり返していた。
その間にも議題は進み、インターネットのホームページについて様々な議論が交わされていた。

『ホームページを作ったはいいが、更新する暇がない』
『更新しないとページをみてくれる客が減ってしまう』
『客からの苦情を掲示板で書かれ、評判が落ちた』
『迷惑メールが1日に数十件もくるようになった』
(そんなの全部、あんたら自身が招いた結果じゃないの。いまやホームページは、お客にとって
その宿の玄関みたいなもの。掃除もしない、メンテナンスもしないような汚い玄関なんて、
誰も来たがらなくなるのよ)
喉を鳴らして麦茶を飲む真子。そんなときであった。

「皆さん。偶然なことに、この中で唯一といってもいい、ホームページを使っての集客に
成功した方がいらっしゃいますわ」
大声をあげて、立ち上がる1人の女性。
「げふ!」
真子は麦茶が気管に入った。むせながら顔を上げると、百合香が誇らしげに仁王立ちをし、
真子に向かって指を指していた。
「セントラルアイランドの中島真子さんです」
わざわざそんな紹介をされると、部屋の空気が一瞬にして変わった。

「えっ!」
「あのセントラルアイランドの…」
ざわめきとどよめき。それは、アイドルやスターをいきなり目前にして感激しているような
雰囲気ではない。室内に飛びこんだハエのごとく邪魔者を見るような、明らかに軽蔑の視線がそこにあった。
「あ…」
真子は一瞬にして顔から血の気が引き、硬直した。
『ウチの常連客を取りやがったあのペンションか』
『けたたましいバイクで早朝の道路を爆走するやつのいる迷惑ペンション』
『女子高生を使って男性客に媚びるペンション』
真子を見る人の目が、そう言っているかのよう。

ペンションのひしめくこのような地域では、独占的に儲けているペンションは同業者から
忌み嫌われるもの。いまのセントラルアイランドがまさにそれであった。
百合香は話を続けた。
「いまやホームページはペンションにとって必需品とまでいえる大切なファクターになっております。
しかしホームページの有効的な活用法や、効率的な更新方法など、私たちは知らないことだらけですわ」
当てつけるような口調で百合香は話をいったん止めると、あとは他の者が話を続けた。
「そうだ。ホームページ更新における秘訣とやらを、セントラルアイランドの中島サンに、
ぜひご教授願いたいものですなあ!」
室内から「それはいい!」と拍手が沸き起こる。
まさに百合香のシナリオ通りの展開というわけだ。

全員の視線が、真子に集中する。確信。
……………やめて……………
全員の視線が、真子の顔に集中する。確信。
…………見ないで…………
全員の視線が、真子の顔の頬のニキビに集中する。想像。
………お願い、見ないで………
真子は正座したまま、顔を見られないように俯いて、そのまま動かなくなった。

2016/2/17 11:28  [1498-4255]   

しばらく沈黙していると、だんだんと周りからひそひそ話が聞こえてきた。
「企業秘密だとでも言いたいんですかねぇ」
「それじゃこの場にいる意味がないじゃないですか。持ちうるアイデアはみんなで共有するべきだ。
そのための会合ですからね」
「我々のような年輩者には、言っても理解できないと思ってるんじゃあ?」
「だからって、黙ってたりしたら、かえって失礼ですよねえ」
だんだんと周りの声のトーンが高ぶってくる。

それが非難や罵倒の声に変わる前に、司会の風祭は手を叩いて静まり返し、真子を気づかった。
「どうしたのですか、中島さん。どこか具合でも?」
真子は何も言わず、俯いたままであった。必死に我慢していたが、ついに両目から大粒の涙が、
メガネレンズ経由で両膝にこぼれ落ちていった。

「あらあら。仮にもペンションを取り仕切るオーナーたる者が、こんなことで泣くなんて。
それでよくダントツの経営をしてらっしゃる…」
司会の風祭は、今の発言をしたオバタリアンを、黙らせるように睥睨すると、こほんと咳払いをした。
「…まあ、この件は次回の会合で改めて発表していただくことにして、別の議題を進めることにしましょう」
埒があかないことを悟った一同は、しゃくりあげているだけの真子を残し、別の問題に議論しはじめた。

百合香は、独り泣く真子を横目に見ながら眉根を寄せた。その表情には今までの威勢はまるでなかった。

会合が終了し解散となると、真子はまっ先に表に出て自転車に乗って逃げた。
強烈な屈辱を受けた真子。
(来るんじゃなかった…)
商店街に向かう国道を100メートルも走ると、またも溢れる涙で視界がぼやけ、自転車を降りて
歩道をトボトボと歩いた。

そんな真子を追いかける者がいた。
「真子! ちょっとお待ちなさい!」
百合香だった。
真子に追いつくと、肩で大きく息をついた。
「はあはあ…ねえ、真子ってば」
百合香の白いワンピースは、背中が汗でしっとりと滲んでいた。

そんな彼女に一瞥もくれず、真子は自転車に再度乗った。
「…ふん。さぞあたしをコケにして満足でしょうね百合香。さよなら!」
真子はそう言い残すと、思いきりペダルを漕いだ。
「お待ちなさいって…言っているでしょう!」
百合香は思わず、折畳んでいた日傘を真子の自転車の車輪の間に挟み込んだ。

がきっ!

凄まじい衝撃で自転車のフレームに引っ掛かる日傘。
真子はバランスを崩し、街路樹の白樺に顔面から激突した。
真子の鼻から一筋の鼻血が流れる。
「うぐう…っっ! 何てことすんのよバカ百合香! 精神攻撃に飽き足らず、今度は物理攻撃ってわけ!? 
最低ねあんたって女は!」
はじめて百合香を見た。

「〜〜〜〜っ」
百合香は真子の罵詈雑言にも応えず、肩で息をしながら自転車のキャリアをしっかと掴んでいるだけだった。
「もう…なんなのよあんたは…」
立ち上がり、百合香のそばに歩み寄る。
「………」
百合香は無言でレースのハンカチを真子に差し出した。
「………」
真子は無言でそれを受け取ると、メガネに付いた涙を拭き取り、自分の目を拭き、そしてとどめに
チンと鼻をかんだ。
鼻血の混じった粘液で薄汚れたハンカチ。真子がそれを返す前に「差し上げます」と百合香は呟いた。
真子はデイバッグにそれを仕舞った。

「なんと言っていいかわからないのですが…こんなつもりではありませんでしたの」
「何が」
「………」
百合香はしばらく沈黙した後、意を決したように真子に微笑みかけた。
「もうお昼です。真子、どこかでお食事しません?」
「は?」
勝手に話を切り替える百合香。そんな天の邪鬼っぷりに真子は、怒りを通り越して呆れた。
「なんでこの不景気な時勢に、めっさムカつくあんたとごはんたべなきゃならないのよ。帰るって
言ってんでしょ」
「景気の善し悪しは関係ありません。なんでしたら、食事代は私が持ちます」
昼ごはんを奢る。そう言われて真子は、やや考えてから態度を変えた。
「……ま、誘ったあんたが奢るのは当然だね。改めてはっきり言わせてもらうけど、あんたムカつくわ。
ごはんを奢られるくらいじゃ、あんたへの評価は変わらないからね!」

悪態をつかれているのに、百合香はほっと胸をなでおろして、自転車を真子に譲った。
「まったく。『奢る』という言葉には、貪欲に敏感なのですね」
歩き始めて百合香はそう呟いた。
「あ? 何か言ったかこのムカつき女」
真子はドスのきいた声で睨んだが、百合香はすまし顔でそそくさと前を歩いていった。

2016/2/17 11:33  [1498-4256]   

真子と百合香が歩く国道を、1台のRVが通り過ぎていった。
その運転席には実子、助手席には恵が乗っていた。ツアー客をJR摩周駅に送った、その帰り道であった。
「あれ、いま歩道を歩いていたの真子姉じゃねえか」
「あ、本当。外を歩いている真子さんなんて初めて見ましたよ」

助手席のサイドミラーでよく見ると、実子は顔をかしげた。
「一緒に歩いている人って、百合香さんか…?」
「知り合いなんですか?」
「ああ…岸里百合香。ウチらと同時期に『リリー・マルレーン』というペンションを立ち上げた、
ウチのとってはライバルみたいな人かな。テニスコートが3面もあったり、広い露天風呂がウリの
高級指向ペンションらしいよ。ただ…不景気の影響をかなり受けてるみたいだけど」
そう言われると、恵はなんだか真子のことが心配になってきた。
「停まらなくていいんですか、実子さん」

実子は別に気にすることもなく、サングラスをかけて運転を続けた。
「心配ないよ。それより、帰ったら午後から布団でも干そうかな。天気がいいから、きっとよく乾くぜ」
「はぁ」
恵は気の抜けたような返事をしながら、窓から入る風に目を細めた。

丸太を組み合わせたロッジの小洒落たレストラン。
店の駐車場は本州ナンバーの自動車で溢れ、店内も賑わっていた。
真子と百合香はロッジからはり出したテラスのテーブルに腰掛けた。
テラスの脇に茂った大きな菩堤樹が、柔らかく気持ちよい木陰をつくっていた。

「いらっしゃいませぇ。メニューをどうぞ」
清潔なエプロンドレスを着たウエイトレスからメニューを渡される。
「とりあえず、生中と枝豆ね」
真子はメニューを熟読する前にウエイトレスにそう告げた。

がん!

百合香は額からテーブルに激突した。氷水の入ったコップや備付けの調味料のトレイが、
その衝撃で一瞬宙に舞う。
「な……。真子、あなた昼間っからいきなりビールなんてお飲みになるのですか?」
「いいじゃん別に。昼ごはんに酒を飲むな、なんて言われてないし」
真子はしれっとした態度でメニューを読み漁っていた。
「くっ…」
苦虫を噛んだような渋顔をしながら百合香はウエイトレスに、
「グラスワイン、ロゼで。あとチーズの盛り合わせをお願いします」
と注文した。

「おまたせしましたぁ」
それほど待たずに、ウエイトレスが生ビールとワインを持ってきた。
2人は乾杯もせず、無言でそれぞれに口をつけた。
「おまたせしましたぁ」
やや待ってから、ウエイトレスが枝豆とチーズを持ってきた。
しかし、2人のジョッキとグラスはすでに空になっていた。

決して、料理を持ってくるのが遅かったのではない。真子も百合香もほとんど一気に近いペースで
飲み干していたのだ。
「生中、もうひとつ」
「グラスワイン、ロゼで」
2人同時に追加注文する。
「は、はいぃ…!」
ウエイトレスは、何か2人に火花のような戦慄を感じたようで、空いたグラスを持つと逃げるように
厨房へ戻っていった。

「………」
ビールとワインが来るまでの間、2人は黙々と枝豆とチーズをそれぞれ食べていたが、
やがて百合香が口を開いた。
「なんというか…お互いペンション業を始めてまる1年が経ちますが、あなたが対人恐怖症の
ままだったとは思いませんでした」
「…なによそれ」
「先程のあなたの醜態のことです。一体どういうことですの? 他人と面と向かうことのできない人が、
ペンションを営んでいけるわけがありません」
百合香が毅然とした態度で話した。

「あたしたちは姉妹3人で、仕事を完全に分担してやってる。あたしはホームページや掃除なんかの
裏方の仕事に徹してるだけよ。お客と顔を突き合わせるなんて、まっぴらごめんだわ」
「どうしてですの?」
「どうしてかって!? そんなの…わかりきってるくせに…っ!」

真子が啖呵を切ろうとしたところで「おまたせしましたぁ」とウエイトレスが急ぎ足でビールと
ワインの追加をテーブルに運んできた。
真子はウエイトレスから顔を背けながらジョッキを受け取った。

ウエイトレスがテーブルを離れていくと、百合香は「はぁ…」と深いため息をついた。
「真子、あなたはまだ、他人から見られた自分の顔に自信が持てないのですね」
「べつに…顔…なんかじゃないよ」
「ニキビでしょう。そういう肌を持つ女性はあなただけではありません。世の中にたくさんいます。
いかなる治療でも治らない頑固な肌荒れ。ですが、その所為にして他人を拒絶していい理由はありません」
「ふん…正論なんてたくさん! どうせ百合香には分からないよ、あたしの気持ちなんて…」

真子は逃げるようにぐいっとジョッキを傾け、息をはくと言葉を繋いだ。
「だいたい、さっきの会合の連中はなんだい。言いたいこと言いやがって。あいつらこそ
オーナー失格なんじゃないか。かなり感じわるー」
「それが分からないのは、あなたが接客の現場に立ったことがないからです」
百合香はきっぱりと言い切った。
「……なんだって! もう一度言ってみなさい百合香!」

真子は、全てを見切ったような百合香の態度に逆上して立ち上がったが、
「お願い。私の話を聞いて。ね、真子」
悲しい瞳で懇願する百合香に、真子はやや落ち着きを取り戻して椅子に座った。

2016/2/18 12:27  [1498-4258]   


「田舎の生活に憧れ、脱サラしてペンションのオーナーになられた人、よくある話ですわね」
真子は素直に頷いた。
「そうね。そして、その多くのオーナーの末路もね。あたしの知ってるだけで4件は潰れてる」
「ええ…。この弟子屈エリアが道内でも顕著なのですが、憧れだけでペンションを経営できるほど
甘くはありません。私も身をもって経験してますわ…」

百合香の経営するペンション・リリー・マルレーンは、以前から経営難に陥っていることを真子は
知っていた。最後に会った時に比べて、百合香は頬が少しやつれている印象があった。
「でも百合香、あんたの親父さんは全国でも名高い岸里建築の社長さんだろ。あんたのペンションが
ちょっと赤字になったところで、痛くもカユくもないと思うけど?」
「経営が悪化しているからといって、すぐお父様に泣きつくほど私は安っぽくありませんわ。
ただし、あなたの言う通り多少の赤字は目をつむることはできます。土地、建物などに対して借金は
ありませんから」
「そりゃ岸里建築の所有物だもんな、当然だ。あたしらなんて、死んだ親の保険金で
セントラル・アイランドを立ち上げたけど、まだ借金が残ってる…」
真子は思わず口を滑らせてしまった。酔った勢いとはいえ、他人に話すべきではないことを、
つい口にしてしまった。

「そうですか…。あなたがたも大変なのですね…」
百合香はそう言って恐縮したが、すぐに険しい顔をした。
「ですが真子さん。ならばなおさら、あなたは間違っていると思います。あなたはペンションの
オーナーであるにも関わらず、お客様に顔すら出していらっしゃらないのでしょう。接客に関しては、
妹さんたちに任せっきりのようではありませんか」
「だから何? あたしらはそういう完全分業制で、現にうまく売上を伸ばしているんだからいいじゃない。
あんたや他のオーナーに文句だの説教だのを言われる筋合なんてないよ」
「じゃあ、あなたは今後もずっと、お客様の前に立たないおつもりですの? 今日の会合でも
あなたは何ひとつ喋らなかった。他のオーナーのみなさんはああ見えても多くのお客様ときちんと
向き合い、それで時に傷つきながらも必死に経営してらっしゃいます。そして、多くのオーナーが
多額の借金を背負いながらも、更なるサービスの向上を目指して会合を開いているのです。
単なる愚痴のこぼしあいではありませんのよ。それを分かりもしないあなたこそ…彼らを
どうこう言える立場ではありません!」

「……っ」
真子は声を荒立てる百合香に圧倒され、言葉を失った。
同時に、会合出席の目的のひとつに、他のオーナーとの仲を確保しようという目論みを
持っていたことを思い出し、自身をひどく嫌悪した。全ては自分のペンションのために
都合のいいことしか考えていなかったのだ。
「あ…ごめんなさい真子。少し言い過ぎました…。ですが、これだけはわかってほしいのです。
理想と現実のギャップに苦しみ悩み続けても、多くのオーナーは旅人の安らげる居場所を提供したい、
という一心でペンションを営んでおられるのです。ですから、まずお客様とのふれあいを第一にするのが、
ペンションのオーナーの大切な仕事となるべきではないでしょうか。私はそう思ってます」
「…そうでないあたしは、ペンションのオーナーに向かない…そう言いたいの?」
百合香は目蓋を閉じてゆっくりと頷いた。

「辛辣かもしれませんが、そういうことです。真子…ひとつお聞きしたいのですが、なぜあなたは
ペンション経営を仕事に選んだのですか? ホームページ管理が得意で、人と会うのが嫌いなのでしたら、
インターネットショッピングのお店などをされた方が、よほどあなたに適してますわ」
きっぱりと言い切る百合香に苦笑しながら、真子は答えた。
「…そうかもね。ネットショッピングかあ。考えたこともなかったな。今度副業でやってみようかねぇ」
「茶化さないでください」
「冗談だよ。でもペンション経営は冗談なんかじゃない。あたし…いや、あたしたち姉妹は約束したんだ。
ペンション・セントラル・アイランドを必ず成功してみせるって」
「約束? どなたとの、ですの?」
「あたしら3人姉妹の…まあ、王子様ってところかな」

そう言ったところで、真子はウエイトレスを呼び止めた。
「生ビール…めんどいからピッチャーにして」
「……! よろしいですわ。ウエイトレスさん、私にもロゼをボトルで下さいな」
「か…かしこまりましたぁ!」

真子はジョッキに残されたビールを飲み干すと、ややうつろな表情で片笑んだ。
「ふん。百合香のくせにあたしと張り合おうって気なの? あんたって、とことんムカつく女だわ。
こうなったらとことん話してやるんだから」
百合香は「ムカつく」と罵られながらも、なんだか嬉しそうにチーズをつまんでいた。
しばらくして、ピッチャーとボトルワインが運ばれてきた。

百合香がボトルにコルク抜きを刺し「よいしょ」と勢いよく引っぱる。
快晴の午後、ほどよく熟された葡萄酒が、外気に触れる快音を響かせた…。

2016/2/18 12:34  [1498-4259]   



2年前。

桜の舞い散る季節。
長い冬の厚い雪もすっかり溶けて消えてなくなり、これから陽気な季節になろうとしていた。
真子は、自分の勤めるネットコンサルティング会社の年上の男に想いを寄せていた。

瀬野高明(せのたかあき)。背が高くて顔立ちも良く、仕事もよくできて上司からの評判も高い。
真子より2歳年上で、幸いにも今のところ彼女なし。さらに幸いにも、彼のいる部署の女性は
子供をもったパートのオバサンしかいない。邪魔者はいないのだ。

これをチャンスと言わずして何がチャンスか。
この季節の暖かさに後押しされるように、想いを打ち明ける勇気を振り絞った。
昼休み、誰もいないホールの片隅で向き合う真子と瀬野。

結果は…惨敗。
面と向かって「ウザい」とか顔のこととまで言われた。
悔しい。
普段の快闊で人受けの良い性格は、腹黒な地肌を隠すための毛皮のダミーだった。
その本性を見抜けなかった自分が悔しい。
今まで懸命に生きてきた自分を否定されたようで悔しい。

「話はそれだけか。じゃ、戻っていい?」
思いやりの欠片さえもない言葉。
悔しいから、とりあえず平手で瀬野の頬を思いきり引っ叩いてみた。
「いってぇ。何しやがる」
瀬野は悪態をついて、反撃の構えをとった。
自分にはまったく非はない、といった態度だ。
「最低…!」
女をフるなら、せめてビンタの一発くらいは覚悟してほしいもの。
そんな寛容性のない男に惚れた自分が情けなくなってきた。

真子は、瀬野の鳩尾に正拳を叩き込み、相手が前かがみになったところをカウンターぎみに
バク宙蹴り…サマーソルトキックをお見舞いした。
瀬野は鼻血を出して昏倒した。
そして真子は、振り返りもせず、会社を飛び出していった。

自宅に帰ってきた。
実子も萌子もまだ帰ってきてはいない。それもそのはず、まだ昼の2時だ。
誰もいないことを確認すると、自分の部屋のベットに潜り込み、泣きわめいた。

真子は、本気で瀬野のことが好きだった。
彼なら、いつまでも好きでいられる。
彼なら、いつまでも好きでいてくれる。
彼なら、妹たちもきっと気に入ってくれる。
彼なら、妹たちをきっと気に入ってくれる。
彼なら、家族としてとけ込める。
そう……自分の、夫として……。

そう想っていた。
そう信じていた。
いつも。
いつも。

その、全ての想いが、散弾銃で撃たれた鏡のように、文字どおり木っ端みじんにされてしまった。
あんな、フタを開けてみれば最低の男。
世の中の男は、全部そういう奴ばかりなの?
顔にちょっとニキビがあるだけで、それだけで女の善し悪しを判断するの?

真子の思考は止まらない。
赤毛のアンのように、キャンディ・キャンディのように、自分の顔にコンプレックスを持ちつつも、
常に上を向いて、希望に満ちているヒロインをいつも想い描いていたけど、これが現実。

世の中の全てが、もう信じられない。
どんな物語も、しょせん空想の産物。
全ての現実に嫌気がさした。
もう、誰とも会いたくない。


…………この世からいなくなりたい。

2016/2/18 12:38  [1498-4260]   


そう思ったところで、真子はベッドから起き上がり、涙を拭うとナップサックに着替えだけを詰め込んだ。
居間のテーブルに『探さないで』とだけ書き置きして、外に出た。

駅に向かって歩き始めるが、数十メートルほど歩くとふと立ち止まり、何か思い出したように
急ぎ足で戻ってきた。
おもむろに隣の家の玄関を開け「お邪魔します!」と言うと、勝手に2階へ上がっていった。

「わ。真子さん、どうしたんですか、こんな平日の昼間から…??」
ノックもせずに部屋に入ると、ベッドの上でノートパソコンを叩くアキラがいた。
病気のため、いつもベッドでほとんど寝たきりの生活を送っている。

真子はアキラを一瞥すると、わなわなと震え、ぼろぼろと涙をこぼした。
「どうしたもこうしたもないわよ! なんなのよアンタは! 四六時中ベッドで寝てるだけで
みんなからちやほやされて! 健康なあたしが…うまくいかない現実に打ちのめされているあたしが
まるでバカみたいじゃない!」
真子は一気にまくしたてた。

「ま、真子さん…? いったい何がどう…」
「うるさい! もう何もかも大嫌いよ!」
取りつく島もなく、真子は部屋を飛び出していった。
どたどたと階段を駆け下りる音、それが途中で『どがっしゃん!』という衝撃音に変わった。
どうやら階段を踏み外して転げ落ちたようだ。
「うぐう…!……っっ!」
そんなうめき声をあげながら、真子は表へ飛び出していった。

まるで訳がわからず、呆然と部屋に独り残されたアキラ。
少し悲しくなった。
悲しいことが真子の身にあったことくらいは、なんとなくわかった。
あのように毒づかれても、それが真子の本心でないことは承知している。

だが、今の自分は真子にいったい何ができよう。何も力になれない。
真子、実子、萌子。家が隣同士で、よく身の回りの世話や話相手になってもらっていても、
自分は何も恩返しができないでいる。
非力である自分がひどくもどかしかった。

翌日。
真子は日本海を穏やかに北へ進む大きな船の甲板に立ち尽くしていた。
新潟発小樽行きの新日本海フェリー「らべんだあ」。
春の太陽の光が蒼い日本海に乱反射し、ゆったりとしたフェリーの速度に合わせた微風が甲板に流れていた。
「もう…何もかも、嫌…」
彼方に過ぎ行く粟島をぼんやりと眺めながら、真子は独り呟いた。

間もなく携帯電話の電波が届かなくなる。
真子はそんなタイミングで、携帯電話から会社に辞表をEメールで送信した。
送信後、すぐに携帯のメールアドレスを変更した。
携帯の電話番号も昨日のうちに別の番号に変更しておいたため、これで外部から真子へ連絡することは
不可能になった。
会社からはもちろん、2人の妹たちからも、もう連絡はとれない。

そして、携帯のアンテナ表示は『圏外』になった。
「これでいい…」
真子は大きくため息をついた。

自分がこの世からいなくなっても、妹たちは強く生きていけるだろう。
そう思ってみると、自分の存在価値がひどく稀薄に感じられた。

2016/2/19 08:40  [1498-4262]   


真子が中学生の頃、両親を交通事故で亡くした。
葬式のあと、3人姉妹の引き取り手を含め遺産相続で親戚一同がもめているのを見た真子は、
誰の世話にもならず自分たちだけで生活していくことを決断した。

決断したのはいいが、小学校に通う実子、保育所へ通う萌子を一手に引き受けることになる。
実子は幼いなりに現実を受け止め、真子に賛成し協力してくれた。
だが、萌子にはいきなり親離れするには幼すぎたため、ひとまず祖母の家で世話してもらうことになった。
その後、萌子が小学校5年生で祖母が他界し、その家から追われるようにして萌子は現在の家に戻った。

そして3人姉妹が一つ屋根の下で暮らすことになった。

両親の残した保険金と遺産で当面の暮らしは不自由なくできるが、それも底なしというわけではない。
真子は短大を経て就職した。
真子は仕事で帰りが遅くなりがちなので、家事は実子と萌子が分担して受け持つことになった。
残業代もボーナスも全然出ない会社。
働いても働いても、真子自身はおろか妹たちを養うこともできずに、毎月赤字がかさんでゆく。

「結局、あたしは何もできなかった…」
会社を辞めてしまったことに後悔はない。まだ残されている家の預金残高は、やりくりすれば
女2人が20年は不自由なく暮らせるくらいはある。
それを思うと、自分のしてきた事がひどく無意味に思えてきた。

「結局あたしは何のために生まれてきたんだろう…」
実子の志望する大学について、融通がきけず殴り合ったこともあった。
小学校の授業参観日の案内を、萌子本人の目の前で破り捨てたこともあった。
「親にも…姉にすら…あたしはなれなかった…」

毎日がプレッシャーで押しつぶされそうになった。
助けが欲しかった。誰かに甘えたかった。
そして、恋に落ちては拒絶される。
無情の毎日が繰り返す。

「趣味も遊びもない…ただの生き急ぐだけのあたし…」
そんな自分に誰が振り向いてくれようか。
自分はダメだ。
時代から取り残された錯角すら覚える。

孤独。
失望。
絶望。

真子は自らを否定し続けた。
陽が沈むと、もはや考えることも否定したくなり、ラウンジでビールを浴びるように飲んた。

2016/2/19 08:43  [1498-4263]   


翌朝。
小樽港にフェリーが接岸すると、真子は街の自転車屋で安いマウンテンバイクを購入し、
それに乗って海沿いを西へ向かった。
バスや電車など公共機関を利用しないのは、極力他人の近くに居たくなかったから。
1人でいたい。
それだけだ。

海沿いを、いくつものトンネルや坂を越える。
観光で来たならば、これほど退屈しない景色もないだろう。
数時間走り、ずいぶん高度をとってきた頃、岬の看板が目に入る。
真子は駐車場の片隅に自転車を放置した。

観光シーズンにはまだ早い春先、駐車場も閑散としており、ほとんど人をみかけない。
好都合だ。
今ならば誰にも迷惑がかからないだろう。
真子は岬の先端へと歩いた。
左右が崖でその下は海。数百メートルもの尾根を狭い歩道が岬の先端に向かって続いていた。

海からの風、アップダウンの激しい歩道。
一歩でも踏み外したら、尾根から滑り落ちて死んでしまうだろう。
真子は構わず先端へ向かって進んだ。

岬の先端には、背の低い灯台がひとつある。
海から高い位置にあるので、灯台をわざわざ高く設置する必要がないからだ。
岬の先端に立つ。

水平線が丸みをおびている。
地球が丸い。
そう視認できるほど、高度がある。
やや前方に、大きな岩が不安定そうにそびえている。大自然の脅威だ。
そして、すぐ足下は断崖絶壁。目がくらむほどの高さだ。
一歩前に出れば、もはや例外なく死ねるだろう。

誰もいない岬。
飛び下りるなら、今しかない。
「………」
少しでもためらったら、もう飛び下りる勇気なんてなくなる。
真子は感傷に浸ろうともせず、そそくさと前方に体重を傾けた。

(さよなら…)

崖に向かってもう1歩進もうとした、その瞬間であった。
「うわ、おバカがいるっしょ」
後方から誰かにそう言われ、足が寸でのところで止まった。

「……っ!」
振り返ると、1人の男が柵に腰掛け、こちらを見てニヤニヤしていた。
韓国人を思わせる角ばった顔、スポーツでもやっていそうな体格の良い身体。見るからに
キャンプ旅行者のようだ。

真子はぎょっとした。
岬の駐車場からこの先端までの1本道、人の影すら見なかったというのにいきなり背後に
立たれていたのである。

「…。何、あんた。今なんて言ったの?」
真子は、ほぼ彼女と同世代と思われるその男をじろりと睨みつけた。
「高いところが好きなのは、昔からバカだって決まってるっしょ。塔のてっぺんに上って高笑いする奴、
よくテレビで見るっしょ? だから、おバカ発見♪」
「言葉に気をつけなさい。今のあたしに恐いものなんてない。下手なことを言うと…あんたまで
死ぬことになるわよ」

半分本当で、半分ウソだ。
真剣に飛下り自殺を希望する自分に対して、ニヤけながらバカ呼ばわりされたのである。
そいつに殺意すら覚えるのは、この場合当たり前だ。
しかし、他人を巻き込むことは真子の意志に反する。飛び下り自殺は誰にも目撃されず厳かに
したいと思っており、誰かに見られたら早速警察に通報、身元確認、そして妹に迷惑がかかる。
それだけは避けたい。死ぬなら誰にも知られることなく海の藻屑になるのがベター。ゆえに
この場では男に見られた時点で、飛び下りることはできなくなったのだ。

「飛び下りるつもりなら、今この場で警察に連絡しちゃうけど?」
男は懐から携帯電話を取り出して真子に見せつけた。
「ふん、お生憎さま。この岬は携帯の電波なんて届きゃしないわよ」
真子も携帯を取り出して見せた。確かに『圏外』と表示されており、ここでの通話は不可能だ。

男は、得意げに携帯を見せる真子を見るとゲラゲラと笑いだした。
「やっぱあんたバカっしょ」
「なっ…! 何でよ!」
かあっと真子の顔が赤くなる。完全に小馬鹿にされている。
男は冷静かつ真面目に答えた。
「あんたはまだ生きたがってるのさ。携帯電話を解約しないのが何よりの証拠っしょ。わざと
解約しなかったとしたらさらに大バカっしょ。携帯電話の基本使用料を家族が気付くまで延々と
無駄に支払い続けることになる」

「……! 〜〜〜〜〜っ!」
反論できない。
真子は男に呼ばれなければ本気で飛下りていたところだが、そう言われてみると自殺する前に
個人的に解約しなければならない手続きがいくつかあることに初めて気付いた。
無論、それは残された姉妹のためにだ。
「その顔だとプロバイダなんかの解約もやってないっしょ」
「……う」
図星だった。

真子の家の家計は真子自身が全て管理している。このため残された実子や萌子では真子の個人で
支払っているサービスの把握、そしてその解約手続きなどとてもできそうにない。知らずのうちに
無駄な基本料を永遠に払ってしまうに違いない。

(……………今は…まだ死ねない…………)

その瞬間。真子は我に返った。
平常心を取り戻し、そして今自分の立っている場所を眺める。
もはや崖の先端まであと半歩。
足場が崩れたり、追い風を受けたりしたら、落ちて死ぬ。確実に。

「う…うあ……っっ!」
目がくらみ、腰を抜かす。
「うああ…あああ……」
四つん這いで、無様にもがいて崖から離れた。
そして、我慢できずに腹の底から大声を張りあげて泣き叫んだ。
「お、おい…」
男が心配になって側に駆けつけたが、真子は地面をかきむしったり拳を叩きつけ、泣き続けた。

2016/2/19 08:50  [1498-4264]   


男に連れられて岬のふもとの駐車場へ戻った。
思いきり泣いて、いくらか気は晴れた気がしていた。

「なんとか落ち着いたみたいっしょ。オレは鮎川真二(あゆかわしんじ)。バスとか電車をつかって
一人旅をしてたんだ」
売店のベンチに腰掛け、男は自己紹介した。
真子は少しうろたえながらも隣に腰掛け、口を開いた。

(あたしは真子)
「え?」
(真子。中島真子)
「え? 何て言ったの?」
真二は耳に手をあてて何度も聞き返した。どうも真子の声が聞き取りにくいようだ。
(何よ、耳が遠いの?)
真子は懸命に声を出そうとしたが、何故か声が出ない。
(……あれ?)

真子ははっとして口に手をあてた。
(あいうえお。かきくけこ。あたしはまぁ〜こ〜…いぇいいぇ〜い!)
口をどのように動かしても何も言えない。まったく声が出ない。
「……どうやらさっきのショックで声を失ってしまったみたいっしょ」
真二が心配顔で真子を見つめる。
(……!)
真子は顔を逸らし、携帯電話を取り出すとボタンを素早く入力しその画面を真二に見せた。

『私の顔を見ないで』
と文字で打ってある。
「あ、ああ…ごめん。え…と。声はきっとそのうち元通りに出るようになるっしょ。それまでは
そのケータイで会話すればいいっしょ」
真子はこくりと頷き、急いでキーを打った。
『私は中島真子。さっきはごめん。あと、ありがと』
「あ、いや。どういたしまして。まあ…よかったっしょ、生きてて」
真子は複雑な顔をしながらもこくりと頷いた。

「なんで死にたいと思ったのかは聞かないけど…まあ、せっかく生きてるんだから、やりたいことを
成し遂げないまま死んじゃうのも勿体ないっしょ」
やりたいこと。
なんだろう。
やりたいことなんて考えたこともなかった。

そもそも希望も夢も、つい一昨日すべて打ち砕かれたばかり。今後のことなどまだ考える気にもなれない。
とはいえ、少しだけ吹っ切れた気分だ。
「これからどうするつもりっしょ?」
真二は真子に尋ねた。

これから。
やはり新潟へ帰ろうとは思うが、今は駄目だ。
声を失ったまま帰ることはできない。
かといってどこか行くあてもない。
なにしろこの地が真子にとって最終目的地だったから、これからのことなど空白そのものであった。

携帯電話やプロバイダの解約などを考えたが、それは自殺することを前提のこと。もはや
今となってはどうでもいい。むしろ契約は今まで通り継続するべきだ。

「何もすることがないのなら、少しオレの頼みを聞いてもらえるかな…」
真子がいろいろ思案していると、真二が切り出した。

2016/2/19 08:54  [1498-4265]   


小樽へ向かう海岸沿いをマウンテンバイクで1人走る。
真子は、右手に持った白い封筒をちらりと見た。
真二は「これをある人に届けてほしい」と言ってその封筒を真子に渡し、そのまま旅立っていった。
手紙らしい。
封筒の表には何も書かれておらず、裏面に宛名と思われる住所と名前が小さく記載されていた。
(若山毛欅蘭…わかぶならん…女の人かな。住所は…富良野か…)

どうして真二の、そんな訳のわからない頼みを受けてしまったのか、真子自身不思議であった。
大切な用件ならば自分で手渡したらいいだろうに。
手紙なら切手を貼ってポストに入れるだけでいいだろうに。
(………いや違うな…あたしときっと同じだ………)
ただ死ぬなら、刃物で手首を切るだけでもよかったはず。それをせず、こんな北の地へ死に場所を
求めて来た自分のように、理屈の存在しない行動を人間はすることがある。
(まあ…いいか。命の恩人の頼みなら聞かないわけにいかないしね。ささやかながらも、
これを届けるという今の目的ができたし)
真子はそう思い、真二の託した白い封筒を懐に仕舞った。
何でもいい、誰かのために何かができるなら、役に立ちたい。
それが今を生きる証になるはず。真子はそう思った。

小樽のビジネスホテルで一泊し、マウンテンバイクを分解して大きなバッグに詰め込み、
翌日電車で富良野に向かった。
電車の中、真子はボーっとしながら景色を眺めた。
遠くの山々の頂上付近にはまだ白い雪が残っている。
自分の心の中の雪も完全に溶けきってはいない。
(自分は何ができる人間なのだろうか…。生きる価値とは、何で決められるものなのだろうか…)
主体性を重んじる真子にとって、痛恨の悩みであった。

ブルブルと携帯電話が震え、メール着信を知らせた。
見ると、ろくでもない迷惑メールであった。
(………)
真子はそれを削除し、携帯を仕舞った。
(あたしを知っている人からのメールなんて、届くはずない…)
孤独感が真子を蝕む。
この北の大地に独りぼっち。
新潟に帰っても、頼られる妹はいても頼るべき人はいない。
今できることは、この手紙を無事に宛先の人に届けるというだけだった。
(まずは…これを届けることだけを考えよう…)

定刻通り、電車は富良野駅に到着した。
土産物屋が立ち並ぶ駅前。
その片隅で真子はマウンテンバイクを組み立て、出発した。

携帯電話のナビゲーション機能で目的地の大まかな住所の地図が表示され、そこへ向かって走った。
富良野の商店街を抜けると、花畑とジャガイモ畑の広がる道路になった。
表示された地図に従って丘の農道を進んでいくと、ちらほらと農家やペンションなどが立ち並ぶ部落に着いた。
(どうやらこのへんみたいね)
ここからは携帯電話でも詳細な場所表示はできず、自力で辿っていくしかない。
真子は真二から預かった封筒を片手に、マウンテンバイクをひいて歩いた。

トラクターで農作業をする青年が見えたが、口がきけない現状では話し掛けないほうが無難だろうと思い、
自力で手紙の住所を探した。
(若山毛欅…わかぶな…。珍しい名字だからすぐ見つかるだろう)

ふと見ると、立派なログハウスのペンションがひとつ上の丘に建っていた。緑の木々に囲まれた、
とても清清しい雰囲気のペンションであった。
その丘に続く小道の入口に看板があった。

『ペンションわかぶな』

真子は絶句した。
(そのまんまかい!)
思わず右手で空を切る。

2016/2/20 18:44  [1498-4270]   


微妙に拍子抜けしつつ真子はマウンテンバイクを引いて小道を登った。
2階建ての立派なログハウス。
いろいろな植物が広々とした庭に植えられていて、センスの良さを感じられる。

おとぎ話の世界に舞い込んだような錯角に陥って真子が固まっていると、1人の女性に話し掛けられた。
「あら、お客さん? ご予約の方だったかしら?」
気立ての良さそうな、はきはきしたおばさんだ。腰に捲いたバンダナがとてもよく似合っている。

真子は首を振りながら彼女に近付き、封筒と携帯電話を見せた。
『ごめんなさい、いま私は口がきけません。この封筒に書かれた蘭という方に用があって来ました』
女性は携帯の画面を目を細くしながら見ると、ある程度の事情を理解してくれたようで笑顔を見せた。
「まあまあ、こんなところまではるばる大変でしたね。蘭でしたら今すぐに呼んできますので、
少し待ってて下さい」

女性はそう言うと、庭からログハウスの裏へ「らん〜、蘭〜! あんたにお客さんだよ!」と
叫びながら駆けていった。
「何おかあさん、私にお客さん? 誰?」
「さあ、誰だろね。でも、あんた宛の手紙を持っていたわよ」
ログハウスの裏からそんな会話が聞こえると、植木鉢を持った若い女性がそこからひょっこりと現れた。
真子より若干若い娘で、ジーンズのサロペットを泥だらけにしていた。麦わら帽子と三つ編みと、
そして軍手がなんだかよく似合う。

「えーと…初めまして…かな? 私が蘭ですけど」
蘭はぺこりと挨拶したが、真子にやや警戒している様子だ。
無理もない。まったくの初対面だし、それに加えて内容物不明の封筒を渡すだけの用事とあれば、
不審人物以外の何者でもない。

本来ならばいろいろ事情を話してわかってもらうのが筋だろうが、現在の真子は口がきけないという
ハンデを差し置いても、他人から観察されるのを極度に嫌っていた。
とにかく用事を済ませてさっさとここを離れよう、そう思った。
蘭に封筒を手渡し『鮎川真二という人から、あなたにこの封筒を渡してほしい、と頼まれました。
用事はそれだけです』という携帯の画面を見せると、真子はそそくさと自転車に乗った。

「ちょ…っ、ちょっと待ってください! なんか全然ワケわかんないです。とにかく家に上がって
お茶でも飲んでいって下さい!」
蘭は真子を止めようとしたが、真子は強引にでも出ていこうとペダルと漕いだ。
封筒の中身が時限爆弾と知っていて、それから一目散に逃げようとする情景に極めて酷似している。
怪しさ満点であった。

「待ってって…言っているでしょうっ!」
蘭は思わず、スコップを真子の自転車の車輪の間に挟み込んだ。
がきっ!
凄まじい衝撃で自転車のフレームに引っ掛かるスコップ。
真子はバランスを崩し、ハルニレの樹に顔面から激突した。
メガネのずれた真子の鼻から一筋の鼻血が流れる。
(…………)

「……あの……」
ログハウスの中のラウンジ。
オイルランタンや風見鶏のレプリカなどアンティークグッズが飾られた、センスの良い部屋。
その中央で蘭と、そして鼻に絆創膏を貼ったしかめっ面の真子がテーブルを囲んでいた。
「その…ごめんなさい…あたし、時々見境がなくなっちゃって…」
蘭は深々と頭を下げた。
決して悪気があって真子に怪我させたわけではない。それくらいは充分わかっていた。
むしろ、真子自身の挙動不審っぷりが招いた結果ともいえる。

『問題ない』
そう携帯の画面をしかめっ面のまま見せた。
あからさまに問題ありげで不満な態度に見える。
「あう〜っ…」
蘭はすっかり縮こまってしまった。
(あ…何やってんだあたしは…)
真子は少し後悔した。
最小限の文字で相手に想いを伝えるのは大変だが、せめて『大丈夫です』と打って笑顔で見せれば
印象が全然違っただろうに。
(声でコミュニケーションできないって…なんて不便なんだろ…ただでさえあたしは仏頂面なのに、
これじゃ自分の意志が伝えられないよ)

「まあまあ…。コーヒーでも飲んで一息ついて下さい」
奥から細口ポットを携えて蘭の母親がテーブルに座った。
「私はこのペンションわかぶなのオーナー、琴子(ことこ)です」
真子はマグカップを渡されると、ブラックのまま一口飲んだ。
(…! …美味しい…!)
思わず顔がほころぶ。
真子のふわりとした微笑は、蘭と琴子の緊張を癒した。
「お口に合ったようね。我がペンションわかぶなの特製ブレンド『ブルマンジャロ』です。
他にも『キリ−マウンテン』というブレンドもありますのよ」
冗談ともとれるそのネーミングを聞いて、真子ははじめて白い歯をみせた。

「あはは…悪い人じゃなさそうね」
蘭はほっとした様子で、封筒を取り出した。
「これ…鮎川真二さんからの手紙…なんですよね、真子さん」
真子は頷いた。
「蘭の知ってる人なのかい?」
琴子は蘭に聞いた。
「…あたしの記憶が正しければだけど、あたしが高校生の頃のお客さんだよ。今から7年くらい前に
来た人だったかな…」
「あんた、そんな前のことをよく覚えてたねえ」
「うん…とにかく開けてみるよ…」

蘭は封筒をペーパーナイフで丁寧に開封した。
その中身を、真子も凝視していた。何だかんだいっても興味津々だったのだ。
「…あれ…からっぽだわ…」
蘭は拍子抜けしたような声をあげて、封筒の口を琴子と真子に向けた。

2016/2/20 18:50  [1498-4271]   


蘭は拍子抜けしたような声をあげて、封筒の口を琴子と真子に向けた。
確かに封筒の中には紙切れ1枚入っていなかった。
真子は(どういうこと?)と思いながらその封筒を手に持ってよく観察してみた。

だが、手紙が入ってもいなければ、封筒の内側に文章が書かれていることもなかった。
真子が次に琴子に封筒を渡そうとしたとき、封筒から砂粒ほどのものがパラパラとテーブルに落ちた。
真子はそれを埃くらいにしかとらえていなかったが、蘭はその粒を指先で拾い上げてみると、
目の色が変わった。
「これ…花の種だわ。ラベンダーだ。うん、これはラベンダーの種だよ」

蘭はその種を全部拾い上げると、まじまじと掌の上に乗せて眺めた。
「蘭、なんか心当たりがあるの?」
琴子が尋ねた。
「……ううん…これだけじゃよくわかんない。それより真子さんは真二さんのお知り合いなんですか?」
唐突に蘭が切り出した。

真子は微妙に慌てながら携帯のキーを打った。
『昨日たまたま出会っただけ』
まさにその通りなのだが、そこでの出来事など語れるはずもなかった。
「ふうん。真子さんて、何してるヒトなの?」
『一昨日に会社を辞めて、今は無職』
その文章を蘭と琴子が見ると、真子に親近感が涌いたのか2人ともにっこりと笑った。
「なるほど。じゃあ、北海道へは新しい自由を満喫しに来たわけだね」
蘭がそう聞く。

別に好きで会社を辞めたわけじゃないし、来たくて北海道に来たわけでもない…とは言えず、
真子はこめかみに汗を浮かべつつもとりあえず愛想笑いをしながら頷いた。
「じゃあ、このペンションにしばらく居候してみないかい? どうせ時間はたっぷりあるんでしょう? 
たまに手伝いをしてくれれば、宿代はナシ。食事は自分でしてもらうけど、台所は好きに使っていいよ。
あとはここをベースにしてあちこち見てまわれば便利でしょ」
「あ、それいい考えだよ。あたしも賛成! ね、そうしましょう真子さん!」
なんだか2人で勝手に話を進めている。
『手伝いといっても私は何も取り柄がない。役立たたずだ』
ほとんど断るつもりでそう打った。
どこにも行くあてがないとはいえ、口のきけない状態では何をしても彼女らに迷惑をかけてしまうはず。
今はできれば誰の側にもいたくない。

「真子さん、自分のことをそんな風に言うもんじゃないよ。できない仕事を押しつけるつもりはないし、
できないからって責めもしない。居候ってのはそれくらい気楽にしてくれていいんだよ」

(…!)

琴子の言葉が真子の心に響いた。
今までそんなことを言われたことがない。
どこかに居るなら、そこで必ず何かをしなければいけない。そう思っていたのだ。
何もできなくてもいいから、ここにいていい。

身の上を深く詮索もせず、快く居場所を作ってくれる人達が、ここにいる。
なんというお人好しなのだろうか。
もしかすると、遠慮する方が失礼にあたるのかもしれない。
真子はもう深く考えるのをやめた。あまりに自分がバカみたいだ。
『じゃあ、お世話になります』
その文字を読むと、蘭と琴子は小躍りして喜んだ。

蘭にログハウスの屋根裏部屋に案内された。
2階にある普通の部屋はお金を払って泊まってくれる客のための部屋であるため、居候はその上の
屋根裏部屋となるのだ。

ベッドと机と椅子のほかは何もない質素な部屋。低い天井に換気用の天窓がひとつあり、
机の上から屋根の上に登れそうだった。
「ちょっと狭いけど自由に使ってください。となりに同じ間取りのあたしの部屋があるから、
何かあったらいつでも呼んでくださいね。夕方にはお父さんも帰ってくるから」
蘭はそう言うと、軽く会釈をして部屋を出ていった。
(屋根裏部屋か…。なんか秘密基地みたいで面白いね…)

真子はデイバッグをベッドに放り投げ、机の上に上がって天窓を開けた。
案の定ここから屋根の上に出ることができる。
さっそく木の屋根の上に出てみた。
ペンションを囲む林の向こうに広がる色とりどりの田園風景が一望できる。
はるか遠くには、西日を浴びた十勝岳が雄大にそびえていた。
(すごい…大地って、こんなに広いんだ…!)

躍動する大地が、体感できる。
素直に感動できる風景が、真子の部屋の直上にあった。
真子はこの屋根の上が一番のお気に入りになった。

2016/2/20 18:54  [1498-4272]   


夕方、真子は夕食の買い物に出かけようとすると琴子に引き止められた。
今日は宿泊客がいないから、家族で真子の歓迎パーティをしたい、というのだ。
自分のためにパーティを開いてもらうことなど、あまりに不馴れなことで恐縮したが、
無碍に断るのはかえって失礼になると思い、素直に甘えることにした。
本当にお人好しな人たちだ。

少しすると、父の直哉(なおや)がペンションの所有車ランド・クルーザーに乗って帰ってきた。
ナイスミドルという言葉がよく似合う、人当たりのよさそうな男だった。
今日は上富良野地区のペンションの会合に参加していて、今までかかっていたのだそうだ。

蘭と琴子が直哉に真子のことを話し、真子は彼の前で深々とおじぎした。
「ほう、新しい居候くんだね。もちろん歓迎するよ。仲良くしていこう」
と笑顔で肩をぽんと叩かれた。
なんとも心地よい男だ。彼がここにがいるだけで、こんなにこのペンションが安定してみえるのは、
決して目の錯角ではないのだろう。

ペンションの庭でジンギスカンを焼いた。
北海道当地のビールやワインを飲みながら、ラム肉を野菜とともに豪快に鉄板で焼き、次々と頬張る。
小食の真子も、次から次へと箸が伸びる。なにしろ新潟から出発してからここまで、ほとんど何も
食べていなかったのだ。
「あんまり急いで食べなくても、ごちそうは逃げないよ」
蘭が隣でワイングラスを傾けながら嬉しそうに真子を見ている。
『タダ飯ほどうまいものはない』
食べながらそう打って見せると、ぷーっと蘭が笑い、続けて琴子と直哉がゲラゲラと笑った。

(そんなに笑える冗談だったかしら)
3人が笑っている中、真子だけがきょとんとしていた。
「いやいや、笑ったりして悪かった。たいていの居候くんはこういう歓迎パーティの場では、
遠慮とかしてあまり食べてくれなかったりするんだが、きみはそういうものが全くないからさ。
もちろんこれは褒め言葉だよ」
直哉にそう言われると、真子は少し考えた。

自分にも遠慮というものはある。
むしろいつも遠慮ばかりしている。
しかし、その枷を外せるときがある。
気の許せる人達に囲まれているときだ。
(ああ…そうか。この人たちは、私にとって気が許せるんだ…!)
真子はそう気付くと、にっこりと微笑んで携帯を打った。

『ここに来てよかった』

琴子は笑顔で言った。
「真子さん。ペンションわかぶなへ、ようこそ」

2016/2/20 18:57  [1498-4273]   

歓迎パーティが終わり、風呂から上がって部屋で髪を乾かしていると、ドアをノックする音が聞こえた。
「真子さん…入っていいですか?」
蘭の声だ。
真子は携帯のボタンを押した。
『いいよ…来て…お兄ちゃん』
そんな女の子の音声が携帯から発せられた。
蘭は「え…?」と驚きながら部屋のドアを開けて入ってきた。
「真子さん、声が出るようになったんですか! ていうかあたしはお兄ちゃんじゃないですよう」
真子は携帯を見せて、もう一度同じ音声を聞かせてみせた。
こういうこともあろうかと、めぼしい音声をダウンロードし携帯電話に登録しておいたのだ。
ただしどんなサイトでダウンロードしたのかは秘密だが。

「なんだ…携帯の音声だったんですね。びっくりしました」
『私に用事?』
「あ、うん。ちょっと話をしたいと思って。眠たかったら明日にするけど」
『私はOKだ』
「よかった」
蘭は真子と並んでベッドに腰掛けた。
「お父さんもお母さんも、真子さんのこと気に入ってくれたみたいです。もちろんあたしもね」
蘭はそう言うと話を続けた。
「お父さんって、私が中学生の頃に脱サラしてこのペンションを始める決断をしたんです。
そりゃもう大英断だったんですよ。私だって高校受験を控えてたわけだし。もちろんこのペンションが
軌道に乗るまでは家族みんなで苦労しました。でも、今こうして楽しい時期を過ごせてるから、
あの決断は大成功だったと言えます」
そう言うと、蘭はにっこりと微笑んだ。
「だから、会社を辞めて自分の道を歩み始めようとしている真子さんを応援したいと家族みんなで
思っているんです。これを迷惑だと思わないで下さい」
真子は素直に頷いた。

ほとんど勢いで会社を辞めてしまったわけだが、蘭の話を聞くとそれが正道だと思えてきてしまう。
「んで、本題なんですけど」
蘭はそう切り出すと、白い封筒を取り出した。
鮎川真二からの、あの封筒だ。
「この中に入っていたラベンダーの種ですけど、お母さんの前では知らんぷりしてたのですが…
これは私の両親にも内緒の…彼との…真二さんとの約束のものなのです…」
ラベンダーの種が、真二と蘭との約束のもの。
その意味が真子にはまったくわからなかった。
「ここで暮らすようになって2年目の夏、たまたま真二さんがここへ泊まりにいらしたんです。
風に飛ばされた洗濯物を真二さんが木に登って取ってくれたことがきっかけで、私達は勢いよく恋に
落ちました。とても短い期間でしたが、私達は真剣に将来を誓いあったんです。必ずいつか
結婚しようって。彼は3日目の朝ここを発って内地(本州)へ帰っていきましたが、別れ際に私は
彼にラベンダーの苗を植えた鉢を差し上げました。すると彼はこう言ってくれたんです。
『これをきみだと思って大切にする。必ず花を咲かせて、次に会うときにはその種を持ってくる』と。
私はその言葉を信じて、今まで独身を通してきたんです」
蘭は顔を真っ赤にして俯きながら話していた。

(あ、そ…)
真子にとって、蘭の話はノロケ話以外のなにものでもなかった。
失恋したばかりの真子には、とても聞いていられない話題だ。
「ねえ真子さん…どうしてあの人は今北海道に来ているのに、ここに来てくれないのでしょうか?」
『知らない』
真子は投げやりにそう打った。
というより、そう答えるしかない。
あの岬で交わした真二との会話の中で、蘭のことを臭わせる話はなにもなかったのだから。
「そう…ですか…」
蘭は肩を落として落胆した。
ラベンダーの種だけで、真二の真意など伝えられるはずはない。
この種は真二本人が直接ここに持ってきてこそ意味が生まれる。
それを他人である真子に託したことの意味を、蘭には理解できなかった。
無論、それを持ってきた真子にも、だ。

『離ればなれになってたときに連絡はとらなかったの?』
「うん…最初の2年くらいは電話とか手紙は頻繁にやりとりしてたのですが、それ以降ぷっつりと…。
電話は繋がっていないアナウンスが、手紙は宛先不明で戻ってきちゃうんです。引越したのかなって
最初は思っていたのですが、それなら連絡先を教えてもらえるはずですよね…」
そこまで言って、蘭は無口になった。
真子は蘭に聞くまでもなく、なんとなくわかってしまった。

きっと、振られたのだと。
連絡が不通になった時点から、蘭自身もたぶんわかっていたのだ。
蘭はそれをわかっていながら、それでもずっと待ち続けていたのか。
たぶん、二度と会えない人を。
その『たぶん』を否定的にみたわずかな可能性を、ひたすら信じて。
(それにしても、ずいぶん中途半端なフリかたをするのね、真二さんは…)
そう思ったところで、真子は奇妙な違和感を覚えた。
(ならば…封筒に込められたラベンダーの種の意味が、まったくわからないわ…)
真子はおもむろに携帯に電源アダプタをつないだ。
『とりあえず全部話す。文章が長くなるから』
真子は意を決し、昨日の出来事を全てを語ることにした。
「え…真子さん…?」
振られた者同士の連帯感なのかもしれない。
自分にない、一途な蘭に心を打たれたのかもしれない。
とにかく、あの岬での出来事を蘭に教えようと思った。

『私は自殺するために北海道へ来た』
まず最初にそう打った。
真二と出会ったときの状況を語るには、このことを話さざるを得ないのだ。
蘭は言葉を失って口元を手で抑えた。
当然の反応か。
これで蘭との距離が離れてしまっても仕方ない。
前向きに生きる者と、そうでない者。相反する同士が馴れ合ってもいいことなどないだろう。
真子は手が少し震えていたが、構わず携帯を打ち続けた。

会社の男に振られたことが原因で自殺を決意、妹2人を残して北海道へやってきたこと。
余市の西にある岬の先端で真二と会い、自殺を思いとどまらせてくれたこと。
命と引き換えに声を失ったこと。
そして、手紙を真子に託して旅立っていったこと。
蘭は真剣そのものの表情で携帯の画面を凝視していた。
1文字も見逃さないように…。

2016/2/20 19:02  [1498-4274]   


翌朝。
蘭はとりあえず元気になり、自分の仕事である花壇の手入れに赴いていった。
真子は、これといってすることもなく、屋根の上に登って遠くの景色を眺めていた。
『真子さん、あなたが生きてここへ来てくれただけでも、よかったと思います』
昨晩、蘭が自分の部屋へ戻る際に言い残した言葉が、脳裏にリフレインする。
(あたしなんかよりも…真二さんのことを考えるのが筋なんだろうに…)

真子は大きなあくびをひとつした。
昨晩、一睡もしていない。
新潟からここまで、相当な疲れがたまっているはずで、ベッドに入ればぐっすりと熟睡できるだろう
と思っていた。
しかし、目をつむっていざ眠りに入ろうとすると『ウザいんだよ!』『ブスは嫌いなんだ!』と
罵詈雑言を浴びせる瀬野高明の姿が、まるで目の前の出来事のように脳裏に映し出されてしまい、
目を覚ましてしまう。その繰り返しだった。
(あの恋は終わったんだ…。もう…思い出したくもないのに…)
真子はうんざりしながら、朝から16回目のため息をもらした。

昼をすこし過ぎた頃だった。
隣の天窓から蘭がひょっこりと顔を出した。
蘭の部屋から屋根に出てきたのだ。
蘭はきょろきょろと周りを見回し、真子を姿をみつけると側に寄ってきた。
「ここにいたんですね、真子さん」
『なんか仕事?』
「いいえ。今の時期はまだヒマですから。のんびり自由にしてていいんですよ。私も休憩です。
サンドイッチ作ったんですけど、よろしかったら真子さんも食べませんか?」
そう言うと蘭はサンドイッチが並んだお皿を2人の間に置いた。

『ありがと』
真子はそう打つと、そのひとつを掴んで片手で食べはじめた。
2枚の食パンに野菜、ハム、チーズなどを挟んで、耳を切らないまま半分にぶった切っただけの
サンドイッチだった。
「私…あれからいろいろ考えたんですけど…」
蘭は食べながら話をはじめた。
「今どうにもできない事を考えるのは私の性に合いません。だから真二さんのことをあれこれ考えるのは、
とりあえずやめます。今はあなたの声を回復させることが大切だと、そう思ってます」
『声はそのうち治ると思うから大丈夫』

それを読むと、蘭はあきれ顔をした。
「どうしてそんな楽観的なんですか。一刻もはやくお医者さんに診てもらったほうがいいですよ」
真子は少し考えて、こう打った。
『たぶん一時的なショック状態のようなものだ』
蘭は渋顔になった。

真子は、口がきけないことをどうにも他人事のようにしか思っていないようだ。
真摯に受け止めているようにはとても見えない。
どこか、夢の中に居続けるような印象を受ける。
現実から逃げるように、いつか正常な身体の状態で目覚めるのを信じているように。
それくらい真子にとって、この現実は悪夢そのものであるというのだろうか。
たぶん、こういう症状は焦って無理に治そうとしても仕方がないのかもしれない。

少しの間、2人は無言でサンドイッチを食べた。
「…それにしても、世の中のサンドイッチって、どうして耳が切ってあるんでしょうね…」
もぐもぐと食べながら、蘭が話題を変えるようにそう呟いた。
『唐突ね。見た目が良くて食べやすいからだ』
「そうでしょうね。でも、パンって耳がいちばん栄養がある部分なんです。勿体無いですよね、
わざわざ栄養のあるとこだけを切り捨てるなんて…」
蘭はそう言ったあと「男も一緒よ…」と嘆いた。
「真子さんを振った男の人は、きっとパンの耳の大切さをわかっていない人なんですよ」
真子は『パンの耳』扱いされて微妙に複雑な気分になったが、懸命に慰めてくれているのだということは
充分理解していた。
『そうだね。きっと真二さんも』
2人は顔を見合わせると、クスクスと笑いあった。

2016/2/20 19:06  [1498-4275]   


1週間が過ぎた。
少しずつペンションでの生活も慣れてきていた。
昼と夕方だけ、国道のコンビニまでおにぎりとお茶を買いにいく程度の外出。
ペンションの宿泊客に接しようともしない。

相変わらず声は出ず、不眠症は治らず、いつも屋根の上で何することもなく過ごしていた。
声が出ないのは百歩譲れるが、眠れないのだけはどうにも我慢ができなかった。
真子は、ペンションに宅配に来る酒屋に頼んで自分用のビールを自腹で1ケース注文した。
夜、寝る前にそのビールを浴びるほど飲もうとするが、胃が収縮しているせいかロクに飲むことができず、
失敗に終わった。

仕方なく街の薬局で睡眠効果のある風邪薬を買ってきて、ようやく3時間程度の睡眠は
とれるようにはなった。
しかし、日に日にやつれてゆく真子に、蘭をはじめ琴子と直哉もかなり心配をしていたが、
真子の希望もあって深く立ち入ることはなかった。

2週間が過ぎると、真子はついに倒れてしまった。
屋根の上に登ろうとして、立ちくらみをしたかと思ったら、次に目覚めたときには病院の
ベッドの上であった。

どうやらまる1日意識を失っていたらしい。
介護用の椅子に座っていた蘭が、涙を浮かべながら真子を見ていた。
点滴をされた左手をかばいながら、ゆっくりと上半身を起こし、メガネをかけた。

富良野の大きな病院の1室。
市街地らしく、窓の外は建物だらけ。あまり良い景色とはいえない。
「気分はどうですか、真子さん…」

(………)
真子は口を動かしたが、やはりまだ声は出ない。
携帯電話を探そうとしたが、病院内での携帯の使用は禁止されていることを思い出した。
テーブルの上に紙とペンがあったので、そこに書いた。
『ここにきて初めてぐっすり寝れた』

蘭はため息をひとつつくと、真剣な表情で真子に言った。
「真子さん…。あなたは自覚ないかもしれませんが、そうとう自分を追い込んでいるように見えます。
会社を辞めて人生をリセットしたばかりなのですから、先行き不安なのは私にもよくわかっている
つもりです。悩みとかあったら、遠慮なく話してほしいです」
蘭は「こうなる前に…」と付け加えた。
『ごめんなさい。みんなにとても迷惑をかけてしまった』
「ううん、迷惑なんかじゃないの。ただ、私達はあなたの力になりたい。味方なんだってことを
わかってほしいんです…本当に迷惑じゃないんです…」
蘭はそう言うと、それ以上どう説明していいかわからなくなって、俯いてしまった。

(………!)
蘭は真剣そのものだ。
その想いをいなすことはできない。
もう、打ち明けるしかない。
嫌われてもいい。
どんなに嘲笑われてもいい。
彼女にだけは、自分の全てを話そうと思った。
自分の持つパンドラの箱を、蘭にだけは開いてもいいと思った。
真子は頭の中を真っ白にして、そこから思いつく限りを紙にガリガリと殴り書いた。


『私は、人と面と向かうことを極度に嫌う対人恐怖症
顔のニキビを見られるのが、いちばん嫌
でも一番嫌いなのは自分
だからこの顔が原因でフラれたとき、死ぬ覚悟を決めた
死んだほうが楽だって今でも思う
フラれたときの彼の言葉が頭を離れない
新潟に残してきた妹たちのことが心配
頼れる人もいない
生きる意味と価値が見出せない
彼の言葉、あの崖からの景色、これからの不安
すべて頭の中ぐちゃぐちゃになって夜眠れない
眠りたいのに眠れない
蘭や蘭の両親には感謝している
これだけは本当
でも、頼ろうと思えなかった
これ以上誰かに嫌われてしまうのが恐かったから』


真子はぶるぶると震えながら最後に『気が狂いそう』と書いて、そしてこらえきれずに
涙をぼろぼろとこぼした。

切ない。
叫びたいのに、わめきちらしたいのに、声が出ない。
「真子さん…っ」
蘭は真子に抱きついた。
「あたしが…支えになります…なりますから…だから…泣かないで…」
蘭の頬にも涙がほろほろと流れていた。

(私なんかのために…泣いてくれるのか…)
それだけで、真子は胸がいっぱいになった。
(この切なさは…今生きている、現実なんだ…夢なんかじゃないんだ…)
真子は懸命に現実に目を向けた。
(元気に…なろう。元気になって、笑って、まずはこの娘を安心させよう…!)

声を出したい。
大声を張り上げて叫びたい。
なぜこんな時ですら声が出ないのだろう。
涙は無限に出続けるのに。
(これは命を粗末にしようとした……私への罰なんだ……)

2016/2/21 06:22  [1498-4279]   


医師からは入院を強く薦められたが、真子は断固として拒否し、その日のうちに退院となった。
病院の薬局で、栄養剤や睡眠薬、精神安定剤などをどっさり渡された。
真子は帰り道の途中で、その薬を迷わず全部ゴミ箱に捨てた。
「な、なんてことするんです!」
蘭が慌てて薬を拾おうとするが、真子はそれを止めた。
『私は病気じゃない』
「でも、でもせめて睡眠薬だけでも」
『薬には頼らない。必ず解決する。もう倒れたりしない』
そう打って見せ、もう一行追加した。
『もう負けない』
「……」
真子の決死の覚悟を理解したのか、蘭は捨てられた薬を諦めた。
「はあ…。わかりました。じゃあ、及ばずながら私も協力します!」
そう言うと、蘭は少し考えてこう言った。
「美肌効果のある温泉を知ってるの。今晩にでも一緒に行ってみましょうよ」
真子は『ありがたい』と打って、笑顔を見せた。


ペンションに戻り、お詫びを兼ねて直哉と琴子に『仕事がしたい』と申し出ると、2人は快く承諾し、
翌日より真子は「居候」から「バイト」となった。

朝と夕方は琴子に付き添って食事の手伝い。
昼間は蘭に付き添って園芸を手伝ったり、客室やトイレ、風呂の掃除など。
お客の相手以外の仕事は、何でも引き受けてやった。
何も仕事がないときは、いつものお気に入りの場所である屋根の上で、景色や風を楽しんだ。

宿泊客の少ない夜は、蘭と一緒に十勝岳温泉や吹上温泉、白金温泉を巡って露天風呂を楽しんだ。
混浴ではあるが、この季節の夜は他に入浴客などほとんどいなかった。
相変わらず声は出ず、夜はほとんど眠れなかったが、真子の気力はなぜか充実していた。

やがてラベンダーの満開の時期を迎えると、蘭と一緒に美瑛のラベンダー畑を毎日のように通って、
その美しい景観を心ゆくまで楽しんだ。

毎日が感動で一杯だった。

2016/2/21 06:27  [1498-4280]   


ある雨の日のこと。
客も全員出払って、静まり返ったロビー。
その奥のオーナールーム。
3人の家族は全員揃って真子の操るパソコンのモニタに釘付けになっていた。

「すごい綺麗です、真子さん!」
「見事なものだな」
「木目調で統一されてて、ログハウスをイメージさせるセンスがいいわ。これならお客さんが
たくさん来てくれそうね」
3人とも口々に真子を誉めたたえた。
そのモニタには真子が手掛けた、このペンションのホームページがどんどん作られている。
その構成やデザインの良さに、3人が圧倒されていたのだった。

もともとこのペンションにはホームページが存在していたのだが、業者に依託して作ってもらったもので、
きわめて事務的なページでしかなかった。
そうなると当然のことながら、インターネットのそのホームページを見て予約をしたという客は稀で、
直哉自身ホームページを持つ必要性もないように思えていた。

夏を前に、せめて格好のよいホームページにリニューアルしようと、直哉が朝からパソコンと
格闘していたところに、真子が暇つぶしにその部屋に訪れて『ためしに私にやらせて』と椅子を
譲ってもらった。それが発端であった。

真子の手にかかると、ページ全体からログハウスのペンションの雰囲気が伝わるような暖かい茶系の
配色で統一し、コンテンツのボタンひとつにしても凝った演出をしており、ページのいたる部分で
見る者を楽しませる仕掛けを、涼しげな表情で次々と作り上げていった。

極めつけは、ペンションと富良野の自然を撮影したデジタルカメラの画像が音楽に合わせ次々と
切り替わるムービーだ。これを見たら、誰もがこのペンションに遊びに来たくなりそうなくらい
見事なものであった。
もはや、更新前の質素なホームページなど足下にも及ばない出来だ。

『これでひとまず出来上がり。どうかな?』
どうもこうもない。
だれがどう見ても、芸術の域に達した作品であった。
3人は惜しみない拍手を真子に送った。
「すっごーい真子さん! こんな特技があったんですね!」
真子はパソコンのモニタに文字を打った。
『前の仕事がWEBデザイン関係の仕事だったの。こんな形で役にたつとは思っていなかった』

真子は会社の仕事はあまり好きではなかった。
デザインそのものは好きであったが、納期があることから1件の仕事に当てられる時間が限られ、
事務的に片付けていくほかに仕様がない。
顧客からの要望は無茶なことだらけな上に残業代も出ない。

ならば、顧客の要望を最低限叶えたものを作ったら、さっさと帰るに限る。それ以上も、それ以下もない。
会社の営業方針がそういうことなのだ。
実際、それでも夜中まで仕事が終わらないこともある。むしろそういう日の割合が多い。
その中で、自分の納得のいく「作品」など作れる機会などない。
こうして個人のセンスや才能は駆逐されていく。

(納得のいく作品…納得のいく仕事…私にしかできない仕事…)
自分には何もないと思っていた。
自分には何も残されていないと思っていた。
全ては、そう思い込むことで自分を追い詰めて、がんじがらめにしていた。
世の中の全てを嫌うことが、自分の持つ可能性を全て否定してしまっていたのだ。

だが、それを打ち消す「生への欲望」が、誰かが喜んでくれる自分の技術を、まずひとつ
見つけることができた。
(会社での仕事って無駄なものじゃなかったんだ…)
真子が思いふけている横で、3人はリニューアルされたホームページを見ながらきゃいきゃいと
はしゃいでいた。
「北海道内のペンションを紹介するサイトに、片っ端からリンクしてもらおう。みんなから
注目されること間違いないぞ」
「きっとお客さんがたくさん来るわ。去年の夏より売上倍増間違いないわよ」
「わあっ! すてきー!」
真子はそれを見ると、苦笑いした。
(まさか…そんな簡単に客があふれることはないと思うけど…)

しかし真子の予感は、良い意味で外れた。
2〜3日もすると、連日のようにEメールでの宿泊予約がペンションのパソコンに届くようになった。

訪れた宿泊客の話題にもここのホームページが持ち上げられるようになり、口コミでその評判は
広がっていき、ホームページのアクセス数もどんどん上昇していった。
真子は、予約のメールを直哉の携帯電話でも受信できるように設定したり、ホームページ訪問者の
ログ情報を統計グラフに自動生成するアプリケーションを作るなど、便利な機能をせっせと
追加していった。

初夏から大入りの到来の予感に、真子も3人も舞い上がっていた。

2016/2/21 06:33  [1498-4281]   


7月も終わろうというある日、セミの音がけたたましい午後のひととき。
事件は起こった。

真子は昼間の仕事が一段落ついて、いつもの屋根の上の木陰でのんびりしていたときのこと。
玄関の外から何やら大声が聞こえた。
「ですから、先程も申したようにクルマはお貸しできません」
「なんだよ。いいじゃん、細かいこと言いっこなしにしよれー」
「オレたち十勝岳温泉に行ってくるだけだからさー。すぐ帰ってくるって」
「申し訳ありませんが、このクルマは他のお客様の送迎にも使いますので、勝手をされると困るんです!」

玄関先で、早くに到着していた若い男2人の客と蘭と琴子が、ペンションの所有車であるランクルを
囲んで何やら口論しているようだ。
「関係ないね。いいから早くクルマのキーをよこせってんだよ!」
髪の毛を金色に染めた男が琴子を突き飛ばした。
琴子はよろけ、尻餅をついた。
「お母さんっ!」
駆け寄ろうとする蘭の手を、ハリネズミのように毛を逆立てた男が捕まえる。
「おっと、あんたは助手席でナビしてくれよ。なんなら一緒に温泉入るかー? うはは〜♪」
「いや…っ…離してください!」
蘭が声を張り上げる。

(蘭…助けなきゃ!)
真子は立ち上がって1階へ急いだ。
直哉は運悪いことに留守。他のペンションのオーナーとの会合へ出掛けているのだ。
いまここで蘭と琴子を守れるのは、真子しかいない。
他人と顔を合わすのが嫌だとか、そんなことは言ってられない。
せっかく全てがうまくいきかけているというのに、あんな最低な連中に琴子を、蘭を
傷つけさせるわけにいかない。
(どうして世の中には、あーゆーバカがゴロゴロしてるの…! 畜生!)

真子は玄関を開け放つと、まず蘭の腕を掴むハリネズミ男に向かった。
「な、なんだてめえ!」
男の手首を曲らない方向にひねると、
「いでででッッ!」
蘭は開放された。
「真子さん…っ!」
蘭に、後ろに下がるようジェスチャーする。
蘭は頷くと、怯える琴子を連れて玄関の側まで退避した。

「何してくれんだ、この女…!」
「痛い目にあいてえんか…あぁ?」
男が恐い顔で真子を睨みつける。
もはや話し合いで解決できる雰囲気ではない。
後戻りはできない。
なんとかするしかない。
(ていうか…失敗。せめて武器になるものでも持ってくればよかった)

「なんとか言えよ」
なんとかも言えない。
「ビビって口がきけねえのか?」
そんなにビビってはいないが、口はきけない。
(明らかに分が悪いけど、引くわけにはいかない。どんなことをしても守る!)
「ナメてんじゃねえぞ!」
ハリネズミ男が殴りかかってきた。
真子はこれを素早くかわし、男の腹とアゴにカウンター気味の連続蹴りを当てた。
「うご…っ!」
のけぞるハリネズミ男。
そこからサマーソルトキックの連続技を決めようとする、その瞬間。

「何してくれんだ、この女っ!」
真子の死角から金髪男が飛びかかり、真子は地面に倒れた。
そのまま金髪男は真子の上に馬乗りになる。
マウント・ポジションである。
やはり2人相手では分が悪すぎた。
真子は必死に逃れようともがいたが、どうにもならない。
(こんな、生きる価値もないような最低のカスに…負けたくなんてない…負けたくないのに!)

金髪男は遠慮のかけらもなく、真子の顔を殴った。
メガネが吹き飛び、目の前に派手な火花が散る。
口の端が切れ、つうと血が垂れる。
もう一発食らったら、失神するだろう。
そう思う間に、男はすでに振りかぶっていた。
(ダメだ…ごめん蘭…)
真子は歯をくいしばり、目を閉じた。

どか!

瞬間、凄まじい打撃音。
だが、真子へのものではない。
「ぐわっ!」
真子の上に乗っていた金髪男が、何か強い衝撃で吹き飛ばされた。
(な…何?)
仰向けのままゆっくりと目を見開いた。
「大丈夫かい。よくがんばったな、あとはあたしに任せな」
バンダナを頭に捲いた、やや大柄な女性が後ろ向きで真子にそう言った。
見知らぬ女性だ。

「あんたら、女相手に暴力とは穏やかじゃないねえ」
バンダナ女はそう言うと、人指し指をクイと曲げて男を挑発した。
「てめえ…不意打ちだって穏やかじゃねえだろが〜っ!」
金髪男は立ち上がると、バンダナ女に向かっていった。
バンダナ女はおもむろに男を背にすると、勢いよく飛び、足を振り回した。
とても女とは思えない、豪快な後ろ回し蹴りだ。

げしっ!

金髪男の顔面にモロにヒットした。
「がっ!」
男は顔を抑えると、愕然とした。
前歯がぽとりと落ちたのだ。
「歯…歯が…はがが〜!」
別に顎が外れたわけではないが、歯が取れたショックでろれつが回っていないようだ。
「あ、あぶないっ!」
と蘭の声。
「!」
間髪入れず、後方よりハリネズミ男が肘を突き出してきた。
バンダナ女は避けようと身をひるがえしたが、遅い。
胸に鈍い衝撃が走る。

べこっ

何だか妙な音がした。
「お…?」
妙な感触に困惑するハリネズミ男。
よく見るとバンダナ女の左胸が、へこんで戻らなくなっていた。
「お…?」

バンダナ女はゆっくりと顔を上げた。
「…。あたしを……怒らせたね……!」
その形相を見たハリネズミ男は、まるでメデューサを見たかのように、固まってしまった。
「ひ…ひぃっっっ…!」
バンダナ女は拳を鳴らしながら、男に向かってゆっくりと歩いた。
「宿代を置いて、失せな…!」

2016/2/23 22:44  [1498-4284]   


「大丈夫かい?」
2人の男が退散していった後。
バンダナ女は、仰向けに倒れたままの真子に手を差し伸べた。
(う…痛…)
右頬に鈍い痛みが走る。たぶんアザになって腫れていることだろう。
(こんなあたし…格好わるい…)

側に落ちていたメガネをかける。幸いレンズは割れていなかった。
フレームは歪んでいたが、とりあえず素手で直してかけた。
「真子さん…痛かったでしょう…大丈夫ですか」
真子は立ち上がると、蘭の持ってきてくれた濡れタオルで頬をおさえた。

「ちなみに…」
バンダナ女は3人を見渡して、こう言った。
「パッと見の判断であんたらを助けたけど、さっきの男どもの方が悪者だったんだよな?」
3人は呆れつつ同時に深く頷いた。
知らずに助けてくれたのか。

「そっか。そらよかった。あたしは梨花。トレジャーハンター・リカだ。予約はしてないんだけど、
一晩ここで泊めてもらえるかな? この時期、どの宿も満杯で断られてきたんだヨ」
「部屋ならたった今空いたから、大歓迎ですよ。宿代もたった今、2人分も戴きましたし♪」
琴子がそう言ってウインクした。
「そう。助かった。じゃ、遠慮なく上がらせてもらうよ」
梨花は自分のRV車から荷物を取り出した。
(助かったのは…あたしらだっての…)
真子は言い様のない悔しさにまみれた。

ラウンジのテーブル。
琴子の入れたキリ−マウンテンで一同が落ち着くと、琴子と蘭は改めて梨花にお礼を言った。
「まあ、いいっていいって。でもあんた?」
梨花は真子に目を向けた。
蘭に頬の怪我を手当てしてもらって大きな絆創膏が貼ってある真子。
「女だてらに、男2人に向かっていくなんていい度胸してるよ。ストリートファイトでもしていたのかい?」
(守れなかったのだから、あたしのした事なんて意味がない。結果がすべてなんだ)
真子は不満顔で首を横に振ると『痴漢撃退用の護身術』と打ってみせた。
とはいえ、今まで痴漢に遭ったことは一度たりとてないが。
サマーソルトが護身術なの、と蘭は突っ込みを入れたかったたがここは黙っておいた。

「そういえば梨花さん、胸…大丈夫なの?」
琴子が梨花の胸元を見つめる。
左胸がへこんだままであった。
「ああ…これね」
梨花はTシャツの内側から手を突っ込むと、何かがポロリと落ちた。
蘭がそれを拾うと、潰れたパットだった。
「あたしはなんと、男なのでしたぁ」
世界のホームラン王、王貞治の現役時代の快音がラウンジに響きわたり、3人はソーサーを
持ったまま凍りついた。

その夜。
屋根裏部屋のベッドで、眠らないまでも横になっていると、ドアの外からノックの音がした。
蘭か。
(今は独りにさせておいてほしい…)
真子は無視を決め込み、寝ていることにした。
今は少し虫の居所が悪い。不機嫌なのだ。
(ごめん…)
しかし、真子の許可もなしにドアは開けられた。
「邪魔するよ」
(なっっ!)
真子はがばっと起き上がり、デリカシーのない来訪者を睨んだ。
梨花であった。

「やあ真子。少し蘭から聞いたよ。声が話せないらしいから、返事ができないと思って勝手に開けた」
(思っただけで勝手に開けないでっ! 出てってよ!)
真子は顔を真っ赤にして怒った。
「いやはや、いきなり不機嫌指数が阻止限界点突破してるね。昼間の…あの男どもに負けたのが
悔しかったのかい」
いきなり核心をつく。

「負けても仕方なかった、とは思わないのかい? あたしにしたら、分のない戦いとわかっても、
ここと彼女らを身を呈して守ろうとしたあんたは偉いと思ったけど」
(勝たなければ意味がなかったことでしょうが!)
梨花の顔を目がけて枕を投げつけた。
梨花はそれを自然体で受け止める。

「何でも自分の所為にしたり、全てを背負い込もうとするのは止したほうがいいよ。無理が生じるから」
(うるさい! オカマに悟られるほどあたしは落ちぶれちゃいない!)
手近なものをぶん投げようとする真子の両手を、蘭はがっしりと掴んだ。
「女は子供を産み、育むことが戦いだ。あたしはそう思っている。残念なことにあたしは子供を
産むことはできない。姿は女でも…ね。あなたにこの意味わかる?」
梨花はそう言って真子の瞳を見つめた。

ぶちん!

真子の頭の中の何かが切れた。
一番のコンプレックスである顔を至近距離で凝視されたのだ。
(あたしの顔を…見るな!)
梨花の手を振りほどくと、次々と正拳をくり出す。
しかし梨花はそれを次々と避ける。拳は空を切るだけだ。
(あたしが女だから、あいつらに負けても仕方ないっていうの!)

狭い屋根裏部屋で真子はハチャメチャに暴れようとした。
(そんなのは違う! あたしは…蘭に、あたし自身に誓ったんだ…もう負けないって! 
負けちゃいけなかったんだ!)
「ああもう…話にならないね…!」

梨花は真子を慰め諭すことを諦め、真子と距離をとった。
(ああ。あんたに私の気持ちなんか、理解されたいとも思わないね!)
真子は今にも梨花に飛びかかろうとしたが、梨花は極めて冷静だった。
「表に出よう…誰にも迷惑がかからない場所へ行こうか」

2016/2/23 22:50  [1498-4285]   


日付が変わって、いくらかの時間が過ぎた真夜中。
暗がりの中から、梨花が気絶した真子をおぶさってペンションへ戻ってきた。
「ま…真子さんっ!」
玄関先で待っていた蘭が駆け寄る。
「心配いらないよ、自分で気を失ったんだ。身体を思いっきり動かして、内にこもっていたストレスを
発散させてすっきりしたんだろ」
蘭はほっとして胸をなでおろした。
とりあえず正常に眠っているといえよう。

梨花は屋根裏のベッドに真子を寝かせ、ラウンジに下りた。
他の客は既に就寝しており、ラウンジには蘭と琴子のほかは誰もいない。
梨花は椅子に腰掛けると、差し出された冷たい烏龍茶を喉を鳴らし飲み、一息ついた。
「あのコは…ひどく不器用な娘だねえ。自分の事がまるでわかっていない。放っておくと
どんな無茶をしでかすかわからない」
「ええ…。ですから心配で…」
蘭は悲しそうに目を伏せた。
「でも、自分がこうと決めたら、その先に何があるのかもわからずにとことん踏み込んでいける…
そんな思いきりのよさと純粋さがある。嫌いじゃないね」
「………」
自分のためにではなく、何かのために。もしくは誰かのために走り出すタイプの娘だ。
今回はこのような結果となってしまったが、もしも真子のその性格がポジティブな方向で
開眼したとしたら、彼女にはものすごい可能性が生まれるのではないか。
蘭はそう思った。

「さて。あたしも寝るとするかな」
梨花はそう言うと、残りの烏龍茶を飲み干し、立ち上がった。
「おっと…忘れてた」
梨花は2人に振り向くと、ニヒルな笑みを浮かべた。
「どこかにさ…なんかお宝が眠ってるとかいう話…。なんか知ってたら教えてくんない?」
蘭と琴子は目を合わせてパチクリとした。

翌朝、梨花は朝食を食べるとすぐに荷物を持って外に出た。
一枚の紙切れを眺め、何やらニヤニヤしている。
「霧多布…カムイの財宝が眠る無人島か…。悪くない悪くない。うひひ」
そのとき、梨花の側に小石がぽとりと落ちた。
「?」
見上げると、ログハウスのペンションの屋根の上に真子がこちらを見ている。

真子はもうひとつ投げると、梨花はそれを素手で受け取った。
その石には紙がくるまれており、梨花はそれを開いて見た。
『八つ当たりしてごめん。でもおかげで少し気が晴れた気がします。ありがとう。道中気をつけて! 真子』
と、なぐり書きしてあった。
もう一度真子を見ると、すっきりしたような笑顔で軽く手を振っていた。
「フッ…」
梨花はピースサインを真子に投げ、
「気楽にいこう!」
と言い残してクルマに乗って行った。
(ありがと…梨花さん。ここも、みんなも、あたしも助けてくれて…)
真子は走り去るそのRV車を遥か彼方に見えなくなるまで見送っていた。
そのころ、ペンションのラウンジでは琴子が「鵜っていう漢字はどう書くんでしたっけ?」と
蘭や直哉に聞き回っていた…。

その日の午後。
蘭は真子を連れて以前世話になった病院へ行った。
昨日殴られた真子の頬をきちんと治療してもらうためだ。
真子は『私は大丈夫』と病院を拒んだが「念のためだから」という蘭の説得に負けたのだった。
検査の結果、特に異常は見当たらず、湿布を頬に貼られたくらいで納まった。
『だから大丈夫だと言ったのに』
「言ってませんよ。真子さん喋れないじゃない」
帰り道、2人は変な口論をしながら歩いた。
蘭が口で言うのに対して、真子は携帯を連打しまくる。
周りからみたら変な2人であった。

「あ。そういえばお昼ごはんまだ食べてなかったわ。せっかくだから街で美味しいのを食べて
帰りましょう」
『断る! こんな湿布フェイスのまま外食なんて絶対イヤ』
「んーもう! 昨日のお礼も兼ねてあたしが奢りますから行きましょうよ!」
奢る、と言われて真子は目を輝かせた。
『行く』
「そうこなくっちゃ。あたし美味しいカレー屋さん知ってるんだ。富良野駅のすぐ近くだから」
(カ…カレー? ちょ、ちょっと待って!)
真子がそう打つ前に、蘭はその手を引っぱって走り出した。

2016/2/25 22:21  [1498-4287]   


「さあ、なんでも好きなの食べていいですよ〜♪」
木造の自然味あふれるウエスタン風の建物のカレー屋『唯我独尊』。
蘭はメニューを眺めながら鼻歌を歌っていた。
(口の中が微妙に切れてる人間に、何故よりによってカレー…)
傷口に塩を塗り込む行為とまさに一緒。とはいえ蘭はそんなつもりは毛頭ないのだろう。
悪気がないぶん断れない。
頬を一筋の脂汗が流れ落ちる。

とはいえ何か食べなければ、タダ飯が勿体無いのも確かだ。
真子はビーフカレーとサラダ、蘭はランチのベジタブルカレーと手作りソーセージを注文した。
真子は注文の品が来るまで、水を口に含んで口内の傷がしみないポジションを真剣に模索していた。
そんな時であった。

「うわぁ、いい雰囲気のお店ね〜」
「ほんと〜素敵ねえ」
真子の後方のテーブルに2人の客が座った。
「あたしベジタブルカレー辛口とソーセージにしよっと。萌子っちは何にする?」
「ふ〜ん…じゃああたしもベジタブルカレーで、中辛にしてもらおかな」
そんな会話が聞こえた。
(萌子っち…。萌子…。妹と同じ名前だわ。まあ珍しくもないか…)
そう思いつつ、真子はこっそりと背面の座席を覗いてみた。
(……!! うそっ…本物の萌子!!!)

前を向いて、口内の水を豪快に吹き出す。蘭の上半身に直撃。
「うわ〜ぁ。よそいきのワンピがぁ! なんてことするんですかぁ!」
ムキーっと怒る蘭をよそに、真子は椅子に全身をもたれるように低い姿勢をとった。
(なんで…なんで萌子がこんなとこにいるの! まさかあたしを追って来たとか…?)
様々な憶測が脳裏を駆け巡ったが、萌子とその連れ…留美の会話を盗み聞きすると、
どうやら純粋に2人で観光旅行に来ていただけのようだった。

(……?)
萌子の表情をこっそり覗くと、やや俯き加減で元気がないように見える。
何か気が別のところへ行っているようだ。
純粋に旅行を楽しんでいるようにはあまり見えない。
(萌子…。あたしのことを心配してるのかな…。かれこれ3ヶ月は家を放っているから、
当然といえば当然か…)

「お待たせしました」
真子と蘭のテーブルに料理が運ばれてきた。
「きたきた♪ さあ気を取り直して戴きましょう、真子さん……って、さっきから何をしているんですか?」
(しー!)
真子は口に人指し指を当て、蘭の声を制した。
事情を説明すると、蘭は料理もそっちのけで、瞳を輝かせながら真子の隣の席に移動し、
真子と共に耳をそばだてた。
別に蘭は身を隠す必要などないのだが。
「きゃー、真子さんの妹…萌子ちゃんっていうのね、可っ愛い〜」
小声でそんなことを言っている。
端から見ると、2人とも怪しさ満点のストーカーそのものであった。

そうこうしていると、萌子たちのテーブルにも料理が運ばれてきた。
さっそく萌子と留美はカレーやソーセージをぱくぱくと食べはじめた。
「うわー! 美味しい! このカレーとソーセージはやみつきになるね!」
留美が感激しながら食べているのに対し、萌子は「うんうん…」などと空返事で相槌をうつだけだった。
(…違う。あの萌子の表情は、料理の素材と調理法を分析している顔…いや、自分ならばどう作るか、
ということに悩んでいる時の表情だわ)

姉であり、家族であるからこそわかる。
伊達に何年も一緒に生活はしていない。
(萌子がああなると、自分のことでいっぱいいっぱいで他のことが目に入らなくなるんだよなぁ…)
だからこそ、心配になる。
料理が好きで、得意だということは姉として鼻が高いが、その料理に対するプライドの高さ、
執念が時として他人を傷つけるということを、萌子はわかっていない。
(あのままだと留美ちゃんを怒らせてしまうわよ…萌子、早く気付きなさい)

今すぐにでも萌子の前に出ていきたい衝動にかられたが、声を失い、頬に大きな湿布を貼付けた姉が
いきなり出現しても、自分の立場がなくなるだけでしかないことに気付く。
そわそわする真子。
蘭は、姉としての真子の一面を見れて、にこにこと法悦していた。

2016/2/25 22:25  [1498-4288]   


「うふふ。萌子ちゃんって、真子さんそっくりなんですね♪」
萌子と留美が食事を終えて店を出ていった後、2人はすっかり冷めてしまったカレーを食べていた。
『どこが? ぜんぜん似てないよ』
蘭の意外な感想に、真子はしかめっ面をした。
「うふふ…。何にでも一途なところが…です。周りはおろか自分さえも見えなくなるところ、
本当にそっくりです」
蘭はそう言って微笑んだ。

萌子のあの表情を見て、そこまで気付くとは。
自分も萌子もよほどわかりやすい表情をしているのだろうか。
(何言ってんのよ、もうっ)
真子は居心地が悪くなり、夢中でカレーをかっこんだ。
(うぐ!)
右頬に激痛。辛めのカレーが、どうやら傷口に直撃したらしい。
(うぐ〜〜〜〜〜〜っっ!)
「そんなにこのカレーが気に入ったの? よろしければ、おかわりしてもいいんですよ〜♪」
(〜〜〜〜〜っっ!)
真子は店内で、この大ボケな娘にサマーソルトしたろか、と大真面目に思っていた。

帰り道。
メガネ屋で真子のメガネのフレームを精密に修繕してもらった後、ペンションへ続く道を
ゆったりと歩いていた。

「………」
蘭は真子の後ろ姿を眺め、少し考えていた。
いつまでもこんな楽しい毎日が続けばいい、と。
自己表現が極端に欠落し、過去の悪夢に蝕まれ続けている真子。
自分や家族には心を許してくれたが、対人恐怖症であるため他人に心を開くどころか面と
向かうこともしない。
だが、落ち込んでいるばかりではない。
仕事はきちんとこなすし、気配りも思いやりもある立派な大人だ。
感情の起伏が激しいときがあるが、それは自分の価値や指標が見出せないときであるならば、
当然の状態だともいえる。
もちろん、その状態が長く続いていいはずはない。
真子を立ち直れるよう、支えてあげると約束した。
だが、いつまでも一緒にいてあげる、という約束ではない。

聞きたい。

ここに、このままずっと居続けたいと思うのか。
いつまでも居てほしいと思う。
『居たい』という答えがもらえるなら、嬉しい。
でも、本心はわかっている。
新潟に帰らなきゃ。そんな焦りにも似た願いが真子から滲んでいる。
自分が見ない振りをしていただけだ。
萌子を心配しながら見守る真子を思い出すと、それは自分の我が侭でしかないことに気付く。

「………」
迷うことなどない。
迷ってはいけない。
真子に対してできることを、してあげるべきだ。
していいか迷うことは今まであったが、迷うことなどなかった。

人間は万能ではないから、全てを真子に与えることなどできない。
だが、ひとつ。それだけは取り戻してあげたい。
そして、それを成し遂げたなら、笑顔でさよならが言えると思う。
春の陽気と、あの人のラベンダーの種を運んできてくれた、真子に。

2016/2/25 22:29  [1498-4289]   


数日後の朝。
真子は直哉に呼ばれてオーナールームに入った。
そして、直哉からあるものを手渡された。
ペンションの電話のコードレス子機であった。
「真子くん。今日のきみの仕事は、ひとつだけだ」
(ひとつって…この電話機って…まさか…?)
真子の顔がみるみる青ざめる。
「電話番だ」

電話番とは、ペンションにかかってくる電話の応対をして、予約を受付けるのが主な仕事だ。
通常は若山毛欅家の誰かが担当している。何日もその様子を見ていれば、応対方法などは
教えられなくてもわかっている。
しかし根本的な部分で、電話番などできるはずがなかった。
『私は喋れないのですが』
わかりきっていることを、今さらのように携帯に打って直哉に見せた。
声が出なければ、電話の相手にこちらの意志を伝えることは不可能だ。
「ああ、そうだな。でもきみの今日の仕事は電話番だ。済まないが任せたよ。このペンションの
予約をたくさん受けてくれ」
そう言うと直哉は有無を言わさず背を向けてパソコン作業をやり始めた。

(…なんで…?)
まるで意味がわからない。
誰かに助けてもらおうと部屋のサッシから庭を一望したが、蘭も琴子もその姿はどこにもなかった。
真子は部屋の中の簡易テーブルに電話機を置くと、その前にちょこんと座った。
(なんであたしが無理だとわかりきってることを任されなければならないの…?)
一応、宿帳をめくって現状の客室予約状況を把握しておく。
(あーあーあー。わたしはまぁ〜こ〜、いぇいいぇ〜い……やっぱ声は出ないよ。どうしよう。
本当…どうしたらいいの?)

プルプルプルプル!
けたたましく電話が鳴った。
早速電話がかかってきた。
出なければ。
出て応対しなければ。
(直哉さん…っ)
直哉は領収書を拾い上げながら黙々とパソコンに帳簿打込作業をしている。
電話機はプルプルとけたたましく鳴り続けている。
(出ない…声は出ないんだってば。だから電話にも出られないのよ!)
そして、ついに電話は受話されることなく、ぷつりと切れた。

直哉のキーボードを打つ音だけが聞こえるだけの静寂に戻る。
(………)
真子がどうしていいかわからず狼狽していると、直哉が背を向けたまま口を開いた。
「今の電話。もし家族連れの予約の申込みだとしたら、それを受付けできなかったから
2万円以上の損失だな」
突き放すような、冷たい言葉。
(……。だって仕方ないじゃない…)
電話に出たとしたらこちら側が喋れず、終始無言で終わってしまう。
それこそ相手に失礼ではないか。
自分の何が間違っているというのか。
この仕事を自分に任せるという采配に抜本的な問題があるのだ。
(声は…出したくても出ないのだから!)

真子は、わなわなと震えた。
(バ…バカバカしい!)
そして立ち上がり、電話機をテーブルに置いたまま部屋を出ていこうとした。
「逃げるのか」
直哉の一言が真子の足を止めた。
キッとした顔で振り返り直哉を睨みつけるが、直哉は相変わらずモニタに向いていた。
「きみは…本当に喋ろうとしているのか? いや…喋りたがっているのか?」
(……!)
なぜそんなことを聞くのか。
そんな事は決まっている。当たり前だ。

喋れないことは想像以上に不便だ。
携帯電話という便利なツールがなければ、今ごろどうなっていたか、想像もつかない。
「なぜ言葉を失ってしまったのか、もう一度考えてみなさい」
なぜそんなことをいちいち言うのか。
自殺を謀り、命を無駄に落とそうとした報いだ。
いまの自分に相応しい罰だといえる。
だから声を出せないのは仕方ない。

罪を償えば、声は出る。きっとそうに違いない。
だから誓った。
もう倒れないと。
もう負けないと。
(もう…逃げない…と)

プルプルプル!
2度目の電話のコールが響いた。
(…また来た…っ)
真子は逃げ出したかった。
その瞬間、真子ははっと気付くことがあった。


(今…あたし『逃げたい』って思ったの…?)

2016/2/26 22:21  [1498-4291]   


「どうしても無理だと思うならば、部屋に戻って結構だ。あとは私がやる」
直哉が電話を取ろうとする手を、真子は遮った。
何かが、ここから逃げてはいけないと脳みそのど真ん中でサイレンを鳴らしている。
遮る手が、どうしようもなく震える。
そしてまたも誰も出ないままコールが切れた。

「………」
直哉は真子の顔を無言でちらりと見ると、すぐにパソコン作業に戻った。
(逃げるわけには…いかない!)
自分の決心を自分で破ろうとしたのか。
ここの居心地のよさに甘えていたのか。
声など出せなくても、なんとかなっていた。
蘭もみんなも、自分をわかってくれてたから、だから意志表示は携帯の文字だけで充分だった。
ならば、もっと声など不要になってしまうではないのか。
それでいいのか。
妹の萌子と実子はそれで納得するのか。
何より、自分はそれで納得できるのか。

根本的な部分で、何か間違っていないか。
(声は…基本的なコミュニケーションの手段だ…)
それを失うということは、他人とのコミュニケーションを必要としないものなのか、それとも…。
(もしかして…あたしが…っ!)
そこまで思った瞬間。

プルプルプル!
3度目のコールが鳴った。
(来た。これがラストチャンスだ)
この電話に出れなかったら、もうここにはいられない。
そして2度と声も戻らない。
そんな予感がする。

(この命をかける!)
電話に出て、話すだけのこと。
みんな、日常において当たり前のことだ。
そんなことに、何を躍起になっているのか。

プルプルプル!
(罰とか…そんなんじゃない)
目の前にある電話機。その向こう側にいる相手は、自分の顔を見るわけじゃない。
自分の出す声とだけで会話が成立する。
自分にとって理想のコミュニケーションツールではないか。
コンプレックスは、顔であって声じゃない。
電話において何か問題があるのか。いや、ない。
だから会話はできる。

プルプルプル!
声は出る。
出せる。
(あたしは……他人が嫌いなんじゃない! あたしだって話がしたい!)

プルプル…『ピッ』
真子は意を決し、通話ボタンを押した。
(お待たせしました! ペンションわかぶなですっ)
声は出ない。
『もしもし?』
電話の相手からの声が聞こえる。中年の女性の声だ。
(も…もしもし!)
声が出ない。
『もしもし? ペンションわかぶなさんですか? もしも〜し?』
真子の声が聞こえないので、電話の相手が確認する。
(そうです! こちらペンションわかぶなです!)
やはり声が出ない。

真子はついに凄まじいパニックに陥った。
(こちらペンションわかぶなですってば! お願い、声よ出て! お願いよ!)
この状況下において何故声が出ないのか。
(このまま声が出ないなんてやだよ! 一生このままなんて、いやだよ!)
いやだ。
このまま声が出ないのも、何より受話器の向こうの相手に迷惑をかけるのが嫌だ。
それだけは絶対に許さない。
(出ろよ! あたしの声! 出ろ! 出ろ! 出ろってば! 出てよ!)

なぜ声が出ない。
本当に人間として声帯を失ったのか。
断じてそんなはずはない。

今、自分は何を願うのか。
電話の相手の人と話したい。相手の人の願いを叶えたい。力になりたい。

嫌いじゃない。
嫌いじゃない!
嫌いじゃない!!

「自分の想いを、信じろ!」
直哉が叫んだ。

(嫌じゃ…ないんだ! それだけは全身全霊をもって誓える!)
そうだ、自分を信じろ。
そこから全てが、始まるのだ。

(あたしは、他人と接することは嫌いじゃないんだ!)

思いっきり息を吸い込む。
喉の奥にぐっと力を込める。
そして、ゆっくりと、落ち着いて口を開いた。
(傷つけられても、傷ついても、信じたい…嫌いじゃないって!)


「はいっ! 大変お待たせしました。ペンションわかぶなでございます!」


2016/2/26 22:26  [1498-4292]   


言えた。
喋れた。
以前のように、自然に口から言葉を放つことができた。
それは、篭から解き放たれた鳥のような、果てしない開放感。
砂漠に突然降り注ぐ雨のような、瑞々しい潤い。
なんと幸せなことなのだろうか。

「はい。では4名様のご予約を承ります。お気を付けてお越し下さいませ」
予約を正確に受付け、電話を切った。
「………喋れた………」
真子がほうけていると、直哉が満面の笑顔で真子の肩を何度も叩いた。
「よく…がんばったな! 本当にがんばった! 辛くあたってしまって、すまない。
こうするしかなかったんだ。本当にすまなかった!」

真子の瞳からぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ちる。
「あたし…わかったんだ…」
何故声を失ったのか。
罪でも、罰でもない。
自分自身で封印したのだ。
自分の命のかわりに、声を殺したのだ。

「すべては…あたしが…」
全てを呪ったのは自分。
何もかも暗闇に押し込めて、そして死のうとした。
だが死ねなかった。
「あたしが弱かったから…」
そして、他人と接する『生』に再び向き合ったとき、声の出しかただけを忘却の彼方に
置き去りにしてきた。
他人に相手にされる前に、自ら他人を遠ざけるために。

このペンションは居心地はよかったが、他人を遠ざけていることに変わりはなかった。
「蘭だけじゃ…直哉さんや琴子さんにだけじゃダメだったんだ…」
特定の誰かではなく、これから出会うであろう、まったく見ず知らずの他人と親しくなりたいと
想う、共存願望。
それを、曇りない心で願うこと。
それが声を取り戻るための唯一の鍵だった。

「う…うわあああああああ〜〜〜ん!」
もはや感情を抑えることができず、直哉の胸の中で大声で泣いた。
コーヒーを運んできた琴子は真子の声を聞くとカップを放り投げ、まるで自分の娘のように愛おしく
真子を抱き締めた。
そして蘭は、オーナールームから見えない裏庭で、声を殺して独り泣いていた。

「真子さん…新潟に帰っちゃうの…?」
その晩。真子と蘭は屋根の上で2人、星空を眺めていた。
「そうだね…。声が復活したなら、まずは新潟に帰らなきゃならないと思ってるよ」
真子は屋根の上に大の字に寝そべった。
直上に写る満天の星空の中を飛んでるような錯覚になる。
「でも…今は忙しいから、この状態で帰るわけにはいかない。あと1週間くらいはここにいるつもり」

「1週間…」
真子と一緒にいられるのは、あと1週間だけしかない。
蘭は寂しさを隠しきれない。
ペンション業の宿命。
息の合った友達ができても、いつかは別れてしまう。
それはとても寂しいこと。
一人っ子であればなおさらのことだ。
父親の直哉に、真子の声を治してほしいと、電話番を任せれば声は復活すると、そう持ちかけたのは
他の誰でもない、蘭自身だ。

「あたしにはね…」
真子が口を開いた。
「新潟で待っている妹がいる。そして…きっと傷つけてしまった、謝らなきゃならない人も…」
謝らなければならない人とは誰のことなのか、蘭にはわからなかったが、きっと真子にとって
大切な人なのだろう。そう言葉の雰囲気で感じていた。
「真子さん…強くなりましたね。きっと、もっともっと素敵な男性と巡り会えますよ」
「蘭もね。あなたはあたしにはない魅力がたくさんある。蘭こそすぐにいい人と出会えるよ」

「私は…まだ…ダメですよ…」
蘭の瞳から一筋の雫が落ちた。
蘭はまだ真二のことを忘れることができず、引きずっているのだ。
正式に別れを宣告されたわけでなく、非常に中途半端な状態になっているせいであろう。

真子は流れ星に願いを託す。
「ねえ蘭、あたしがここを離れる日、小樽まで送ってってくれない?」
真子はそう切り出した。
「え? ええ、とりあえずそのつもりですけど…どうしてです?」
真子はむくりと起き上がり、蘭の瞳を真直ぐに見つめて、こう言った。

「全ての答えを、つかみ取るためさ!」

2016/2/26 22:31  [1498-4293]   


1週間は、瞬く間に過ぎていった。
この7日間、真子は1日だけ休みをもらった以外は全てペンションわかぶなのために労を尽くした。
多くの時間は、ホームページの効果的な更新方法を直哉に教え込むことに費やされた。
デジカメ写真の上手な加工、合成方法から始まり、ホームページを見る人に対しての
サブリミナル効果の手法など、真子が知る限りのテクニックを伝授した。

本来ならば誰にも教えるべきでない、職人の技であるのだが、真子のせめてもの恩返しであった。
これらの技を直哉が使いこなすことができるかどうかまでは責任は持たないが。あとは作る側の
センスと技量なのだ。

「出発準備完了っと」
真子はペンションの所有車であるランクルの後部ハッチを閉めた。
荷物とはいっても、デイバッグひとつとマウンテンバイクだけだが。
運転席に座った蘭は、ランクルのエンジンを回した。
「それじゃ行きましょうか」
真子は助手席に乗り込もうとしたが、思い出したように車から離れた。
「蘭ごめん、3分だけ待ってて。ちょい忘れもの」

そう言うと、真子は見送る直哉と琴子の側へいって、何やらいろいろと話し込んでいた。
やがて話がまとまると、直哉は笑いながら真子の肩を何度も叩いた。
「??」
蘭は何のことだかさっぱりわからない。

真子は深々とお辞儀をすると、ランクルの助手席に乗り込んだ。
「お待たせ、蘭。さあ、小樽へ向けて出発だ!」
「は、はい。じゃあお父さん、お母さん、行ってきます」
「ああ。くれぐれも気をつけてな。真子くん、きみの健闘を祈ってるよ。がんばってな!」
「真子さん…無理しちゃダメよ。私達はいつでもあなたの力になりますからね」
真子は涙ぐむ笑顔で「ありがとうございます」と言うのが精一杯だった。

動き始めるランクル。
遠ざかるログハウスのペンション。
富良野は今日も、快晴の青空が広がっていた…。

「真子さん、先程お父さんと何を話していたんです?」
蘭がハンドルを握りながら話した。
「あ、ああ。実はね…」

と、真子が言いかけたところで、真子の携帯電話の着信音がけたたましく鳴り響いた。
この携帯の番号を知っている人間はいないはず。
間違い電話か、迷惑な勧誘電話だろう…などと思いつつ携帯を取り出し、画面を見た。
「う…うそ! 新潟の家からだ! なんで?」
家からだとすると、相手は妹の実子か萌子だろう。それにしてもなぜこの番号がわかったのか
不思議でならない。

「いいから電話に出て下さいっ!」
蘭に急かされ、真子は慌てて受話ボタンを押した。
真子が何かを言う前に、電話の向こうから声が聞こえた。
『あ! 繋がったよみっちゃん! もしもし真子おねえちゃん??』
相手は萌子のようだった。
「な…なんでこの番号がわかったの…?」
『なんでって…携帯電話の電話番号変更の通知案内がウチに届いてたから、そこにかけてみただけだよ? 
もうすっごい心配したんだからぁ』
「あ…」
そういえばそうだ。

電話番号を変更すると、請求書の送付される住所に変更通知の手紙が届くのだった。
「そんなことまで忘れていたとは、あたしってやつは…」
思わず苦笑いしてしまう。
「萌子…まずは謝っておくわ。家出なんかして、本当にごめん」
『そんないいよ〜。こっちはなんとか大丈夫だったし。おねえちゃんこそ…気は済んだの?』
「ふふふ、おかげさまでね。ちょうどこれから新潟に帰るところよ。あと3日くらいで家に着くわ。
帰ったらいろいろ大切なことを話さなきゃならないことになるから、そのつもりでね」
『…? 大切なこと?』
「そうね。みんなが…幸せになれる話よ。帰ってから詳しく話すわ」
『おねえちゃん…怪しい宗教やってたんだ…?』
「萌子、実子に代わりなさい』
『は、はい…。みっちゃんに代われって…。……。もしもし実子だけど?』
「実子…久しぶり。あなたにも迷惑かけたわね、本当にごめん。迷惑ついでに萌子にキン肉バスター
かけといて」
『…。了解。よくわからんが了解。とりあえず元気そうでよかったよ。早く帰ってきてくれよな。
オレたち…この家で待ってるからさ』
「わかったわ、ありがと。じゃ…」
ぷつり、と電話を切った。

真子は「まったく萌子ときたら…」と不満をもらしながらも、口元がニヤけていた。
富良野のカレー屋で見かけたときは悩みのせいで元気のなかった萌子だが、それがちゃんと
立ち直っていたように思える。
実子も、待ってると言ってくれた。
嬉しい。
まだ帰るべき『家』があるのだ。
「妹さん…いいなあ。すごく羨ましいです」
「うん…。普通はここで『そんなことないよ』なんて謙遜するべきなんだろうけど、正直言って
今とても嬉しかった…」

札幌へ続く国道38号の峠道。
真子は自分の思い描いた夢を蘭に打ち明けた。
「あたしね、妹たちとペンションをはじめることにしたんだ。もちろん妹たちの同意のもとに
なんだけどね。末っ子の萌子の夢は創作料理のお店を持つこと。次女の実子の夢はバイクで
旅をすること。あたしの今の夢…というか目標は、多くの人と知り合うこと。ペンション経営を
仕事とするなら、そのすべての夢が実現できるんだ」
真子はそれに加えて(あともう1人の夢もね…)と頭の中で呟いた。

「わあ…。素敵です! 真子さんならきっと素晴らしいペンションが営めると思いますよ」
蘭は運転しながら瞳を輝かせた。
「ありがと。現役でペンションを営む蘭からそう言ってもらえると自信がつくわ。まあ…まだ
しばらくあたしは人前に出る自信はないんだけどね」
2人は道中、新しく開くペンションのプランについて、時間が過ぎるのも忘れて語り合った。

2016/2/27 05:57  [1498-4294]   


札幌のジャガイモ料理店で昼食をとり、昼過ぎに小樽に入った。

「蘭。このまま小樽を素通りして海沿いを西に行こう」
助手席に座る真子の突然の提案。
新潟行きのフェリーは小樽の港からであるのにもかかわらず、何を言い出すのか。
「たぶん…あたしにもよくわからないけど、真二さんが蘭に伝えたかったことがそこにあるような
気がするんだ…」
「真二さんの…? どういうことですの? 真子さん、あなた先日もそれっぽい事を言ってたけど、
真二さんについて何か知っているんですか?」
真二のことについて何かを隠しているのではないか、蘭は疑心暗鬼した。
「いや。本当に知らないよ。でも…あのラベンダーの種に、隠されたメッセージがある気がして
ならなかったんだ」

「花言葉…ですか」
さすがは蘭。
真子の言いたい事をぴたりと言い当てた。
「そうさ。ラベンダーの花言葉は『あなたを待ってます』だ」
「知ってます。だから、彼がペンションを出ていくときにラベンダーの苗を差し上げたのも、
そういう意味だったからなんです。私はここであなたが再び訪れてくれるのをいつまでも
お待ちしてます、というメッセージを託して。だから…私は今も…」

「真二さんの種にも、きっと同じメッセージが込められている、とは考えなかったのかい?」
「どういうことです?」
「真二さんがあたしに種の入った封筒を託した、あの岬で…蘭が来るのを待っている、という
メッセージになると思ったんだ」
「つまり、その岬に真二さんがいるということですか? 常識で考えたらそんなことはないでしょう。
真子さんがペンションにいらした日から、4ヶ月近くたっているんですよ? だいたいもしそうなら、
なぜもっと早く教えてくれなかったんですかっ!」
蘭は声を張り上げた。
「ごめん…あたしは…自分のことだけで精一杯だったから…。そのことに気付いたのは、
つい先日…声が戻った日だったんだよ…」

「あ…。そうでしたね…真子さんはとても辛い想いをされていたんでした。ごめんなさい、
怒鳴ってしまって。あたしったら、無神経で自分のことばっかり…」
「いや、いいっていいって。とにかく、今からでも行ってみようさ。行けば何かわかるかもしれない。
行かなきゃ何もわからないよ」
それもそうだ。
そこに何もなくても、構わない。
とにかく行ってみよう。
蘭はとりあえず覚悟をきめ、小樽の街をそのまま走り抜けた。

切立った巨大な岩盤と海の間に挟まれるように続く道路。
真子は、ここを初めて走ったときのことをほとんど覚えていなかった。
あのときは、この世からいなくなることだけを考えていた。
今、こうして前向きな気分でこの道路を走っていることなど、考えもつかなかっただろう。
数十分で岬の駐車場に到着した。

「う…っ!」
車から降りると、真子はいきなり強烈な吐き気に襲われて口に手をあてた。
車に酔ったとかいうことではない。
自分が命を断とうとした現場であり、声を失った場所である。
毎日脳裏に繰り返される、悪夢の現場だ。
気分が悪くなるのは当然だ。

「真子さん、大丈夫ですかっ? 気分が悪いのでしたら、すぐにここを離れましょう」
「いや…あたしは大丈夫。でも、岬の先端には行けそうにないから、蘭1人で行ってきて。
あたしが…真二さんと初めて出会ったのが、そこなんだよ。あたしはここでしばらく休んでるから」
真子はそう言って蘭を岬へ行かせた。

自動販売機で烏龍茶を買い、ベンチに腰掛けて一息ついた。
「……この気持ち悪さも、生きてるからこそなんだ…」
気分悪い、などと呟きながらも、真子はニヒルに笑った。
「それにしても蘭は大丈夫かしら…」
岬の先端までは両側が崖っぷちだ。男性でも楽に歩けるところではない。
だが、蘭にはとことん決着をつけてほしかった。

ラベンダーの種の入った封筒を真子に託した後、真二はこの地を離れていった。
もし真二が蘭とここで会いたいと願っていたとしたら、日時を指定するなどの手紙があの封筒に
入って然るべきだ。

あれから4ヶ月も経っているし、誰にアポをとっているわけでもない。
今日この時間に、いきなりここへ来ただけだ。
正直いって真二と再会できることなど、まずないだろう。
だが、それで真二のことを諦め、新たな出合いを求めるようになるのであれば、それでいいのだ。
真子の目的はまさにそこにあったのだ。

30分ほどすると、蘭が戻ってきた。
「早かったね、蘭。どうだった?」
急ぎ足で往復したのか、蘭は息があがっていた。
「ふう…恐いとこでしたよう。先端まで行ってきましたが、真二さんはいませんでした…」

やはり…か。
「そっか…。少しそのへんを探してみようか」
真子は立ち上がり、空缶をダストボックスに投げ捨てた。
蘭は大きく深呼吸し、首を横に振った。
「いえ…。もういいんです…。そんなことをしても意味がありません」
そう言い切った。

「でもここに来て、海の風にあたっていただけでも少しすっきりしました。富良野にはない潮の香りが、
いい気分転換になったかも。さあ、小樽へ戻りましょう」
「……。そっか。そうだね。そうしようか」
2人は車に乗り込み、岬を後にした。

小樽へ続く海沿いの道。
会話もなく、車のCDの音楽に聞き入っていた。

2016/2/27 06:03  [1498-4295]   


もうすぐ長いトンネルに入ろうかという時だった。

突然2人は激しい耳鳴りに襲われた。
「わっ! 何??」
「きゃっ…??」
特に高度をとっているわけでもないし、まだトンネルの外だ。
地形的にも耳ツン(高気圧による聴器障害)が起こるところではない。

蘭は車を脇に寄せて停めた。
「なんなんです…? まだ耳がキンキンいってます」
「あたしもだよ…一体何が…」

2人は外に出てみる。
前方にトンネルの入口が見える。
真子はそのトンネルに奇妙な違和感を感じ、そして過去の記憶を辿った。
「あれ…このトンネル…まさか…!」

思い出した。
積丹半島から余市へ抜けるトンネル。
もう何年も前の話。
悲惨で、壮絶な落盤事故があった。
約5万トンもの巨大な岩が崩落しトンネル上部を突き抜け、走行していたバスに直撃する、
という不幸な事故。
乗客は全員その下敷きになってしまった。
事故当時、全国で大きく報じられたため真子はテレビのニュース等でこの風景を覚えていたのだ。

このトンネルが、まさにその現場だった。
「あの事故は…ここで起きたんだ…」
2人がトンネルの入口を見ながら立ちすくんでいると、耳鳴りが治ってきた。

少し強い風が内陸から吹き込む。
その風に乗って、1枚の小さな花びらが舞い降りてきた。
蘭は、何気なくその花びらを両手で受けとめた。
小さな小さな、ラベンダーの花びら。
「どこから舞い込んできたのかしら…もうラベンダーの季節は終わってしまったのに…」
そう呟くのと同時に、真子の全身に、雷を受けたような衝撃が走った。

「……まさか…まさか…まさか!」

トンネルのそばに『防災祈念広場』というパーキングがあった。
そこまで行くと、広場に慰霊碑がそびえていた。
「うそ…でしょう…まさかこんな事って…!」

犠牲者の名簿が慰霊碑に刻まれてあった。
その中の1人の名前に、震える指先が触れる。

「真二…さ…ん…」
その名前を読み、泣き崩れる蘭。

真子はその場に立ちすくんで、ただただ呆然としていた。
(そんな…っ…私が出会った真二さんは…幻だったとでもいうの…?)
そんなはずはない。

あのとき確かに岬で真子と出会い、そして励ましてくれた。
何より、手渡された封筒は幻であるはずがない。
あれがなければ、真子は富良野へ行くことも、そして蘭に出会うことも当然なかった。

だが、この真実の前ではそのことですら、起こり得ないはずの奇蹟のように思えた。
真二の想いが、運命という名の出会いを導いてくれたというのだろうか。
「…あたしが自殺しようとしたとき…真二さんはあたしにこう言ってくれたんだ…
『せっかく生きてるんだから、やりたいことを成し遂げないまま死んじゃうのも勿体ない』って。
今思うとあれは真二さん自身に宛てられた言葉だったのかな…」
真子は呟くように、そう蘭に語った。

2016/2/27 06:08  [1498-4296]   


想像してみた。
トンネルの中、突然の轟音と衝撃。
崩落事故。
何事が起こったのかわからないくらいの瞬間の出来事。
痛みはおろか、命が失われたことすら感じなかっただろう。
きっと、これから富良野の蘭に会いに行こう、というところである。
これから幸せをつかみ取ろうというところで、だ。

(きっと…あたしが命を粗末にしようとしていたのが許せなかったんだろう…。バカだのと
言われて当然だったんだ…)
瞳に涙があふれたが、真子は必死にこらえた。
(ごめんなさい…そして、ありがとう…真二さん…)

いま慰めるべきは蘭。
これまでたくさん蘭に慰めてもらった。
蘭が泣いているなら、笑顔になれるよう、支えになろう。
親友なのだから。
「私は…っ」
顔を覆ったまま、しゃくりあげながら蘭は話した。

「さっき…岬へ行ったとき、海に身を投げようと…本気で思いました! もしかしたら飛び下りる直前、
真子さんのときように真二さんが現れて制止してくれるのかもしれないって…! 
できなかったんですよ! 恐くて! たまらなく足がすくんで海に向かって足が進まないんですよ!
おかしいでしょう? 私…おかしいですよね! 本気で命を投げだそうとできたあなたを
羨ましいとさえその時思ったんですよ…どう考えてもおかしいことですよね…!」

「……そうね…。少しおかしいかも…」
冷たくも肯定はしたが、蘭の気持ちは痛いほどよくわかる。
本気で死のうと思ったことは、たぶん過去にも未来にもあれきりだろうと思う。
そんな経験があったからこそ、立ち直るには相当かかってしまったが、今これからを生き抜こうと
強く思っている。

「でもね…。結果として死ねなかったのは、家族や、大切な楽しい思い出があったからでしょう。
それはきっとあたしもあなたも一緒」
真子は澄みきった青空を仰いだ。

「両親を事故で失ってから、妹たちと暮らしてきたけど…社会で楽しいことなんて何もなかった。
他人は冷たくて…手を差し伸べてくれる人なんて誰もいなかった。妹たちの面倒をみて、
妹たちの夢を叶えるのがあたしの役目だと勝手に思い込んで、勝手に重荷にして、勝手に自爆したんだ」

真子は胸に手を当てて、言葉を紡いだ。
「言葉を失って、いろんな事がわかった。大切なのは…自分が楽しく夢に向かって生きることが、
自然と周りに幸せをもたらすことだって。それは、懸命にあたしを助けてくれた…蘭、あなたが
気付かせてくれたことなんだよ」
「………」
「新しい夢を抱いて、前へ歩き出そうよ。きっと真二さんはそれをあなたに伝えたくて、この地へ
あなたを導いたんだと思う」

「私が…真二さんでない別の誰かを好きになって…それで真二さんはいいの…?」
「蘭が真実を知らずに待ち続けていたから…真二さんは…天国へ旅立つことができなかったんだよ…
あなたの幸せを願っているんだよ、真二さんは…」
「そうだとしたら…私は元気にならなきゃいけないの…?」
「そうだよ」
「もう…待っていたらいけないの…?」
「そうだよ」
「真二さんに…さよならを言わなければならないの…?」
「…そうだよ」
「………」
「元気…出そう…よ…」
「それが正しいことだというのなら…でも、今だけは泣かせてください…」
「悔いを残さないように、思いっきり泣いていいよ。あたしが、そうしたように…ね」

蘭は真子の胸の中で泣き叫んだ。
誰かを愛するということは、辛いことかもしれない。
いつか、その人との別れが来てしまうことがわかっているから。
ならば、人を好きになることなどやめてしまえばいい。
そうすれば、辛いことなどなくなる。

でも、人は生き続ける限り、きっと誰かを好きになり続けるだろう。
辛いと思う時よりも、幸せでいる時のほうがはるかにたくさんあるからだ。
その人と過ごした思い出があるから生きていける。
楽しい思い出をもっともっと作りたいと思う希望が、生きる糧になる。

(蘭なら…きっとすぐに立ち直れるよね…)
海から吹きつける風が蘭の掌の上の花びらをさらい、天空に舞い上がっていった。
「あ……真二さん…っ 真二さあ…ん…っ!」
止めどなく溢れる涙を拭いもせず、蘭はラベンダーの花びらを見えなくなるまで青空の彼方まで
見送っていた。

「…さようなら…真二さん………」

2016/2/27 06:14  [1498-4297]   


翌日の朝。
小樽のビジネスホテルで1泊した2人は、フェリーターミナルの待合室で乗船時間を待っていた。

「あの岬には、古くからの言い伝えがあった、とペンションのお客さんから聞いたことがあります。
『源義経を慕って後を追ってきたアイヌの長の娘チャレンカが、あの岬から海に身を投げた。
それ以来、岬に女性が近付くと海が荒れる』と…」
蘭はそう言った。
「そんな言い伝えがあったんだ…。じゃあ…あたしが…事情は違ってはいるけど、同じように身を
投げようとしたから…神の怒りが奇蹟を呼んだ…といえるのかもね。あながち的外れじゃない気が
するわ…」
「ええ…。あの岬はアイヌ人が神が宿る地として崇められてきました。だから…昔から『神威岬』と
呼ばれているのです…」
「神威岬…カムイ岬か…。奇蹟が起こるに相応しい名前の地だね…」

蘭は静かに俯いて、少しずつ言葉を吐き出した。
「真子さん…あんな突然のことですので、気持ちの整理がつくまで…私はすぐに立ち直れそうも
ありません…我が侭を承知で言いますが、新潟に帰らないでほしいです…さよならなんて、
もう言いたくありません」
真子は首を傾げながら、精一杯の笑顔を見せた。
「んー…。そりゃよかった。さよならは言う必要ないよ。あたしたち姉妹は、しばらく
ペンションわかぶなに居ることになるから」
「はぁ?」
蘭は真子の言ってる意味がまるでわからない。
「昨日の朝、直哉さんと話していたことなんだけどね。あたしもペンションをはじめるにあたって、
ペンションわかぶなで冬のあいだ『研修』という名目でお世話になりたい…ってあたしが
お願いしたのよ。そしたら、条件付きで承諾してくれたわ」
「条件付き…? なんですか、それは?」
「あたしのペンションを、富良野以外のエリアで建てることさ。あたしがペンションわかぶなの
近くでやるとしたら脅威になるって言ってた。そこまで評価してくれるのは逆に嬉しいけどね。
でもそれは安心して大丈夫。先日休みをもらったとき、富良野のずっと東、弟子屈にペンション予定地の
目処をつけに行ってきたのよ。いい中古物件を抑えておいたわ。内湯だけど温泉付きだから、
あたし的にもすごくいい環境になりそう。そこを徹底的にリフォームして新築同様にしてもらう
つもりだけど、その工事の間は私達姉妹がペンション業について徹底的に勉強しなければならない。
だから、あなたのトコにお世話になるっつー話なの。どお?」
「どおっ…て言われても、どうもこうもありません! そんな壮大な計画が真子さんの中で
動きだしていたなんて…すごいです」

「いつも屋根の上で考えていたんだよ。この雄大な景色のある中で暮らしてみたい。そして、
全ての夢を叶えたい…って。もちろんその夢の中には、蘭と少しでも長く一緒に居たい…という
希望もあったんだ。だから、それらを全部叶えられる方法をいつも考えていたんだ。そして
辿り着いた結論が、そういうことさ」
「嬉しいです…。ありがとう…真子さん!」
「礼を言われることじゃないよ。なんたって…これからはライバルという関係になるんだからね」
「うふふ…そうですね。わかりました。望むところですよ!」
2人はそう言い合うと、クスクスと笑いあった。

乗船開始のアナウンスが流れ、他の待合者が一斉に立ち上がる。
2人も立ち上がり、改札へ向かった。
「じゃ…ここでひとまずお別れだね、蘭。本当にいろいろありがとう」
「冬…待っていますから。必ず来てくださいね!」
「ああ。わかってる。3人で必ず来るよ。人質…ていうかチャリ質もあるし」
「ふふ。あのマウンテンバイクは責任をもってペンションわかぶなでお預かりしますね」
「頼むよ。あたしのチャリ」

堅く握手を交わし、真子は改札を通って、やがて人込みに中に消えていった。
蘭は涙をひとすくいすると、キリリと顔立ちを整えた。
「ありがとう、真子さん…。真二さんの意志を運んできてくれた人…。生きる勇気を教えてくれた人…
私も、がんばります…!」

2016/2/27 21:55  [1498-4299]   


新潟。
我が家へ到着した。
何もかもが、懐かしかった。

ごちそうを作って待っていてくれた萌子。
庭に遅咲きのラベンダーを育てて待ってくれていた実子。
2人が自分を必要としてくれていたのは、わかっていたこと。
でもこの旅で、自分が2人を必要としていたことに気付いた。

まずはこの一言を言おう。
「ただいま!」
これを声に出して言うために、声が死んだ状態で帰ってこなかったのだ。
自分の声で伝えることの意味。
『待っていてくれて、ありがとう』
この意志を、自分の声で伝えたかった。

さあ、言おう。
みんなで幸せになるための言葉を。
「北海道で、ペンションをやろう!」
2人とも、一瞬全開の笑顔を見せるが、すぐに押し黙る。

金銭面、学業面その他諸処の問題をきちんと踏まえた上での誘いであることは、わかってくれているだろう。
その上で、賛成できない理由がある。
この地を離れるわけにいかない決定的な理由がある。

わかってる。
手放しにOKできないことはわかってる。

言うよ。
魔法の言葉を。

「4人の夢を…叶えるためにね!」

翌日、隣の家のアキラに会いに行った。
「ごめん、アキラ。家出したとき、ひどいこと言っちゃったね」
「いえ…いいんですよ。気にしてませんから」
「お詫びに、きみの夢を叶える約束を、今この場でするよ」
「え…?」
「実子と一緒にバイクでいろんな風景の中を走りたい?」
「は、はい」
「萌子と一緒に料理を作ったり、自分の見た風景を絵に描きたい?」
「はい」
「あたしと一緒に、多くの人に親しまれるホームページを作りたい?」
「はい」
「いろんな人と直に会って、話したり…触れあいたい?」
「はい!」
「なら…それら全部を、叶えてあげる。全部…あなたの望む仕事として、全てに報酬が付くの。
学歴も、資格も、なにもいらない。アキラの望む行動が…仕事になるんだよ」
「どういう…ことです?」
「あたしたち3人は、あなたの病気を治った後のあなたの居場所をつくるために北海道へ
行くことにしたの。それは、萌子、実子、あたしの個々の夢をつかみ取るためでもあるの」
「夢をつかむ…」
「そう。アキラの望む夢を掴むことができる。病気に打ち勝つことができさえすれば」
「この病気が…治ったのなら…」
「その足で…北海道に来て。あたしたちはそのためのプラットホームを作り上げて、待ってるから。
約束する」
「……。真子さんのその言葉を…信じてみたい…」
「私の『言葉』を信じてほしい」
「その希望が…病気に勝つ力になるように…信じてみたい…」
「約束する」

「なら…僕も約束します。病気を治して…必ず行きます!」

2016/2/27 21:59  [1498-4300]   



すっかり陽が暮れた弟子屈。
リンゴーン♪ とセントラルアイランドの玄関のチャイムが鳴った。
「は〜い! 飛び込みのお客さまですか〜?」
萌子が元気よく玄関の扉を開けた。

扉の外には、酔いつぶれてすっかり熟睡している真子を背負った、百合香の姿があった。
「ゆ…百合香さん? あの…真子おねえちゃん、どうしたんですかっ?」
「萌子ちゃん、お久しぶりね…って、なにその格好…?」

メイド服を着用した萌子に、百合香は思わず2度見した。
「こっ…これはセントラルアイランドの制服…なのかもですっ。それよりお姉ちゃんは?」
百合香は優しい瞳で肩にもたれた真子の寝顔を眺めた。
「ふふ…。素敵な昔話をして…潰れちゃったみたい。あとお願いできるかしら? 
痩せてるといっても真子さんの身体は重いですわ」
「は…はいっ 少し待ってください…みっちゃん! みっちゃ〜ん! 睦美さ〜ん! 恵さ〜〜ん!」
バタバタと、メイドにあるまじき騒々しさで2階へ駆け上がる萌子であった。

駆けつけた実子と恵が、真子を担いで部屋まで運んでいった。
「では、私はこれで失礼しますね。自転車はあの店に預かってもらってあります、と真子さんに
お伝えくださいませ」
「ちょ…待ってください」
玄関を出ていこうとする百合香を萌子が止めた。
「百合香さん。よろしければ、晩ごはん…食べていきませんか? もう遅いですし」
百合香は優しく首を振った。
「萌子ちゃんの手料理をチェックしたいとは思いますが、今回は…胸が一杯なので、遠慮させて
いただきます。今度あらためてお招きに預かりますね」
百合香はそう言って礼をすると、静かにドアを閉めていった。

漆黒の闇、独り歩く百合香。
少し折れ曲がった日傘を眺め、クスリと笑った。
「待ちなよ…百合香さん」
誰かに呼ばれ、振り向いた。
そこには、実子が立っていた。
ここまで走ってきたのか、少し息があがっていた。
「真子姉を家まで運んできてくれて…サンキュな!」
そう言うと、実子は百合香にワインボトルを1本渡した。
「オレの自信作…とっておきの特別吟醸ロゼだ。持ってけよ」
「特別吟醸ロゼ…」
おかしなネーミングに百合香はクスクスと笑った。
「ありがたく戴きますね。真子さんによろしく。では」
「ああ…。気をつけてな」
百合香は一礼をすると、きびすを返し歩いた。

(暖かいペンションですわね…。私のリリー・マルレーンもこうありたいものですわ…)
真子たちが富良野のペンションわかぶなで生活した冬の楽しさは、もはや想像に難くない。
きっと幸せに満ちあふれていたことだろう…。



太陽の馨りのあふれた暖かい布団で眠る真子。
なんと気持ちのよいことだろう。
こうなることを予想して、誰かが布団を干してくれていたのだろうか。
今だけは悪夢ではなく、幸せな夢を見ていた。



「アキラ…これをあげるよ。幸せの花だ」
出発の朝。
3人から受け取ったのは、ラベンダーの苗が植えられた小さな鉢だ。
「北海道で…待ってるから」
「ありがとう。大切に育てるよ。僕からは何も差し上げられないけど、ひとつだけ」
「なぁに?」
「ペンションの名前さ。まだ決まってないんでしょ」
「そういえばそうだったわね。何かいい名前あるかしら?」


「ああ。名字が『中島』だから……………」





--------------------- HEAVYDUTY SISTERS ---------------------

                  The End of Files...

2016/2/27 22:04  [1498-4301]   


あとがき


はい。おつかれさまでした。
この作品は「Step Up!」という長編小説を書き上げてから、すぐにアイデアが沸いて
書き始めた作品でした。
ですが、ひとつひとつのエピソードを書き上げるスパンが長く、萌子編→実子編が半年、
実子編→真子編が1年とか間があいてました。

実をいうと、これで完成ではないです。
もっと続きがあったりするのですが、真子編があまりに出来がよすぎて、それ以上のものを
書ける自信が無くなってしまったのです。
岸里百合香というお嬢様系のキャラが出てましたが、その弟が萌子のクラスメイトで
その名前が「岸里透」キシリトールという設定まで準備してたんですけどね。
弟の名前がキシリトールだから、苗字が「岸里」にしたのに、結局出番なし。
最終的には萌子の彼氏候補になるはずだったんですが。

真子に関しては、壮絶にフラれた相手「瀬野高明」が謝罪しにセントラルアイランドに訪れる
エピソードも予定にありました。最終的にはフルボッコにした挙句、風祭良二(会合の仕切り屋)と
結ばれることに。それはそれでどうかとw

で、実子がアキラと結ばれる(?)ことになるわけですが、これまた壮絶。
アキラは結局病気に勝てず、昏睡状態に。それを聞いた実子はショックを受けたまま
バイクで走り、途中小ギツネを避けようとしてトラックにぶつかり、命を落とす。

もはや営業どころでなくなったセントラルアイランドは真子も萌子も自失状態に。
そんなときに恵と睦美、岸里姉弟とトレジャーハンター・リカ、そして若山毛欅蘭(わかぶならん)が
駆けつけて勇気づけてくれる。
そんな中、昏睡状態のアキラは最後の力で奇跡を起こす。
時空を超え、自分の意識を「真子が事故る直前の小ギツネ」に乗り移り、渾身の力で
真子に体当たりをして事故を回避することに成功した。

かくして実子が生きていることが正とする歴史に塗り替えることに成功した。
しかし、アキラの肉体は精神が離れたことにより、脳死。
だが、その精神は小ギツネに宿り、実子はそのキツネに特別な何かを感じセントラルアイランドで
飼うことにする。

こうして、アキラは三姉妹を幸せに暮らすことになりましたとさ。
ただし、三姉妹はキツネがアキラだとは知らないまま。実子だけ「もしかしたら」と
半分冗談で思うくらい。

そんなかんじで大団円になります。
まあ、途中が壮絶な鬱展開になるので、読む側もイヤになるでしょうね。



ちなみに真子は実在のモデルがいます。
前の会社の後輩の娘で、仕事を辞めて北海道に行き、ペンションでしばらくバイトしてました。
顔のニキビをそうとう気にしてましたが、現在は結婚して幸せに暮らしているようです。


そんな感じです。
これ以降、感想などのレスを解禁いたしますので、最後まで読まれた方は、一言でいいので
感想などいただけるととても嬉しいです。
ではでは。

2016/2/27 23:09  [1498-4302]   


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